今朝読ませていただいたBlog記事に、若い頃より年取ってから楽になるのは諦めのためと書かれてあった。
諦めとは「明らかに観る」ことなのだそう。
その意味では私はまだ自分を明らかに見ることができず、自分に諦めきれていないのかもしれない。
だから苦しむ。
が、諦めてしまえば楽になれることは分かる。
自分の才に見切りをつけられたら楽になることはわかっているが、私は、まだ自分を諦めたくない。
だから無理とはわかっていても頑張るのだ。
人間関係もそうだ。
人にどんなことを言われても誤解されても、諦めたらよいのだ。
これも今朝、別の方のBlog記事で気づかせていただいたのだが、イエス・キリストは誤解され最後は磔にされてしまうが、そうした人達を許して死んでいく。
それを思えば、怖いものはない。
これも諦めの一種かもしれない。
私は、未だに誤解されれば苦しみ、罵倒されれば反論しようとする。
しかし誤解する人には誤解させておき、罵倒する者には罵倒させておいたらいいのかもしれない。
これを受け入れられないから苦しむというのなら、どんなことを言われても、されても、磔にされる過酷と比べてやり過ごせばよいのだ。
どんな人でも誤解はされる。
それにいちいち付き合っていたら命がいくつあっても足りない。
だから、人間関係の悩みは諦めるに限る。
が、私は短歌は諦めたくないと思っている。
人から評価されることはなくても、人に迎合する歌だけは今後とも作りたくないと思っている。
★いかにもといふ歌などは作らない作りたくない磔られても
★褒められるための歌など糞食らへ苦しみながらわが歌つくる
★褒め合ひの歌会なども糞食らへ褒められるため褒める歌会
★大勢に褒められなくても魂の珠に届けばよろし一人の
★誰からも褒め得ざれども誰からも認め得ざれど腐ることなし
★諦めることは今後もあり得ざるわれとこそ知れ秋更けて冬