goo blog サービス終了のお知らせ 

キムカズの気まぐれブログ Part2

キムカズブログPart2がスタート!
Part1は→http://blog.goo.ne.jp/kimukazu1

おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「旧雄和町商工会」の歴史~

2020-06-11 16:22:42 | 日記
本町の商工業の振興を図ることを目的とした商工組合の創設は、商工業者の最も多い大正寺地区の新波商工組合が昭和23年4月で、任意組織であった。
戦時中から終戦時にかけて物資の統制と中小企業整備のため転廃業等によって新波の商店街も単に店舗を持っているというに過ぎなかった状態だった。
設立当時の組合は、中元、歳暮の共同売出し、新波公園の整備、組合員の親睦等が主な事業であった。
昭和26年頃から生活関連諸物資の統制が撤廃され、自由販売が可能となったことから商品も徐々に増え、交通網の整備と共に産業経済圏の範囲も拡大、商店の経営規模も徐々に拡大された。
戸米川、種平、川添各地区の商店も新波商店界(大正寺村)と同様、商工業者の伸長がはかられていった。
昭和28年3月 国民金融公庫から運転資金を第二次、第三次と導入するようになって中小企業融資償還組合を併置した。
斯くして大正寺地域の商店が加入するようになったので大正寺商工会に改組、河辺地区でも大きい商工会組織となった。(創立以来会長佐藤利一郎)
昭和35年 商工会の組織等に関する法律に基づいて発展的に解消して、8月雄和村商工会を組織、設立認可12月15日、設立登記昭和36年1月26日、商工業者数243、小規模事業者数240、会員数210(商業147、工業12、サービスその他業51)事務所を石田字上大部(町役場)に置き、役員は正副会長、理事20名、監事2名、職員3名でもって運営されている。
事業内容は、「「地域商工団体としての総合的な経済団体」と「小規模事業者の指導団体」としての両面の性格を持っているが現在後者を主要事業に、小規模事業者の経営改善のため通産省の認定経営指導員を設置、金融、税務、経営、経理、労務等の経営の全般について相談、またこれに関連した各種講習、講演、研修会等を専門家を招いて随時開催。
町ぐるみ、地域ぐるみの振興をはかるための商店街診断、産地診断の実施。
商工業に関する情報の提供、商工会活動の連絡会報、各種資料の発行、消費の動向調査、経営調査を実施し経営の指針とする。
各種事務代行、珠算検定試験の実施(年3回)。
小規模共済制度加入の促進。
貯蓄共済制度の加入促進。
商店街活動と中元歳末大売出しの開催。
商工会の意見の公表と町、県等に対する具申、建議等である。

商工会の現況
本町の商工業者は220戸で、全戸数の11%を占めており業者は各に散在しているが、集落地帯の新波、椿川地区は各種業者の店舗によって小都市的な形態をなしている。
業種別では、食料品を筆頭に菓子、たばこ、呉服用品等の小売店となっているが、呉服用品店、自転車店を除いてはほとんどが各種の商品を取り扱っている。総売上高は推計年額9億円である。
町内の商工業者の総合的な改善発達をはかるための組織として35年8月1日商工会が設立され、当初は金融の斡旋を主とした事業であったが36年8月国、県の指導により経営改善指導員を設置、会員の経営診断、各種講習会を開催、経営指導にあたった。
更に従来の各店舗ごとの中元、歳末大売出し等は商工会が主体となり連合売り出しを実施し、過当競争を避け経営の合理化に努めている。
なお今後町の観光資源の開発にともなって商工業、サービス業の発展が期待されている。


出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)、及び秋田県商工会連合会発行「秋田県商工会史」(平成7年発行)


おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「雄和の産業(水産)」の歴史~

2020-06-10 22:18:22 | 日記
本町の漁業は雄物川、岩見川の鮭、鱒、鯉、八ツ目、ウグイ等で、鮎は岩見川で獲れた。
鮭は明治初頃までは盛んに獲れ、藩政当時は亀田藩に於ける名物の一つで、藩は役人を向野に派して移出を禁じ「子篭り」等の製法により連年幕府にも献上した。
維新後の明治10年代まで、漁獲千本祭の供養塔が4、5本も雄物川の河畔に建てられたが、その後鉱業が発達するに従い河川の汚濁によって漸減した。
大正11年、県営の岩見川孵化場を設け稚魚の放流を行ったが河川改修に伴って不漁となり漁業不振のため閉鎖された。
岩見川の鮒狩は、本田橋から下流の芝野橋までの区間が豊漁で、附近は勿論秋田市などから多数の釣漁家によって賑わったが、これも河川改修によって名物の鮎狩は昔物語となった。
大正末期から昭和の初期に向野に鮭の孵化場設置の企画等もあったが、放流と漁獲に適切な支流がなく単に計画に終わった。
各地区内の池沼等で養鯉が行われたが自家用程度のもので、従前の記録統計によれば僅少生産額となっている。

現況は、雄物川の中流部、下流部で僅かに八ツ目、ウグイ等、またまれに鮭も獲れているが専業者はなく、副業の種類にも入らない所詮趣味的な漁獲程度のものである。
各地区では池沼等の利用による養鯉が行われている。
また女米木の高尾山麓の自然冷水資源を活用して漁業生産による地区産業の開発を目的として昭和48年9月7日同地区玉竜寺住職三戸大恇ほか8名が、水産業協同組合法に基づいて県知事の認可を得、女米木冷水魚漁業生産組合を設立したのである。
この組合は組合員の共同出資と県および町補助金をもって、宇宝生口の玉竜寺裏側に養魚池と孵化場、調整水槽等を施設し、象潟町の同業組合から、ヤマメ、ニジマスを移入して49年度には孵化を実施、自己養殖を行うほか県内養殖業者に分譲している。

出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)



おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「雄和の産業(林業)」の歴史~

2020-06-09 22:11:08 | 日記
本町の一万余町歩におよぶ林野のうち、九千丁歩の山林は、藩政時代所謂翠蓋天を蔽い緑影池に滴たらんとする状態だったのが、戊辰の役で民家が兵火の災いを蒙ったので五百余の建物の再建材料として、伐採された樹木は夥しかったのである。
また、土地の私有化が認められ、次いで雄物川の舟揖の便が開かれるに至り、木材、薪炭材が年々多量に伐採され秋田市に供給されるようになった。
更に戦時中は造船用材として杉の大樹が次々と伐採され、また代用燃料としての松根油採取のため松木が倒され、自動車燃料用としての製炭材が濫伐された結果、到るところ山容が坊主山になり、自村にあってさえ薪炭材の需給に困るような状況を呈したのである。

従前各地区では、県模範林、官行造林、村行造林を実施し、また有財産を統一し施業計画のもとに造林を行い、他方個人の植林をも奨励し、苗圃を設置する等、山村としての森林資源の維持に鋭意努力されたところである。

本町の森林面積は9138町歩で、総面積の64%を占めており、林業は農業につぐ主産業となっている。
森林の所有区分は国有4.4%、公有7.3%、私有が88.3%となっている。
生産額は過伐による資源不足で、年々減少しており、ことに薪炭の減産が目立っているのは資材の減少ばかりでなく電気、ガス、灯油の普及のためその需要が少なくなったためである。
然し他面公私有林とも伐採跡地の植林や、幼齢樹林の育成のため町では関係団体とはかって造林を強力に推進しているところである。
林産物の搬出に必要な林道開設も順調に進み奥地までトラックによる搬出が可能となっている。

森林組合は昭和34年3月戸米川、種平、川添が合併雄和森林組合として発足、直営苗圃を経営し飛躍的な杉苗の増産を行っているが、昭和49年、大正寺森林組合、河辺町森林組合と雄和町森林組合が広域合併を実施、郡一円を区域とした河辺森林組合として改組された。

出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)



おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「雄和の産業(農業)」の歴史~

2020-06-09 11:39:53 | 日記
本町の主要産業は、農業で人口の約80%を占めている。
この地方は農耕によって開発され、生業を農業に求めてきた。
従って南部地方の郷名の稲城もこの稲作生業に因むものであろう。
土壌は概ね埴土、埴壌土で、肥沃である。
気候は農業に適している。
明治時代は耕作方法等に何等の改良もなく、藩政時の旧習を墨守し、遅々として進歩が見られなかった。
そればかりでなく農耕をいやしむ底流さえあった。
明治の中頃から農事を中心に産業の奨励指導機関として郡、町村農会が設けられ、県、郡の行政と相まって、徐々に農事改良に関心がもたれるようになった。
爾後時勢の推移に伴って農業が発達し、今日においては米作においてその収量、品質ともに他に比して優れるとも劣らない成績を示している。

本郡は由来農業を主業とするものが多く、その豊凶は郡の経済の消長に影響することが頗る大きいので、郡としては品質の改良、生産技術の指導等耕種の改善に努力されたのである。
因襲が固くせっかくの指導にかかわらず耳を傾けるものが尠なかった。
明治38年 県令で稲架乾燥、乾田実施、堆肥舎管理規則を公布して斯業の改善につとめることになったので、郡では農家の自覚を喚起する捷径として各村から適任者を選び先進地の酒田、庄内地方を視察させ、更に40年には郡内に3名の指導者を置いて実地指導にあたらせたのである。
また本県農業界の先覚者齋藤宇一郎(現仁賀保町平沢)を招いて川添、仁井田等各村で、乾田実施、稲架乾燥等の効果についての講説を行った結果、覚醒の機運が漸くおこり、改良農事に耳を傾けるものが次第に増加を見るようになった。
明治45年 県は乾田の必行を期して、本県老農で当時生産等検査部長石川理紀之助ほかを町村に派遣して農業水利の基本調査を遂げて、乾田の可否、猶予地区を定めたものである。
大正2年以降 県は農事必行事項として、稲種子の塩水選、乾田実行、稲架乾燥実行、馬耕実施、稲の正条植、牛馬の増殖、堆肥舎建設、苗代跡地利用、除草機利用、苗代乾田の十項を指定、各項の指導奨励にあたった。
由利郡は先達的立場から徹底した指導強化もあって、大正寺地区の実施率は戸米川、種平、川添の3地区に比して稍々進捗していた。

昭和33年 町村合併に伴い新村建設計画を策定、10カ年の実施計画が定められた。
この計画は主産業である産業計画を重点に交通、教育、更生、行政機構整備等となっているが、農業経営の多角化、農業基盤の整備改良等を産業振興計画の内容としており、農業経営の合理化と農業生産力の増強のため、昭和39年11月、農村問題の権威者、東京農業大学教授我妻東策農学博士の臨場を得て、農業経営診断を行い、今後の指標としたものである。

本町は農業が主産業で、農家戸数は82%を占め、その生産額は、総生産額の90%に達している。
一戸当りの平均経営面積は1丁4反歩で、県平均を若干下回っているが、しかし稲の単作経営で零細農家の増加が目立っており自立農家が尠ない。
したがって農業外収入にたよる兼業農家の数が年々増え続けており、農閑期の通勤兼業と県外出稼ぎ者が多くなっている現状である。
町では経営規模の拡大と多角化に重点を置いて、経営規模の革新を図るため、農業振興計画と畜産振興計画を立てて、農業の基盤である土地条件の整備と畜産の奨励を企図したのである。
更に農業の生産性を高め、農業所得の増大に期すため、37年度に農業構造改善事業の実施指定を受け、「米プラス畜産」の営農指導を積極的に行い、3カ年に、これに必要な土地基盤整備、稲作の省力栽培、肥育牛の共同施設の整備、家畜の導入を強力に進めた。
この結果として農業機械の大型化が急速に進みトラクターによる耕起、ヘリコプターによる病害虫防除まで行われるようになり、家畜の飼育頭数が増え畜産収入が増大し、またこれに即応した耕地整理や草地造成も行われたのである。
しかし、農業と他産業の所得格差は大きく、農家の零細化や出稼ぎなどによる兼業農家が増え、自立農家の創設は容易ではない現状である。

現在本町の水田面積の74.3%は、既に耕地整理および土地改良事業によって整理改良されているが、このうち能動の拡幅、区画の拡張、水利上の幹支線用排水路の改良等要再整理面積は約62%となっている。未整理面積25.7%は、山間部にあって積雪期間が長く寒冷地帯で土地改良事業が遅れているが、このうち47%は整理が可能と見込まれている。
稲作の安定増収や農業機械化による作業能率を高めるためには、その基盤である土地条件の整備改良が大切である。
町としては、老朽溜池の補強や頭首工、機会揚水、用排水路の整備、暗梁排水、客土、区画整理、農道改良など耕地の整備に努めている。
農業構造改善事業では平尾鳥、椿川、下黒瀬、向野、繋等、また団地圃場整備事業によって金ケ崎(種沢)、神ヶ村、県単独圃場整備事業として中ノ沢、碇田更に空港関係によるものなど年々区画整理が行われている。
また客土、機会揚水、溜池、農道、用水路等の事業実施によって農業生産力の増強に寄与している。
更に新波、女米木地区、向野、相川開拓地内に開田がなされ、客土や小規模な田区改良は各所で行っている。


出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)


おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~雄和町の沿革~

2020-06-08 18:21:30 | 日記
【平安時代】
平安時代の初期、東征、従軍士等の土着によって開拓が進められた。
和名類抄による所属郡郷は、雄物川の東岸地区(種平、川添)は秋田郡成相郷に、西岸地区(大正寺、戸米川、川添の下黒瀬)は河辺郡稲城郷及び余部郷にあたっており、その後(平安の末期)河辺の郡名は停廃され、由利郡となった。

【鎌倉時代】
鎌倉時代となって、東岸の秋田地方には橘氏が、西岸の由利地方には由利氏鳥海氏が地頭に命じられた。

【南北朝時代】
南北朝時代から室町時代に、秋田郡地方は安東氏の所領となったが、由利地方はこれを滅ぼした家臣の滅亡後無郡司時代となった。

【戦国時代】
戦国時代に至って安東氏の配下豊島氏がこの地方を領して、領域を秋田郡から分けて豊島郡とした。
この頃由利地方は、所謂由利十二頭と称される小頭が各地域に割拠していた。

【江戸時代】
江戸時代となって、安東氏は常陸国に、常陸国水戸の佐竹氏が秋田に転封となり、由利地方は山形の最上氏の所領となったが元和年代に最上氏が改易され、宇都宮の本多氏にが移封されたものの、これを辞し由利郡は分領され、亀田に岩城氏が信州から移封された。
この時点で秋田と亀田両藩の領地交換(「新屋地方」を秋田領とし「黒瀬および仙北郡円行寺等」を亀田領に)が行われ、寛文年代に豊島郡は河辺郡と改められたのである。
明治初年の廃藩置県にいたる270年間、戸米川、種平、川添地区は秋田藩佐竹氏の、大正寺および下黒瀬(亀田藩に編入後「下」を冠した)は亀田藩岩城氏と、二つの藩政下にあった。

【近世代】
明治4年 廃藩置県によって、秋田県と亀田県となったが、同年末県の統廃合によって亀田県は秋田県に吸収合併された。(下黒瀬はこのとき、現川添地区に復したのである。)
明治11年 郡区町村編成にあたって、従前のように相川村ほか2ゕ村(現戸米川地区)、種沢村外2ゕ村(現種平地区)、椿川村外6ゕ村(現添川地区)は、河辺郡に、新波村外5ゕ村(現大正寺地区)は、由利郡に所属した。
明治22年 町村制実施時には、前記の相川村外2ゕ村と種沢村2ゕ村を合わせ6ゕ村をもって中川村とし、椿川村外6ゕ村で川添村に、新波村外5ゕ村で大正寺村としてそれぞれ誕生した。
明治28年 中川村は旧相川村外2ゕ村をもって戸米川村に、旧種沢村外2ゕ村をもって種平村に分離した。
昭和23年 由利郡所属の大正寺村は郡区域を変更して河辺郡に編入となった。
昭和31年 大正寺、戸米川、種平村を合併し雄和村とし、翌32年川添村を合併した。
昭和47年 町制施行、雄和町となった。


出典:雄和町発行「雄和町史」