キムカズの気まぐれブログ Part2

キムカズブログPart2がスタート!
Part1は→http://blog.goo.ne.jp/kimukazu1

おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~雄和町の沿革~

2020-06-08 18:21:30 | 日記
【平安時代】
平安時代の初期、東征、従軍士等の土着によって開拓が進められた。
和名類抄による所属郡郷は、雄物川の東岸地区(種平、川添)は秋田郡成相郷に、西岸地区(大正寺、戸米川、川添の下黒瀬)は河辺郡稲城郷及び余部郷にあたっており、その後(平安の末期)河辺の郡名は停廃され、由利郡となった。

【鎌倉時代】
鎌倉時代となって、東岸の秋田地方には橘氏が、西岸の由利地方には由利氏鳥海氏が地頭に命じられた。

【南北朝時代】
南北朝時代から室町時代に、秋田郡地方は安東氏の所領となったが、由利地方はこれを滅ぼした家臣の滅亡後無郡司時代となった。

【戦国時代】
戦国時代に至って安東氏の配下豊島氏がこの地方を領して、領域を秋田郡から分けて豊島郡とした。
この頃由利地方は、所謂由利十二頭と称される小頭が各地域に割拠していた。

【江戸時代】
江戸時代となって、安東氏は常陸国に、常陸国水戸の佐竹氏が秋田に転封となり、由利地方は山形の最上氏の所領となったが元和年代に最上氏が改易され、宇都宮の本多氏にが移封されたものの、これを辞し由利郡は分領され、亀田に岩城氏が信州から移封された。
この時点で秋田と亀田両藩の領地交換(「新屋地方」を秋田領とし「黒瀬および仙北郡円行寺等」を亀田領に)が行われ、寛文年代に豊島郡は河辺郡と改められたのである。
明治初年の廃藩置県にいたる270年間、戸米川、種平、川添地区は秋田藩佐竹氏の、大正寺および下黒瀬(亀田藩に編入後「下」を冠した)は亀田藩岩城氏と、二つの藩政下にあった。

【近世代】
明治4年 廃藩置県によって、秋田県と亀田県となったが、同年末県の統廃合によって亀田県は秋田県に吸収合併された。(下黒瀬はこのとき、現川添地区に復したのである。)
明治11年 郡区町村編成にあたって、従前のように相川村ほか2ゕ村(現戸米川地区)、種沢村外2ゕ村(現種平地区)、椿川村外6ゕ村(現添川地区)は、河辺郡に、新波村外5ゕ村(現大正寺地区)は、由利郡に所属した。
明治22年 町村制実施時には、前記の相川村外2ゕ村と種沢村2ゕ村を合わせ6ゕ村をもって中川村とし、椿川村外6ゕ村で川添村に、新波村外5ゕ村で大正寺村としてそれぞれ誕生した。
明治28年 中川村は旧相川村外2ゕ村をもって戸米川村に、旧種沢村外2ゕ村をもって種平村に分離した。
昭和23年 由利郡所属の大正寺村は郡区域を変更して河辺郡に編入となった。
昭和31年 大正寺、戸米川、種平村を合併し雄和村とし、翌32年川添村を合併した。
昭和47年 町制施行、雄和町となった。


出典:雄和町発行「雄和町史」



最新の画像もっと見る

コメントを投稿