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キムカズの気まぐれブログ Part2

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おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「旧雄和町商工会」の歴史(その2)~

2020-06-16 21:53:24 | 日記
河辺郡川添商業組合総会7月19日(大正14年)椿川事務所で通常総会を開催した。
本稿は大正14年7月19日魁紙の総会記事であるが、何回目かの総会なのかこの稿だけからは不明である。

また藤細工研究会、産業経済研究会などつまり、前述した川添の商業組合と二本立てで動いてきた模様である。

大正7年新波神社を中心として「講中」が設立されたという記録もある。

新波は雄物川の舟運によって、大正寺、戸米川地方は亀田(岩城町)をしのぐ程の町勢だったというし、上・下大川・大内・岩谷の一部、淀川の一部、この大正寺・戸米川つまり新波で経済をまかなっていたという、交通の要衝であった。
明治から大正中頃までは商家軒を並べ、一つの小都市形態を呈していたともいう。
明治初年から10年代にかけて、牛馬商、旅人宿、30年代に行商、理髪業、新波、椿川に開業、大正に入り戸米川、種平に提灯、煙管(きせる)の羅宇の取替え屋が、大正初年薬種商が大正寺に創業したという。

木材の集散地で木挽業、駄菓子、木綿、雑貨、酒、米屋、人力車、理髪業など明治末から大正にかけて、開創業、大正末羽越線の全面開通によってこれまで大内町からの物資は総て岩谷、本荘に搬出され大正寺の商業は急激に不振となった。

戦時中の統制・企業整備によって商家は激減したが、現在は活気を新しく呈し、昔日をしのぐ状況となった。

戦中には、商業組合があったはずだし(配給などの実施機関として)戦後は昭和23年の新波商工会の組織化であろうから大方はこういう流れであろう。

雄和町史年表には、昭和28年大正寺商工会組織、昭和23年新波商工会組織とあるが、県立図書館の資料では大正寺地区新波商工組合昭和23年4月任意で出発、中元や年末大売出し、新波公園の整備や親睦など昭和28年になると国民金融公庫の償還組合など、その後大正寺商工会に改組、更に雄和村商工会にと記述されている。

昭和31年11月15日付、秋発商第196号に係る全県市町村長あての照会文書によれば、
「雄和村大正寺商工会(河辺郡雄和村新坂-事務所の所在地)会長佐藤利一郎。会員数61名、創立年月日昭和30年4月21日、なお、対象事業所数257となっている。

昭和35年、商工会法の制定に伴い、同年8月31日、雄和村商工会を設立(加入会員158名)。初代会長には佐藤茂一郎(発起人代表)を選んだ。


出典:秋田県商工会連合会発行「秋田県商工会史」(平成7年発行)




おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~旧雄和町の風土地名考「川添地区」~

2020-06-15 18:37:57 | 日記
【川添(かわそえ)】
町村制実施当時、合併の旧村(椿川、田草川、芝野新田、下黒瀬、平沢、石田、妙法)は雄物川、岩見川の川添に立地していたことから「川添村」としたものである。)
どこの町村でも新町村名の選定には住民の意見が多く、当局者も慎重で、また頭の痛い問題でなかったろうか。
当時旧村の椿川、田草川、芝野新田、下黒瀬、平沢(石田、妙法を含む)の各代表者が昼食持参によって熟議を重ねること一週間、第一次案は各代表が自村名を新村名としたいと主張して譲らなかった。
次案は、抽籤によって各村名の一字を結合させてはとの意見となったが「椿田新瀬平村」という長い珍名となり、これも対外的にどうかとの異論が出てまとまらない。
そこで更に明日改めて参集の動議に川向の下黒瀬の代表から、夜間渡舟の困難に加え徒らに日時を空費するものとして苦情が出されたことからいささか会議も感情的となり、下黒瀬の分離論に及ぶ始末、いやこれまでの7ゕ村合併の支持論等でかなり緊張した場面に、代表の一人が立って7ゕ村とも雄物川と岩見川の川添の村々であり、この際「川添村」としてはとの発言に、最終はいと簡単に僅か三分で満場一致新村名が採択されたものだったと物語が残されている。

【椿川(つばきがわ)】
ツバキは植物の椿と崖(ツバケレは崩る意)の二義がある。
ここの場合は後者で、南方の小河川に添うた集落から椿川の地名としたもので現在河川名は安養寺川という。
昔は「津波岐」と書いている。
永正年代白華城主豊巻備中守の支砦として津波岐館を築き石塚美濃守を配備南の警固としたが永禄年代亡ぶ。

【田草川(たくさがわ)】
タは土地、クサは草原、採草地で、藩政時までは芝野新田とともに雄物川の流路で、河状の付替から川原草原地となり、開田、河川の改修により、地名にそぐわない現状である。

【芝野新田(しばのしんでん)】
シバは芝草、ノは原野、採草地、新田は文字どおり新開田で、田草川と同じく昔は雄物川の流路、藩政時下流の河川の付替により開田が行われ、また河川の改修から今は地名にそぐわない現状で、シバは新発田の新発にも通ずる地名。
なお、開拓地の地名には古代、中世、近世名があって、ここ芝野新田は近世の開拓地名とされている。

【下黒瀬(しもくろせ)】
上黒瀬、楢田は下浜に下黒瀬は川添村にと(地名辞書)ある、クロはフルと同言語で二語化したもの、クロは畔で小高い所の意で、瀬(セ)は早瀬、セセラギ、下黒瀬は雄物川の河岸の段丘でかつては砂、砂利等の川原、平水時は川床が露出し、増水時に浅瀬をなしたが去る昭和22年の大洪水後河床が変動してその面影は見られない。
元和8年 領地交換により亀田藩領となり、当時の交通は境界の山嶺だった。
下黒瀬は亀田藩の内越の黒瀬村との区分説もあり、明治4年亀田県に編入後秋田県の区域となり、旧に復し川添地区となったものである。
なお小字の黒瀬沢に因む集落の総称地名のようであり、「瀬」は「谷」の書替か、雄物川は、藩政時の改修前は対岸(右岸)の芝野新田付近で右折して、東北方小阿地下に曲流していたもので、曲流部の迫るところからの「迫」(せ)=鹿児島県の黒の瀬戸は昔時薩摩の迫門(せと)とある=でないかとも想像され、現状は藩政時に至って小山、石名板間に雄物川の新川を開墾して直流をはかり、急流となったもので、文字どおりの「瀬」であり、課題地名である。

【平沢(ひらさわ)】
ヒラは一般に平坦地、傾斜地で、サワ(沢)はここの場合雄物川に流入する小河川の意ともいうが、耕地の区分整理後の現状では沢とみることは至難であり、対岸にある字水沢の沢との結合地名との連想される今である。
永正年間白樺城主豊巻備中守が対岸水沢の筋脇に館を築き白根七郎昌吉を配備し警固させた。
永禄年代落城、清水館を後日白根の氏姓をもって白根館としたという。

【石田(いしだ)】
イシは礫でタは一般に土地または耕地をいう。
雄物川の右岸沿に現在は立派に水田化されているが、地下2~3米で水があり、地質は砂利層という。
かつては雄物川の流路であったとも推定されている。

【妙法(みょうほう)】
六郡郷村誌、羽陰温故誌に妙法地村とある。
享保年代に日蓮宗の妙法等(尼寺とも伝える。)字槐下の山腹に庵寺の跡地が伝えられており、この妙法寺に因む地名も廃寺に伴い「寺」を省略し妙法としたものである。
の氏姓は全部金家で宗家は水戸から佐竹藩主移封年代に移住を伝え、兄は銅屋に土着。



出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)



おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~旧雄和町の風土地名考「種平地区」~

2020-06-14 18:11:30 | 日記
【中川(なかがわ)】
町村制実施当時、戸米川、種平の両村をもって強力な自治体の組織が計画され、村の中央に雄物川があることに因み「中川村」と村名を決定したのが、明治28年分村、戸米川、種平の両村となったものである。

【種平(たねひら)】
合併前の旧村名の種沢の「種」と平尾鳥の「平」を結合させたもので、町村制実施当時の考案村名として、合併村の頭字を結び合せても将来故障(物議)が念慮され、豊かな村を希求祈念して「豊田村」とすること、また雄物川の右岸の村として「川西村」(川が西にあることから)も考えられたという。

【種沢(たねざわ)】
開発当時、畑沢(焼畑開墾地)に真言宗の普門寺という寺があった。
永保3年6月 大降雪の折出火しこのため附近が消雪し秋に籾千升の収穫があり、これを種子として田植えができ生活に安堵を得たことから地名を種ヶ沢に、寺を種水院とし、後代種沢に改めたという。
康平5年 安倍貞任の残党が種沢太郎と称し、種沢城を築く、子孫の元亀年代に豊島玄蕃と相争い滅亡。

【平尾鳥(ひらおとり)】
ショドリ、ヒヨドリと通称、建久年間源義経の家臣熊谷太郎の四男乗秋がこの地に居住平尾鳥式部太夫と称し平尾鳥城を築いた。
六郡御絵図には誤記か「鵯村」とあり、この地の地勢が源平の戦の「鵯越」に似ていることに因む地名かとも連想される。
式部太夫の子孫は永禄年代豊島玄蕃のため亡ぼされた。住古から藩政時まで平尾鳥は雄勝から秋田間の交通の要所で、善知鳥の観音は有名。

【左手子(さでこ)】
佐手子、左出子等と書いたものもある。
サテは扠手で漁獲のヤス、水中で魚を取る道具で、同地の開発は日吉山王宮の縁記に大同元年とあり、当時雄物川河岸にあって扠手を使って漁獲したことに因むものと思料され、子は種沢からの分村を意味し、左に出した子村とも合考される。


出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)




おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~旧雄和町の風土地名考「戸米川地区」~

2020-06-13 17:42:29 | 日記
【戸米川(とめかわ)】
合併の旧村名の戸賀沢の「戸」、女米木の「米」、相川の「川」を結び合せた村名で、町村制実施当時の考案村名として戸賀沢、女米木、相川の各一字を結び戸米川村、女米木と相川を結合させた女米川村、高尾山麓に因み「高麓村」(たかふもと)とも考えられた。

【相川(あいかわ)】
雄物川も川添にある銅屋(どうや)と高埜(こうや)を併せ、合川、相川としたともみれるが、同地方の開拓者鳥海家の祖の前住は元雄勝郡須川村相川(現湯沢市)で故郷の地名をとって相川村としたとも伝承。

【女米木(めめき)】
住古高尾山(鷹雄山、鷹尾山、高雄山)を竜頭嶽と呼び山麓の里を竜頭村といったが、白石の善五郎の娘の米子を略奪した夜叉鬼に因んで米女鬼村となり、藩政時に女米木に改めたという。
なお、高尾山縁記には、宝亀年代(770年代)には龍頭村、大同2年(807年)女米「米女」鬼村に改め、更に慶長7年(1601年)に女米木村としたとある。

【戸賀沢(とかざわ)】
女米木の地域でこう荒撫地だった当時、雄物川河畔の河原を浜と見立てて外ヶ浜といい、その後開田に伴い一の集落を構成し外ヶ沢に改めたが、各戸の生活の富裕を希求祈念し「外ヶ」(とが)を「戸賀」の文字に改めたもの。
現住の先祖の土着は戦国時代ともいうが、片田の西方善知鳥坂の地名等から原住民が住んでいたでないかとの伝承もある。
藩政時代には18戸の集落で、これ以上戸数が増加すると村が衰微するとの言い伝えがあり極力増加を避けたという。
宝暦5年(1755年)の検地帳が現存していると伝えている。
藩政時代の「六郡郷村誌」とまた明治初年の「羽陰温故誌」に「此村より女米木に来る道傍に石あり長4尺丸9抱程中うつろなり其空中に名付け難き形の石あり花を立る穴二つ三つあり人呼んで神とし仰く元山沢に有りしを不思議として数人を以て此処に移し立つといへり色薄赤く又白き石なり奇なり雅石といふべし」とあるが、この奇石は詳かでないが、旧戸米川小学校敷地の道路向側の字金山沢17番1に所在している。


出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)


おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~旧雄和町の風土地名考「大正寺地区」~

2020-06-12 17:30:36 | 日記
【大正寺(だいしょうじ)】
鎮守の元郷社新波神社は住古荒波明神(または地主明神)といった。
仏教興隆時に大聖不動明王を合祀大正寺と改号、当地方の鎮守とし、教育及び宗教の中心とされ以来大正寺は当地方の象徴となり自然に地方的名称となった。
文治2年 陣代安東氏は大正寺太郎と、応仁年代新田氏は大正寺兵衛尉と名乗り、慶長年以降藩政時には大正寺郷(大正寺6ゕ村、下川大内1カ村、亀田6ゕ村、大沢郷3ゕ村、強首村1ゕ村、計17ゕ村)と呼称し(現在でも近郷近在では新波神社を大正寺の不動様と称している。)町村制実施によって、新波、向野、繋、神ヶ村、碇田、萱ケ沢の6ゕ村を合併して古代からの総称地名をとり大正寺村となったものである。

【新波(あらわ)】
新波、荒和、新和村と旧記にあるが、明治初年新波村となった。
鎮守を新波明神と称し、延暦の頃新波の玉岐という士族がおり、広徳年由利の八陣代に新波小太郎の名がある。
アイヌ語でアラパとは水によってものを運搬することから出た地名、新波神社を現地に遷宮するとき一天俄かにかきくもり大雨沛然、山川草木鳴動して新波磯に打ちくだくかごとくとも伝え、慶長の最上義光分限帳に大正寺郷新波村とある。

【向野(むかえの)】
川向の平野地帯の意からの地名で、延歴年代に開拓されたが度重なる雄物川の氾濫により荒撫地化したものを寛文初年に再び開拓したものである。
当時は新和新田と称したが享保16年向野村として独立したものである。
源藤太郎(げんどうたろう)…雄物川河岸の下流地域、藩政時代雄物川を大正寺川といい、関東の利根川の坂東太郎の異名になぞらえて地名としたもの。

【繋(つなぎ)】
秋田の古代駅路(由理の柵と秋田間)の白谷駅(繋字西の沢槽館)は奈良時代の天平宝字年代に水駅として交通の要所で水陸を結ぶ地点からの地名、稲城郷のなまり、神社縁記の通波(つなみ)の転訛等考えられる。
慶長の最上分限帳には大正寺郷繋村とある。

【神ケ村(じんがむら)】
神社縁記には、社前の川上の意から神上村とある。
地域に産土神と氏神が22社も奉祀され神ヶ村の名に応わしく、西方の高峯「神岳森」は住古山岳高山信仰時代に崇拝したと伝えその麓の里から地名となったものと推料され最上分限帳に大正寺郷神ヶ村とある。

【碇田(いかりだ)】
地域の中央部を迂曲する河川を堰堤でせき止め、灌漑水としている。
淀み水、碇り水によって耕作する田に由来するか、最上分限帳に大正寺郷猪狩田とあり、猪の狩場を連想するが稲刈田の当て字で、また碇田村とも書いているが後代碇田村と改めたものという。
明治9年 大台地区を萱ケ沢に分離編入した。
なお、クネソエに鎮座の釜大神社の正徳5年(1715年)の奉造棟札に「伷理郡亀田領飯田村」とあり、また文化3年(1806年)再建棟札には「碇田村」、「飯穫田村」等と書かれている。

【萱ケ沢(かやがさわ)】
開拓前、萱の繁茂したことから萱沢と称したもので地名的に大きな意味がない。
日吉山長円寺は延歴年代、鷲泉寺は康応年代の創建、最上分限帳に「萱沢」とあり一般も萱沢と通称しており、明治初年萱ケ沢としたもの。
中ノ沢は天正年代の開拓、元和9年の記録に中ノ沢の地名がある。


出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)