前回のブログで1976(昭和51)年のモントリオール・オリンピックから女子バレーボールが好きになり
という事に触れましたが、この1976年というのはまさに私にとってスポーツ、音楽(邦楽)に
目覚めた年なのです。(この件については過去のブログで何回もお伝えしていますね)
小学3年でしたが、プロ野球、高校野球、プロレス、大相撲、前述したバレーボール他
一気に興味を持つようになりました。
逆に言うと、その前年の1975(昭和50)年頃までの記憶はほとんど無く、スポーツ、音楽に
興味を持っていなかった(わからなかった)のです。
プロ野球の優勝チーム(日本シリーズで阪急が広島に4勝2引き分けで下し、初の日本一に)も
まったく知りませんでした。
1976年頃から女子プロレスではジャッキー佐藤選手、マキ上田選手のビューティ・ペアにより、
女子プロレスが一気に大人気となりました。
今回のタイトルである「1985年のクラッシュ・ギャルズ」はこの1976年から9年を経過して
おります。この9年間、ビューティ・ペア、ライバルのヒールであった池下ユミ選手、マミ熊野選手、
正統派のナンシー久美選手、ビクトリア富士見選手、トミー青山選手、ルーシー加山選手、
ミミ萩原選手、ジャガー横田選手、大森ゆかり選手、ジャンボ堀選手、時代的には少し後になりますが、
立野記代選手、山崎五紀選手、
ヒールのデビル雅美選手、ダンプ松本選手(まさにクラッシュ・ギャルズの好敵手)、
クレーン・ユウ選手、タランチェラ選手、ブル中野選手といったところが女子プロレスの人気を支えました。
本題から大分外れてしまいましたが、
クラッシュ・ギャルズ
ライオネス飛鳥選手 1963(昭和38年)生まれ
長与千種選手 1964(昭和39年)生まれ
の二人の人気は凄まじかったです。
二人共、「風林火山」の文字が入った空手着の上着で颯爽とリングに駆け上がり、
素晴らしい動きで観客、ファンを魅了しておりました。
1985年といえば私は当時高校3年生でした。女子プロレス中継があれば
熱心に観ておりました。
クラッシュ・ギャルズは前年の1984(昭和59)年8月に結成です。
1989(平成元)年に解散となりました。
この間、女子プロレスの大ブームを作りだした功績は本当に凄いと思います。
では、また。