作日何気なくみていたBSさだまさし・・・の
番組で
石橋秀野さんという俳人のかたが紹介されていた。
興味があって暫く見ていたが
電話があり中断・・・残念
ネットで調べてみた。
石橋 秀野(いしばし ひでの、1909年2月19日-1947年9月26日)は、俳人。俳句評論家山本健吉の妻。
明治42年(1909年)2月19日、奈良県に生まれる。旧姓藪。文化学院文学部(大学部本科)卒業。文化学院中学部の時、学監与謝野晶子に短歌を、高浜虚子に俳句を学ぶ。大学部では正課に俳句がなかった為、勝手に作って虚子に見てもらっていたという。昭和4年(1929年)、俳句評論家の山本健吉(本名石橋貞吉)と結婚、石橋姓となる。昭和13年(1938年)頃より、横光利一の十日会句会に参加、俳句を復活し、石田波郷、石塚友二らと相知るようになり「鶴」入会。後に「鶴」課題句の選者となり、「鶴」を代表する女流俳人として活躍する。
昭和20年(1945年)には夫の島根新聞社赴任に従い島根県に移住、松江、鳥取の「鶴」俳人達と句会を催した。昭和21年(1946年)7月には夫が京都日日新聞社論説委員となったため京都に転居。しかし戦時中の疎開生活中に病に侵され、昭和22年(1947年)9月26日、京都宇多野療養所にて38歳で死去。約10年間の作品と随筆12編他による句文集「桜濃く」(1949年)は、追悼の意を込め刊行され第一回茅舎賞(1954年=第3回から「現代俳句協会賞」に名称変更)を受賞する。『無量寿院』(福岡県八女市本町)の「石橋氏累代之墓」に眠っている。
- 『櫻濃く 句文集』創元社 1949
- 『定本 石橋秀野句文集』富士見書房 2000
- 西田もとつぐ『石橋秀野の世界』和泉書院「和泉選書」2002
- 山本安見子『石橋秀野の一〇〇句を読む 俳句と生涯』飯塚書店 2010。宇多喜代子監修
作品[編集]
- 曼珠沙華消えてしまひし野面かな
- 西日照りいのち無惨にありにけり
- 短夜の看護り給ふも縁(えにし)かな
- 蝉時雨子は担送車に追ひつけず[1]
山本安見子『石橋秀野の一〇〇句を読む 俳句と生涯』
代俳句文学史のなかですっぽりと抜け落ちた夭折の女流俳人石橋秀野。その美貌と才気は生前多くの俳人たちに愛されたが、没後はその生涯までもベールに包まれてしまった。夫が、かの文芸評論家山本健吉であるにもかかわらず…。
本書はこれまで証されることのなかったその謎を一人娘の著者が、秀野の代表作とともに評伝式に解き明かし、文学史の空白を埋める一冊となりました。
読み進むにしたがって、自身の命を俯瞰するように見つめる作品は鬼気迫るものがあり、またその句の背景にある悲しいほどに切ない愛の形は、涙なしには読了し得ない感
この本を購入しょうと思ったが
残念只今品切れとのこと・・・。
- 春寒や燭にまむかふ顔三つ
- 春暁の我が吐くものの光り澄む
- あたたかやむかし一文菓子うまし
- しまひ花火窓流行歌ぶちまけて
- とびからす病者に啼いて梅雨寒し
- ひとかゝへ濯ぐより蟬鳴きはじめ
- ひるの蚊の打ち得ぬまでになりにけり
- ゆく秋やふくみて水のやはらかき
- 下萌やあしたゆふべを端折着
- 傘さげて使ひあるきや曼珠沙華
- 卯の花腐(くだ)し寢嵩(ねかさ)うすれてゆくばかり
- 大夕燒惡寒(をかん)に鳴らす齒二十枚
- 大夕燒消えなば夫(つま)の歸るべし
- 大寒の殘る夕日を市の中
- 妻なしに似て四十なる白絣
- 新じやがや子をすかす喉すでに嗄れ
- 柳絮(りうじよ)とぶや夜に日に咳いてあはれなり
- 梅雨じめり痩せ骨三月(みつき)よこたへて
- 梅雨の雷子にタン壺をあてがはれ
- 梳(くしけづ)る必死の指に梅雨晴間
- 汗と涙こも?黄黄こぼし合掌す
- 火のやうな月の出花火打ち終る
- 烏賊(いか)食(は)めば隠岐や吹雪と暮るるらん
- 熱出しの廿日あまりに花了る
- 片よせて宵寢の雨戸夜の秋
- 病み呆(ほ)けて泣けば卯の花腐(くだ)しかな
- 短夜の看とり給ふも縁(えにし)かな
- 立雛にすがるの腰のなかりけり
- 緑なす松や金欲し命欲し
- 芋煮えてひもじきままの子の寝顔
- 菊火照り英霊かへる街せはし
- 蟬時雨子は担送車に追ひつけず
- 蟬時雨子は擔送車に追ひつけず
- 衣更鼻たれ餓鬼のよく育つ
- 裸子をひとり得しのみ禮拜す
- 西日照りいのち無惨にありにけり
- 遠花火とりすがれるは夕布團
- 門柳鬼ごとあそび暮れて猶
- 風花(かぜはな)や傘に澁刷(は)く小手のさき
- 鮎打つや石見(いはみ)も果ての山幾つ
- 曼珠沙華消えてしまひし野面かな
- 短夜の看護り給ふも縁(えにし)かな
- 蝉時雨子は担送車に追ひつけず
- 星降るや秋刀魚の脂燃えたぎる
- 薫風に膝たゞすさへ夢なれや