伊達だより 再会した2人が第二の故郷伊達に移住して 第二の人生を歩む

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露天風呂でホタル観賞

2017-07-28 10:42:03 | 旅行
 さて

 美味しい夕食を満喫した後は温泉へ

 露天風呂に入っていると


 何やら光るものが飛んでいる・・・

 ホタルは見たことはないが


 絶対これはホタルだと確信た。


 私の他には誰もいない・・・もったいない


 5匹以上はいた


 光を放って舞う姿はそれはそれは幻想的でステキだった。


 に露天風呂に入った?

と訊くと


 入らなかったけれど そう言えばガラス越しにチカチカ灯りが


 動いていたなぁー・・・だって


 次の日ホテルのかたにお聞きすると

 ホタルに間違いなかった。


 珍しいです・・・と言われた。


 ホテルの近くには川も流れているし

 池もある。




 ここの温泉は不思議な温泉だ


 コンブのなかに浸かっているみたいにぬるぬるしていた



 毎日入りたい温泉だよネ


 


 朝風呂にも入り


 お肌ピカピカ


 いずみさんともこれでお別れ


 



 


 




 
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あぁモンテンルパの夜は更けて

2017-07-28 10:04:59 | 演芸(カラオケ)クラブ
 補足しました。



今年私と一緒に長生大学の演芸クラブに入った学士一年の

 H子さんが魅惑的な声でサンフランシスコのチャイナタウンをカラオケで

 唄った。

 哀愁があり感動・・・

 こういう声の人はなかなかいない




 三回目の最後の施設訪問で彼女はこれを唄うことになった。


 それでネットでこの唄を調べていたらモンテンルパの唄も

 あった。


 昔むかし子どものころ好きでよく口ずさんでいた


 同じ渡辺はま子さんが唄っていた。


 フオレスタも澄んだ声で唄っていた。


 いろいろと調べたがカラオケ付きのCDが売り切れだと・・・

 残念


 モンテンルパの唄にはすごいドラマがあったということが分かった


 そう言えばドラマとかで観たことがあったっけ・・・


 本も読んだ記憶がある


 日本人として

 忘れてはならない大切な歌である。


 作詞作曲のかたも素晴らしい方々だが


 歌手の渡辺はま子さんも偉大な女性だったんだぁー


 彼女なくしてこの唄は世に出なかったし

 沢山の戦犯の人たちの命は救われなかった。





 ネットより引用




ああモンテンルパの夜は更けて(解説)


   作詞:代田銀太郎
   作曲:伊藤正康
   歌唱:渡辺はま子・宇都美清
   MIDI制作:滝野細道

  (一)
  モンテンルパの 夜は更けて
  つのる思いに やるせない
  遠い故郷 しのびつつ
  涙に曇る 月影に
  優しい母の 夢を見る

 (二)
  燕はまたも 来たけれど
  恋しわが子は いつ帰る
  母のこころは ひとすじに
  南の空へ 飛んで行く
  さだめは悲し 呼子鳥

 (三)
  モンテンルパに 朝が来りゃ
  昇るこころの 太陽を
  胸に抱いて 今日もまた
  強く生きよう 倒れまい
  日本の土を 踏むまでは


 昭和27年6月のこと、このやるせない心を抉るような歌が大ヒットした。「何の歌だろう?」いぶかった人々も直ぐに知ることとなった。この歌はフィリピン、マニラ郊外のモンテンルパ刑務所の死刑囚の作った歌だったのだ。作詞がB級戦犯死刑囚:代田銀太郎元大尉、作曲がB級戦犯死刑囚:伊藤正康元大尉、歌ったのが「支那の夜」や「何日君再来」などを歌った渡邊はま子。この歌はモンテンルパ刑務所の教誨師加賀尾秀忍から送られてきたものだった。

戦後7年も経過し、サンフランシスコ講和条約から1年もたって、A級戦犯も免責されんとしている時、まだ異国で処刑されていくBC級戦犯がいることを知った渡邊はま子は驚愕し、レコード化に奔走して、遂に大ヒットさせたのである。

これにより、自分の生活に追われていた日本人の多くが悲愴な現実を知ることとなり、集票組織の無かった当時としては異例の、500万という助命嘆願書が集まったのであった。

 戦時中の慰問で自分も戦意を煽ったためと感じた渡邊はま子は、どうしてもモンテンルパに行って謝りたいと思い、渡航の困難だった時代に手を尽くしてフイリピンへ渡った。

当然フイリッピン政府からヴィザなど降りない。単に戦犯の慰問というだけでなく、終戦時には宣撫慰問の途中で虜囚となり一年も収容所に入っていた女性である。許可など出る筈もなかった。それでも渡辺はま子は香港に向けて出発して行った。香港経由でフィリピンに強行入国しようというわけである。たとえ逮捕されて、戦犯と同じ刑務所に入れられようとも・・・


 昭和27年12月24日、歌手・渡辺はま子の歌がモンテンルパのニュービリビット刑務所の中を流れた。熱帯の12月。40度を超す酷暑の中で、渡辺はま子は振袖を着て歌った。もう随分と長い間見たこたことがなかった日本女性の着物姿は、死に行く者への別れの花束だった。この歌は、この刑務所の死刑囚達が作詞作曲したものである。この歌が流れると会場の中からすすり泣きが聞こえた。会場にいたデュラン議員が、当時禁じられていた国歌「君が代」を「私が責任を持つ、歌ってよい」と言った為、全員が起立して祖国日本の方に向い歌い始めた。多くの人は泣いて声が出ず、泣き崩れる者もあったようだ。そして、この「ああモンテンルパの夜は更けて」は、これらの人々を救い出す事になったのである。


 昭和28年5月、教誨師加賀尾秀忍のもとに渡辺はま子から一つのオルゴールが届いた。曲は「ああモンテンルパの夜は更けて」だった。オルゴールの音色は心を抉るような響きをもっていた。

 そのころ、加賀尾はやっと時のキリノ大統領に面会する約束を取り付けることが出来た。初対面の挨拶と、面会の時間を貰えたお礼の後、加賀尾は黙って大統領に例のオルゴールを差し出した。加賀尾の涙ながらの助命嘆願と、哀訴の言葉を予想していた大統領はいぶかったが、オルゴールを受け取って蓋をひらいた。流れ出るメロディー。暫く聞いていた大統領は「この曲はなにかね?」加賀尾師は、作曲者がモンテンルパの刑務所の死刑囚であり、作詞をした者もまた死刑囚であることを語って、詞の意味を説明した。尚もじっと聞いていたキリノ大統領は、漸く自身の辛い体験を語り始めた。

 大統領自身も日本兵を憎んでいたし、日米の市街戦で妻と娘を失っていたのだった。「私がおそらく一番日本や日本兵を憎んでいるだろう。しかし、戦争を離れれば、こんなに優しい悲しい歌を作る人たちなのだ。戦争が悪いのだ。憎しみをもってしようとしても戦争は無くならないだろう。どこかで愛と寛容が必要だ」

 死刑囚を含む全てのBC級戦犯が感謝祭の日に大統領の特赦を受けて釈放され、帰国が決まったのは、翌月の6月26日のことだった。
 横浜の埠頭で帰国の船を待ちわびる群衆の中に、渡辺はま子の姿があった。



補足


 フィリピン政府によるBC級戦犯裁判で裁かれた死刑囚を含む100人を超える日本人戦犯は、キリノ大統領による恩赦が出るまで約5年間をニュービリビッド(モンテンルパ)刑務所で服役した。14人の死刑囚が一晩に絞首刑に処されるなど死と直面する厳しい現実に置かれたが、フィリピン刑務当局からは比較的寛大な扱いを受けたようだ。その象徴が当時のアルフレド・ブニエ刑務所長の存在で、その温かい人柄、寛容な態度は日本人戦犯たちに強い印象を残した。(一部敬称略)



 



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