伊達だより 再会した2人が第二の故郷伊達に移住して 第二の人生を歩む

田舎暮らしの日々とガーデニング 時々ニャンコと

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終戦から私たち家族の戦いは始まった

2016-08-18 00:03:03 | 樺太
今日は終戦記念日そして私たち家族の戦いは始まった

 今年は戦後70年     私たち樺太に残された家族は終戦の日から     3年間も樺太に取り残され     やっと最後の引き揚げ船で帰ってくることができたのであ......




  今年は戦後71年


  またまた終戦の樺太での混乱を・・・


  昨年のブログより
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許すまじ

2016-08-15 00:30:42 | 樺太
戦争の悲惨昨日のようによみがえる・・・・・許すまじ
 樺太引揚者の私たち一家   父は寡黙で何も語らず   ただ兄が自衛隊に入りたい・・・と言った時は   烈火の如く怒り恐かった。   今年も終戦記念日がや......




 終戦後の私たち一家のその後です。


    昨年のブログより


    今読みなおしても涙がこみ上げてきます。
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私の終戦

2016-08-15 00:19:38 | 樺太
私の終わらざる夏
 終戦は三歳だったが   旧ソ連兵から逃れて野宿した時のこと   をまだ鮮明に憶えている・・・・   三歳にして命におびえた日々だった。    寡黙な父が......




父も母も兄たちも終戦の悲惨さを多く語らず


   逝ってしまった・・・。


   風化させないためにも残された私たちが


   語り部にならなければ・・・という使命感で

   
   今年も


   昨年書いた樺太での終戦の我が家の様子を


   再び掲げました。
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風化させないために

2016-02-19 05:15:52 | 樺太
引揚者の列
 昭和23年私たちは最後の時期の引揚で函館に降りた。     その時のことをちっこかった私が8歳上の姉よりも    鮮明に憶えていたのだから驚きだ・・・。    ...





 私の脳裏から永遠に消えないだろう


    樺太引揚の辛かった・・・というより


    恐ろしかったこと・・・・。



    仙台出身の父の親戚を頼って伊達駅に降りた時


    なんて平和な穏やかな町だろう・・・と思ったもの


    皆さん死の恐怖にさらされたことがありますか?


幼くして死と隣り合わせの生活をした私は


    その後の困難など・・・・メで無かった



    その経験が自分を強くしたのだと思うが


    二度と戦争はイヤ・・・。



    昨年のブログを読み


    強く思った。



    そして


    あの頃の自分を思い出すたびに


    涙が流れるのデス。




    
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今日は終戦記念日そして私たち家族の戦いは始まった

2015-08-15 08:13:16 | 樺太
 今年は戦後70年


     私たち樺太に残された家族は終戦の日から


     3年間も樺太に取り残され


     やっと最後の引き揚げ船で帰ってくることができたのである。



  過去の記事をコピーしました。




   今日は終戦記念日・・・・・・

 テレヒも新聞もこぞって戦争のことを語り、実際に戦地に行った人達の

 話しなどが放映されている。

 
 90歳前後の方が多い。

 残酷な戦争を風化させないでおくことは大切だと思う・・・。


 私は終戦を樺太で迎えている。3歳だった。

 それからか゜大変だったのだ・・・・・・、

 連日のように上空をロシアの飛行機がとびかい。私達は何ヶ月も野宿した。

 男は殺され、女は乱暴されるという噂もとびかい、当時11才だった姉までも

 顔にすみを ぬられていたらしい・・・。

 
 小さな私は大人の話しで恐怖で胸がふくれ上がり、毎夜毎夜あの大きなロシア兵に

 連れ去られ、血の洗面器に頭を押し付けられる夢を見た。

 そんなこんなでいろいろと苦労もあったが私が6歳にになったとき


 ようやく本土の土を踏めたのだ・・・・・。

 長い旅を経て、伊達の駅に降り、親戚の人の馬車の出迎えを受け、馬車に乗った私は

 安堵した気持でいっぱいだった・・・。

 夏だった・・・さわやかな街の空気と何よりも子供達がカンケリに興じているその

 様子は私の心を驚かした・・・。

 ここはなんと平和なところか・・・ここはどこじゃ・・・・と私は馬車から足をブラブラさせながら

 心の中でつぶやいていた・・・。

 いつも死と隣り合わせに生活していた幼い私にとって、ここは別天地で初めて心の

 安らげるとこだった。


 私もこれから、この子らと同じ生活が、出来るのだと思うと、胸が躍った。


 父と母・・・・大人達はあまりこの頃のことを多くは語らなかった、あまりにも重過ぎたのだ・・・・。

 そして兄2人ももうこの世にいない・・・。


 終戦直後、引き揚げ船が三隻出た・・・・。だが私達家族はこれに乗ることができなかった

 すでに満員だったのである・・・。


 この引き揚げ船に乗れなかった後のはなしを数年前、次兄が亡くなる直前聞くことができた。

 その直後父は漁船を乗れなかった近所の人とチャターしたらしいが、すぐ見つかり帰されたとのこと・・・・。

 家に戻ったら荒らされて、何もかも略奪されていたとのことである。

 よくも何もかも奪われていた場所で、家を三つに区切り、ロシア人の二家族と三年もの長い時間を

 過ごしたものである・・・・。

 この間のことは私もうっすらと覚えている。


 あの時銃殺されなかっただけでももうけ者だったと兄は語っていた・・・。

 父母達が重く口を閉ざしたのにはこんな訳があったのだ・・・。


 悪夢を二度と見たくなかったのだ・・・・・。


 樺太でのことを知っている限り、また聞いたり調べたりして書きとめておく義務が今の


 私にはあるような気がする・・・。


 昭和20年8月22日終戦直後、樺太からの引き揚げ船3せきが留萌沖でソ連に爆撃されて

 1700人もの尊い命が亡くなった・・・・・・・・。

 私はこのことは、小さい時から母に聞かされて知っていた。

 いつも母は「あの時船に乗れなくて良かった・・・」Aさんも死んだSさんも死んだ

 と淡々と語っていたからだ・・・。


  結局私達一家はあの時引き揚げ船に乗れなかったお陰で命びろいしたのだ・・・。


 だが北海道に住んでいながらそのことを知っている人の少ないことに驚かされた・・・。


 ここでもっともっと戦争の無意味さと残酷さを伝えて行かなければならないと切に思う・・・・・。

 あの血の洗面器の悪夢の記憶はしっかり私の脳裏に刷り込まれ永遠に消えることは
ない・・・・・・・。


 私の小さい頃のことについては昭南さんが「雪の街のシズ子さん」に書いてくれた。

 


 これを読んだ昭南さんからクレームがついた

 ソ連が樺太に攻めてきたのは正確には8月8日とのことです・・・・。
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