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私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

宋書も終わりです

2016-11-03 09:07:14 | 日記

 倭王「武」(雄略天皇)についての宋書「倭国伝」も最後となりました。武も、又、宋王に上表し、「開府儀同三司」の位を授けるよう、次のように、上表しております。

 「私が父や兄の死のため喪に服している間にも、高句麗王「璉」は周辺諸国の百済、新羅等の国々を略奪したり、人々を殺戮したりしております。喪が明けた今、武器を整え兵を訓練して、高句麗を懲らしめたいと思います。どうかそのためにも、私に「開府儀同三司」の位を授けて下さい。兵士たちも、皆、勲功を立てるべく勇み立っております」

 と。

 前の倭王「讃・珍・済・興」の4王とは違って、「武」は、何故、このような位を授けてほしいのか、その理由までをちゃんと書き添えておるのです。普通、学校で教えられる、我が国への漢字が伝わったとするのは6世紀の中ごろだとされていますが、この宋書を見ると、当時5世紀の初め頃には、既に、漢字が我が国に伝わっており、それを使った上表文であろうと思われます。稲荷山の鉄剣にある

     “獲加多支鹵大王<ワカタケルダイオウ>”

 と云う字などからも、当時(480年頃)、既に、日本には漢字が伝わっていたことが想像できます。


中学時代の同級生と旅行に

2016-11-02 19:52:26 | 日記

 「秋の丹波の砥峯高原のすすきの美しさ」がものすごいと言う宣伝にひかれて、もう六十五年の前の中学生時代の友と一緒にバスツアーに参加してきました。時間の関係でログハウスでの薄の野の見学でした。丁度、夕日が西の空の雲の中に隠れた瞬間を藝術的にと思ってシャッターを切ってみました。その写真をどうぞ!!!!私の写真は、果たし、て藝術的でしょうか????乞ご批評を

    

      


強大なる高句麗の勢力に対して

2016-11-01 07:20:42 | 日記

 倭王「武」は無法な高句麗に対してどのように対処したか、又、窮地に追い込まれたのか、それを上表文に詳しく書いておりますので簡単に説明させていただきます。

               “臣亡考済、実忿寇讐壅塞天路、・・・・・・・・”

 「亡考」とは亡くなった父「済」、即ち、衣通姫の父親「允恭天皇」は、寇讐<コウシュウ>(高句麗)が、天子様に謁見するために通る道筋(天路)を壅塞<ヨウソク>塞いでしまっていたのを忿って。

 と。
 ここにある「壅塞天路」の時は「日韓古史断」の中「高句麗王璉」の時代です。kの高句麗王が、しきりに、朝鮮半島の百済新羅等の国々を攻撃してくるので、それを援助しようと倭国でも、百万もの兵を整えて、高句麗を征伐に出かけようとしたのですが、その時、奄<ニワカ>に父と兄が亡くなり、喪中に服さなくてはならなかったために、目の前にあった戦功は、として次のような言葉で、それを説明しています。

              “使垂成之功不獲一簣<スイセイの コウをして イッキに エざらしむ>”

 「垂成之功」と云う言葉は広辞苑にも出ていませんが、読んで字の如くで、「そこらあたりに垂れ下がっている功績」で、それが「一簣、一モッコに担ぎ取ることができなかった」と云うのです。何と難しい言葉を遣っていることでしょうか。中国人がその話を聞いて、文字にしたのだろうとは思うのですが???