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私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

高句麗と高麗<コウクリとコウライ>どう違うのでしょうか???

2016-11-08 14:44:34 | 日記

 ようやくと吉備美女「稚媛」の出番になりました。任那の長官「宰」(書紀には「国司」)になって朝鮮に派遣されている吉備臣田狭の留守を狙って、天皇「雄略」はその美人妻を自分の妃にして、二人の皇子を生みます。
 と、ここまで書いたのですが、この雄略の時代は、書紀によりますと、朝鮮半島では、度々、高句麗、百済、新羅等の国々がお互いに戦いを繰り広げ、任那の「宰」もその渦の中に巻き込まれ、倭国も、しばしば、兵を送って戦いを交えていたのです。しかし、その事件について、書紀に書いてある内容と「日韓古史断」にある歴史とに、少々食い違ってあるように思える部分があります(私の考え違いかもしれませんが。)その点について、暫くまた、時間を頂戴してと考えておりますので宜しく。

 それはさておいてとして、今、韓国では、昨日今日のテレビなどのマスコミ報道によりますと、国の内外の問題で、特に、大統領の問題で、上を下への大騒動を繰り広げておるそうです。そのような騒動とは、聊か内容は違うのですが、此の雅媛がいた5世紀の終わりごろにも、大変な騒動が起きていたのです。一国の存亡にかかわる大事件です。日本ではあまり知られてはいないのですが、大変興味ある問題でなないと思われますので、日本と韓国の歴史に何か新しい光でもと????????途方もない思いを致しながら、又、しばらく続けて書いてみます。


「戦闘」と「衝突」と。それがどうした???

2016-11-07 10:35:56 | 日記

 今日の朝刊の「朝日歌壇」に、現代の政治の貧弱さをあざ笑うか如くのこんな歌が載っておりました。

                “「戦闘」を「衝突」に変え戦地への派遣目論む為政者の戯言”

                “数百人が南スーダンで殺されし「戦闘」ならず「衝突」なりしと”

 この植田、諏訪両氏の投稿歌を読みながら、今、私が色々と捜しだしては乱れ書きしている「480年頃の朝鮮半島情勢」、特に、「任那日本府」についての日本と朝鮮の学者の意見の相違を、丁度、この「戦闘「と「衝突」との論争みたいなものではないかしらと、楽しく?????????読んでみました。

              

 なお、この本には、現在、日韓両国学者の間で論争になっている「日本書紀」にある「任那日本府」はなく、ただ「任那府」と書かれてあります。念のために。・・・・又、道草ですがどうぞ!!!!!!。


「吉備臣田狭」について

2016-11-06 06:42:33 | 日記

 「雄略天皇は吉備臣田狭の妻の稚媛が大変な美人だと言うことを聞いて、どうにかして、その稚媛人を自分のものにしようと計画します。その為に、先ず、田狭を朝鮮の任那の国司と派遣します。」

 と、日本書紀には書かれています(雄略天皇の七年)。しかし先に見た

   によると、吉田東吾は、此の田狭について、

       “安康帝の時、吉備田狭任那国司に任ぜられ、事を以て雄略帝を怨み、遂に任那に拠り新羅に通じ、本国の道を塞ぎて叛く”

 と書かれております。安康と雄略は兄弟ですが、その記事の違いはどこから生まれたのでしょうか。此の中に“怨み”と云う文字が見えるので、田狭は任那国司になったのは安康の時で、稚媛を妃にしたのは、書紀にあるように、雄略が田狭の自慢話を直接聞いた事によるのでなく、以前から美人だと言う噂が立っていたのを聞いた雄略に、安康の死後、ねとられたのを知って田狭が怨んだのではないでしょうか????

 450年頃の東アジアの情勢は多くの国が混じり合い、戦いを繰り返しながら覇権を争ったと言う事だると思われます。それが「稚媛」と云う一人の女性を中心とした話に作りあげてたのではないかと思われます。


武が賜った称号は

2016-11-05 08:08:02 | 日記

  開府儀同三司と云う称号を賜るよう上表したので

   詔を発して、武を、「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国の諸軍事・安東大将軍倭王」に任命した。

 と書いてあります。
 此の「武」ですが、倭国伝には「使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事安東大将軍倭王」と自称していたのが、どうしてかその理由は何も説明はないのですが、宋の順帝は、その七国の中から一国「百済」の名が消えて、六国の大将軍に任命しています。


「開府儀同三司」と日本文化

2016-11-04 09:11:31 | 日記

 ここに来て、又、ちょっと気になった事に出くわします。と云うのは、宋書には、倭王「武」が宋王に「開府儀同三司」の位を授けるように依頼したとあるのですが、この「儀同三司」と云う言葉、どこかで聞いたことがあるように思えてなりません。昨夜床について、ふと「そうだ百人一首」の中にある

       “忘れじの 行く末までは かたけれど けふをかぎりの 命ともがな”

 の作者が「儀同三司母」ではなかったかと思われました。早速、この「開府儀同三司」について、広辞苑を紐解きました。それによると、これは漢の時代の制度で、その地方を治める将軍をそう呼んだと出ています。それが、日本では、この三司を「太政大臣・左右大臣」にあてて、その位と同等の位として「儀同三司」が作られたそうです。(なお、此の位の下にあるのが「大納言」です。あの藤原成親卿の位です。)
 当時、此の位を授かっていたのが藤原伊周<コレチカ>で、その母が作ったのがこの“忘れじの行く末までは・・・”の歌なのです。
 今までは、私はそんな意味が「儀同三司」にあるのか、何も知らないで使っていたのですが、この宋書を読んで始めて知りました。読書とは本当におもしろい事ですね。

 この宋書にあるように、漢の時代の位について、「武」が、既に、知っていたのです。これは彼一人の知識では決してないと思われます。当時の倭国の為政者の中にも、480年頃ですが、世界情勢に明るい相当な物知りな人物がいたのだろうと考えられます。倭国は、高句麗の東南、大海の中にあったのですが、相当なグローバルな社会の中に位置していたのだと言うことが分かります。それらは、中国や朝鮮半島の国内の混乱に伴う多数の移住者によって持たされたものでしょうが、それらの人を先進者として、また、博士として、大いに利用した為に得られた知識ではなかったかと思われます。遣隋使や遣唐使によって日本文化の元が作られたとするのが一般的ですが、それをさかのぼる事、百年も二百年も以前からその傾向は見られていたのだと思われます。元々あった古来からの独特な風土が生み出した固有な文化があった上に、更に、中国などから、より進んだ文化が入り込み、それらが複雑に絡み合い融合して、今見られるような日本独特の我が国の文化を作り上げられたのだと思われます。その大元がこの時代に生まれていたのです。