またまた道草です。
先の「備中守長政」という人について「この人は誰だろうか。」と思い調べてみました。平安中期~後期に活躍した笙の名手で、堀河天皇にも教えたほどの雅楽家で
「左右なき管弦者」
と称されました。又、彼は後三条天皇にも笛を聞かせたと言い伝えられています。
この「後三条天皇」は長政が「備中守」としてになった「備中国」とは大変深い関係があります。それは「後三条天皇」の大嘗会の時の「主基」が吉備津神社のすぐ傍にある「有木」の地に定められ、その時の祝い歌として和歌集が作られます。その中に収められている和歌の一首が
祈ること しるし有木のやまなれば
ちと世のほとも たものしきかな 藤原経衡
です。その記念碑が、今、その有木に建てられています。
このように後三条天皇とゆかり有る備中国の国司となった「長政」は、かって、笙を聞いていただいた天皇に対しても思いを込めて、多くの楽人を伴い雅楽の宝殿である吉備津神社で、神拝の時に、己の笙と一緒した楽人の舞を奉納したのでしょう。
彼は11世紀の中頃、紫式部の時代ですから、古い時代の吉備津神社に奉納したことになります。どのあたりで長政らが舞ったかは詳らかではありませんが、当時は、相当大きな神楽殿があったことは想像がつきます。その昔は「雅楽のお宮さん」だったなんて誰もそんな歴史がこの神社にあったとかはつゆも知らず、やれ比翼だの、戦さ神だの、学問神だのと現在では多くの人々の普通のお宮さん(国宝)になっています。
先の「備中守長政」という人について「この人は誰だろうか。」と思い調べてみました。平安中期~後期に活躍した笙の名手で、堀河天皇にも教えたほどの雅楽家で
「左右なき管弦者」
と称されました。又、彼は後三条天皇にも笛を聞かせたと言い伝えられています。
この「後三条天皇」は長政が「備中守」としてになった「備中国」とは大変深い関係があります。それは「後三条天皇」の大嘗会の時の「主基」が吉備津神社のすぐ傍にある「有木」の地に定められ、その時の祝い歌として和歌集が作られます。その中に収められている和歌の一首が
祈ること しるし有木のやまなれば
ちと世のほとも たものしきかな 藤原経衡
です。その記念碑が、今、その有木に建てられています。
このように後三条天皇とゆかり有る備中国の国司となった「長政」は、かって、笙を聞いていただいた天皇に対しても思いを込めて、多くの楽人を伴い雅楽の宝殿である吉備津神社で、神拝の時に、己の笙と一緒した楽人の舞を奉納したのでしょう。
彼は11世紀の中頃、紫式部の時代ですから、古い時代の吉備津神社に奉納したことになります。どのあたりで長政らが舞ったかは詳らかではありませんが、当時は、相当大きな神楽殿があったことは想像がつきます。その昔は「雅楽のお宮さん」だったなんて誰もそんな歴史がこの神社にあったとかはつゆも知らず、やれ比翼だの、戦さ神だの、学問神だのと現在では多くの人々の普通のお宮さん(国宝)になっています。
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