BioDoxology

生物と映画と政治とマレー・インドネシア語にうるさい大学生の戯言

iPSウォーズ(前編)

2011-06-18 01:33:12 | 生物
 この1カ月、natureをはじめとする生物学界ではiPS細胞をめぐり、まさに戦争とも呼ぶべき開発競争が起きている。神経科学に興味があるはずなのに最近この話題しか読んでいない…。関心の方向が変わってしまいそうだ。

 まず、iPS細胞と、よく比較されるES細胞との違いについて述べる。ES細胞はEmbryonic Stem Cell(胚性幹細胞)の略で、卵子が受精して分裂し始めたころの初期の胚をバラバラにし、培養することで得られる。このES細胞は、まだ特定のタイプの細胞に分化する前の段階にある。以前、DNAからタンパク質ができる過程を、マニュアルから作品を作ることにたとえ、細胞が成長するにつれてマニュアルのいくつかのページがノリで封をされて開けなくなるように、DNAから作られるタンパク質の種類が限られてきて、細胞が特定のタイプになる=分化する、と述べたが、ES細胞は、ノリ付けがされる前の段階にあり、どんなタイプの細胞にも分化することができる。一方iPS細胞は、induced Pluripotency Stem Cell(人工多機能性幹細胞)の略で、すでにある程度分化が進んだ体細胞(主に皮膚の繊維芽細胞)に4つの遺伝子(遺伝子とは、あるタンパク質の作り方が書かれた一定の長さのDNA、マニュアルで言えば1作品の章に相当する)を入れることで、人工的に分化前の段階に戻したもの。ページのノリを無理やりはがしてしまった状態である。

 どちらも、臓器移植や再生医療などへの使用が期待されているのだが、ともに一長一短がある。まずES細胞は、生命倫理の問題が大きい。しかし、もう一つ見落とされがちな問題がある。ES細胞は受精卵から作られるが、受精卵のDNA構成は患者のものと違う。たとえ患者が女性で、自信の卵子を使ったとしても、卵子のDNAは受精卵のDNAの半分で、残り半分は精子由来だ。DNAの異なる細胞が体に入ると起きかねないのが、拒絶反応である。同じ生物種でも、DNAの異なる細胞では異なるタンパク質が作られる。そのため、細胞の表面に付いているタンパク質の突起の形などに微妙な違いが出てくる。動物には外敵から身を守る免疫が備わっており、本来自分の体の中にあるべきでない物質を攻撃・排除する仕組みになっている。このとき、DNA構成が異なって自身と違うタンパク質を出している細胞が来たら、異物として攻撃されてしまう。つまり、ES細胞からできた臓器を移植しても、正常に働かない可能性がある。これに対しiPS細胞は、患者自身の体細胞から作られる。そのためDNAは患者と全く同じ。拒絶反応は起きないことになる。そして生命倫理の問題もない。

 逆にiPS細胞の欠点は、作成時に入れる遺伝子にある。4つのうちの1つ、c-mycと呼ばれる遺伝子は、細胞の分裂と増殖を促進するタンパク質を作りだす。一件よさそうなものだが、細胞が必要以上に分裂してしまうと大変なことになる。細胞分裂の頻度は、器官の機能を邪魔することがないように厳重に制御されているのだが、この分裂を促進するタンパク質がありすぎると制御がきかず、勝手に増え続けて巨大な塊となり、しまいには器官の機能を衰えさせていく。これがガンである。c-mycを入れてあるiPSは、このようにしてがん細胞になる可能性がある。一方、なんの遺伝子も入れないES細胞にその危険はない。

 すでにかなり長くなってしまったので、本題の開発競争については次回記します。誰もお楽しみにしていないでしょうが…。

デジタルフロッグ

2011-06-12 01:49:11 | 生物
 これまで、自分は大学での解剖のために4回、動物を殺している。ふ化前のヒヨコを2回、マウスを1回、ウシガエルを1回。数週間後にはアメリカザリガニも殺すことになる。生物学の道に進む者にとって解剖は避けられない道だ。ところが…

 アメリカの動物福祉研究所(Animal Welfare Institute)が、カリフォルニア州の一部の学校で、カエルの解剖を廃止し、コンピューターソフト「デジタルフロッグ(Digital Frog 2.5)」で代用すると発表した。動物福祉、雌の使用に伴う危険の回避、学校のコスト削減といった事情があり、アメリカでは生体解剖への逆風が強いそうである。

 解剖を廃止した学校の校長は「実際の動物の解剖とは違うが、生徒が失うものはない」と語っているという。文系の同級生に「今度カエルを解剖するぞ」と話したときも、「俺たちはそんなことのために授業料払ってない」といわれた。しかし、自分の経験からいえば、解剖を行わないで失うものは大きいと思う。

 まずソフトでは、解剖をしたときの手の感触が得られない。このデジタルフロッグは製造元の会社のホームページで一部映像が見られるのだが(digital frogと検索すると出てくる)、メスでの切断はマウスのドラッグ&ドロップだ。これでは、小動物の骨がとてももろいこと、表面の皮膚がまるで果物のようにはがれることなど、全く知る機会がない。また、動物のにおいもわからない。マウスにはマウス、カエルにはカエルのにおいがあり、また麻酔薬やホルマリンのにおいを知ることもない。そして、生物の体が教科書で習うほど単純ではない、ということにも気づけなくなる。実物の消化器系や神経系などは、一度体外に出すと、複雑に入り組んでいるうえ、無数の膜・血管・繊維・脂肪などがまとわりついていて、見た目はぐちゃぐちゃ、器官の判別も大変である。しかし、体に収まっているときは、まるで芸術作品のようにきれいに整えられている。人間が理解できる世界なんて小さいのだと、本物の生物の体は教えてくれる。

 動物福祉や生命倫理の問題に踏み込むと大変だが、自分なりの答えとして、解剖した生物は徹底的に、出来るだけの時間をかけて隅々まで観察するようにしている。観察を求められる部位が内臓と中枢神経だけだとしても、足の先や眼まですべて調べ上げることを心掛ける。せめてもの供養ではないけれど。そうして得られる物はとても大きい。カエルの眼のレンズがビー玉のような球形で、薄い膜が玉ねぎのように重なってできていること、足の坐骨神経が枝分かれして個々の筋肉にしっかりつながっていることなど、まるで(たとえが不適切かもしれないが)おもちゃ箱のよう。教科書に書かれていないことをこれだけ自分の目で見つけられる機会はほかにそうない。コストがかかるのはわかる。それならせめて、コンピューター教材を全生徒に使わせるのに加えて、グループに1体でも実物を与えるくらいのことはしてほしい。コンピューター教材では、講義に不要な部分まで再現はしてくれないだろう。それは、かえって生物を軽く見ることにならないか。実物を目の当たりにして向きあってこそ、真の生命倫理が得られるはずである。

女王バチとロイヤルゼリー

2011-06-10 01:31:13 | 生物
 先日natureに、ミツバチが女王バチに成長するのに必要とされるロイヤルゼリーから、成長の原因となるタンパク質を発見したという論文が発表された。著者は富山県立大学の鎌倉正樹教授。久々の日本人、それも連盟ではなく1人というところがすごい。

 ロイヤルゼリーはミツバチの働きバチが分泌する物質で、将来女王バチになる幼虫のみがこれを摂取する。働きバチは卵巣が発達せず生殖能力がないのだが、女王バチは大きな卵巣を持ち、1日に3000個も卵をうみ、体が大きく寿命も長い。鎌倉教授はまず、さまざまな時間にわたって40度で加熱したロイヤルゼリーをミツバチの幼虫に与えたところ、加熱時間が長いほど、大型化・卵巣の肥大・成長期間の短縮といった女王バチの特徴が出にくくなることを発見し、ゼリーに含まれるタンパク質がカギを握っていると推測した。そしてロイヤルゼリー中のタンパク質を分離してそれぞれ幼虫に与えたところ、その1つであるロイヤラクチンというタンパク質を与えた時に、女王バチ同様の成長が確認された。

 さらに鎌倉教授は、このロイヤラクチンがどのように幼虫の体に作用するかを調べようと考え、いったんミツバチの代わりにミバエ(ハエの一種で、ウリミバエなどは青果類の害虫として有名)を実験対象とした。ミバエはさまざまな遺伝子型の個体がそろっているので、タンパク質が生体に与える影響を調べるのに適している。具体的には、正常な個体では発現しているタンパク質についての情報をもった遺伝子が欠けている個体が、個々の遺伝子ごとに何パターンも存在している。先日のマニュアルのたとえを用いれば、原本の特定のページがだめになっていて、そのページに対応するブロック作品が作れなくなっているという個体が、さまざまなページについて存在するというわけ。特定の遺伝子が欠け、それに対応するタンパク質を発現できないいくつものパターンの個体にロイヤラクチンを与えると、結果によってどの遺伝子・どのタンパク質がロイヤラクチンに関係しているかがわかってくるのだ。

 まず、正常なミバエの個体にロイヤルゼリーを与えると、女王バチと同じ特徴をもった「女王バエ」になった。そして、いろいろな個所の遺伝子が欠けた個体で試したところ、EGF受容体(受容体とは、細胞の表面にあって外から来る特定の物質と結合・反応し、細胞内に情報を伝える構造物)や、MAPKというタンパク質に関する遺伝子が欠けていた個体にロイヤラクチンを与えても効果が見られなかった。つまり、EGFやMAPKがロイヤラクチンによる生体反応に深く関係しているということがわかったのである。もともと、EGF受容体から出た情報がいくつかのタンパク質を伝わってMAPKに到達し、さらにMAPKが別のタンパク質に情報を伝える役割を果たしていることが分かっていた。よって、ロイヤラクチンがEGFに結合し、MAPKを含む情報伝達系統を刺激し、最終的には20E、および幼若ホルモンというタンパク質を分泌させ、卵巣の肥大、成長期間の短縮といった効果がもたらされる、と推定された。この推定が、結局ミツバチでも成り立ったという。

 このように、ロイヤルゼリーがミツバチの幼虫に与える効果は、単に栄養満点でぐんぐん育つ、といったレベルではなく、体の仕組みをタンパク質による刺激で変えていくという大がかりなものである。今回のように細胞内のタンパク質を介した情報伝達径路を明らかにするのは、推理ゲームを特養でとても難しい。細胞内ではこうした経路がおびただしく存在し、複雑に関係し合っている。実際、全容が明らかになっていない経路のほうが多いくらいだ。これほどの難業をやってのけた鎌倉教授は相当な方だと思う。

 それにしても、ミツバチとミバエで同じ結果が出たということは、両者の遺伝子がかなり似通っているということだろう。確かに見た目は似ているが、ミツバチは羽が4枚なのに対してミバエは2枚しかないなど、違いも多い。もっとも、ヒトの病気を調べるのにマウスが相当役立つなど、遺伝子は見かけ以上に種の間で共通していたりもする。ただ、さすがに人とミツバチとでは違いも大きいと思われるので、女性が乳幼児期からロイヤルゼリーを大量に食べ続けても「女王ビト」などになることはないだろう。一方で昔から滋養強壮に良いとされているので、何か効果的な作用を持つタンパク質があるのかもしれない。

iPS細胞を経ずに神経細胞を作る

2011-06-04 09:14:53 | 生物
 少し前になるが、米スタンフォード大学の研究者らが、人の体細胞からiPS細胞を経ずに神経細胞を作製した、とnature電子版に発表した。体細胞からES細胞、iPS細胞などの幹細胞(いくつもの細胞になれる能力を持つ細胞)を経ずに直接目的の細胞に変化させる「ディレクト・リプログラミング」と呼ばれる手法で、iPS細胞に傾きかけていた再生医療研究の方向性が変わるかもしれない。

 細胞に入っているDNAは、生物情報の設計図といわれる。ただ、DNAの全情報がいつも生かされているわけではないのである。たとえて言うと、レゴブロックのいろいろな作品の作り方マニュアルが集められた本のようなもの。生物の細胞内では、この大量のマニュアル原本から、必要な部分のみコピーを取ってつなぎ合わせる(転写と呼ばれる)。このコピーしたものが、mRNA。そして、コピーしたマニュアルに対応するようにブロックを集め、組み合わせて目的の作品を作っていく(翻訳と呼ばれる)。この時ブロックに相当するのがアミノ酸、作品に相当するのがタンパク質である。この一つの作品=タンパク質を作る情報の集まりを、遺伝子という。このようにしてDNAから転写・翻訳によってタンパク質のできるプロセスが、「遺伝子の発現」と呼ばれている。ブロックの種類が限られていてもいくらでも作品が作れるように、生物が使えるアミノ酸は20種類だが、そこからヒトでは何千ものタンパク質を作ることができる。



 ただ、生物の場合、マニュアルの原本であるDNA自体が、細胞の誕生から時を経るにつれていじくられる。目的の細胞に不要な作品のマニュアルは、ちょうどノリで本のページを貼って封をしたように(本の情報自体がなくなるのではない。これが大事)開けなくなってしまい、作られるタンパク質の種類が限られてくる。これが、エピジェネティックな発現調節と呼ばれるものである(エピとは「後」の意味で、ジーン=遺伝子に後付けで加わってくるもの、ということになる)。そして多くの場合、いったん開けなくなったマニュアルは二度と開くことができない。こうして細胞の運命が決まっていき、肝臓の細胞は肝臓に、筋肉の細胞は筋肉に適応したタンパク質のみが発現し、形も機能も特化していく。これが「分化」と呼ばれる。

 iPS細胞は、このようにして運命の決まってしまった細胞(特に皮膚の細胞)に4つの特殊な遺伝子(たとえるなら魔法の本)を入れることで、原本マニュアルのノリがはがされ、初期のものに戻ってしまったものである。つまり、ここからどんな細胞にも分化できることになる。これは本当に大発明。ただ問題点として、4つの遺伝子のうちの1つが、がん遺伝子、簡単に言うと今述べた遺伝子の発言や、細胞分裂のリズムをめちゃくちゃにしてしまう遺伝子であることがあげられる。がんについてはまたの機会に。s序のため、世界中でこのがん遺伝子を使わずにiPS細胞を作る試みがなされている。

 ところが今回の発表は、iPS細胞をいう初期化状態を経ずに、一気に別の細胞にしてしまっている。先ほどからのたとえを使い、「原本マニュアルのどこに封をし、どこを開いたままにするか」という点からみると、iPS細胞はいったんすべてのノリをはがしてしまうのに対し、今回の研究は新たな糊付け箇所まですべていっぺんにやってしまう。直接情報を再編成するという意味で、「ディレクト・リプログラミング」と呼ばれるのである。

 論文を読んでみると、研究者らはヒトの繊維芽細胞(皮膚の深いところや、筋肉周辺などの結合組織に存在する細胞で、もともと幹細胞の性質をある程度持ってはいる)に4つの遺伝子を入れたところ、神経細胞への分化が見られた。しっかり電気信号も発生し、さらにマウスの神経ネットワークに入れても正常に払いているという。

 今回の手法で入れた遺伝子ががんを起こすかどうかは未知数だし、またDNAが元の状態に戻ってしまう「先祖がえり」の懸念もされている。しかし、iPS細胞を経ずに目的の細胞を作るこの手法がほかの種類の細胞でも広まっていけば、iPS細胞の優位は揺らぐことになるだろう。それにしても、今回の論文でもアジア系(おそらく中国系)の名前が入っているように、最近の生物学の論文ではアジア勢の台頭が本当に著しい。日本人はあまり見ないなあ。興味を持った人は、natureホームページで「direct reprogramming」と検索すると、論文の要約の身であれば無料で閲覧可能です。