
「日本の美しさ」とは「静けさと華やかさの共存」で、他の国にはない(※1)、といわれた千住博さん(日本画家,前京都造形芸術大学学長,ニューヨーク在住)の感性に、称賛と敬意を表するものの一人です。
決して当世流の解釈などではなく、「日本の美」の「原点」にフットライトを浴びせたという点で高く評価されるひとことだと思います。
日ごろああでもないこうでもないと考え続けていたことに、単純明快なセンテンスをいただいた瞬間、いい尽くせない爽快感を感じました。
これは子供にも海外にも容易に受け入れられる概念となるに違いない、これで子供から後期高齢者まで、広く「日本の美」を語りあえる日が来るのではないかと溜飲が下がる想いがしました。
当時このキーワードでヒットしたサイトが何十件にも及んでいて、異口同音に感激・驚嘆の反応だったことが思い出されます。
私にとってそれまでの「日本の美」といえば、禅、幽玄、侘び、寂びといった、色のない、音の聞こえない、ストイック(禁欲的)で閉鎖的、仏教や武家の究極的な美徳に似て、視線が高い観が否めないものがありました。
一方で能装束、歌舞伎、大相撲、花見、花火、祭りといった華麗で、アクティブで、享楽的で、刹那的で、自由で、大衆的な一面を置き去りにしているような違和感があり、大切なことが欠落しているのではないかと思い続けていました。
今となって思えば、後者のことがらは近世の度々の奢侈禁止令や、近代の軍事国家化スローガン「欲しがりません勝つまでは」の陰で、長い間おおやけには「敵」扱いにされてきたからでしょうか。
それはともかく、千住さんのこのひとことを生み出す才能には惜しみない拍手を贈りたいと思いました。
千住さんは先日も「自然の側に身を置く」と、日本ならではの新たな造形技法が見つかるという興味深いお話(※2)をされていました。
私などの平易な感覚では「身を寄せる」と躊躇して表現してしまいますが、そこを「身を置く」と澱みなく述べられることに感服の一本!を追贈したいと思います。
そこで「静けさ=侘び寂び」を現すものとして象徴的に扱われる芭蕉翁の作品を「華やかさ」の面も併せ、かつ「自然の側に身を置く」ことに留意して私なりに鑑賞してみました。
いわずもがなですが、季語は「蛙(春)」です。江戸深川芭蕉庵での句合わせで、芭蕉翁は始め「蛙飛びこむ水の音」を提示し、上句を宿題としたのに対し、門人の箕角さんがまず「山吹や」と置いたのを、芭蕉翁が「古池や」と定めたそうです。
「山吹や」の和歌的な「華やかさ」を避けたのではないかとされます。
注目したいのは、句中の6文字の漢字のうち「古」だけが形容詞的な文字であることです。
この句の背景となっている「古池」を単に「古びた池」として通過してしまうと、一般的な「侘び寂び」や「枯山水」の世界だけに終始してしまいます。
「池」には自然現象でできたものと人工のものとがあります。
台風や洪水で自然にできた池でも新しいはあるかも知れませんが、古いとはいわないと思いますので、「古い池」とは人が作った池のことで、今は管理されていない池ということになると思います。
池は池ざらいや補修、水草刈り、水の出入り口の確保、周囲の庭園の手入れなど可能な限り定期的な管理が不可欠です。
規模が一定以上になる場合は専門職の導入が必要になります。
したがって本句の「古池」とは・・・その昔、武家か商家か寺社かは知りませんが、財と人手をかけて作られた庭園の池なのでしょうが、今は手入れをされることもなく荒れています。
きっと往時は四季折々の花鳥草木に彩られ、梅、桜、藤、躑躅(つつじ)、杜若(かきつばた)、花菖蒲(はなしょうぶ)、蓮、紅葉(もみじ)、芒(すすき)といった水面に映る季節の色彩や、鶯のさえずり、白鷺の優美な姿、蝉や秋の虫の声、中秋の名月といったものを愛でに人々も参集し、ときには宴も張られたことでしょう。
が、それも今はなく、ここにも栄枯盛衰、諸行無常を感じることだなぁ・・・というほどの状況を背景として設定しているように思います。
そのうえで・・・おや、蛙が飛びこんだ音だろうか、水面に羽虫が落ちて小刻みにもがいているのを食べて、水の波紋が同心円状に広がっていることでしょう。
水面にふたつの目玉だけ出して大の字になっていた蛙もやがて草陰に身を隠し、波紋も消え、またもとの静けさに戻ってしまった。
いや、蛙の水音がもとよりさらに静かな状況を作り出したように感じることだなぁ。
新月の宵なのに星明かりが水面や薮や樹影をほんのりと映し出している。
まったくの静けさの中で大自然と私は一対一、いやひとつになっている。
なんと美しいことだろう・・・・と、鑑賞できるのではないかと思います。
「古池」という名詞の背後には日本の伝統的な色彩や音色がたっぷりと塗りこめられていると思うのです。
こうしてみると、句に色彩感や立体感が生まれ、生き生きととらえることができます。
「静寂」は大自然と一体となるためのツールのようなもので、一体となることにより「生々流転」に加わることができるという思想なのではないでしょうか。
なぜ静寂が必要かといえば、それは「禅」という宗教観に基づくとしかいいようがない。
「静寂」を表すために現実の大きな「音」と対比させる技法は芭蕉翁の発明といえるのでしょう。
いずれの句にも「音」と同時に「岩」や「天河」という「悠久」、後者には「佐渡」の流罪にされた人びとの「人生」に「生々流転」を感じることができます。
「詫び寂び」の本流は「茶道」にありと思います。
好むと好まざるとに関わらず、現代人のくらしの中にまで物理的な影響を及ぼしているのですから。
芭蕉翁が茶道をこよなく愛したということはなかったようですし、やはり芭蕉翁の生涯を通じての芸術の根幹は、栄枯盛衰、諸行無常、生々流転、輪廻転生・・・にあったのではないかと思います。
奥の細道の序文では「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」と解説までしています。
そして、死に至る病の床にありながら、
と、辞世の句を詠んでいます。俳句に対するこの壮絶な想いこそ、稀有な文学者と称賛されるゆえんなのでしょう。
「静けさと華やかさの共存」からさまざまなことを連想してみましたが、芝居や相撲見物、花見や花火、祭りにしても華やかなイベントとそのあとからくる物寂しい余韻と静けさまでの経過を含めて味わう、美しいと感じるのが日本流ということができると思います。
ジョン・レノンがオノ・ヨーコさんの個展で腐りかけていたリンゴが展示してあるのを見て訊ねたところ、熟したリンゴの腐っていく経過が美しいのですとおっしゃったというエピソードは、まさにこのことなのでしょう。
ねぶたの前面に「盛夏」を、後面に「しのびよる秋」を見て「胸がガッパどなる」のも同じことと思います。
川柳もそろそろ辞世の句を・・などと思いますが、「代表句もないのに何ヘッテランダバシテ!」と袋叩きに遭いそうですので、まず例会の宿題を間に合わせなくては・・・。
(※1)2005年1月NHK総合テレビ(本人ご出演)、同年同月週刊東洋経済(以下、故木村尚三郎さんによる伝聞)、2006年1月NHKラジオ深夜便・こころの時代・アンコール(確認分のみ)
(※2)2013年1月NHKBSプレミアム・たけしアート☆ビートSP
▲ 画像DATA:「名主の滝公園」/東京・北区岸町/
JR王子駅から徒歩5分
決して当世流の解釈などではなく、「日本の美」の「原点」にフットライトを浴びせたという点で高く評価されるひとことだと思います。
日ごろああでもないこうでもないと考え続けていたことに、単純明快なセンテンスをいただいた瞬間、いい尽くせない爽快感を感じました。
これは子供にも海外にも容易に受け入れられる概念となるに違いない、これで子供から後期高齢者まで、広く「日本の美」を語りあえる日が来るのではないかと溜飲が下がる想いがしました。
当時このキーワードでヒットしたサイトが何十件にも及んでいて、異口同音に感激・驚嘆の反応だったことが思い出されます。
私にとってそれまでの「日本の美」といえば、禅、幽玄、侘び、寂びといった、色のない、音の聞こえない、ストイック(禁欲的)で閉鎖的、仏教や武家の究極的な美徳に似て、視線が高い観が否めないものがありました。
一方で能装束、歌舞伎、大相撲、花見、花火、祭りといった華麗で、アクティブで、享楽的で、刹那的で、自由で、大衆的な一面を置き去りにしているような違和感があり、大切なことが欠落しているのではないかと思い続けていました。
今となって思えば、後者のことがらは近世の度々の奢侈禁止令や、近代の軍事国家化スローガン「欲しがりません勝つまでは」の陰で、長い間おおやけには「敵」扱いにされてきたからでしょうか。
それはともかく、千住さんのこのひとことを生み出す才能には惜しみない拍手を贈りたいと思いました。
千住さんは先日も「自然の側に身を置く」と、日本ならではの新たな造形技法が見つかるという興味深いお話(※2)をされていました。
私などの平易な感覚では「身を寄せる」と躊躇して表現してしまいますが、そこを「身を置く」と澱みなく述べられることに感服の一本!を追贈したいと思います。
そこで「静けさ=侘び寂び」を現すものとして象徴的に扱われる芭蕉翁の作品を「華やかさ」の面も併せ、かつ「自然の側に身を置く」ことに留意して私なりに鑑賞してみました。
古池や蛙飛びこむ水の音
いわずもがなですが、季語は「蛙(春)」です。江戸深川芭蕉庵での句合わせで、芭蕉翁は始め「蛙飛びこむ水の音」を提示し、上句を宿題としたのに対し、門人の箕角さんがまず「山吹や」と置いたのを、芭蕉翁が「古池や」と定めたそうです。
「山吹や」の和歌的な「華やかさ」を避けたのではないかとされます。
注目したいのは、句中の6文字の漢字のうち「古」だけが形容詞的な文字であることです。
この句の背景となっている「古池」を単に「古びた池」として通過してしまうと、一般的な「侘び寂び」や「枯山水」の世界だけに終始してしまいます。
「池」には自然現象でできたものと人工のものとがあります。
台風や洪水で自然にできた池でも新しいはあるかも知れませんが、古いとはいわないと思いますので、「古い池」とは人が作った池のことで、今は管理されていない池ということになると思います。
池は池ざらいや補修、水草刈り、水の出入り口の確保、周囲の庭園の手入れなど可能な限り定期的な管理が不可欠です。
規模が一定以上になる場合は専門職の導入が必要になります。
したがって本句の「古池」とは・・・その昔、武家か商家か寺社かは知りませんが、財と人手をかけて作られた庭園の池なのでしょうが、今は手入れをされることもなく荒れています。
きっと往時は四季折々の花鳥草木に彩られ、梅、桜、藤、躑躅(つつじ)、杜若(かきつばた)、花菖蒲(はなしょうぶ)、蓮、紅葉(もみじ)、芒(すすき)といった水面に映る季節の色彩や、鶯のさえずり、白鷺の優美な姿、蝉や秋の虫の声、中秋の名月といったものを愛でに人々も参集し、ときには宴も張られたことでしょう。
が、それも今はなく、ここにも栄枯盛衰、諸行無常を感じることだなぁ・・・というほどの状況を背景として設定しているように思います。
そのうえで・・・おや、蛙が飛びこんだ音だろうか、水面に羽虫が落ちて小刻みにもがいているのを食べて、水の波紋が同心円状に広がっていることでしょう。
水面にふたつの目玉だけ出して大の字になっていた蛙もやがて草陰に身を隠し、波紋も消え、またもとの静けさに戻ってしまった。
いや、蛙の水音がもとよりさらに静かな状況を作り出したように感じることだなぁ。
新月の宵なのに星明かりが水面や薮や樹影をほんのりと映し出している。
まったくの静けさの中で大自然と私は一対一、いやひとつになっている。
なんと美しいことだろう・・・・と、鑑賞できるのではないかと思います。
「古池」という名詞の背後には日本の伝統的な色彩や音色がたっぷりと塗りこめられていると思うのです。
こうしてみると、句に色彩感や立体感が生まれ、生き生きととらえることができます。
「静寂」は大自然と一体となるためのツールのようなもので、一体となることにより「生々流転」に加わることができるという思想なのではないでしょうか。
なぜ静寂が必要かといえば、それは「禅」という宗教観に基づくとしかいいようがない。
「静寂」を表すために現実の大きな「音」と対比させる技法は芭蕉翁の発明といえるのでしょう。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
荒海や佐渡によこたふ天河
いずれの句にも「音」と同時に「岩」や「天河」という「悠久」、後者には「佐渡」の流罪にされた人びとの「人生」に「生々流転」を感じることができます。
「詫び寂び」の本流は「茶道」にありと思います。
好むと好まざるとに関わらず、現代人のくらしの中にまで物理的な影響を及ぼしているのですから。
芭蕉翁が茶道をこよなく愛したということはなかったようですし、やはり芭蕉翁の生涯を通じての芸術の根幹は、栄枯盛衰、諸行無常、生々流転、輪廻転生・・・にあったのではないかと思います。
蛸壺やはかなき夢を夏の月
夏草や兵どもが夢の跡
奥の細道の序文では「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」と解説までしています。
そして、死に至る病の床にありながら、
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
と、辞世の句を詠んでいます。俳句に対するこの壮絶な想いこそ、稀有な文学者と称賛されるゆえんなのでしょう。
「静けさと華やかさの共存」からさまざまなことを連想してみましたが、芝居や相撲見物、花見や花火、祭りにしても華やかなイベントとそのあとからくる物寂しい余韻と静けさまでの経過を含めて味わう、美しいと感じるのが日本流ということができると思います。
ジョン・レノンがオノ・ヨーコさんの個展で腐りかけていたリンゴが展示してあるのを見て訊ねたところ、熟したリンゴの腐っていく経過が美しいのですとおっしゃったというエピソードは、まさにこのことなのでしょう。
ねぶたの前面に「盛夏」を、後面に「しのびよる秋」を見て「胸がガッパどなる」のも同じことと思います。
川柳もそろそろ辞世の句を・・などと思いますが、「代表句もないのに何ヘッテランダバシテ!」と袋叩きに遭いそうですので、まず例会の宿題を間に合わせなくては・・・。
辞世の句現われ消える二日酔い 蝉坊
(※1)2005年1月NHK総合テレビ(本人ご出演)、同年同月週刊東洋経済(以下、故木村尚三郎さんによる伝聞)、2006年1月NHKラジオ深夜便・こころの時代・アンコール(確認分のみ)
(※2)2013年1月NHKBSプレミアム・たけしアート☆ビートSP
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JR王子駅から徒歩5分
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http://blog.goo.ne.jp/keyagu0123
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川柳と音楽、映画フリークの独り言。
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今回は「芭蕉」がでてきましたが、先日、私も記事にしたばかりです。
「荒海や佐渡によこたふ天河」は雄大な絵画のような一句で、昔から好きな句でした。
手前に荒海、中景に佐渡、そして遠景に天河、わずか十七文字による遠近法で、宇宙の大きさまで表現しようという句柄の大きさには驚きを禁じえません。
「蛸壺…」も好きな一句です。