「けやぐの道草横丁」

身のまわりの自然と工芸、街あるきと川柳や歌への視点
「けやぐ」とは、友だち、仲間、親友といった意味あいの津軽ことばです

#23.ふたつの国宝  (2)歓喜院聖天堂

2013年09月26日 | 工芸
● 国宝/歓喜院・聖天堂/かんぎいん・しょうでんどう
建造物/神社・近世以前/一棟/江戸時代中期(18世紀)
埼玉県熊谷市妻沼/2012(平24).07.09指定
画像は奥殿外壁面を彩る木彫刻(部分)
「布袋・恵比寿・大黒天の三人による囲碁遊び」


  6月のある日、埼玉・K市のショージさん夫妻の案内で、思いがけず拝観できたのが、地元で「妻沼の聖天様/めぬまのしょうでんさま」、「妻沼聖天/めぬましょうでん」、「埼玉の小日光」などと呼ばれている「歓喜院」です。

  「国宝」というととかく私たちのくらしにはほど遠い、アカデミックかつトップダウン的なイメージがありますが、「妻沼の聖天様」の成り立ちをお聴きすると通常の国宝とは違い、非常に興味深いものがありました。

  当日は観光ボランティアガイドの方の丁寧な説明により、楽しく拝観することができました。そのハンドメガホンからのお話の要旨は、「文化庁/国宝・重要文化財データベース」の解説に、簡潔にまとめられていましたので、それを拝借すると次のとおりです。

《  歓喜院は高野山真言宗に属し、治承3年(1179)の創建と伝わる。
  現在の聖天堂は、享保5年(1720)に歓喜院院主海算(かいさん)が再建を発願、民衆の寄進を募り、地元の大工林兵庫正清(まさきよ)によって建設されたものである。
  奥殿、中殿、拝殿よりなる権現造の形式で、延享元年(1744)に奥殿と中殿の一部が完成し、宝暦10年(1760)までに中殿と拝殿が完成した。
  とくに奥殿は多彩な彫刻技法が駆使され、さらに色漆塗や金箔押などによる極彩色を施してきらびやかに飾る。
  また、拝殿正面を開放として参詣の便をはかるなど庶民信仰の隆盛を物語る建物である。
  聖天堂は、江戸時代に発展した多様な建築装飾技法がおしみなく注がれた華麗な建物であり、技術的な頂点の一つをなしている。
  このような建物が庶民信仰によって実現したことは、宗教建築における装飾文化の普及の過程を示しており、我が国の文化史上、高い価値を有している。 》



§

  注目したいのは、「民衆の寄進」を募ったという資金の工面のしかた。ボランティアガイドさんのお話によれば、……再建にあたりお上(寺社奉行)に願い出たところ、8代将軍徳川吉宗のご時世、いわゆる「享保の改革」による緊縮財政・贅沢のご法度・倹約の強制の折から、幕府としては認めるわけにはいかないが、「民間資金」でまかなうならば妨げるものではないとのご沙汰がありました……と。

  古来から、寺院・仏像などの新造・修復・再建のための募金活動として「勧進」が行なわれ、人々の「喜捨」による功徳を説き,資金が集められました。

  江戸・享保の世の妻沼の人々は、聖天信仰の信者に限らず、地域のコミュニティの象徴として、他にない「拵え/こしらえ」の寺社を創造し、後世に残すことを夢みて、総工費2万両という資金を集めることができました。

  おそらく、進んで「喜捨」してもらうためのさまざまなイベント、寺側の説法会、托鉢などに加え、いわゆる「勧進興行」と呼ばれる相撲、猿楽、曲舞といった芸能などが数多く企画され、それこそ鳴り物入りで各地区を巡回したのでは…と想像されます。

  ちなみに、子供のころ聞いた祖母の話では、ふるさとの青森・A町内にあるJM寺の普請の際には、檀家の有志により「寒行」が企画され、陸奥湾の西岸沿いに、A町から、蟹田、今別、三厩へと寒中のさなか、浄財を募って歩いたことがあるということでした。

  1世紀近くも前のことでしょうが、子供ながら、津軽の壮絶な地吹雪のなかをゆく「かくまき」姿の一行の光景をイメージして、ことばがなかったことを覚えています。

  喜捨を促すためにそれなりの「難行苦行」を行い、リスペクトの念を持って供出していただくということでしょうか。「風雪ながれ旅・高橋竹山」の世界と重なります。これと同様の「行」などが「妻沼聖天」にもあったものと思われます。

§

  次に、なぜ「権現造/ごんげんづくり」の形式なのか?について調べてみると、そこには、日光東照宮の造営という、神君家康公のお弔いを機に江戸幕府が企画・展開した画期的一大イベントの、政治上・文化上の圧倒的な影響があることを見せつけられます。

  日光東照宮は徳川家康の遺言によって建てられ、現在のかたちになったのは、三代将軍・家光による「寛永の大造替/かんえいのだいぞうたい」(1636年)のときでした。

  もともと「日光山」は平安末期、武家の棟梁たる源義朝が開いたとされ、鎌倉幕府以来、東国の宗教的権威の一中心であり、家康自らもその継承者かつ神として祀られることにより、江戸幕府の正当性や威光を示すため、この歴史を巧みに利用したとされます。

  家康は、江戸湾奥の草深い地を行政府として開発したのみならず、日光東照宮という大プロジェクトの発想・企画を通じて、その統治機構のシンボルとなし、かつ万人に見える芸術文化のメッカとして、過激なまでのビジュアル表現を試み、それを果たしたのではないか。

  そしてそのインパクトは、今日のわたしたちが考えるレベルを遥かに超えていたのではないかと想えてきます。「日光を見ずして結構と言うなかれ」ということわざは、案外、江戸時代の代官所あたりから流布されたのかもしれません。実際、「妻沼聖天」のこれでもかという手の込んだ意匠や拵えを拝観すると、そのようにも想えてきます。

  この「寛永の大造替」に絵師として活躍したのが、狩野探幽(1602~74年)先生一門の「狩野派」でした。狩野派は中国、宋・元の絵画の影響を強く受けたいわゆる「漢画」の様式を得意とし、中国古来の故事来歴や清談などにまつわる画題を多用する御用絵師の集団です。

  国家的プロジェクトであった日光東照宮の「大造替」に際し、大工や彫刻師が上方からも大動員され、「陽明門」をはじめとする今日見られる荘厳な社殿への大規模改築がなされたのでした。狩野派は東照宮にまつわる絵画のみならず、木彫刻の原画にも腕を振るったと思われます。

  以来、江戸時代を通じて20~30年の間隔で、東照宮の管理・修繕が行われてきました。そのためには、大工や彫刻師や塗師など、技法を継承した技術者集団が常備されなければなりません。

  実際、「妻沼聖天」の再建の際には、江戸や関東一円(とくに北関東)の当代一流の技術者が動員されたということですから、東照宮を維持管理するための技術・技法を保持する集団が、立派に生き生きと存在していたことを物語っています。

  ときあたかも、寛永・元禄を経た享保の時代。幕藩体制が整い、天下泰平、産業・交通の発達、新田開発、庶民文化の成熟を見るなかで、経済的なほころびが目立ち始めたころの「享保の改革」。

  ちなみに、近ごろは「昭和元禄」に「平成享保」などと表現されるむきもおありのようですが、昭和にそれほどの価値があったのかな?とは思います。

  とはいうものの、国民人口はひとつのピーク(約3,150万人/1732年)を示し、年貢の収量も最高(約180万石/1744年)を記録したとあり、町々・村々やコミュニティごとにさまざまな寺社の新造・修復・再建が盛んに行われていたものと想像されます。

  当時の「彫刻師」はといえば、現在でいう「男のなりたい職業ランキング」のトップクラスに位置するほど人気があったのではないかと思います。実際、伝説の「左甚五郎」をトップとする関東彫刻師の詳細な「系統図」が存在するとのことです。ちなみに「左甚五郎」の姓「左」は「左利き」であったということのほかに、「右に出るものがない」という意味の由来があるそうです。

  そのなかで、武蔵国長井庄の「妻沼聖天」はひとつのエポックメイキングとして再建され、「目に見えるかたちの共同出資」とでもいうべきコミュニティのチームワークとパワーを、現在のわたしたちへまざまざと見せつけていて、このことを含めての重要文化財、国宝指定となったという、初めての事例ではないかといっても過言ではないと思うのです。

§

  「妻沼聖天」には、もうひとつ特筆しておかなくてはならないことがありました。

  それは、平成の保存修理工事(平成15~23年)にあたり、奥殿西面の彫刻の「布袋・恵比寿・大黒天の三人による囲碁遊び」の碁盤上の彩色がすっかりはげていたため、当初の盤面が皆目不明で、対策に苦慮していたというのです。



  それを熊谷市内の八木橋デパートで開催されたパネル展で、日本棋院熊谷支部長の方がごらんになり、そのご尽力により、うってつけの棋譜が発見されました。

  それがトップの画像の盤面で、元禄10年(1697)6月26日の棋譜。黒:熊谷本碩(くまがいほんせき)、白:本因坊道策、手合割:黒先コミなし、黒一目勝ち。本碩さんは地元出身の棋士。道策名人の愛弟子で惜しくも早世されたとのこと。勝敗を争う対局ではなく、師弟の内々の研究譜とみられるということです。

  「ニコニコおおらかに弟子の成長をよろこぶ本因坊の布袋さま。必死に師匠に食い下がり、一目でも勝利した本碩の恵比寿さま。こうしてみるとほのぼのと心和む思いです。」と妻沼聖天山歓喜院の鈴木院主さんはそのリーフレットで結んでおられます。

  かつての国宝でこのような「遊び心」をも包含した指定があったでしょうか。まさに「平成の大修理」を行った関係者の方々の「平成の心意気」が、未来に向けて表現された国宝指定ではなかったかと、ただの一参観者としても心和まずにはいられませんでした。

  「国宝」(national treasures)という概念を、明治時代に日本で最初に提唱したというフェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa、1853~1908、USA)も、天国で温かな拍手を贈っているように思います。

§

  日本の国宝は、重要文化財のうち「世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるもの」(文化財保護法第27条)を指定することになっています。全国でこれまでに、美術工芸品(871件)・建造物(218件/266棟)合せて1,089件が指定されています。(平成25年9月1日現在)

  古代から中世にかけての歴史的な国宝には「メイド・イン・ジャパン」ではない、いわゆる舶載品も多数含まれています。そのなかで、日本の私たち庶民の思いが込められた「心和む」国宝に出会うことができたので、この際その「ふたつの国宝」について標してみました。

  ちなみに、「民間資金」を募って1956年(昭和31)に再建された、大阪・浪速区・新世界の「通天閣」(つうてんかく)は、国の登録有形文化財となっています。

§


  帰り道、門前の「騎崎屋」という瀟洒なたたずまいのお休処で、名物の手打ちうどんをご馳走になりました。手編みの竹ざるに品よく盛られた肩肘の張らないうどん。「つけうどん」は滅多にいただかないほうなのですが、感動しながら熊谷のうどんを味わうことができました。梅雨の合間のおだやかでさわやかな一日、ショージさんご夫妻にあらためて感謝です。


福神も一局指して吸ううどん  蝉坊


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