あさねぼう

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靖国神社

2019-08-09 20:01:03 | 日記

靖国神社の前身である東京招魂社は、大村益次郎の発案のもと明治天皇の命により、戊辰戦争の戦死者を祀るために1869年(明治2年)に創建された。後に、1853年(嘉永6年)のアメリカ合衆国東インド艦隊の司令官ペリー来航以降の、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀るようになる。1877年(明治10年)の西南戦争後は、日本を守護するために亡くなった戦没者を慰霊追悼・顕彰するための、施設及びシンボルとなっている。もとは幕末騒乱により死亡した志士の御霊を招魂し祭礼する一回性の儀式(招魂祭)として京都で実施されたものが定制化され、東京招魂社の設置となった経緯があり、一方で招魂の儀式そのものの神道上の教義問題や、どの御霊を招魂し合祀するかといった論点が当初からあり、靖国神社への再編改名の際には祭礼は靖国神社および陸海軍省が実施するものとされ、天皇は例大祭に勅使を参向させることが定制と取り決められた。
「国に殉じた先人に、国民の代表者が感謝し、平和を誓うのは当然のこと」という意見がある一方、政教分離や、第二次世界大戦における日本の戦争行為について「侵略だったか自衛だったか」といった歴史認識、また同戦争において日本の行為によって損害を被った近隣諸国への配慮等といった観点から、政治家の参拝を問題視する意見がある。第二次世界大戦における日本の終戦の日である8月15日の参拝は戦争の戦没者を顕彰する意味合いがあるとされ、特に日本国内の左派や中韓の二国において議論が大きくなる。
小野田寛郎は、日本兵が戦友と別れる際、「靖国で会おう」と誓ったことから、靖国神社は日本兵の心の拠り所としてのシンボルの一つであった、としている。
他方、戦争被害を受けた中国や、日本による支配(韓国併合)を受けた韓国は、靖国神社にA級戦犯が合祀されていることを理由として、日本の政治家による参拝が行われる度に批判反発している。もっとも、1979年4月にA級戦犯の合祀が公になってから1985年7月までの6年4月間、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘が首相就任中に計21回参拝をしているが、1985年8月に中曽根が参拝するまでは、非難はされていなかった。1985年の参拝に対しては、それに先立つ同年8月7日の朝日新聞が『靖国問題』を報道すると、一週間後の8月14日、中国共産党政府が史上初めて公式に靖国神社の参拝への非難を表明した。一方で、戦没者を慰霊追悼・顕彰するため、外国の要人も訪れている。
なお亡くなった戦没者を慰霊追悼・顕彰するための施設及びシンボルとする解釈が現在だけでなく戦前からも一般的だが、神社側としては「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝える」場所, および「日本の独立を誓う場所」との認識が正しいとのことである。

争点
具体的な論点としては以下の6つにまとめられる。

1.信教の自由に関する問題
日本国憲法においては、第20条第1項において「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と定められている。参拝を望むなら、たとえ大臣・官僚であっても国家権力によって靖国神社への参拝を禁止・制限することができないこと、また参拝を望まない人が国家によって靖国神社への参拝を強制されないこと、 両方の側面を含む。

2.政教分離に関する問題
靖国神社を国家による公的な慰霊施設として位置づけようとする運動があり、及びそれに付随して玉串奉納等の祭祀に関する寄付・奉納を政府・地方自治体が公的な支出によって行うことなどに関し、日本国憲法第20条が定める政教分離原則と抵触しないかとする問題。
これを問題とする人々は、内閣総理大臣・国会議員・都道府県知事など公職にある者が公的に靖国神社に参拝することが、第20条第1項において禁止されている宗教団体に対する国家による特別の特権であると主張している。

3.歴史認識に関する問題
靖国神社は、戦死者を英霊としてあがめ、戦争自体を肯定的にとらえているのだから、そのような神社に、特に公的な立場にある人物が参拝することはつまり、同社の第二次世界大戦に対する歴史観を公的に追認することになる、として問題視する意見が存在する。そういった立場からは、日本の閣僚は同戦争における対戦国に配慮し靖国神社に対する参拝を禁止・制限あるいは自粛すべきとする主張がある。
日本人が同戦争における戦争責任をどのように認識し、敗戦以前の日本の軍事的な行動に対していかなる歴史認識を持つことが適切であるか、という論点を中心に展開され、特に極東国際軍事裁判で戦争犯罪人として裁かれた人々の合祀が適切か否かの議論がある。
対外的には、第二次世界大戦における交戦相手国である中国(中華民国)、また第二次世界大戦の開戦より数十年前に日本に併合されていた朝鮮半島諸国の国民に不快感を与え、外交的な摩擦も生むこともある靖国神社への参拝が適切かどうか、という論点を中心に展開される。なおこの中韓及び北朝鮮以外の国からは、首相や閣僚の靖国神社参拝に対して公式に批判を受けることはない。
また、遊就館には歴史年表が掲示されているが、日本国憲法制定に関する記述(1946年11月3日公布、翌1947年5月3日施行)がなく、一方で“ポツダム宣言受諾拒否”が明記されている。

4.戦死者・戦没者慰霊の問題
特に十五年戦争における日本軍軍人・軍属の戦死者(戦病死者・戦傷死者を含む)を、国家としてどのように慰霊するのが適切であるか、という問題。戦後靖国神社が国家による慰霊施設から宗教団体として分離されたために日本には戦死軍人に対する公的な慰霊施設が存在しないが、靖国神社を戦前に近いかたちで国家管理して位置づける、あるいは慰霊のための新たな施設を整備するという意見がある。遺族の同意を得ないまま同社に合祀されることがあることにも異議が出ている。

5.A級戦犯に対する評価の使い分け
A級戦犯として靖国神社に合祀されるか合祀されないか差異は、死刑の執行・服役中の死亡・勾留中の死亡により、遺体として刑事施設から社会に戻ったか、恩赦による刑の執行終了・裁判の中止・不起訴処分により、生きて社会に戻ったかの差異だけである。起訴され(28名)有罪宣告された25名のうち生きて社会に戻ったA級戦犯から重光葵は衆議院議員に3回選出され鳩山一郎内閣で4回目の外務大臣まで務めており、また戦犯指名されたものの不起訴となった者のなかからは衆議院議員に5人が選出され、国務大臣に5人が任命され、内閣総理大臣に1人が選出されている。この中には在職中等の貢献により国家より受勲されたものが多数いる。これに対して刑の執行や拘置中の病死などにより死亡し、刑事施設から遺体として社会に戻された者に対しては日本政府と日本国民が永久に糾弾し続けるべき対象者と評価するべきであるのかどうか、評価の使い分けの基準は全く説明されていない。また、この判決について、東條をはじめ南京事件を抑えることができなかったとして訴因55で有罪・死刑となった広田・松井両被告を含め、東京裁判で死刑を宣告された7被告は全員がBC級戦争犯罪でも有罪となっていたのが特徴であって、これは「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するのではないかとする批判に配慮するものであるとともに、BC級戦争犯罪を重視した結果であるとの指摘がある。

6.宗教的合理性と神道儀軌に関する問題
死を確定させる儀礼とする説もある神社神道の遷霊では、木主・笏・鏡・幣串が用いられ、基本的には1柱ごとに諡を送って霊璽とすることが各派ほぼ共通の儀軌となっている。これに対して、戊辰戦争の戦没者を祀るに際しては霊璽簿を用い、諡を送らずに生前の名前をもって霊璽としたため、靖国神社は当初は招魂社として創建された。しかし、招魂社は招魂場(降霊場)であるために、後に「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する」という政府側の要請で神社の格をとるに至った。しかし、この要請理由は宗教的合理性を転倒させた面があることは否めない。また、明治維新後に創建された他の神社も生前の名前を祭神の諡号としたため、神社神道を信仰する一般家庭でもそれに倣うケースが出始めた。この状況に危機感を募らせていた神社神道関係者は言論統制が解けた第2次世界大戦後に、そうした祭祀の方式は神社神道共通の基本的な儀軌に反するものであり、元々が合理性に欠けるものであるとする主張を行ったが、他の争点に掻き消されて『神葬祭 総合大事典』でも版を重ねるごとにトーン・ダウンしていった。いずれにしても、この争点は、朝日新聞だけではなく保守系の讀賣新聞などをも含んだマスコミと、靖国神社参拝派の政治家との間に起きた情念的とも言える争いのために、一般的にはほとんど知られていない。


☆ 靖国は日本の持つ様々な問題の根本に横たわっている、と思う。この「靖国」を克服しない限りは、私たちは真に前には進めないだろう。思想の根は、「戦争責任」「原発」「沖縄」「在日」の問題と同じです。(つかさ)

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