あさねぼう

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戦後責任

2019-08-08 22:53:31 | 日記
戦後世代の戦後責任とは?

第2次世界大戦後の世界は、日本、ドイツ、イタリアがおこなった侵略戦争を断罪し、戦争を二度と引きおこさない世界をめざすことを、共通の原点としました。しかし、日本の政治は、この線にそっては展開されず、戦争協力の度合いが強かった指導者たちも、いったんは連合国の占領のもとで、政界から追放されますが、“日本をアメリカのよりよい協力者にするためには、過去の指導者たちを復活させる必要がある”というアメリカの政策転換で、戦後数年にして多くの戦争犯罪人が政界に復活しました。

その後の政治では、過去の侵略戦争にたいしてまともな反省をしないまま「戦争肯定」派の人脈が今日まで続いています。

1960年の安保条約改定を強行したことでも知られる岸信介元首相(1896~1987)は、戦前、農商務省(後に商工省)で超国家主義的“革新官僚”として頭角を現しました。岸は1936~39年まで、日本のかいらい国家「満州国」において、東条英機が関東軍憲兵司令官、参謀長を務めたもとで、関東軍と密接な連携のもとに経済・産業の実質的な最高責任者として権勢をふるい、「産業開発5カ年計画」による鮎川財閥の導入などによって資源の略奪をはじめ植民地支配をほしいままにしました。“2キ3スケ”(東条英機、星野直樹、岸信介、鮎川義介、松岡洋右)の名で恐れられたのも、このころです。

この時期、「満州」経済は裏でアヘン取引によってばく大な利益をあげていて、そこからの巨額の資金が岸信介氏を介して東条にわたり、それが東条が首相になる工作に使われたとの説もあります(原彬久『岸信介―権勢の政治家』〈岩波新書〉、太田尚樹『満州裏史―甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』〈講談社〉など。

岸はその後、41年、東条内閣の成立とともに、東条がもっとも頼りにする盟友の一人として商工大臣、軍需次官(大臣は東条が兼務)をつとめ、侵略戦争遂行のための国家総動員体制、国家統制による軍需生産増進、“大東亜共栄圈”の自給自足体制確立など戦時経済体制推進の施策をすすめます。

ですから、岸が戦後A級戦犯容疑者として戦争責任を問われたのはごく自然のことでした。

1945年9月、岸は笹川良一、児玉誉士夫らとともに東京・巣鴨拘置所に収監されましたが、東京裁判の言い渡しの翌月(48年12月)には、A級戦犯容疑者19人(この中には、その後首相になった岸信介がふくまれる)が釈放され、翌年2月には、東京裁判に続くA級戦犯裁判が打ち切られました。

中国革命の進展に直面したアメリカは1947年ごろから、対日占領政策を急転換し、日本を反共の基地にしようとし、それまでの戦争責任追及の方針を変更したからです。

アメリカの占領の終了とともに、戦争犯罪人への減刑、釈放がすすめられ、56年3月までにA級戦犯容疑者全員が釈放されました。

こういう動きのなかで、A級戦犯容疑者が日本政治の中枢の地位につくようになりました。

54年、鳩山内閣が生まれたときには、太平洋戦争を始めた東条内閣の外務大臣で、A級戦犯として禁固7年の有罪判決を受けた重光葵が、外相に任命されました。

翌年、保守党の大合同で現在の自由民主党が結成されますが、初代の党幹事長になったのは、東条内閣の商工大臣で、A級戦犯容疑者として逮捕された岸信介でした。

岸はその翌年には、石橋内閣の外相になり、その次の年には首相になりました、日米安保条約は、この岸内閣が結んだものです。

63年には、東条内閣の大蔵大臣で、A級戦犯として終身禁固の判決をうけた賀屋興宣が、池田内閣の法務大臣になりました。

こういうことは、ヨーロッパでは起こりえなかったことです。しかし、日本では「戦争肯定」派の人脈がいまも続き、過去の戦争に無反省でいるという「異常さ」があるのです。

そして、岸はみずからの戦前・戦中の役割を反省するどころか、それを正しい行為とみなす世界観、価値観を終生かたくなにもちつづけました。戦犯容疑者として収監されるとき、恩師から「自決」を促す短歌をおくられたさいに、返歌に「名にかへてこのみいくさ(聖戦)の正しさを来世までも語りのこさむ」と書いています。(原彬久、前掲書)。

ヨーロッパでも戦後、アメリカの提唱で「ヨーロッパ復興計画」(マーシャル・プラン)が実施されました。ヨーロッパ諸国の戦後復興をはかるとともに、アメリカ主導の軍事同盟結成の経済的基礎をつくることをねらったものでした。しかし、戦争犯罪人を政界に復帰させることはヨーロッパではおこりえないことでした。

ドイツでは、国として過去の自国がおこした戦争に対して、侵略戦争だと正直にきちんと認める立場をとり、過去の時代と向き合う国民的討論をすすめてきました。ここが日本との大きな違いです。

戦後60周年にあたってシュレーダー首相(当時)は「ドイツの国民は、過去の時代と正面からきり結ぶ討論を数十年にわたっておこない、ヒトラー・ドイツが犯した犯罪は、ヒトラーだけのものではなく、ドイツ国民全体がその責任を深く胸に刻み込む必要があるという、共通の集団的な意識に到達した」「この意識を維持し続けることは、ドイツ国民の永続する道徳的な義務である」「この努力がなかったら、ドイツがかつての敵であるフランスと手を取り合って欧州統合をすすむという今日の道が開かれることはなかっただろう」とのべました。

侵略戦争を正当化する異常な自民党政治から脱却し、大本からの転換をはかることは、急務の課題です。過ちに正面から向き合い、反省を言葉だけでなく行動でしめしてこそ、アジアと世界の人々から信頼される日本を築くことができます。

日本政府に、こうした転換をおこなわせるためにも、日本の国民一人ひとりがこの問題に真剣にとりくみ、歴史の事実に背をむけた戦争礼賛論を許さない国民的合意をつくりあげることが求められています。

日本では、1990年代後半以降、「新しい歴史教科書をつくる会」のように、日本が過去に起こした戦争を侵略戦争とする見方にたいして「自虐史観」と非難する勢力の動きが強まり、それが「日本版歴史修正主義」とよばれるようになりました。

たとえば、1931年の中国東北部侵略戦争開始以後、日本が中国大陸や東南アジア・太平洋地域で起こした戦争を「自存自衛の戦争」「アジア解放のための戦争」として正当化する靖国神社などの歴史観は「歴史修正主義」の典型といえます。

また、「南京大虐殺はなかった」「『従軍慰安婦』の強制連行はなかった」といった議論や、沖縄戦訴訟での「軍の『集団自決』命令はなかった」という原告側の主張なども、それに該当するといえるでしょう。

このように侵略戦争や組織的残虐行為への批判的評価を「修正」しようとする動きは、必ずしも日本だけの現象ではありません。

ドイツでは、極右勢力から「アウシュビッツのうそ」といった議論がくりかえし唱えられてきました。

イタリアでも、第2次世界大戦下の反ファシズムのレジスタンス闘争の意義を否定し、レジスタンスや憲法を詳述した学校教科書を「偏向」とする議論があります。

しかし、こうした主張を公然と唱えてきた勢力が政権に参加した例は、一時期のオーストリアなどを除き、欧米ではほとんどありません。

〈参考〉歴史学研究会編『歴史における「修正主義」』(青木書店)、高橋哲哉『歴史/修正主義』(岩波書店)、山田朗『歴史修正主義の克服』(高文研)

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