あさねぼう

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長谷川如是閑と「大正デモクラシー」

2019-08-22 18:22:22 | 日記
何をもって「大正デモクラシー」とするかについては諸説ある。政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された。

「大正デモクラシー」と呼称されるべき期間も幾つかある。
1.第2次桂内閣への倒閣運動から治安維持法の制定まで、1905年(明治38年)〜1925年(大正14年)とする説。
2.第2次桂内閣への倒閣運動から満州事変まで、1905年(明治38年)〜1931年(昭和6年)とする説。
3.辛亥革命から治安維持法制定まで、1911年(明治44年)〜1925年(大正14年)とする説。
4.第一次世界大戦終結(ドイツ革命)から満州事変まで、1918年(大正7年)〜1931年(昭和6年)とする説。

など、その定義内容に応じて変動するが、いずれも辛亥革命から治安維持法制定までの時期を中心として、1917年(大正6年)のロシア革命や、1918年(大正7年)のドイツ革命と米騒動を民主化運動の中核と見なす点においては共通している。

「デモクラシー」という言葉は当時実際に流行したものである。「大正デモクラシー」という名称は、信夫清三郎(信夫淳平三男、歴史学者)が1954年(昭和29年)に自著『大正デモクラシー史』でその呼称を提唱して以来、定着した語である。ただし、その定義や内容も曖昧であることや、大正年間が始まる前からの動きであると見る点から、江口圭一、井上清、伊藤隆などこの語句を不適当であると否定する歴史家も存在する。

ポツダム宣言が第10条で「日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべき」と言及しており、萌芽はこの当時既にあったことを窺わせる。

大正デモクラシーは戦後民主主義を形成する遺産として大きな意味を持ったと指摘する論者もライシャワーをはじめ数多い。また、石橋湛山は自著『大正時代の真評価』において大正時代を「デモクラシーの発展史上特筆大書すべき新時期」と評価している。

一方で、この思想を基本とする保守派知識人達(具体的人物は吉田茂、岡崎久彦)は戦後世代から「オールドリベラリスト」(古典的自由主義者)と呼ばれる。


☆ 長谷川如是閑は戦後最初の文化勲章を受章した人で、「東京都民名誉賞」の方が如是閑は江戸っ子であり職人であった生家からり相応しいと喜んでいたそうである。戦後民主主義の淵源は、「大正デモクラシー」にあるという。押しつけ民主主義であっても、その素養がなければ、受け入れがおざなりになるが、日本には「自由」「平等」「平和」の思想が地下水脈のように確かに流れていた。 (つかさ)

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