■参議院が死んだ!~「良識の府」から「政局の府」へ…
安保法制が参議院でも可決されました。「良識の府」で、良識は示されなかった。党議拘束によって、数の力で審議を打ち切り、法案反対派の発言時間を制限し、議会運営上の慣例が無視され、言論封殺が行われたのです。
鴻池祥肇委員長は、「参議院は内閣の下請けではない。」と発言しましたが、結果的に負け犬の遠吠えに終わってしまったことは残念なことでした。これで参議院は「良識の府」から「政局の府」に成り下がってしまったということです。こんな参議院はもういらない。
■日本の違憲立法審査権の限界~理想と現実を埋める立法作業が欠落してきた!
さらに、日本は三権分立を制度として保障しています。ところが、法案自体を抽象的に審査して違憲判断する抽象的違憲審査制を日本は採用していません。その手続きも定められていません。ここにも今回、日本国の理想と現実の隙間を埋める立法作業が欠落してきた事実が明白となりました。
■個別的事件で違憲訴訟を全国で提訴しよう!
しかし、直前のブログ記事でも論じているように、付随的違憲審査制において、個別的事件を提訴することによって、法令の違憲審査を地方裁判所や最高裁判所に迫ることは出来るものと私は考えます。裁判所はこれらの提訴をすべて簡単に棄却するのでしょうか。司法もいつまで、三権分立の一翼を担う責任から逃げ続けるのでしょうか。
■裁判所を動かす世論が日本の立憲主義を守る!
世論の憲法審査に対する司法判断を求める声が大きくなることが不可欠です。まして、日本国国会議員が超党派連盟で参議院平和安全法制特別委員会の審議が手続きとして違憲であると提訴した場合、これを最高裁判所は棄却できるのでしょうか。
■アメリカが仕掛けるイスラム国との戦争に自衛隊を送ってはいけない!
戦いの舞台は、次期総選挙と参院選に持ち越されることは言うまでもありませんが、野党議員の皆さんは敗北感に打ちひしがれている場合ではありません。なぜなら、それまでにもしも、アメリカ合衆国が来年の大統領選挙の直後にイスラム国に対する空爆や掃討作戦を大統領令によって開始されてからでは遅いからです。日本国が十字軍に遡る泥沼の殺戮と略奪の歴史に自らの手を染めるのを、断固として許してはならないのです。
みんなで考え、行動を起こしていこうではありませんか!
■なぜ、安保法制は問題なのか!~草加駅クリップ
■安保法制を許すな!~平和主義と立憲政治を守るために
■こうなれば、全国各地で違憲訴訟を起こすしかない!
ブログ記事『違憲審査権を発動させる参議院審議の無効を最高裁に提訴せよ!』
■安保法制が進めるアメリカの外交戦略の歴史的根拠はないか。
ブログ記事『イスラム国の人質事件に思う~アメリカの外交政策とパレスチナ問題の本質』
瀬戸健一郎(せとけん)
Kenichiro Seto (Setoken)
ところで、瀬戸様はいくつの政党を渡り歩かれているのですか?草加市長選挙で2度の造反、自民党を除名。この前は谷古宇勘司氏、鈴木義弘衆議院議員の計らいもあり、維新の会から参議院議員選挙に出馬し落選。次は民主党に入党ですか。
民主党には国家、国民の生命と財産を護る気概もないことが、安全保障法制ではっきりしました。与党案は強行採決ではございません。次世代、元気、改革と修正協議の上可決・成立です。対案も出さず駄々をこね、反対闘争をしたのは、福山、蓮舫、大野、小西、津田のような民主党の参議院議員。岡田、辻元も同罪。今度は共産党と連携。左傾化も甚だしい。
何が裁判、議会制民主主義を否定されるのですか?
コメントありがとうございます。論調から、Unknownさんがどなたであるのかは、私も読者の方も察しがつきます。ですから、あまり無益な議論はさけますが、立場と見解と政治姿勢についてのみ、ご回答申し上げます。
まず、批判は誰でもできますとのことですが、シールズのメンバーも労働組合のリーダーたちも、全て実名で顔を出し、正々堂々と持論を展開していますので、彼らの覚悟と勇気は非凡なものです。ネットの陰に隠れずに立っておられることは立派なことだと思いますが、いかがでしょうか?
私が保守系を自認しているのは、日本国の独立自尊と日本国民の主権を守る立場が今でも明確だからであり、Unknownさんが列記された、自民党⇒日本維新の会(現在は消滅)⇒民主党のいずれも、保守政党であることに変わりはありません。
特に民主党は、小沢一郎、羽田孜、渡辺恒三の各先生方は、いずれも自民党田中派の流れを汲んでおり、田中角栄先生がそうであったように、米国に対する反骨精神を受け継ぐ方々が、参加して結党された一面があることはUnknownさんもご存じのとおりです。
自民党にあらずんば人にあらず。などとは、私の祖父の言葉でしたが、政治家の主義主張と理念や姿勢は必ずしも政党名で測られるものではありません。
日本の政党はイデオロギーの対立軸によるものではないという点を申し上げておきたいと存じます。
無所属という立場は、そういった意味で政党横断的に対話が可能な立場であり、基礎自治体議員の仕事はむしろ、政党の系列下に入らない方が、政治活動の自由を保障してくれる面が強いのです。
例えば、国政から県政、県政から市町村議会へと縦割りの政治活動はあり得ますが、市町村の現場で決済しなければならない政策はむしろ、国対地方という別の次元の対立軸で動かねばならない側面がますます大きくなってきています。
私の維新の会からの参院選出馬も、地方からの統治機構の改革という命題と、大阪都構想という政策による一致があったからでしたが、選挙直後、日本維新の会参議院比例区支部長はすべて解任になりました。
その後、日本維新の会は日本維新の党と次世代の党に分裂して消滅し、私はいずれの政党にも入党せず、約2年間、無所属となっていました。日本維新の会の公認候補となった時点でも、谷古宇先輩は自民党籍を持っていましたが、私は無所属であったわけです。
もうひとつ、明確にしておかなければならないのは、私は自民党を除名にはなっておりません。私の名誉棄損ともなるUnknownさんのご発言ですので、発言の撤回、取り消しを求めます。
私は初当選以降、無所属でした。入党したのは、2期目の任期のはじめ頃でしたが、草加市の元助役と谷古宇県議のお二人が草加市長選挙に擁立し、その後、梯子を外した私たち3人の共通の恩師 白鳥令先生の選挙を最後まで支えた私が、その草加市長選挙の直後に自民党籍の更新をせず、無所属に戻ったというのがそのいきさつでした。
白鳥先生の市長選挙の後に行われた埼玉県議会議員選挙で、白鳥令先生を応援した山川令子氏、松本厚氏が立候補。私は自民党が一本化して臨んだ谷古宇勘司選対の皆様から松本氏の選挙に顔を出したことを激しくバッシングされましたが、既にその時には自民党籍はありませんでした。
ですから、私が自民党に党籍を置いていたのは実はたかだか二年余り。維新の会の党籍は半年程度であり、それ以外の約23年間は完全無所属で活動してきたわけです。
Unknownさんは、私が自由市民クラブの団長であった時のことを再三に亘りご批判頂きましたが、団長就任当時も、私はいずれの党籍も持ってはいなかったのです。
山川百合子は私の維新からの参院選出馬の際に、政治家として評価する夫の応援をするために民主党を離党して筋を通しました。そして、今年再び民主党に復党して、4期目の当選を果たし、民主党埼玉県議団の皆様のご推挙で団長に就任。
折しも、安倍晋三内閣の安保法制の対応を巡って、私も複数のブログ記事や演説ビデオを通して自分の顔と名前を明確にしながら、持論を展開してきましたが、その理念と安保法制阻止のために、山川百合子と力を合わせ、民主党の地域活動と同調することを決意して、民主党に入党しました。
もはや自民党は私の選択しではありません。かつての派閥の論理はむしろ、私は自民党を活性化する効果が絶大であったと考えてきましたが、それもなくなり、日本国民よりもアメリカの軍産複合体の意向に目を向け、アーミテージ氏らの設計図面通りの安保法案を法制化するに至っては、これを甘受することはできないと確信しています。
右だ左だという議論もあるかとは思いますが、平和主義と民主主義、そして何よりも立憲政治を守る立場で、私はこれからも日本の政治に秩序とバランスを取り戻すために、自分自身の立ち位置を決め、18歳の頃の「等身大の日米関係をつくる」という初心に立った政治活動を続けていく覚悟です。
Unknownさんのご理解を頂くことは難しいとは存じながら、このような見解を述べる好機をお与え頂いたと思います。
コメントありがとうございました。
瀬戸健一郎(せとけん)
Kenichiro Seto(Setoken)
しかしながら、瀬戸様と同じ会派に所属していた自民党籍をもつある市議会議員からも、国政選挙への対応、そして今は県議になった木下博信元市長への執拗な追及は遣りすぎと瀬戸様に対する批判の声が多くあったことも伺っております。中山康先生しかり、長堀哲雄先生も困惑されていました。
それと、谷古宇勘司氏は2012年の衆議院選挙出馬の際、自民党埼玉県連から除名処分になっております。維新の鈴木義弘衆議院議員も同様です。
最後になりますが今までの詳しい経緯を丁寧に真摯に書いてくださり、自分も胸のつかえが取れました。ありがとうございました。
しかし、今でも木下市政に対する毅然たる態度を示したことは市民の付託を受けている議員としての信義の問題であったと断言します。市長は一政治家なのではなくて、機関であり、議員と違うからです。政治権力と行政権力の両方を握る市長が、その決済行為に反社会的勢力の影響を許してはいけない。その信念に今も変わりはありません。
私は本会議の討論においても、木下博信氏とその支持者に対して、「もしも木下博信氏を政治家として支え続けたいのであれば、市長としてのけじめを取らせ、改めて捲土重来を期すべきだ」と述べています。これを保守政治家は「禊(みそぎ)」と言います。
前回の市長選挙の時に、木下選対の幹部から、過去の議場でのやり取りや私のブログを非公開にして欲しいとの要請があり、選挙後は県議選で山川百合子を支援するとの話が持ち掛けれました。私は彼の新たな挑戦に過去の議会でのやり取りやブログ記事が必要以上に不利に働くとすれば、これを一時期、非公開にするのは「武士の情」だと考え、温情を示しましたが、その後、木下博信氏自身が県議選に立候補することになり、信義は裏切られたままです。木下氏自身も、選挙前には私に頭を下げ、一方的に私を敵対視し、素直に私の忠告が聞けなかったことを詫びましたが、選挙後は、何のコンタクトも、誰からも、ありませんでした。
私は今の政治に懸けているのは、「禊(みそぎ)」と「信義(しんぎ)」なのではないかと思います。このケジメが着けられない限り、政治を前に進めることは出来ないでしょう。
私は維新の候補者として参議院にチャレンジしたことのケジメとして、小論「大阪都構想~挫折と総括」を発表し、憲政記念館機関誌「世界と議会」に掲載して頂きました。
また、無所属として活動したことに、特定の政党が処分を決めることはあり得ないことですから、私は私の言動に筋を通してきたことは明らかで、私に圧力をかけて、私を封じ込めようとする人々の意図が挫かれてきたことは自明の理です。
裏を返せば、政党政治が政治家の良識や良心と言った個人の政治活動の自由を縛る危険性を、Unknownさんの指摘は物語っていることになります。
自民党国会議員の一人も欠けることなく、今回の安保法制に異論がなかったということの方が、多くの日本国民にとって奇異なことであり、自民党内のデモクラシーがどのような状況にあるのかが危惧されます。野田聖子さんも封じ込められてしまいました。
毅然たる態度で、何物にも縛られない完全な自由意志をもって政治活動に当たる。これが憲政の神様 尾崎行雄先生の言葉です。私はそのような政治家を目指して、今日までブレずに活動してきました。本物のデモクラシーの何たるかを議論されたければ、何時でも、これを受け留めて参ります。
深い内部事情や、当事者間の真実を知らずに、表面的な観測のまま実名を挙げて、歪曲的な誹謗中傷を私に対して仕掛けてこられることには、私は断固として論破する覚悟です。
それなりの御覚悟を持って、今後の書き込みは実名でなさることを強くお願い申し上げておきます。あくまでも私のブログへのコメントとして、私への誹謗中傷をされる場合は、きちんと職・氏名を名乗って行われること、それが出来ないのであれば、ご自身のブログやご自身が運営されるサイトで今後の発言は行って頂きますようにされることをお勧め致します。
以上
しかし瀬戸さん、釈迦に説法かもしれないが許していただきたい。福沢諭吉に批判された榎本武揚ではないが、政治家は心情倫理でなく責任倫理で動くべき存在で、自民から出ようが維新から出ようが民主から出ようが、一人の政治家として何をどう貫徹したいのか、それを有権者に訴え、支持を得て当選し国会の赤絨緞を踏んでほしい。国政というものを考えた時、草加ではやはり見識や教養、ヴィジョンという点で貴方の右に出る人間は居ない。田中市長の公平公正な人間性による市政運営もあってか、幸いなことに、市政や市議会は久しぶりに安定の時が流れている。ここに到るまでの紆余曲折の中で、貴方が孤独に、時に暴力団や右翼の脅迫と嫌がらせを受けてまで一人で闘い続けたことを、心ある市民や具眼の士は決して忘れないだろう。前市長による独裁独断の歪んだ市政に終止符を打った最大の功労者は貴方であったと強く確信している。
だから瀬戸さん、いつか市議選に出たくてたまらないような政治ゴロの嫌がらせなど削除して、政治家としての志を貫いてほしい。貴方は今のままでは終わらない、いや終わってはいけない人だ。寒くなりますが、ご健勝をお祈りします。
等身大の日米関係をつくりたい......
これが私が18歳の時に政治を志した時からの思いです。
あの頃は、なぜ日本がアメリカで理解が薄いのだろう、日本がバッシングの対象にされるのだろうと漠然と感じていました。
政治家になれば、心の奥底から湧き出してきて止まらない思いに答えが出るのではないか、何か自分にも出来ることが出来るのではないかと考えたものです。
それから10年はあっという間でした。
「あなたが右に行くにも、あなたの耳はうしろから、『これか道だ。これに歩め』ということばを聞く。」(イザヤ30:21)
そんな調子で、獨協大学白鳥令ゼミナール(政治学)に入り、エセックス大学政治学部に留学し、日本政治総合研究所の事務局長を経て、28歳で草加市議会議員に初当選しました。
それから6期23年間、その間、市長選挙にチャレンジし、2年前には参議院にもチャレンジする機会を得ましたが、気が付くと、『これが道だ。これに歩め。』という声は、以前ほど明快に聞こえなくなっている自分に気が付きました。
市議会議員として、目の前の問題に忙殺されて、初心を忘れかけていたのかもしれません。自分の身勝手な思いと自我が、知らず知らずの内に増長していったのかもしれません。あまりにも理不尽に思えることが私の意識を支配していき、本来の使命を見失っていたような気さえします。ただただ政治に違いを作りたい、デモクラシーの理想を少しでも前進させていきたい、そんな焦りもあったなとも思います。
2年前の参議院選挙はそんな閉そく感の中で自分でも意識出来ない程に苦しんでいた私にとって、前半生をリセットする好機だったとも思えます。私の中にも、心の傷や弱さがあったのです。今も、あります。
さて、これから。私はどのように後半生を仕上げていくべきか。冷戦の時代がマルタで終わったことにも、些少なりとも関わりが持てました。その後、今年戦後70年を迎えて、再び国際情勢は緊迫の度を増しています。
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9)
日本とアメリカの良好な友好関係をさらに一歩深めて、等身大の日米関係をつくることは、単に追米志向を意味しません。時には世界情勢を巡って、真摯な話し合いをして、よりベターな方向性を導き出していく。
そんな時代を政治の分野でも切り拓くことはできないか。そんなことを漠然と考える昨今です。もしも、私にまた、政治に携わるチャンスが与えられるのであれば、生まれ変わった気持ちで、取り組んでいく覚悟です。
それまで、もう暫くの間、しっかりと自分の内面を磨いていようと思います。力強い応援メッセージ、ありがとうございました。
瀬戸健一郎(せとけん)
Kenichiro Seto