22日は冬至だというのでゆずの風呂に入りました。熊野のYさんにもらったゆずをとっておいたのです。香りがよく、気持ちよかったので昨夜もたててもらいました。
故郷の「お客」の時の話が印象に残っているので書き留めておきます。
昔は豊饒の海であった室戸岬周辺ですが、今は珊瑚もキンメダイも不漁続きです。生態系の変化と乱獲が原因です。そこに問題がからんでいるというのです。
海の側に住みながら被差別の人たちには漁業権がみとめられない歴史がつづきました。69年に成立した同和対策事業特別措置法以来、港湾の整備がすすみ、事業の資金を活用して小型漁船を作り沿岸漁業に参入する人が増えてきたのですが、それらのひとびとの中に、漁師たちが築きあげてきた文化と掟を守らず、漁場を荒廃させる人が少なくないというわけです。
確かに僕のように海に縁の薄い者でも、海に入る者のマナーとでもいうものを子どもの時に教えられたものです。稚魚や稚貝を獲ると「親が追わえてくる」とか、ナガリ(とこぶし)を獲ったら岩を元通りに返しておくとか。乱獲で漁場が荒廃する歴史を繰り返す中で漁師たちが生きてゆくために生み出した文化や約束事が、長い間、村の規律となっていたのです。
それでも乱獲の弊害がなくならないところに、この30年、海から閉め出されていたひとびとが新規参入したのです。同対資金で造った船は大きく、性能もよい上、マナーを守らない船が少なくないというわけです。本当だとすれば、漁協の集まりなどで議論し、解決に向けて行動しなければならないのですが、表だって問題提起する人がおらず、ただただ困っているということのようです。
このことに関わって、8年間市会議員をしている兄の口から出た言葉が印象に残っています。「400年の差別の歴史があるとすれば、解決するにも400年かかる」「この問題は(差別してきた側の)自分たちがいくら言っても解決にはならない。当事者が自ら気づく以外にない」。
自分たちの祖先が失敗を繰り返した末に長い年月をかけて作り上げてきた文化を、それに縁がなかった人に押しつけても始まらない。彼らもまた、資源枯渇に困り果てたときに気づくだろう。それだけの時間がかかるのは仕方がない。これが兄の意見です。
共産党の元市会議員が批判します。「海の荒廃は限度に来ており、昔のような余裕はない。に対する特別な措置は直ちにやめるべきだ」。
兄は市に財政上の力はないが低利子融資など自立を促進するための施策は可能な限り推進すべきだと考えているようです。
都会のサラリーマンを退職して、田舎の町の市会議員になった兄は、改めて差別の歴史と現実に向かい合っているのだろう。そうだろうなあと思いつつ、「400年」には参ってしまう。僕らの努力でそれを短くしなければとつい言ってしまったのですが、ここに住むことのないぼくに具体策はありません。すこしだけとっかかりができた同級生たちとこんな話ができるようになればいいのですが、まだまだ道が遠いように感じます。
故郷の「お客」の時の話が印象に残っているので書き留めておきます。
昔は豊饒の海であった室戸岬周辺ですが、今は珊瑚もキンメダイも不漁続きです。生態系の変化と乱獲が原因です。そこに問題がからんでいるというのです。
海の側に住みながら被差別の人たちには漁業権がみとめられない歴史がつづきました。69年に成立した同和対策事業特別措置法以来、港湾の整備がすすみ、事業の資金を活用して小型漁船を作り沿岸漁業に参入する人が増えてきたのですが、それらのひとびとの中に、漁師たちが築きあげてきた文化と掟を守らず、漁場を荒廃させる人が少なくないというわけです。
確かに僕のように海に縁の薄い者でも、海に入る者のマナーとでもいうものを子どもの時に教えられたものです。稚魚や稚貝を獲ると「親が追わえてくる」とか、ナガリ(とこぶし)を獲ったら岩を元通りに返しておくとか。乱獲で漁場が荒廃する歴史を繰り返す中で漁師たちが生きてゆくために生み出した文化や約束事が、長い間、村の規律となっていたのです。
それでも乱獲の弊害がなくならないところに、この30年、海から閉め出されていたひとびとが新規参入したのです。同対資金で造った船は大きく、性能もよい上、マナーを守らない船が少なくないというわけです。本当だとすれば、漁協の集まりなどで議論し、解決に向けて行動しなければならないのですが、表だって問題提起する人がおらず、ただただ困っているということのようです。
このことに関わって、8年間市会議員をしている兄の口から出た言葉が印象に残っています。「400年の差別の歴史があるとすれば、解決するにも400年かかる」「この問題は(差別してきた側の)自分たちがいくら言っても解決にはならない。当事者が自ら気づく以外にない」。
自分たちの祖先が失敗を繰り返した末に長い年月をかけて作り上げてきた文化を、それに縁がなかった人に押しつけても始まらない。彼らもまた、資源枯渇に困り果てたときに気づくだろう。それだけの時間がかかるのは仕方がない。これが兄の意見です。
共産党の元市会議員が批判します。「海の荒廃は限度に来ており、昔のような余裕はない。に対する特別な措置は直ちにやめるべきだ」。
兄は市に財政上の力はないが低利子融資など自立を促進するための施策は可能な限り推進すべきだと考えているようです。
都会のサラリーマンを退職して、田舎の町の市会議員になった兄は、改めて差別の歴史と現実に向かい合っているのだろう。そうだろうなあと思いつつ、「400年」には参ってしまう。僕らの努力でそれを短くしなければとつい言ってしまったのですが、ここに住むことのないぼくに具体策はありません。すこしだけとっかかりができた同級生たちとこんな話ができるようになればいいのですが、まだまだ道が遠いように感じます。
けいすけ先生のふるさとの漁業の問題ですが、現在の「同じ漁業者」としての立場から、「どうやって漁業資源を確保していくか、みなが漁業で成り立っていけるようにするか」という問題意識で、解決できないのでしょうかね。同対法・地対法廃止の現状で、「一般民主主義の問題として、解決すべきだ」という主張をしている人たちは、そういう発想だと思います。
もしも、「旧被差別出身者だから」、漁業資源の荒廃について、他の漁業者と異なる態度であっても容認せざるをえない、ということが共産党元市議がいっている「特別措置」であるならば、やはりそういった「特別措置」は廃止しなければならないと思います。またもしも、「旧被差別部落住民は、漁業資源へのアクセスから長いこと排除されてきたから、他の漁業者とは異なり、自らの行為によって漁業資源が荒廃してしまったとしても、他の漁業者はそれを甘受すべきである」ということが主張されているのであれば、「被差別であることを理由にした漁業資源へのアクセス拒否」がなぜ不当だったのかという理由の、根本を問われるでしょうね。この点での差別根絶を訴える人たちは、「漁業資源を枯渇させたい」という要求を持っていたりはしていなかったでしょうし、あるいは、「自分たちにも平等に漁業資源へのアクセスを認めるべきだ」という主張をしていたはずだからです。
「(400年も)待っている余裕はない」というのではなく、荒廃をもたらす行動をしている人たちが「自然に理解するまで待つ」という姿勢が、民主主義の観点から見て、本当に人間を信頼する態度だと言えるのかどうか、そこに問題を感じます。「痛い目に遭わせれば、自ら馬鹿なことをしたと知るだろう」というのは、いただけませんから…。
「勇気がない」と言えばそれまでですが、問題を含めて、自分なりのきちんとした認識と覚悟がなければ言い出せないのではないかと思われます。