唯物論者

唯物論の再構築

剰余価値理論と生産価格論(1)

2021-06-05 17:59:53 | 資本論の見直し


1)生産価格論の意義と問題点

 生産価格論の意義は、それが労働価値論のプルードン水準を超える新たな地平である点にある。そしてその生産価格論の問題点は、それが抱える既存の労働価値論、および剰余価値理論との不整合をマルクスが説明していないことにある。ただし実のところ、それらの不整合は資本論第三巻で生産価格論が登場する以前に、既に資本論第一巻で胎動している。そしてそのことにマルクス自身が気付いているからこそ、マルクスは生産価格論の登場を必要としている。その必要は異業種間の資本移動における資本家自身の行動規範の根拠として生産価格を説明することにある。逆にこのような理解で言えば、マルクスの労働価値論の本題はむしろ生産価格論であり、資本論第一巻での商品価値論はまだまだ序論にすぎない。ただしそのように理解するには、あまりにマルクス自らによる生産価格論の意義についての説明は足りない。結局この説明不足は、そのまま生産価格論を論理的不整合な失敗した理屈として捉える大きな根拠になっている。そしてその出来の悪さが、価値と価格の乖離や総計一致命題に対する浸食などの資本論理解に対する逸脱の多くを基礎づけている。ちなみにマルクスの思考順序は資本論の記述順序と逆に、まず生産価格論があり、それから剰余価値理論に到達する。そこに見出せるのは、生産価格論が利潤の起源に差額略取を求める俗流経済学と同じであり、そのような差額略取論が意識に起源を求める観念論であり、そのような自家撞着に飽き足らなかったヘーゲル徒弟としての唯物論者マルクスの思考展開である。


2)生産価格論と労働価値論、および剰余価値理論の間の不整合
2a)剰余価値理論以前の労働価値論

 剰余価値理論以前の労働価値論における商品価格は、ただ単に商品生産に必要な労働に見合った金額である。そもそもいかなる時代であろうとも、生産者が商品生産に必要な労働力を維持できない安値で生産物を売るなら、生産者は生活維持できない。それゆえに商品価格の下限値は、商品の再生産に必要な労働力量と等しい。一方で生産者が商品生産に必要な労働力を維持する以上の高値で生産物を売るなら、競合する商品生産者の安値攻勢に敗れてしまい、その生産物はそもそも売れない。またその競争相手は、同業の商品生産者とも限らない。商品がその再生産に必要な労働力量を超えた高値なら、消費者自らが同じ労働力を投じて自ら商品を生産して消費する。この場合もやはり、その高根の生産物はそもそも売れない。それゆえに商品価格の上限値も、商品の再生産を必要な労働力量と等しくなる。しかしこの労働価値論は、農民が生産青果を市場で取引するときの小資本家の労働価値論に留まる。それは資本主義的生産以前の世界の経済学であり、はたまた商業的利潤の説明にも窮するプルードン水準の労働価値論である。とりあえずそこには、剰余価値理論が入り込む隙間は無い.

[単純な労働価値論における商品価格の構成]
 商品   生産に必要な労働力 


2b)剰余価値理論以前の労働価値論

 上記の労働価値論に対抗する形で俗流経済学に現れるのは、生産に必要な労働力量と無関係に商品価格が需給関係で決定される差額略取論である。それは上記の労働価値論が生産者の都合で論じられたのに対し、商品市場における商品交換の売買差額から商業的利潤を説明する。その典型的な利潤論は、仕入れた商品をより高く売りさばく差額略取の重商主義的利潤論である。もちろんその差額略取は、売値より安く商品を買い叩く重農主義的利潤論でも良い。とにかくそれは、売る相手から差額略取するにせよ、買う相手から差額略取するにせよ、口八丁の強奪で経済活動を捉える利潤論である。

[差額略取における商品価格の構成]
 商品   仕入額 | 利潤  

しかし利潤の起源を単なる強奪で捉える場合、強奪の起源を遡上追跡すると、それ以上強奪できない始元が現れなければいけない。そうでなければAがBから強奪して生活し、その分をBがCから強奪して生活し、そしてその分をCが最初のAから強奪して生活する不可解な円環が出来上がる。しかしこの不可解な円環を避けても、遡上追跡して現れる強奪の始元は、自分が強奪する相手がいないので、一方的に強奪されたあげくに丸裸になって死滅する。そして強奪先が死滅すれば、それにひもづく強奪者も死滅する。それゆえにこのカント式悪無限の利潤論に対し、少なくとも強奪の永久循環を可能にするヘーゲル式利潤論が要請される。そしてそのようなものとして提示されたのが、マルクスの剰余価値理論である。ただしそのような利潤論を論じる以前に、商業的利潤がいかなるものかを労働価値論は説明しなければいけない。ところが実態としてマルクスによるその説明は、かなり稚拙である。マルクスにおいて流通費は空費であり、したがって商業的利潤も単なる差額略取に留まるからである。ただし実際には資本論において、必ずしもマルクスは流通費を空費にしていない。山で拾った鉱石を市場に持ち込むだけの商品流通もまた、生産活動の一角を成すのを認めているからである。もしかすると生産価格論の意義と同様に、マルクスはそれらの説明の整備をする前に天命を迎えたのかもしれない。残念ながらその稚拙さが俗流経済学の労働力価値論に対するつっこみどころの一つになっている。


2c)剰余価値理論における労働価値論

 剰余価値理論は強奪の永久循環を可能にする利潤論を提示する。それは、価値を無限生産する労働力商品から、その価値生産を根絶やしにしないように資本家が搾取する利潤論である。労働価値論において商品価値は商品生産に要する労働力量と等しい。しかし資本家利益はその商品価値の外部で生まれる。例えば労働者が一日で数日分の生活物資を生産すれば、労働者が労賃としてそのうちの一日分の生活物資を受け取って生活し、不労資本家が残余の生活物資を全て受け取って生活する。そこでは、資本家利益が商品価値の内部から排除され、生産物残余部分として生産工程から外化する。したがって剰余価値理論が展開された第一巻冒頭の商品価値論では、マルクスはプルードン水準の労働価値論を維持し、商品価格を商品生産に必要な労賃相当額のままにしている。労賃と利潤の分離は商品塊そのものの分離として示され、その分離した役割構成は売り上げ全体の商品総量の構成においてのみ現れた。ちなみに以下で述べる労賃相当額とは、商品1個に割り当てられる商品1個を生産するための労賃部分を指している。すなわち1労賃が商品1個に相当するなら、商品を2個生産しても、商品1個に現れる労賃相当額は1労賃であり、労賃の半額にならない。商品1個に現れる労賃相当額が労賃の半額にするためには、商品2個のそれぞれに労賃の半額を按分するしかない。ちなみに剰余価値理論において商品の剰余労働部分は、資本主義の商品生産工程において必須部分を成す。確かに商品の必要労働部分は、労賃部分として必要である。しかし剰余労働部分が無ければ、資本主義の商品生産工程自体が成り立たない。したがってプルードン水準の労働価値論に従えば、一日に2個作られる商品1個の再生産に必要な労働は半日であるものでも、剰余価値理論から言えば商品1個の再生産に必要な労働は1日である。そのように考えるなら、その商品価格は、商品を再生産するための労働力量にもなっていない。

[労賃を商品1個分相当としたときの、剰余価値理論における商品価格の構成]
 商品1  労賃相当額    .
 商品2  残余売上(利潤) 

[上記例の剰余価値理論における商品総量の構成]
 売上   労賃相当額   | 残余売上(利潤) 


2d)身分制搾取と資本主義搾取の差異

 この剰余価値理論の経済学的な主眼は、俗流経済学が捉える差額略取の利潤論と剰余価値搾取の利潤論の対比であり、端的に言えば資本家利潤の起源の明示である。しかしこの明示された起源が示すのは、むしろ旧時代の身分制の搾取と資本主義搾取の同一性である。すなわち二つの搾取はいずれも、商品非生産者が自らを商品生産者であると名乗り、実際の商品生産者から成果物を収奪する。しかし次の二点が両者を区別する。それは、資本主義的搾取において生産工程の最終成果物に対する所有権の移転が無いこと、およびその最終成果物の被支配者への分配が労賃として形式的に保証されていることである。旧時代の身分制の搾取では、生産工程の最終成果物を所有するのは生産者であり、その生産者から支配者への所有移転は直接的な支配者による露骨な収奪、あるいは支配者への奉納として現れる。しかし資本主義における生産工程の最終成果物は、もともと資本家に所有権があり、その所有移転は資本家から労働者への生産物分与として現れる。資本主義においてこの労働者への生産物分与は、形式的にあらかじめ労働者の権利として謳われている。したがってその形式に従えば、労働者が生活に困窮することは無い。ただしその権利は、労働者を直接に自らの配下におく資本家の都合に応じて無視される。すなわち資本家に労賃を労働者に払えない事情があれば払うことができないし、そのような事情が無くても資本家は意図的に労賃を労働者に払わないかもしれない。いずれにせよ生産物に対する労働者の所有は、資本家に劣後する。そこには新たな身分制が存在する。


2e)商品総量から剰余価値を生み出す商品価格構成の転形

 先に述べたように剰余価値理論以前の労働価値論における商品価格は、商品生産に必要な労働に見合った金額である。一方で剰余価値理論において労働者が商品生産に投じる労働力は、それよりも大きい。もちろんその余計な投下労働は、労働者の生活のための労働ではなく、不労資本家の生活のための労働である。したがって実際にはここでの商品再生産に必要な労働力量は、二通りに現れる。一つは労働者の生活を維持するために必要な労働力量であり、もう一つは労働者の生活と資本家の不労生活の両方を維持するために必要な労働力量である。そして資本主義的生産では、後者こそが必要な労働力量として現れる。なおここで資本家も労働しており、資本家もまた商品における投下労働力量に対応した分与を受け取るとするような理屈を立てない。なぜなら前提として資本家は商品価値の不労取得者であり、労働者ではないからである。すなわち商品における投下労働力量の全ては、労働者が捻出する。そして労働者はその成果の一部だけを労賃として受け取り、残余成果物の全てを資本家が受け取る。しかし資本主義的商品における必要な労働力量は、本来の商品再生産に必要な労働力量ではない。それゆえに第一巻冒頭の商品価値論で展開された商品価値の構成も、本来の商品再生産に必要な労働力量と異なる構成で理解され得る。それは生産価格論を先取りする形で、一つの商品の中に現れる労賃相当額と利潤の混成である。それは商品売上全体の価値構成が、商品単体の価値構成として現れたものである。ただしここでの転形は単に可能なだけであり、剰余価値理論における転形の必然を何も語らない。

[剰余価値理論における商品価格のもう一つの構成]
 商品   労賃相当額 | 利潤相当額 


2f)剰余価値理論と労働価値論の不整合の概要

 上記の商品価格の構成は、資本主義的商品における再生産に必要な労働力量を体現する。しかしそれは、もともとの商品再生産に必要な労働力量より大きい。このギャップは、商品を余計に生産しなかったときの労働力量と余計に生産したときの労働力量のギャップである。そしてその差分が剰余労働として利潤を形成する。当然ながらこの商品価格はそれが含む労賃相当額より高く、まだその労賃相当額にまで減額できる。そして競合する商品生産者との市場競争の中で、その商品価格は労賃相当額まで減額されなければならない。しかしその減額が実現すれば、今度は利潤相当額が消失し、資本家の不労所得も消滅する。したがってこの商品価格は、やはり労賃相当額にまで減額できない。しかも減額した商品価格は、先に考えた本来の商品再生産に必要な労働力量に足りない。その上に問題なのは、一つの商品の中における労賃相当額と利潤の混成比が、商品の出荷数に応じて変化することである。商品が完売するなら、混成比は単純に売り上げに占める労賃相当額の比率で決まる。しかし商品が完売しないのなら、商品価格に占める労賃相当額が増加し、利潤相当額が減少する。商品出荷数が激しく少なければ、商品価格に占める利潤相当額は消失するであろうし、さらに労賃相当額にも足りなくなるかもしれない。その場合に現れる価格は、旧来の労働価値論式の商品再生産に必要な労働力量に転じることなる。いずれにせよ商品価格の構成に対して混成の見直しをする限り、剰余価値理論における商品価格の構成は、俗流経済学における差額略取の商品価格の構成と同じ姿に転じる。そしてその体現する商品価格も、旧来の労働価値論式の商品再生産に必要な労働力量ではない。さしあたりこれらの事情は、剰余価値理論と既存の労働価値論の不整合を露見させる。ただしこの不整合は、生産価格論と剰余価値理論の不整合と同じ性質のものである。したがって剰余価値理論と既存の労働価値論の不整合は、その解決が生産価格論と剰余価値理論の不整合を同時に解決させるのを予期させてくれる。


2g)バヴェルクの剰余価値理論批判

 生産価格論が発表される以前に剰余価値理論と既存の労働価値論の不整合を指摘したのは、バヴェルクである。ただしバヴェルクが指摘する以前に生産に必要な労働力量と商品価格が正比例しないことをマルクスも承知しており、その問題点共有に両者の不一致は無い。またその正比例しない商品価格の解決は、生産価格論に落ち着くことについても両者の見解は一致している。両者の見解に不一致が起きるのは、労働価値論の延長上に生産価格論が現れるのかどうかに従う。そしてマルクスはそのように考え、バヴェルクはそうではないと考えた。しかし労働価値論の延長上に生産価格論が現れるのでなければ、価格理論はどのように成立するかに対してバヴェルクにまともな回答は無い。要するに価格は需給関係が決めると言う以上の答えを、バヴェルクは用意していない。もちろんそのことがもたらす利潤発生の説明は、俗流経済学が考える差額略取である。そこでバヴェルクにおける価値概念の欠落の穴埋めをするために限界効用理論が登場する。ただしそれが持ち込んだ効用概念は、価値概念を恣意的に変形可能な闇夜の黒牛に変える。当然ながら価値実体に労働力を見出すマルクス主義者は、そのような価値概念を受け入れられない。マルクスがバヴェルクと同様の価格不可知論に退行しなかった根拠は、度量を人間生活にした商品価値、すなわち度量を労働力にした商品価値の一元論と剰余価値理論に対する確信である。また実際にそうでなければ、利潤発生の謎を解決することもできない。もちろんそれはヘーゲルに倣ったカント式悪無限の拒否であり、さらに収奪の偶然の連鎖が人間社会を成立させるようなヘーゲル式宥和に対する拒否である。そしてその確信だけで、マルクスは生産価格論を剰余価値理論に接ぎ木した。あるいは接ぎ木しただけに見えるほどに説明を省いた。結果的にその手抜きによりマルクスとバヴェルクの間の溝は、唯物論と観念論の対立に転じたまま収束不能となっている。ここでマルクスが資本論第三巻で生産価格論を登場させてきたのは、バヴェルクの想定外の展開だったのかどうか興味を引くところである。剰余価値理論と労働価値論の不整合を回復不能と捉えるなら、そもそも生産価格論をマルクスが用意するなどとバヴェルクも思っていなかったのではないだろうか? ただしその後のバヴェルクの姿勢を見る限り、その予想外の展開に対してそれをマルクスの妥協と捉えて自らを満足させたように見える。そしてそれによりバヴェルクとマルクスの生産価格論の間に妙な和解が生じる。

(2021/06/26) 続く⇒剰余価値理論と生産価格論(2)


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