唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(E章A/B節.宗教(汎神論・芸術))

2017-02-04 12:20:12 | ヘーゲル精神現象学

 A~D章で精神発展の史的考察を行ったヘーゲルは、宗教を精神の自己把握とみなして、これまでの精神発展史をなぞる形で宗教発展の史的考察に入る。ここではA章(意識)に対応するE章A節(自然宗教)、およびB章(自己意識)・C章(理性)・D章A節(人倫)に対応するE章B節(芸術宗教)を概観する。


[E章A~B節の概要]

 D章で見てきた宗教は、死者に対する信仰に始まり、天上への信仰、啓蒙の唯物論へと変遷し、実践理性道徳に到達した。しかしその自己確信した精神がいるのは、いまだに此岸と切り離された彼岸である。宗教は非現実な現実把握を一掃し、精神の自己確信を自由の実現としなければならない。これまで行ってきた精神考察の諸契機は、精神の無時間的構造として精神自らが自己把握したものである。宗教は、それら諸契機の統合体として時間的継起の内に現れる精神である。そしてそのように自己自身と一つの純粋意識となった精神において、此岸の自己と彼岸の自己意識の分裂は廃棄される。精神の現実生成は、まず(1)自然に自己を見い出す自然宗教、次に(2)人倫に自己自身を対象化する芸術宗教、最後に(3)自己が対象化した自己自身となる啓示宗教として現れる。このうちの(1)と(2)は、次のような発現形態を取る。

(1)自然宗教

(a)対象世界に神を見い出す光の宗教
(b)活力を持つ動植物を神にみなす汎神論
(c)動植物における精神の欠落を代用した人工物や獣人や奇石への信仰

(2)芸術宗教

(a)建造物に人倫を対象化する抽象芸術

(a1)人倫の個別態としての彫像、および一般態としての神殿へのそれらの統合
(a2)人倫への必然連繋としての讃歌、人倫からの偶然連繋としての神託
(a3)人倫の降臨としての礼拝、および供物による人倫との一体化

(b)人間を人倫の対象化とみなす生きた芸術
(c)物体における精神の欠落を言語で解消した精神的芸術

(c1)記憶としての叙事詩
(c2)悲劇における家族的倫理と国家的倫理の分裂による個別者の没落
(c3)喜劇における神々と民衆の運命的一体化による個別者の自己確信


0)精神の完成

 人倫の始まりにおいて運命と死者はそれぞれ一般性と個別性である。そこでの下界の宗教は、運命に融解した死者の霊を信仰した。しかし運命と死者は、共に自己の無い純粋否定性である。そしてその自己の欠如ゆえに意識は天上への信仰を求めた。ただしその天上への信仰は迷信だったことから、その信仰も啓蒙の経験論的唯物論的思想の前に没落する。ところがこの啓蒙が与える信仰は、彼岸の不可知において意識に此岸の満足を与える宗教に過ぎない。それだからこそカントの道徳思想が登場し、意識における此岸の役割を否定し、神的実在を回復させた。ただしその道徳宗教は、経験論と同様に、此岸の不可知において矛盾を抱えている。此岸の否定は意識に自己確信をもたらすと同時に、現実と乖離した世界を彼岸にもたらす。すなわちここでの宗教は、此岸と二分された彼岸の意識世界である。しかも二つの世界における精神は同じものである。ここで見えてくる宗教の完成とは、宗教による精神把握と精神自身による自由の実現の一致である。そのことは、宗教における非現実な現実把握を一掃すべきであり、その一掃も現実自身に精神の自由を実現することにより行うべきだと言うのと同じである。意識に始まり、自己意識、理性、そして精神に至る各契機は、今では精神の無時間的構造であり、その全体だけが時間的継起の内にある。そして宗教はそれらの契機の全てを前提にした統合体であり、精神は宗教において完成する。ここにおいて宗教は、現実的精神の各契機の諸形態を編纂し、そこに現れる全ての区別を自らの述語にし、特定の形態に自己を見い出すことへと移って行く。自己自身と一つの純粋意識となった精神において、此岸の自己と彼岸の自己意識の分裂は廃棄される。しかしこの宗教はまだ存在としての精神の直接態に過ぎない。精神現象は完全な精神の現実生成運動であり、それゆえにその生成運動自身は不完全な精神の現実にほかならない。この精神の現実は次のように現れる。

a)自然宗教。ここでの自己は、直接的即自である。精神は、自らを宗教の概念にみなす意識として現れる。
b)芸術宗教。ここでの自己は、直接的であることを廃棄し、対象において自己を直観する対自である。したがって精神は、自己自身を対象化した自己意識として現れる。
c)啓示宗教。ここでの自己は、即自かつ対自である。精神は、対象と自己、および一般と個別の間の対立を廃棄した概念として現れる。


1)自然宗教

 精神は自己自身を知る知として現在する即自存在である。そしてその自己知の各種思惟形態は、そのまま宗教の各種形態である。その信仰の真性は、精神の宗教的自覚が自らに一致する直観として現れる。

a)光の宗教

 始まりの精神は全真理である。ただしそれは対象の原理として現れる概念に過ぎない。すなわちそれは、定在の必然をなす純粋自我である。それは自らを物理的存在としてではなく、精神的存在として直観する。すなわちそれは無形態な一者であり、闇を他在にし、意志の無い天使をはべらす光の神である。しかし光の神にとって闇が否定者であるように、個別の天使における即自存在にとって光の神は否定者である。それゆえに光の神は、天使を通じて自己を知り、自らを解体する。したがって個別者の実体は、解体した光の神である。

b)植物と動物の宗教

 自己となった無形態な精神は、多様な即自存在に分裂し、汎神論を生む。その信仰対象となる多様な精神の全体も、植物的な相互に平等な無自己の表象として始まり、動物的な相互に戦う独立自存の生命へと移って行く。生きた事物知覚は、死を通じて抽象的知覚に高まるものである。ところが多様な生命において死は、精神を委縮させ動物化させる。そこでこの動物化に対抗する精神は、逆に物体化した精神を構築する。なぜなら精神の外化は、死の否定性を克服するからである。すなわち工作は、肯定性を併せ持っている。精神は自らの即自存在を単なる現実として廃棄する一方で、対象として自らの即自存在を作り出すわけである。

c)工作者の宗教

 死の克服を目指す精神は、自らを外化する工作者になる。ただしその最初の作品には精神が欠如している。それゆえにその作品は死霊や神の受容体として現れ、その現す精神もピラミッドのような直線的幾何に留まる。そこで工作者は作品の内に肉体と魂、または個別と一般の対立を凝縮し、作品に思想を与えようとする。その作品形態は曲線的幾何に始まり、植物から動物を経て、スフィンクスのような獣人に至る。しかしこの自然と自己意識の混成体には、自己を定在させるための言葉が欠けている。また外面で思想を表現する獣人の一方に、内面で思想を表現する単なる石塊も現れてくる。それだからこそスフィンクスは、思想の外と内を併せ持つ形で言葉を話す作品へと転じた。混成体が精神を体現した工作者の宗教は、言葉が精神を体現する芸術家の宗教に転じたわけである。


2)芸術宗教

 工作者において見られた物体と意識を合成する試みは、芸術において意識の対自とその自己確信に取って代えられる。したがって自己意識的な作品は、個別意識を否定する光の神から始まるのではなく、個別意識が信頼する人倫として始まる。しかし人倫が自己を確信するのに対し、人倫に帰属する個別者はまだ自己確信を持たない。それゆえに人倫の理想は、個別者の自立と人倫からの解放、すなわち人倫自らの没落である。そしてそのような定型の消失こそが、自己確信の純粋形式を個別者にもたらす。ここでの個別者の否定的威力は、一般者の肯定的威力を凌駕する。ただし作品における両者の統一は、一般的精神の個人における発現として表象される。それは本能的な芸術の枠を超え、概念と作品が一致するキリスト教に通じている。

a)抽象的芸術品

a1)彫像と神殿

 初期の抽象的で個別的な作品における芸術家は、自己自身と自己意識を区別し、作品と鑑賞者を分離する。それゆえにその作品は、物的対象として現れた。そこでの個別者は彫像であり、一般者はその住居となる建造物である。両者は統一において、工作者による精神の模倣ではなく、精神の純粋形式を作品にもたらす。すなわちそれらの作品は、自然物から借りた外面的表現を不要にし、民族の人倫的精神を体現した。しかしそこでの偶然な個別者や不安定な自己意識は、特殊な自らの魂を失い、実在する一般者の必然に集約されてしまう。このために作品と芸術家の自己意識も分離したままであり、作品は自己意識を持たない。

a2)讃歌と神託

 物にすぎない作品と違い、言葉として定在する讃歌は、個別と一般、および自己意識と対象が分離しない。すなわちその自己意識は純粋思惟であり、信心である。一方で讃歌と違い、神託は偶発的かつ個別的な事柄に属さない。したがって神託は共同体の一般的自己意識から離れた陳腐な世間的常識に留まる。

a3)礼拝と供物

 讃歌における定在は消失する神的実在である。そこでそれは、物的作品における静止した神的実在との統一、すなわち礼拝へと向かう。礼拝において信心は、神的実在が降臨するための一般的な場として浄化される。そして礼拝において神的実在は、非現実な彼岸から現実の此岸へと一般態から個別態になって降臨する。ここでは信心が神的実在を現実化する一方で、行動者は自己と現実的自然を一般態へと高める。その礼拝行為とは、供物のことである。礼拝において神的実在の現実は供物へと転化し、供物を食べ尽くす自己意識の現実に終わる。それだからこそ自己は神的実在との一体化を意識する。またその供物の形態が、消費されても消失しない建造物や装飾品の形態にあるなら、信心は定在を得る形で神の歓心を得る。その場合でもその供物を消費するのは、民族的な自己意識である。そしてこの消費を通じて、自己は神的実在との一体化を意識する。

b)生きた芸術品

 光の神は、礼拝において民族に選民意識をもたらす。しかしこの神は自己意識的精神に対立しており、自己と無縁の実在である。それに対して人倫的民族の神は、国家的自己と神的実在が統一した国家的意思である。それは民族に承認された自己を知る精神である。その個別態は礼拝において自己意識に民族的情念として降臨し、地の霊として供物の定在を得る。この民族的情念は、次に女性的家族原理と男性的国家原理の二方向で成長する。光の神と人倫の神の両者に共通の礼拝の極意は、供物を通じた自己と神的実在の一体化である。ところが光の神におけるその一体化は、宗教的確信ではなく、対象的確信に留まる。なぜならその一体化はパンや酒との無思想な直接的合一に過ぎず、理性や心の一体化ではないからである。芸術家はこの一体化における定在を持たない陶酔を、彫像のような無機物ではなく、生きた身体として対象化する。もちろん身体には、パンや酒の場合と違い、精神すなわち神的実在が欠けている。しかし優れた身体が民族の中から頭角を現し、国際競技において民族を代表するなら、その身体には彫像の一面性だけでなく、民族の特殊性をも脱した神性が宿る。

c)精神的芸術品

c1)叙事詩

 個々の民族精神の個別態は、神殿に集まることで実在の場を言葉に移す。したがってその意識の現実的行為は、既に礼拝として現れない。しかしその行為は、定在全体の意思決定プロセスを得た概念でもなく、単なる記憶としての叙事詩に過ぎない。叙事詩とは、各定在の自己意識的実在を中心点にして、各定在の努力により直接的統一を得た表象である。この叙事詩における人間を臨む神々は、個別者を臨む一般者である。それが表現するのは、自己自身を臨む意識の自己分裂である。そしてそこに現れる神々と人間は、民族精神の一般態である。ここでの語り部は、消え去る個別態に過ぎない。ところがこの個別態が無ければ、一般態が現れ出ることも無い。しかも一般者としての神々と個別者としての人間、あるいは神々同士は、もっぱら自らの役割を相手に委譲する形で相互依存している。しかし一般者としての神の本性は、神が個別者に執着するのを許さない。それゆえに神々もまた、抽象的で非現実な個別者として自らの運命の悲劇に従う。

c2)悲劇

 叙事詩に現れるのは、個別的精神の偶然な表象である。しかしそれは自らの内容を得て、必然的精神の一般概念へと変わる。ただしそれは、叙事詩の物語性を終焉させる変化でもある。叙事詩において芸術家は観客に自己意識的人間を提示し、英雄を演じる俳優は本来の自己となった。そこでの悲劇は、人倫的実体が神々の家族的倫理と人間の国家的倫理に分裂していることから生まれた。自己はどちらかの倫理に従うことで主体であり、主体である限りで個人である。このような個人と逆に、民衆は不特定の神々を讃美かつ畏怖し、自己を失っている。それだからこそ民衆は、悲劇に対してただ同情するだけであり、その必然性を理解せずに運命を諦めてしまう。一方で神的実在における分裂が明らかにするのは、知の背後に未知が隠れていること、または確信の背後に忘却が控えていることである。このような神の悪戯が生む悲劇は、意識の行動面で露呈し、英雄を翻弄したあげく、その死を通じた忘却において赦される。

c3)喜劇

 悲劇における個人性は、人倫的実体や運命と分裂した民衆の一般的自己意識である。したがって英雄において観客が感じる自己と人倫的実体と運命の一体化は仮象に過ぎない。ただし英雄は、その一体化が民衆と無縁ではないのを示すべきである。そこで今度は、神々と民衆の運命が一体化した喜劇が生まれる。それと言うのも、一般者である神々の自己は非現実であり、現実の自己は個別者だからである。つまり神々に自己があるなら、それは俳優や観客の自己と何も変わらない。このために神々の必然的な自己は、自己の現実の前では常に虚偽として現れる。同じように現実的個別者は、抽象的一般者を余儀なく解体する。もともと自然精神と個別者の関係は、飲食を通じた一体化において喜劇であった。しかし人倫精神と個別者の関係も、一般者の理念と個別者の現実の対比において喜劇である。もしそれが無内容な一般者を美と善で飾り立てる思想として現れるなら、その思想自体が喜劇である。しかし喜劇において神々と民衆の運命は一体化し、また英雄と役者と観客は一体化している。そこでは自己が唯一の現実である。また喜劇において一般者は観客の方である。この一般者は自らと競合する神的実在の受容者の解体を経験する。喜劇が観客にもたらす幸福とは、その解体による自己確信の感情である。

(2017/02/04)続く⇒(精神現象学E-C) 精神現象学の前の記事⇒(精神現象学D-Cc)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項   ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項   ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
        c項   ・・・ 良心
  E章 A/B節   ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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