唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(F章.絶対知)

2017-03-19 22:57:33 | 思想断片

 ヘーゲルにおいて精神は、先行のA~E章を全ての契機を総括する形で自己意識の対自存在とならねばいけない。ここでは精神現象学の全体のまとめであり、精神を自然空間と歴史時間を生成する絶対概念としたF章(絶対知)を概観する。


[F章の概要]

 啓示宗教の精神は、自己意識の即自存在に過ぎず、対自存在ではない。その自己意識が対象化する自己自身も、意識の諸形態の集合に留まるだけの表象であり、概念ではない。したがって精神が啓示宗教を超えるために必要なのは、精神自身の概念把握であり、これまでの自らの対象把握が辿った諸形態の見直しである。そもそも観察理性における対象把握は、対象に自己自身を見出し、自我の存在を物だとする無限判断であった。物は自己意識が外化した非自立の対他存在であり、自我との関係において有用性として現れる。したがって物の自己的本質は知であり、同様にデカルト的自己も自己知に基づくことで実在性を得ている。道徳的自己意識の場合だとこの純粋意志の実在は、自己疎外において現れる良心の自己確信として現れた。この自己意識における一般と個別の和解は、空しい自己知についての個別的契機に始まり、それらの自我に対する精神の承認の一般的契機に至る。一方で自己意識は内在的義務を外化し、それを信念に変える。信念とは、自己確信を対自において概念化した消え行く美しい魂である。信念と比較すると宗教が成し得る自己確信は、表象を通じて得る他在に過ぎない。行動的精神による自己確信では、即自存在の表象と対自存在の知が対立し、個別と一般の相互が自らの一面性を否定する。両者の自己否定は対立を廃棄し、知の純粋一般態としての自己意識、すなわち自己自身の知を確信した絶対知を出現させる。宗教における真理が確信と乖離していたのに対し、絶対知における真理は確信と等しい。ロゴスとは、このような精神を言う。ちなみに自己意識の生成は、ロゴスが時間と現実の中に現れるための前提である。時間とは、自己知の純粋直観だからである。自己意識は自己知の形式を時間として対象化し、さらにそれを延長へと物象化する。つまり自己自身は肉体や自然へと外化する。ただし自我と時間の無媒介な統一は、物体の偶有性により阻害されてしまう。自我と時間の統一は、自己が概念の場において自己否定を通じて実体と一体になることにより、両者の区別を廃棄する形で実現している。それゆえに今では意識と思想の諸契機も、ロゴスにおける諸カテゴリーになっている。思惟とは、ロゴスにおけるそれらの諸概念が、諸契機の分離と対立において自らを外化したものである。ただし自己知における完全に自由な外化に対し、対象と関わる外化は不完全かつ不自由にならざるを得ない。そして外化とはそもそも自己否定であり、自己ならぬ自己を自らの外と成すことである。そこで精神は、自己知の形式を時間として外化し、自己ならぬ自らの存在を空間として外化した。つまり自然は精神が外化したものである。一見すると自然は永遠の自存する定在であるが、実は自然も精神の主体回復の動きの中にある。自己知において外化された精神が自然であるように、歴史も時間において外化された精神である。それは一つ一つ完成したかつての精神の記憶であり、精神はそれらの全てを完全に知ることにより完成する。新たな精神はかつての精神を内化し、その定在を自らの前提にしている。それゆえに絶対知は、国体の形成様式を内化した精神として現れる。次々に現れる新たな精神のいずれもが目標にするのは、深淵に潜む絶対概念の自己否定と外化である。概念把握された歴史は、偶然で自由な定在としての側面、および様式化した知の現象学としての側面の両面を統一したものである。それは絶対精神の内化であり、現実的終着点であり、自己確信である。


1)表象

 自己自身を対象化する意識は、既に自己自身を超えている。しかし啓示宗教の精神は、自己意識の即自存在に過ぎず、対自存在ではない。またその対象化された自己自身も、表象であり概念ではない。意識は自己自身の物象化において自己を対象化するだけでなく、その対象を自己自身として措定する。意識はこれらの契機の総体であり、対象化された自己自身が消失するのも知っている。したがって対象とは、まず物一般として意識の直接的存在であり、対他存在である。そしてそれは、知覚として意識の対自存在でもある。それゆえに対象は、意識の実在として一般者となっている。ただしまだ意識にとってこれらの知は、概念ではなく、意識の諸形態の集合に留まる。それゆえに精神が自己自身を概念把握するために必要なことは、これまでの対象把握の諸形態の見直しである。


2)自己確信

 観察理性は対象に自己自身を見出し、自我の存在を物だとする無現判断に至った。物は自己意識が外化したものであり、自我との関係において有用性として現れるだけの非自立の対他存在である。ただしそれは自らが外化したものなので、意識においてもともとそれは対自存在である。したがって物は自己であり、その自己的本質は知である。実はデカルト的自己の実在性も、それが純粋意志として現れる自己知であることに基づいている。道徳的自己意識の場合だとこの純粋意志の実在は、自己疎外において現れる良心の自己確信として現れた。


3)自我

 道徳的自己意識における精神一般と個人意識の和解は、まだ自己知としての個別的契機に留まっている。精神はこの自己知だけを所有しており、行動とはその自己知の自律的分裂である。行動は精神の内在的義務にしたがって発生するが、行動における自己知の分裂と統一についての知は、精神の自己承認として現れる。この自己承認は、行動において内在的義務に対立した両者を赦すものである。自己におけるここでの対立者は、個別者としての自己、あるいは一般者としての知についての知となる。そして精神は承認において知の一般態を措定し、内在的義務の対立を廃棄する。このときに空しい自己知にすぎなかった自己は、ようやく個別の自己となる。


4)美しき魂

 表象から自己確信を経て自我に至る意識の運動は、意識と宗教的精神の二層において順次に、または同時に展開する。この分離した二層についての即自的な内容の統一、および対自的な形式の統一は、宗教的精神が達成するものではない。宗教的精神は表象に留まる即自的な直接意識であり、概念に達する対自的な自己意識ではないからである。自己意識は対自において内在的義務を外化し、信念の即自存在に仕上げる。しかし自己意識が即自かつ対自的な概念に達し得るのは、相変わらず自己確信についてだけである。ただしその概念は充実に対抗する空疎なものではなく、個別者の自己執着と無縁になった一般態である。それは義務の抽象的実在ではなく、真の実在となり、消えて行く美しき魂である。


5)絶対知

 自己確信の概念を充実するのは、行動的精神と宗教のいずれかである。ただし宗教による自己確信とは、表象を通じて得る他在である。それに対して行動的精神による自己確信とは、行動する自己そのものである。自己確信の概念は行動的精神の存在をなし、行動において自らの実在を喪失する否定的思惟として現れる。一方で自己確信の知は、行動的精神の定在である。それは、行動において自らの実在となる肯定的思惟である。自己を否定する自己確信が善なら、それに対立する自己肯定は悪である。しかしこの悪が悪として現れるのは、それが対自存在となる限りであり、もともとその即自存在は善である。それゆえに宗教における表象的な自己確信も善である。この相互対立する自己確信の表象と知は、相互に自らの一面性を否定する。そしてその自己否定は、宗教における自発的な自己否定となる。始まりの否定的な即自存在も、自らの概念と一致し、他在の媒介により規定される。これにより個別者は自らの否定的な個別性を自覚し、一般者も自らの否定的な一般性を自覚する。精神は対立を高めることにより対立を廃棄し、知の純粋一般態としての自己意識、すなわち絶対知として現れる。宗教において真理は確信と乖離していたのに対し、絶対知における真理は確信と等しい。それは自己自身の知の確信であり、その精神は概念になっている。ロゴスとは、このような精神を言う。


6)時間

 即自存在する単純な実体は、意識の表象対象に留まる。それが認識対象として独立するのは、意識が対自において自己を対象から区別するからである。またその区別があるからこそ自己は自己に等しいと言い得る。そしてこのような自己確信が、空虚な意識の対象を全体としての自己意識にする。時間とは、この自己意識の生成についての直観であり、自己についての純粋直観にほかならない。時間は、完結しない自己知の必然であり、精神の宿命である。したがってこの自己意識の生成は、ロゴスが時間と現実の中に現れるための前提である。


7)世界精神

 自己知の必然が要求するのは、即自的実体の全てを自己確信の所有にすることである。そのためには、精神が意識の対象として独立した実体でなければならない。この前提は、経験一般の成立前提でもある。つまり精神は、意識と区別されているのに経験可能であり、対自存在でありながら即自的なものとなる。しかしそもそも意識は、経験の内にある対象だけを知り、そうではない対象を知り得ない。そして実際に精神の即自存在は、自己と区別されただけであり、もともと経験の内にある。それだからこそ意識は精神を知り得ている。精神についての知がそのような相反する事情を可能にするのは、精神が自らの即自存在に対自し、再び即自存在に回帰する運動だと言うことにある。それゆえにその知の完成もまた、宗教ではなくロゴスとして精神が世界精神へと到達するのを待たねばならない。


8)自我分裂の克服

 観察理性により自己意識となった意識は、自己知に定在を見出し、自己と自然の無媒介な統一を求めた後に、逆に統一に離反して絶対自由として自らを外化し、自己相等において神的実在となった。しかしその即自的自我に対自する自我は、今度は自己知の形式を時間として対象化し、さらにそれを延長へと物象化する。つまり自己自身は肉体や自然へと外化する。したがって自我と時間の無媒介な統一は、自我と延長の無媒介な統一と同じものである。結局のところ物体の偶有性により、その統一は阻害されてしまう。それに対する自己の運動は、自己否定において自己自身を実体の内に外化し、実体と一体になった主体として対自することにより、自己と実体の統一を概念として実現する。概念における実体把握では、内容と対象性の区別、すなわち自我と時間の分離は廃棄されている。


9)自然

 概念に自らの定在の場を得た精神はロゴスになり、今では意識と思想の諸契機もロゴスにおける運動する諸カテゴリーになっている。それらの諸契機の各々には、現象する精神の諸形態が概念の実在として対応する。思惟とは、ロゴスにおけるそれらの諸概念が、諸契機の分離と対立において自らを外化したものである。ロゴスは、概念が外化し意識に移行する必然性を自らの内に含んでいる。しかし自己知における完全に自由な外化に対し、対象と関わる外化は不完全かつ不自由にならざるを得ない。そして外化とはそもそも自己否定であり、自己ならぬ自己を自らの外と成すことである。そこで精神は、自己知の形式を時間として外化し、自己ならぬ自らの存在を空間として外化した。つまり自然は精神が外化したものである。一見すると自然は永遠の自存する定在であるが、実は自然も精神の主体回復の動きの中にある。


10)歴史

 歴史とは、時間において外化された精神である。それは一つ一つ完成したかつての精神の記憶であり、精神はそれらの全てを完全に知ることにより完成する。その完全な知のために精神はかつての自らの定在の中に入り込み、そして新たな自らの定在を始める。かつての定在はこの新たな定在から消失しているが、新たな精神はかつての精神を内化しているので、その定在は自らの前提になっている。それゆえに絶対知は、国体の形成様式を内化した精神として現れる。そのような形で次々に現れる新たな精神のいずれもが目標にするのは、深淵に潜む絶対概念の自己否定と外化である。概念把握された歴史は、偶然で自由な定在としての側面、および様式化した知の現象学としての側面の両面を統一したものである。それは絶対精神の内化であり、現実的終着点であり、自己確信である。


(2017/03/19) 精神現象学の前の記事⇒(精神現象学E-C)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項   ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項  ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項  ・・・ 良心
  E章 A/B節    ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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