唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(D章B節b項.啓蒙と絶対自由)

2016-10-15 18:48:07 | 思想断片

 D章B節a項でヘーゲルは、自己疎外した精神が純粋自己として教養の目的論を樹立し、自らの彼岸に純粋意識を見い出すとともにその直接態としての信仰、および純粋意識の対自において純粋透見を自立させるのを示した。b項以後でヘーゲルが示すのは、啓蒙と純粋透見による信仰との闘いとその結末である。ここでは、教養と純粋透見が生み出した啓蒙の歴史を語る精神現象学のD章B節b項以後を概観する。


[D章B節b項以後の概要]

 純粋意識の即自存在は、神的実在の確信として自ら対自存在となるのを拒否した信仰である。そこで純粋意識において純粋透見が、信仰と対立する対自存在として現れる。この純粋透見は信仰を、その無内容において迷信だと理解する。迷信は大衆の意識の直接態であり、透見は僧侶の特権である。専制者とは、僧侶を手段にして大衆を支配する心の法則の対立者である。それゆえに純粋透見は信仰と対立する。また教養世界の啓蒙も、自らの根拠に純粋透見を持つゆえに、信仰と対立する。それだからこそ啓蒙は、僧侶と専制者ではなく大衆を自らの対象にする。この信仰から透見への転倒は、信仰と透見の両者が一つであることから、信仰自身が気付くことなしに直接的に実現する。ただし神的実在の確信は色褪せているので、透見への崇拝が信仰に逆戻することはない。なお信仰の透見への転倒は、純粋意識による自己否定の意識的運動なので、ときに暴力としても現れる。透見にとって自己は常に真理なので、自己と異なる対象として現れる純粋透見は虚偽である。それゆえに自己否定する透見は、初めに立てた自らの目的を不純なものとして扱う矛盾に直面する。ただし透見が自己の真理を実現するのは、この矛盾においてである。この透見の即自存在は信仰なので、啓蒙が信仰を誤謬とみなすのと同様に、信仰から見た啓蒙も不純なものとなる。神的実在は意識の生み出した印象に過ぎず、それゆえに啓蒙は信仰を誤謬として扱う。ところが信仰の対象は、教団と言う別の自己意識が生み出した思想である。そして信仰は、神的実在に自己意識としての自分を見い出している。したがってそこでの意識の自己と対象は一致しており、その信仰に虚偽は無い。信仰の虚偽は、むしろ啓蒙が持ち込んでいる。啓蒙が信仰に持ち込むそのような虚偽として偶像崇拝、原理主義、実利信仰の三形態がある。啓蒙に従い、信仰が神的実在に内容や述語を付与することで、偶像が生まれる。次に偶像の超越を目指す純粋透見は、偶像の根源に現れる原理としての空虚な物自体にまで到る。それゆえに教養における善と悪の対立概念は、純粋透見では物自体と現象の対立として現れる。有用とは、このような即自存在と対他存在の並存である。即自存在は自己を肯定するので、その自己同一において善である。逆に対他存在は自己を否定するので、その自己非同一において虚偽である。それゆえに即自的人間にとって宗教を含めた全ての他者は、有用な実利的存在として現れる。逆に自己否定の必然において現れる対他的人間は、全ての他者にとって有用な自己を目指す。ところが啓蒙において対他存在がもたらす現象の虚偽とは、物自体の不可知と空虚であり、すなわち神的実在の不可知と空虚である。だからこそ信仰は啓蒙を、有限の知を最高の知と尊ぶ経験論だと断定し、それを拒否する。信仰にとって啓蒙による非難は、個別の局面における限定的な正義を、普遍的正義にまで拡張しようとする言いがかりである。ただし信仰も啓蒙も、その理屈の限定性に無自覚である。信仰では偶像と神的実在、または偶然と必然が渾然一体する。一方で啓蒙もまた、偶像や偶然が神的実在の必然であるのを見落としている。信仰による彼岸への超越は、個別的享楽の拒否において満足することの無い啓蒙へと成り下がる。啓蒙の考えるように、享楽の拒否は普遍的行為の実現ではなく、行為自体ではなく行為の意図に普遍が存するからである。したがって信仰は物自体の不可知と空虚を超越し、対他的有用の実現を目指さねばならない。実は神的実在としての物自体は、自己意識の彼岸に立つ純粋物質と純粋思惟の対立した抽象で二様に現れる感覚的存在である。しかしいずれにおいても物自体には、即自的に物質でかつ対他的に思惟であるような有用性が現れる。有用性は透見にとって対象であるが、精神でも物質でもないし、概念でもない。それは物質として即自存在することにより、精神として対他存在しているが、逆に物質として対他存在することにより、精神として即自存在してもいる。啓蒙が対象にする有用性から見ると、感覚的確信と教養が対象にしてきた自然世界と信仰世界の全ては一般性や実在性の欠けた虚しいものとなる。ここでもし有用性が対象に留まるなら、意識に自由はない。逆に意識が対象の持つ有用を廃棄するなら、意識は絶対的自由を手に入れる。ところが意識が純粋透見であるなら、純粋自己の有用性は単なる知として現れる。このとき精神の絶対的自由も現存することになる。ただし絶対的自由においても個別的意識と一般的意識の間に対立は残る。しかし個別的意識の自己否定、および一般者の個人態を自認する君主が、その対立を消失させる。意識の自由は、せいぜい自由の制度的実現として現れるようになり、君主以外の個別者は自由を失う。個別者の成し得る唯一の自由は死であり、個別者における絶対的自由がもたらす否定の直観は、死の恐怖として現れる。その恐怖は個別者を再び分業と身分の教養の実体的現実へと押し戻す。個別者における一般者との一体化は、今では名誉でも財でもないし、信仰の天上でもない。またそこにあった自己否定の充実も、無意味な死に変わっている。このような自己意識の否定こそがカント式の不幸な善であり、ルソーの一般意志である。一般意志はその普遍的視点を個別意志の否定によって実現したわけである。意識は自らが不偏不党な純粋知である限り、自ら一般意志であることを知る。この純粋知は、自己として実在する。それに対して絶対的自由の現実は、自己の欠如した形式として非実在である。それは非現実な思想として自己意識の中に実在する道徳的精神へと移行すべきである。


0)純粋透見による信仰批判

 純粋透見の対象は信仰である。また信仰の形式を規定するのも、純粋透見である。その理由は、純粋意識が現実世界の彼岸にあることに依っている。もともと純粋透見は純粋意識の対自として、教養世界の全体を否定し、自ら内容を持つことを拒否している。そして自らを否定的見解として立てることにより、純粋透見は自らを一般的見解として理解する。一方で現実世界の規定者も、国家権力や富の集団、善悪の倫理、君主や貴族の個人ではなく、個人的興味に支えられた精神、さらに教養と純粋透見へと移って行く。しかし純粋透見の一般性が精神の個人性を廃するなら、支えを失なった精神は空虚な百科全書的知識に成り下がるしかない。この空虚を避けるための純粋透見に残された先天的逸路は、信仰への対抗である。


1)透見と信仰、および啓蒙

 純粋意識において信仰は思想の直接態であり、純粋透見はそれに対自する自己である。しかし純粋透見は自ら内容を持つことを拒否するので、純粋意識の内容は全て信仰の内容だけで占められる。ところがこの純粋透見の無内容は、信仰の否定において内容を持つ。なぜなら信仰との対立において純粋透見は、信仰が理性と真理に対立する迷信だと理解するからである。まず信仰は大衆の意識の直接態として現れ、僧侶の対自意識が透見を独占する。そしてその僧侶を手段にして専制者が大衆を支配する。したがってここでの専制者は、心の法則の対立者である。それゆえに純粋透見は、同じ彼岸の内で信仰と対立する。一方で此岸に立つ啓蒙も、純粋透見に自らの根拠を持つゆえに、信仰と対立する。それゆえに啓蒙は、信仰の悪用を企てる僧侶と専制者を自らの対象にすることは無い。したがって啓蒙の対象は、大衆に定在する意志なき理性的自己意識の概念だけである。


2)透見の自己実現

 もともと透見と神的実在の確信は、一つの純粋意識である。しかし神的実在の確信は自ら対自存在となるのを拒否する。そこで代わりに純粋透見が、信仰と対立することにおいて、純粋意識の対自存在として現れる。それは信仰を媒介にした透見の実現である。この信仰から透見への転倒は、信仰と透見の両者が一つであることから、信仰自身が気付くことなしに直接的に実現する。また透見へと転倒された信仰は、元の直接態に戻ることもできない。色褪せた神的実在の確信は、透見への崇拝に入れ替わるしかない。一方で透見の普及、つまり信仰の透見への転倒は、無意識に実現するだけとは限らない。それは純粋意識による自己区別であり、自己否定する意識的運動でもあるので、ときには暴力としても現れる。しかし透見にとって自己は真理かつ理性なので、自己と異なる対象として現れる純粋透見は非真理かつ非理性にほかならない。それゆえに自己否定する透見は、対象としての自己自身を非真理かつ非理性とみなし、初めに立てた目的を不純なものとして扱うようになる。ただしこの矛盾の外見は、透見の自己認識と自己実現の過程についての無理解から生まれた仮象である。透見は、対象化された自己自身の非真理かつ非理性を通じて自己の真理と理性を概念把握するし、対象化された自己自身の非真理かつ非理性との戦いを通じて自己の真理と理性を実現するからである。なお透見を対象化する最初の自己は、純粋意識における直接態であり、すなわち信仰である。したがって啓蒙が信仰を誤謬とみなすのと同様に、信仰から見た啓蒙も非真理かつ非理性であり、その目的は不純である。


3)信仰の即自存在と対他存在

 一般的に啓蒙は対象を純粋透見として受取り、その対象に自己自身を見い出せなければ、その対象を誤謬として扱う。一方で透見における意識は、対象と一体となる形で対象を生み出すものである。したがって啓蒙が考えるように、信仰とは意識の生み出した思想に過ぎない。例え神的実在と言えども、それは意識の生み出した印象である。それだからこそ啓蒙は信仰を誤謬として扱う。ところが信仰する意識は信仰の対象に自己意識としての自分を見い出しており、それゆえにその神的実在を信頼している。ここでの意識の自己と対象は一致しており、信頼は自己確信として現れる。しかもそこで対象に現れる自分は、確信する自己意識と別の自己意識である。したがってその自己意識は対象に留まる純粋透見であり、その意識こそが信仰だと考えられる。つまり信仰の対象は自己と一致し、此岸において意識が生み出した思想である。それは意識の神的実在としての教団の精神である。それは意識が生み出したものと言うよりも、意識を媒介にして自ら生まれ出た精神である。それは自己意識に押し付けられた他者であるが、意識はその他者において自分を確信する。したがってその信仰に虚偽はない。


4)透見に対する信仰の反逆

 啓蒙が信仰に持ち込む虚偽として偶像崇拝、原理主義、実利信仰の三形態がある。いずれの形態においても啓蒙は、信仰を信仰の他者を通じて実現しようとして、信仰をその反対の存在に変えてしまう。それと言うのも、啓蒙は全ての内容を有限態として理解するので、神的実在に内容や述語を付与できないからである。それでも信仰が啓蒙に従い、神的実在に何がしかの内容や述語を付与するなら、その神的実在は奇怪な偶像に入れ替わってしまう。一方で外化した神的実在は、無限態としての神的実在と逆に感覚的な物の知として現れる。しかしそれは、経験の結果として現れた感覚的確信である。逆に最初に現れた原理は、思い込みとしての感覚的確信に過ぎない。もともと純粋透見は他在としての偶像を超越し、その根源としての原理を目指すものである。しかしその原理も偶像に過ぎないので、この純粋透見の超越は彼岸にある空虚な物自体にまで到る。当然ながらこの物自体も、偶像の即自存在として偶像を拒否し、偶像の対他存在として偶像を外化するものである。それゆえに教養における善と悪の対立概念は、純粋透見では物自体と現象の対立として現れる。このような即自存在と対他存在の並存は、人間を含めた全存在者において見い出し得る。そして有用とは、そのような存在の仕方を言う。即自存在は自己を肯定するので、その自己同一において善である。逆に対他存在は自己を否定するので、その自己非同一において虚偽である。それゆえに自体的な人間にとって宗教を含めた全ての他者は、有用な実利的存在として現れる。逆に自己否定の必然において現れる対他的人間は、全ての他者にとって有用な自己を目指す。ところが啓蒙において対他存在がもたらす現象の虚偽とは、物自体の不可知と空虚であり、すなわち神的実在の不可知と空虚である。だからこそ信仰は啓蒙を、有限の知を最高の知と尊ぶ経験論だと断定し、それを拒否する。


5)信仰に対する啓蒙の反逆

 啓蒙は人間の正義であり、神の正義としての信仰に対立する。しかし信仰にとって啓蒙による非難は、個別の局面における限定的な正義を、普遍的正義にまで拡張しようとする言いがかりに近い。しかし啓蒙は信仰の理屈の一部を通じて信仰の全体を非難するので、信仰は啓蒙の言いがかりに対して無抵抗になってしまう。一方で啓蒙にしても、信仰と同様に、自らの理屈の限定性に無自覚である。しかしその無自覚によって両者は、自らを相手から分離する。ただしその分離は自己否定の欠けた対象把握であり、概念把握になっていない。信仰を偶像崇拝として捉えた啓蒙は、純粋透見においてその偶像の他在を確信せざるを得ない。しかしその対象は、不可知で空虚な物自体である。また偶像と神的実在、または偶然と必然が渾然一体する信仰に対し、啓蒙もまた偶像や偶然が神的実在の必然であるのを見落としている。さらに普遍的行為の実現に固執して個別的享楽の実現を拒否する信仰に対し、啓蒙は享楽の拒否が普遍的行為の実現ではないこと、または享楽の実現も普遍的行為の実現であること、さらに行為自体ではなく行為の意図に普遍が存することを訴える。ただしこれらの啓蒙の目論見は、感覚的確信による信仰の不純化ではない。啓蒙は信仰における感覚的確信への無自覚な依存を明らかにしただけであり、むしろその克服を信仰に促す。ところがそれについての信仰による彼岸への超越は、超越ならぬ憧憬に留まる。それゆえに信仰は啓蒙との差異を失い、満足することの無い啓蒙に成り下がる。信仰の感覚的確信からの脱却は、物自体の不可知と空虚へと超越し、さらに対他的有用の実現を目指すことになる。


6)啓蒙による不可知と空虚の克服

 純粋透見は自己疎外の彼岸に現れる純粋自己である。信仰の対象としての神的実在は、啓蒙においてこの純粋透見を通じて物自体として存立される。ただしそれは自己意識の彼岸に立つ他在であり、純粋物質と純粋思惟の対立した抽象で二様に現れる感覚的存在として現れる。それは物質として現れるなら精神的生命を失い、神として現れるなら区別した自己の感覚的現実を失う。このとき物自体は、相対立する二種類の思想に帰属して分裂する。しかし物自体における自己区別は、二種類の思想において物自体の共通の区別として現れる。したがっていずれの思想においても物自体には、即自的に物質でかつ対他的に思惟であるような有用性が現れる。有用性は透見にとって対象であるが、精神でも物質でもないし、概念でもない。それは物質として即自存在することにより、精神として対他存在しているが、逆に物質として対他存在することにより、精神として即自存在してもいる。啓蒙が対象にする有用性から見ると、感覚的確信と教養が対象にしてきた自然世界と信仰世界の全ては一般性や実在性の欠けた虚しいものとなる。


7)絶対的自由と死の恐怖

 有用性は対象に留まる自己である。したがって有用性が対象に留まる限り、意識は自己を手に入れられない。つまり有用性が対象の述語に留まっている限り、意識は対象に従属する。もちろんそのような意識に自由はない。このとき意識にとって自己意識と所有は分離して現れている。逆に意識が自らにとって有用な対象の持つ威力を廃棄するなら、意識は絶対的自由を手に入れる。ところが意識が純粋透見であるなら、対象に留まる自己は純粋自己であり、その対象の有用性も純粋自己の有用性である。しかし純粋自己の有用性とは、有用性と呼ばれるより、単なる知に過ぎない。つまり有用な対象が持つ威力は、実は意識の自己を支配するような威力ではない。同様に自己意識と所有の分離も仮象に留まる。それだと有用な対象が持つ威力は失われ、精神の絶対的自由も現存することになる。この絶対的自由は個々の意識における分業と身分を否定するが、個別的意識と一般的意識の間に対立は残る。しかしその対立も、個別的意識の自己否定、および一般者の個人態を自認する個別的意識が消失する。しかもその意識の自由は、せいぜい自由の制度的実現として現れるだけであり、積極的な自由ではない。さらに一般者の個人態は君主として現れ、君主以外の個別者は自由を失うことになる。個別者の成し得る唯一の自由は死である。そして個別者は絶対的自由の否定性を直観し、それを死の恐怖として理解する。恐怖した個別者は再び分業と身分を受容し、教養の実体的現実へと自ら戻ってゆく。


8)一般意志と純粋知

 絶対的自由では一般者が、個別者の前に純粋な否定として現れる。それゆえに個別者における一般者との一体化は、今では名誉でも財でもないし、信仰の天上でもない。またそこにあった自己否定の充実も、無意味な死に変わっている。しかしこのような自己意識の否定こそがカント式の不幸な善であり、ルソーの一般意志である。それは普遍的視点から世界を見るものであり、個別の視点からではない。一般意志はこの普遍的視点を個別意志の否定によって実現したわけである。ただし一般意志は個別者に興味を持っていないだけなので、その純粋な否定は無内容であり、逆に純粋な肯定でもある。そこで意識は自らが不偏不党な純粋知である限り、自ら一般意志であることを知る。それゆえにここでの自己意識も、純粋知についての純粋知として現れる。この純粋知は、自己として実在する。それに対して対象的現実は、自己の欠如した形式として非実在である。同様に絶対的自由の現実も非実在であり、それは非現実な思想として自己意識の中に実在する道徳的精神へと移行すべきである。


(2016/10/15)続く⇒(精神現象学D-Ca/b) 精神現象学の前の記事⇒(精神現象学D-Ba)


ヘーゲル精神現象学 解題
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項   ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
          b項  ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項   ・・・ 良心

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