唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(2.生命体としての対自存在)

2017-05-16 22:57:55 | ヘーゲル精神現象学

2)生命体としての対自存在

 ヘーゲルにおいて理性とは、自らを自らの外から眺め得る自己離脱した知性である。言うなればそれは、神の視線である。もともと意識は、知覚において自らの肉体をあたかも肉体の外から眺め、その肉体を「我」として捉えている。しかし意識にとってこの肉体は、常に自らに付随して現れるだけのよそよそしい単なる物であり、端的に言えば自己ではない。ただし意識が自らをこのような物ではなく意識として捉えるのは、意識が自己知に達してからの話である。自己知に至った意識、すなわち自己意識は、すでに自らを自らの外から眺めている。しかしこのようにただ自らを意識と知っただけの自己意識は、理性と呼ばれない。少なくとも理性は、真理に対して忠実な意識でなければならない。しかしその条件が成立するためには、意識にとって自ら忠実たるべき主人が複数存立している必要がある。もちろんそこでの存立する主人の中には、意識の自己自身も含まれている。したがって理性が真理にだけ忠実であるなら、場合によって意識は自己自身を切り捨てなければならない。自己自身を主人として崇め、真理に背く意識は、例え自らを自らの外から眺め、自らを意識として捉えていたとしても、理性ではない。そのような意識は、せいぜい動物的な自己意識である。自己利害を離脱してこそ、理性は単なる自己意識と区別される。しかし自己利害からの離脱が、意識にとっての自己利害の一種に過ぎないのであれば、自己利害からの離脱は意識にとって不可能な試みとなってしまう。そもそも自己利害から離脱した意識は、自己自身の代わりに自己自身ではない何かを崇めなければならない。それが真理であるなら、その判断は唯物論式の事物に対する中立的判断となりそうに見える。しかし今度は、中立的判断なるものがいかにして可能なのかと言う問題、言わば政治や宗教にまで関わるイデオロギー問題が浮上してくる。さらにこの問題において、カント式真理観、すなわち幸福を真理に対立する偽善として扱う真理観とどのように対決するべきかにも答える必要がある。もちろんそれらの問題に対処するためには、理性が離脱すべき自己利害とは何なのか、自らの主人として現れて真理と対立さえする自己自身とは何かにまず答えなければならない。それゆえに「精神現象学」の自己意識の章においてヘーゲルは、まず生命論から始める。


2a)意識の過去、あるいは即自的自己としての自己自身

 ヘーゲルにおいて対自存在は、肉体と対峙する意識であり、意識の自己自身と対峙する自己意識であり、自己意識として現れる個人と対峙する国家や宗教であり、国家や宗教と対峙する絶対知である。いずれにおいても対自存在は、即自的自己に対峙し、その対峙において自らと即自的自己を区別し、その即自的自己を自己自身に包括することにおいて新たな即自存在となる。ヘーゲルはこの分離と統一の運動を生命活動とみなし、自己意識に達することで意識は生命を得ると考える。一見するとこの生命観は、生物学における生命観、すなわち自己維持と生殖を行う有機体としての生命の捉え方と違うように見える。しかし生命体は自己と捕食対象を区別し、その捕食対象を食することで対象を自己に一体化し、新たな自己となる。生殖行為においても生命体は自らと異性を区別し、異性と一体化することで新たな生命体を産む。ここで意識の自己と区別されて現れた捕食対象や異性は、意識にとってもともと統一すべき自己自身である。つまりヘーゲルにとっての生命体は対象を自己自身とみなしており、それだからこそ生命体はその対象の摂食や性交を通じた合体を目指している。このような理解は、ヘーゲルの生命観と生物学における生命観の間の差異をかなり埋めることができる。ただしヘーゲルによるこの運動把握は、生物学のように有機体に特有なものではない。それは共同体や国家、または思想や宗教などの存在者にも適用可能である。つまりヘーゲルにおける共同体や国家、または思想や宗教は、生命を得ている。一方でこの生命活動における対自存在は、即自存在との分離で始まり、即自存在との統一において自らを即自存在として自立させる。それゆえに即自態にある自己意識や国家および宗教は、自己と自己自身の統一を存立条件にする。この存立条件としての統一は、自己意識や国家および宗教における優先事項であり、すなわち生命体における優先事項である。言い換えるならそれは、生命があってこそ、自己意識や国家および宗教が可能だと言う現実である。それゆえにここでの生命は、自己意識にとって外的な力として自立している。この自立した存立条件としての生命は、意識に対峙する肉体、または自己に対峙する自己自身、理性に対峙する自己意識、国家や宗教に対峙する個人、絶対知に対峙する国家や宗教として現れる。それらは、対自存在の存立条件として現れた意識の即自存在であり、意識の自己自身である。


2b)生命と自己利害

 生命活動における生命体は、自己自身と自己の統一において常に両者のどちらを主人にするかを選択しなければならない。ここでの生命体の自己自身とは、上記で見たように、第一に自己の他者として現れる捕食対象や異性であり、第二に即自的自己として現れる肉体であり生命である。それに対して生命体の自己は、生命体の対自存在であり、すなわち意識として現れる。対立する二者の統一では、どちらか一方が主となり、残った片方が従者となる。自立性を失った従者は、主を修飾する述語、または主に支配された付属物となる。他者と自己の対立、例えば捕食対象と意識の対立では、肉体が捕食対象に喰われてしまえば、肉体ともども意識は死滅する。それゆえ存続する生命体では、肉体が捕食対象を食し、それにより肉体ともども意識が存続可能となる。この場合の捕食対象と意識の統一は、肉体において双方が消滅する形で実現する。しかしこのような他者と自己の原初的な一体性は、自己知の到来とともに決裂する。そこでの生命と意識の対立は、個別と普遍、有限と無限、実存と本質、現実と理念、生命と不死の対立として現れる。この両者の対立は、次の二つの展開が可能である。生命が意識を支配し、意識を生命の付属物にするのか、意識が生命を支配し、生命を意識の付属物にするのかのどちらかである。ただし実際には生命による意識支配の現実に対抗して、意識による生命支配が必要となる。または逆に意識による生命支配の現実に対抗して、生命による意識支配が必要となる。しかし生命と意識のどちらが主であろうと、生命は意識を失うわけではなく、意識も生命なしに存在しない。つまりどちらが主であるかに関わらず、自己意識では生命が意識を可能にし、意識が行動を決定する。したがって生命と意識の統一は、他者と自己の対立で見られたような双方が消滅する物的統一ではない。それゆえにここでの一方による他方の支配は、生命体の行動目的として現れる。それはもともと生命体とともにあった生命と意識が生命体から外化したものである。もし行動目的が生命体の存立であるなら、その行動は自己利害を目指している。そうではなく行動目的が意識の存立なら、その行動は自己利害をひとまず離脱しているかもしれない。ただし実際に行動目的が端的に自己利害として現れるのは、行動目的が普遍的な自己ではなく個別的な自己自身の存立となる場合である。それは普遍的な自己が真理として現れ、それに対立して個別的な自己自身が虚偽として現れるのを前提にしている。ただし始まりの生命体にとって自己は自己意識の自己であり、自己利害における生命体の存立は虚偽の存立ではない。すなわち幸福は善と対立するものではない。自己利害における生命体の存立が虚偽の存立と入れ替わるためには、普遍的自己としての人倫の確立を待つ必要がある。


2c)自己否定する理性

 ヘーゲルが描く自己意識が理性に至る道程は、ストア主義から懐疑主義を経て、不幸の意識が登場するまでを辿る。ストア主義と懐疑主義は、それぞれ独我論と不可知論の原初的姿であり、いずれも自己自身に執着した自己肯定の思惟である。したがってそれらは、肉体への執着が無いとしても、やはり自己利害の思惟である。ストア主義は自己知の自己確信をさらに先鋭化させ、意識の自立をもって全ての他在を虚無化させる。懐疑主義は、ストア主義の現実離れした自己中心ぶりを独断と断じ、それと対立する。ところが実際にはその懐疑主義も、懐疑する自らに対して理屈を超えた確信を持っている。懐疑主義が自らの懐疑をさらに徹底するなら、懐疑主義は自らに対するこの独断にも対立すべきである。しかし独断に対する否定とは、やはり独断でしかない。このジレンマは懐疑主義の自己確信を崩壊させ、その不幸の自覚において意識を自己否定に導く。ところがそこでの自己確信の否定も、やはり独断に変わりは無い。それゆえに自己意識は自力での自己否定の完遂を断念し、独断の実行を他者に委ねて思考停止に至る。ヘーゲルは、この独断の代行者として現れる他者が宗教教団だと考えている。ヘーゲルにとって教団は外化した自己意識であり、外化において普遍となった個別である。そしてこの教団を媒介にして、初めて個人は自己利害から離脱する。この自己利害からの離脱が、自己確信した自己意識を自己否定する理性に変える。つまりその自己意識は、自らを自らの外から眺め得る自己離脱した知性に到達している。


2d)強制された自己否定の挫折

 自己意識における自己利害からの離脱は、自己意識が自己利害に拘泥しているのを前提にする。自己意識が自己利害に拘泥するのは、自己意識が生命であり、肉体を要するからである。ただし自己意識は、自己利害に拘泥することもできれば、拘泥しないこともできる。またそうでなければ、最初から自己意識の自己利害からの離脱は不可能である。つまり自己意識は、もともと物理に規定されない自己原因である。ところが実際にはその意識の自由は、行使不能な自由である。いざ自己利害から離脱すると自己意識が死滅するなら、その自由は単なる死ぬ権利に過ぎないからである。そのような自由は、実態として自由でもなければ権利でもない。つまりそのような自己意識が自己利害から離脱できるための条件は、離脱における自己意識の生命持続可能性である。もちろんこの条件は、自己意識が理性になるための条件に等しい。この条件についてヘーゲルが記述している箇所は、「精神現象学」の自己意識論における主人と奴隷についての考察に登場する。並存する多数の自己意識では、相互対立において勝者の自己意識が敗者の自己意識を駆逐する。ところが勝者が敗者を死滅させてしまうと、今度は勝者が自己を勝者として存立できない。そこで勝者は敗者の生存を承認し、敗者は生存権を得る。この生存権が、敗者の自己意識において自己利害からの離脱を可能にする。この敗者における自己利害からの離脱は、勝者を頂点にした生活機構を物態として外化し、自己利害からの離脱自体を物態においてシステム化する。このシステムは、国家として逆に敗者の自己意識を物化する力へと転化するものである。このシステムにおいて敗者は、自らの自己意識を自ら疎外し、物化するようになる。ただし生存闘争において自己疎外を起こすのは敗者の自己意識だけではない。勝者の自己意識も、自己利害からの離脱を自ら抑制することで自己を疎外する。敗者の自己疎外が人間の物体化であるのに対し、勝者の自己疎外は人間の野獣化として現れる。したがって敗者にとって自己疎外とは地獄の責め苦であり、勝者にとって自己疎外は地獄の悦楽となる。なお敗者の自己意識は勝者の付属品として物化したが、勝者にとって敗者は自らの存立条件である。そこで最終的に逆に敗者が勝者を付属品にする革命が可能となってくる。
 この主人と奴隷についての考察でヘーゲルは、自己利害からの離脱を敗者に強制された人格矯正として描く。しかしここでの強制された人格矯正は、敗者における理性的な自己利害からの離脱であるより、むしろ勝者利害への自己同一化、すなわちへつらいに過ぎない。しかし少なくとも敗者の生活状態が生死の境にある場合、敗者において勝者へのへつらい以外に自己利害から離脱する選択肢は無い。敗者が自己利害から離脱する条件は、無謀な革命と死を除けば、敗者における生活余力の物理的実在である。ただしそれも、勝者の胸三寸で決められる事柄である。その意味で自己利害から離脱する条件を得ているのは、敗者ではなく勝者である。生活余力の物理的実在は、勝者の側に蓄積するからである。共産主義における唯物史観では、人間社会における暴力的支配層の誕生を、生産力の拡大に伴って生まれた剰余生産物から説明する。ヘーゲルが諸個人の無条件な対立を前提にして階級分離を説明したのに対し、唯物史観は諸個人の対立を可能にする条件、すなわち剰余価値の成立において階級分離を説明したわけである。しかしその説明はヘーゲルにおける主人と奴隷の弁証法を改変したものなので、やはりヘーゲルの説明と似た欠陥がある。それは、強制された無所有が被支配階層に対して支配者への従属を強制し、実際には無産者を理性の対極に措くことである。そのことは、主人と奴隷の弁証法において、敗北が敗者に対して勝者への従属を強制し、敗者を勝者に付属する享楽品に変えたのと同じ展開である。いずれの場合でも貧困と抑圧が被支配者に対して、自己利害からの離脱を勝者へのへつらいの形に歪めて強制する。それは。恐怖にかられて敗者が自らの自由から逃亡する姿であり、真理を前にして自ら頭をたれる理性的人間の姿ではない。このように無所有に理性と人間性の実現を見出そうとしたヘーゲルの安易な楽観は、そのまま共産主義革命論に移植されている。また実際にロシア革命は理性の王国を建設するのに失敗し、野獣の恐怖支配を生み出しただけに終わった。共産主義革命の挫折は、既にここでの論理不備において準備されていたわけである。ちなみにヘーゲルはこの理性実現の勘違いの補正を「精神現象学」の自己意識の章で行っていない。そもそもこの章における主人と奴隷の弁証法が論理上の眼目にしているのは、主語と述語の連繋、すなわち文章の成立である。また「精神現象学」における他の記述部分では、理性実現に向かうはずであった不幸の意識や徳がどれも敗北すると予見している。最終的に「精神現象学」においてヘーゲルは、精神の章の終りに登場する良心に理性の実現を期待する。その実現とは、勝者と敗者の相互の自己利害の放棄を通じた融和である。唯物論として言えば、この融和の実現を裏打ちするのは、勝者と敗者における全般的な生活余力の物理的実在である。
(2017/05/16)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項   ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項  ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項  ・・・ 良心
  E章 A/B節    ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

唯物論者:記事一覧

 
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« ヘーゲル精神現象学 解題(... | トップ | ヘーゲル精神現象学 解題(... »

コメントを投稿

ヘーゲル精神現象学」カテゴリの最新記事