唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(D章A.人倫としての精神)

2016-08-26 23:58:29 | ヘーゲル精神現象学

 C章の理性で自己意識の自己否定から絶対的確信への自己展開を示したヘーゲルは、国家における精神の実現へと弁証法記述を進める。ここでは、人倫的共同体の成立と崩壊から法秩序の成立へと至る精神現象学のD章A節を概観する。

[D章A全体の概要]

 実践理性が意識に促した自己否定は、意識に全実在の確信をもたらし、人倫的実体を直接態にした精神へと自己意識を変えた。しかしこの自己意識が再び自己に帰ったとき、意識は良心としての自己自身を確信し、自らを精神とする。精神となった自己意識が次に目指すのは、絶対理念の現実的自己意識としての宗教である。とは言え、その始めにおいてまだ単純な真実態にある精神は、法としてではなく意識としてのみ存在する。それゆえにこの精神は、対自において実体と実体についての意識に分裂する。それは一般者及び目的としての実体と、個別者及び現実としての自己の分裂であり、神々の掟と人間の掟との分裂である。人間の掟とは、習俗のように個人が個人を支配するための作為的な明示された掟である。そしてそれに対抗する神々の掟は、死者を弔う家族として現れる。ここでの死者は、個人を廃して一般者となった無個性な個人である。そのことが弔いの持つ一般性であり、弔う家族を一般者にする。ただし真の一般者は、共同体の部分に留まる家族ではなく、その全体としての国家である。神々の掟を体現するのは、それを情念で捉え、家族において自己を持たない女性である。一方で人間の掟を体現するのは、家族から離脱した自己意識的な男性である。両者は相互依存して統一しており、その全体が一般者としての実体となっている。ここでの個人は、家族に含まれるだけでなく、市民とならなければならない。それは自らを目的とする国家であり、満足を知る生きた此岸的現実であり、満足することの無い彼岸的目的ではない。その正義は、政治的独裁者を含め、全ての個別者を一般者に連れ戻す民族的自治にある。ちなみ国家は不正を行わない。したがって独裁に対する復讐は、神々が行う。

 始まりの人倫的共同体は、神々の掟と人間の掟の二つの掟に従う。正義は二つの掟の均衡にあり、二つの掟を共に克服することにある。対立するどちらかの掟にだけ帰属する個人は、その帰属する掟の影に過ぎない。そのような個人は、例え罪を問われないとしても、掟の統一に矛盾して没落する。最初の人倫的共同体では、この二つの掟の対立が自然と自己意識の対立として現れる。ここで神々の掟として振る舞う自然は、人間の掟として振る舞う家族と国家の両者に罪責を与える。そこで家族は、国家から人間の掟を駆逐しようとする。逆に国家は、家族から神々の掟を駆逐しようとする。しかし家族の破壊とは国家の破壊なので、神々の掟を失った国家は滅亡せざるを得ない。なおここでの対立する家族と国家は、二つの掟の人的表現である。そして両者の偶然な行為も、二つの掟の対立が示す必然の動きに過ぎない。そこで次に現れる人倫的共同体では、人間の掟が男性の民族的精神による統治として現れる。それは家族および女性からから神々の掟を駆逐し、国家と政治の私物化を蔓延させる。この国家が自らを支えるのは、強さと運である。しかしここでも神々の掟を失った国家は、滅亡せざるを得ない。民族的精神の抜けた共同体に残るのは、抽象的な一般性として生きる無個性な個人だけとなる。一方で法における財産とは、承認された現実的カテゴリーとしての私物である。ところが人倫が崩壊している場合、財産の承認はその威力と中心点を持たず、その法的人格は非現実である。それゆえに諸人格の中から一般的威力かつ絶対的現実となる一人格が誕生する。この「世界の王」は、諸人格の対立において現れる諸人格の連帯から生まれる。したがってここで財産の法的人格に実在性を与えるのは、諸人格の自立廃棄である。またこのような不幸な意識の自己否定が、意識に真の自立をもたらす。その自己意識は、一般的に妥当しながら自己を疎外する実在である。


0)精神の章的概要

 観察において精神は、純粋否定性として意識の対象となり、そして意識により廃棄された。次に実践において精神は、純粋カテゴリーとして意識の内に現れ、意識の自己廃棄を促した。しかし意識を廃棄する者にしても、それ自身は意識である。したがって意識は、自らが全実在となり、精神となるしかない。精神は実体であり、一般者として自己意識の目的である。またそれは、個別者が一般者を我がものにする行為を媒介にして外化する。それゆえ精神の数々の形態は、精神の外化の軌跡でもある。精神は意識から自己意識、そして理性へと自己を展開し、人倫的実体をその直接態として示すに至った。したがってこの後の精神の形態も、この直接態において自己を展開する。それは法という形式的一般性を廃棄し、教養と信仰の二つの世界を生み、啓蒙において革命的混乱に至る。さらに世界は、現実と理想の二極に別れて現れる。しかしこのときに世界から自己に戻った自己意識は、道徳性において良心としての自己自身を確信し、自らが精神となる。この自己意識に根付いた精神が次に目的として見出すのが、絶対理念の現実的自己意識としての宗教である。
 単純な真実態にある精神は、まだ法としてではなく、意識としてのみ存在する。それゆえにこの精神は、対自において実体と実体についての意識に分裂する。それは法則一般と個別の法則の対立として現れる。そして一般者及び目的としての実体は、個別者及び現実としての自己と対立する。そこで自己意識は、自ら定立した実体の現実化を目指し、それによる実体と自己の統一を自らの仕事とする。しかし両者の分裂は、それ自体が人倫の分裂として顕在することで、精神を神々と人間のそれぞれの掟に分裂させる。そしてこの分裂は、自己意識の側にも波及する。結果として矛盾を抱えた自己意識は、法に対する自らの没落に気づくだけでなく、自ら依って立つ人倫的共同体の没落を経験する。


1)人間の掟と神々の掟

 対自する精神は、自らに対して意識として分裂する。しかし意識において感覚が知覚へと集約されたように、この分裂では個別の法則は法則一般へと集約される。ただしここでの精神は、個別者として現れた一般者である。それは現実的実体であり、共同体であり、さらに言えば民族である。とは言え、それは単なる現実の自覚であり、作為的な人間の掟に過ぎない。それは、一般性の形では習俗として現れ、個別性の形では個人の自己確信として現れ、さらに統治の形では王の自己確信として現れる。そして実際にはこの掟は、別種の威力に対抗するための威力である。その威力とは、明示的な人間の掟に対し、隠然と存在する神々の掟である。そしてこの神々の掟が支配する人倫的共同体の直接態とは、家族である。ただし真の一般者は、家族ではなく国家である。この国家との比較で言えば、家族は一般者としての市民に対立する個別者に過ぎない。それゆえに端的に言えば国家は、生きている人間に対立する。したがって神々の掟が対象にする個人も、一般者となった個人であり、すなわち死者である。つまり家族が神々の掟として現れるのは、家族が自然な本来的人倫であるからではなく、家族が死者を弔うことにある。それと言うのも、家族は死者の尊厳を護持することにより、死者を不滅の個人態に返すからである。もちろんそこに現れる個人態は、抽象的かつ一般的な個人である。ただしこの無個性な個人は、個別者に自らの現実を自覚させる契機になっている。一方で統治形態にある国家は、そのような家族の自立を含め、自らの部分の自立に対抗しなければならない。国家はそのために戦時体制を引き、個人を戦争に動員することにより、個人の離反を防ごうとする。それが示すことは、国家もまた自らの威力を黄泉の国に持つ神々の掟だと言うことである。


2)男と女

 家族における夫婦および親子関係は相互依存と世代交代があるので、自己回帰する自立した人間関係が現れない。それに対して兄妹/姉弟は、もともと自立した人間関係である。それと言うのもここでの女性は、神々の掟を情念で捉えつつ、性的快楽の自然性から兄弟を区別するからである。そしてその人間関係は、血縁的安定において市民的相互承認を容易に成立させる。一方で兄弟の人間関係は、無個性な個人集団としての家族から離脱することで、自己意識的な人間の掟へと移るものである。それゆえもっぱら女性が実在的な神々の掟を体現し、男性が自己意識的な人間の掟を体現し、両者の統一において人倫的精神が成立する。したがってここでの神々の掟たる家族は、国家における人間の掟により存立する。逆に国家の威力も、家族における神々の掟により存立している。それゆえにこの全体は、一般者としての実体となっている。ここでの意識は自己意識を対象としており、観察は実践として現れる。しかも個人は家族に含まれるだけでなく、市民とならなければならない。このことは、心の掟を一般的なものとして知らしめるだけでなく、自己に対して自らを承認した一般秩序として知らしめる。それは実現された徳であり、純粋カテゴリーに始まる法則の生成過程を肯定して、家族と国家に関する立法と司法をもたらす。それは、満足することの無い彼岸的目的ではない。それは、男性的な個人的自由と女性的な一般的平等の相克において満足を知る生きた此岸的現実である。正義は、個別者を一般者に連れ戻す民族的自治にある。同様に一般者から外れた政治的独裁に対して、抵抗する市民の側に正義はある。ただし復讐を行うのは、市民ではなく神々の掟である。その限りで人倫的共同体のおける真の不正とは、復讐に値しない人たちが被る自然死にほかならない。それが意味するのは、国家自体は不正を行わないと言うことである。いずれにせよ死は、個人における不正の告発の完成である。つまり弔いが目指しているのは、国家の解体ではなく、死の超克である。


3)人倫的共同体の成立

 人倫的共同体における個人は、無権利な抽象的一般者である。その行為は、人間の掟と神々の掟の対立を顕在化させる。それと言うのも人間の掟として現れる人倫的共同体の命令は、神々の掟からすればただの暴力的支配であり、そして神々の掟として現れる人倫的共同体の命令は、人間の掟からすれば利己的な欺瞞だからである。そのことは人倫的共同体が、人間の掟と神々の掟の直接的統一であることに依っている。しかもこの対立は自己意識における対象との対立なので、対象との統一が実現すると既に実現していた対象の現実性も失われる。したがって事態がどちらの掟に収束したとしても、対象における物や事の真性は失われる。それゆえに人倫的意識は、人倫的共同体の命令の威力が喪失することに憤慨するとしても、二つの掟の統一にこだわる。それと言うのもその統一さえできていれば、人倫的共同体は、自らの命令の結果を予知できるからである。しかし現実に人倫的共同体は、一方の掟に従うなら、他方の掟に反している。そこで人倫的共同体は、自らの行為に責任を取らなければならない。なぜなら人倫的共同体は、もともと二つの掟に従うと言う罪を犯しているからである。この観点で言えば罪を犯した個人は、その罪責を負わされるのは不合理である。罪責を求められた個人は、二つの掟のどちらかに帰属する単なる影に過ぎないからである。しかも有限な個人だからこそその行為が、個人に対立する掟の真を明らかにする場合もある。あるいは最初から個人は、自らの罪を認める確信犯として現れる場合もあるであろう。ただしいずれにおいてもこの犯罪者は、彼に対立する掟において処罰される。また処罰されないとしても彼は、掟の統一に矛盾することにおいて自ずと没落せざるを得ない。仕事の正義は、二つの掟の対決ではなく、二つの掟の均衡を要求するからである。そしてその人倫的実体も、二つの掟を共に屈服させることにおいて実現している。


4)人倫的共同体の崩壊

 最初の人倫的共同体では、二つの掟の対立図式は自然と自己意識の対立として現れる。なぜなら自己意識は、まだ二つの掟の直接的統一だからである。オイデイプス王の物語では、家族たる王族の権力闘争は、自然が神々の掟として振る舞う場合、人間の掟として対立する家族と国家の双方に罪責を与えた。しかしそのように神々の掟において人間の掟を駆逐しようとするなら、今度は人間の掟を体現する国家が、自らに対抗する神々の掟を家族から駆逐してしまう。ただし神々の掟を失った国家は、自らの存立の場を失い、結局滅亡せざるを得なかった。ここでの対立図式における王族の双方は、対立する二つの掟の人的表現に過ぎない。そして偶然に見える王族の行為も、二つの掟の対立の動きとして、実際には必然に縛られている。
 次に国家の定在となるのは人間の掟であり、その活動は男性による統治となる。それは民族的精神として現れ、神々を駆逐して女性を中心にした家族を破壊し、そこでの自己意識を解体する。ただしそれは国家が依拠する女性において自らの敵を育む行為でもある。それと言うのも、女性は国家と政治を私物化するからである。また国家の行為は、その目的から乖離する限り、ただの悪である。そして未熟な個人を取り込もうとしない限り、無力である。なぜなら国家は、自らが一つの個人態だと知らねばならないからである。さもなければそれは、民族が内に含む個人態を排除しただけの個人態である。さらにこの国家は、戦争により人倫的自己存在を保証し、否定的なものに国家を支えさせる。しかし人倫的定在が強さに規定されるのであれば、その存在的必然は運に規定されており、すなわち偶然である。そのような国家は、あらかじめ没落が決まっている。結果的に民族的精神の抜けた共同体に残るのは、抽象的な一般性として生きる無個性な個人だけとなる。
 ギリシャ的人倫はその地理的自然において個別的であり、民族精神の否定性に駆逐された。またローマ的人倫は、民族だけが個別性を持つ自己だったので、民族性の消滅と共に個人性は抽象的一般性へと霧散している。


5)法秩序の成立と自己疎外

 人倫的共同体の始まりにあった家族における個人性と実体との直接統一は、人倫的共同体の崩壊において精神の無い統一へと回帰する。なぜならそれは、実体に統一されたのが無個性な個人だったからである。これは人倫における死の平等が、現実世界における平等へと外化した姿である。今では個人は自己を確信した否定的な一般的自己として実存する。またそのような自我だけが、共同体において個人として承認される。ただしそれは人倫的実体の外にある人格であり、自らを純粋思惟として捉える非現実なストア式独我である。そのような人格は、懐疑主義において財産を仮象とみなすような空虚な思想に留まる。一方で法における財産とは、承認された現実的カテゴリーとしての私物である。ところが人倫が崩壊している場合、財産の承認はその威力と中心点を持たず、その法的人格は非現実になる。そこで諸人格の中から一般的威力かつ絶対的現実となる一人格が誕生する。この「世界の王」は、自らが全威力の総概念であることを自認し、全定在を包括する最高の精神が自分だと自惚れる。また実際に否定的威力の全体がこの一人格を支えるからこそ、人格全体の無政府的混沌は抑止される。結果的にその威力の脱線は、良くも悪くも途方も無く巨大なものとなる。しかしその一人格は、他の諸人格から遊離するなら非現実な無力な自己に過ぎない。しかもそれは承認された一人格ではないので、他の諸人格と対立する。ただし諸人格相互の間にも承認関係は無いので、それら諸人格もまた対立している。ここにおける対立に対する対立と言う二重否定は、王を含めた全ての分離した諸人格に逆に連帯をもたらす。そして諸人格の自立は廃棄され、逆に財産のような法的人格が実在性を得る。法的人格が初めて自己の実在性の欠如に気づくのは、むしろ自己が実在性を得るこのときである。このようにして不幸な意識の自己否定は、それまでのストア式自立に代えて、意識に真の自立をもたらす。その自己意識は、一般的に妥当しながら自己を疎外する実在である。またそれだからこそこの自己意識の一面的真理は、現実的真理となる。

(2016/08/26)続く⇒(精神現象学D-Ba) 精神現象学の前の記事⇒(精神現象学C-C)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項   ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項   ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項   ・・・ 良心
  E章 A/B節   ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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