唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(15b.マルクスの存在論(2))

2017-11-04 08:59:48 | ヘーゲル精神現象学

15e)使用価値の度量単位の修正

 商品が持つ未来の価値と過去の価値、すなわち使用価値と交換価値が等価であるためには、両者の度量単位を統一する必要がある。ただし上述要領で方向性を定めるなら、度量単位の統一も既に容易である。そもそもマルクスを含めて労働価値論は、商品価値を労働力量として扱い、商品を労働力の塊りにみなしている。したがって使用価値を労働力量によって表現すれば、両者の等価も具体的な姿で示せる。一方で商品の使用価値は、商品がもたらす何がしかの快適さを言う。しかし使用価値を主観的な快の感情として捉えると、その不明瞭な製品基準は商品の生産工程に困難をもたらす。それゆえに使用価値の理想は、生産した商品が示す商品理念に対する到達度で表現するしかない。もちろんそれでも、その商品理念が不明瞭であり、相変わらず商品の生産工程は困難の内にある。ただしこの困難にはまだ光明がある。製品素材や商品知識を含め、いかなる複雑な手順や技巧も単純労働の合計で表現可能だと見込まれるからである。逆に言えば、もし単純労働で構成できない商品があるとすれば、その商品を生産するのは不可能だと言う結論が待っている。それゆえに使用価値の大きさは、商品理念の実現のために必要な労働力量によって表現することが可能となる。すなわち効用もまた労働力量によって表現され得る。あるいはもっと単純に、効用は金によって表現可能だと言う方が判り易いかもしれない。しかし労働力量として理解された使用価値は、商品生産において商品に投下された労働力量ではない。もしそうだとすれば、使用価値は交換価値と等しくなってしまう。もちろん本来のあるべき姿で言えば、きっと両者は等しいはずである。効用実現のために期待される労働力量は、現実に商品に投下された労働力量と等しく交換されるべきだからである。しかしここでの期待の労働力量と実際の労働力量は、それぞれ計上根拠が異なっており、本来別のものである。このように一つの商品が実は二種類の労働力量で表現可能なことは、そのこと自身が既にその二種類の労働力量の等価、さらには両者の齟齬を説明する。商品価値論でマルクスは最初に使用価値の説明から始めて、次に交換価値を説明し、それから両者をまとめて商品価値の存在について語る。言い方を変えれば、マルクスは商品の可能性と現実性を語り、それから両者を統合している。そしてマルクスはそのまとめにおいて剰余価値の説明を行っている。この時点で剰余価値の存在論的な正体も察しがつくことになる。すなわち剰余価値とは、使用価値と交換価値の差分なのである。ちなみにそのような差分が可能となる商品は、自らの価値以上の価値を生む特異な商品に限られる。その代表格は、土地であり、労働力商品である。


15f)差額略取の可能性

 商品の可能性は商品の持つ力であり、現実性は商品が表現する労働力である。マルクスはこの二つを統合して商品の存在を考える。前者と後者はそれぞれ使用価値と交換価値であり、商品価値の未来と過去を構成する。このような存在論の側からの切り口での商品価値の見直しは、マルクスの商品価値論を別の角度から見るのを可能にする。例えばマルクスは使用価値と交換価値が齟齬を起こし、それゆえに貨幣の登場が要請されるとしている。このマルクスの難解な表現も、存在論の切り口から言えば、次のスッキリした形に収まる。すなわち、使用価値と交換価値の齟齬とは、商品価値の未来と過去の間の齟齬である。そもそも経済の生活実感では、商品の可能性と現実性の間のギャップは、一つの日常的風景である。そのギャップとは、300円で売れた物が実はもともと100円で買った物だと言うような具体的なギャップである。言い方を変えれば、そこでは100円の現実性にすぎなかった商品が、300円の可能性に化けている。ただし100円の商品に200円分の労力をかけて300円で売ったのであれば、そこに何も驚きはない。その場合の商品は、既にして実際に300円の現実性だからである。それゆえに労働価値論では、自由市場における商品価格は基本的に額面どおりの交換価値を表現すると考えている。そのような商品価値にあるのは商品が持つ現実性だけであり、そこに可能性は登場しない。しかし特定の商品では、商品特有の支配力において自らの価格をつり上げることが可能である。その支配力は、例えば芸術作品のような個人技量や製品に関わる特許技術、または周辺店舗の不在などの地域的特性として現れる。あるいはその支配力は、商品販路の独占や理不尽な価格強制における有形無形の暴力として現れるかもしれない。価格をつり上げられた商品価値には、もともとの商品の現実的な価値と別に、支配力が付与する価値がつけ加わる。このときの商品価格は、消費税のように自らの内訳を明らかにしないので、つり上げられた価格はそのまま市場価格として通用する。もちろん可能性と現実性のギャップにより商品から価値を生み出すのが可能なら、価格のつり上げをせずとも、それを利用した差額略取は可能である。100円の商品を労力をかけずに300円で売るなら、そこからは200円の利益が得られるからである。一般にここで支配力として現れた特別な商品価値は、特許技術のような生産合理性に従うのであれば、その大きさは市場価格との差分として現れる。そうではなく販路独占のような暴力支配に従うのであれば、その大きさは支配力がつり上げた分の価格の大きさである。ただしその追加部分の大きさは、やはり市場価格との差分である。商品が持つ支配力は、いずれの形態で現れるかに関わらず、自らを交換価値以上の使用価値にする特異な商品に仕立て上げる。ただしマルクスはこの特別な商品価値を特別剰余価値として扱い、商品一般に現れる剰余価値と区別する。なぜなら創意工夫や詐欺的強奪は商品経済における特異な事例であり、一般的な利潤源泉ではないからである。しかも特別剰余価値は市場価格との差分に過ぎず、実態としてその商品は自らの交換価値を増殖していない。自らの価値増殖をする商品は、労働力だけである。労働力ではない商品における価値増殖は、単なる差額略取としての擬制の価値増殖に留まる。ただしそのことは、特別剰余価値を虚実の価値にするわけではない。その市場価格との差分は、消費者を媒介にして、一方で貨幣転化に失敗した競合商品が表現する現実の交換価値から補填されており、他方で支配の暴力装置に奉仕するための無益な労働力から補填されるからである。


15g)価値の実体

 労働力商品の特異性は、価値増殖する唯一の商品だと言うことにある。すなわち労働力商品としての人間は、自らの生活のための必要生産物だけではなく、それ以上の余剰生産物を生産できる。言い方を変えれば、労働力商品の可能性は、労働力商品自らの現実性を上回っている。また労働力商品の使用価値も、労働の使用価値が交換価値を超えることに存する。なぜ労働力商品が価値増殖できるかと言うと、労働力商品は自らが価値尺度だからである。商品属性としての増殖は、野菜や家畜などほかの商品にも存在する。しかしその増殖は、労働力を投じた人工増でなければ、単なる自然増である。それは水や空気と同様に人間の経済的営為から独立しており、したがって商品価値からも独立している。そのような自然物の商品価値は、せいぜい収穫や流通に必要な労働力の大きさだけを自らの大きさにする。それだからこそ空気の価格は0円である。それに対して労働は、人間の経済的営為そのものである。その経済的営為は、基本的に自らの生活の実現であり、人間生活に供する物の生産である。そして労働の使用価値もこの経済的営為にある。一方で商品としての労働力は、労働の使用価値を外化したものである。言い換えれば、労働力とは物態にある経済的営為であり、人間の形をした一定量の労働を行う物体の名称である。その物体は市場において人間生活のための生産物総量と交換可能であり、したがってその物体自らもそれを自らの価格として捉えている。ここでの市場を通じた労働力の対自は、労働力の使用価値を労働の効率的実現に変える。それは、特定の労働力の使用価値の大小を、その労働力が何人分の人間生活を生み出すかによって決めると言うことである。それだからこそ人間生活のための生産物総量は、交換価値の度量単位であるだけではなく、交換価値に対する使用価値の度量単位になっている。基本的に労働力商品は、自らと家族の生活分に該当する1単位以上の商品価値を生産しなければならない。この条件を満たした時、その労働力は一人前と呼ばれる。ただし労働力自身の交換価値は、自らと家族の生活分の1単位だけである。労働力が生産した商品価値における1単位を超える余剰部分は、もっぱら富者の不労生活に当てられる。その意味で労働力商品の使用価値、すなわち価値増殖属性は、むしろ支配者にとっての使用価値になっている。マルクスは労働力を商品価値の実体として示す。その実体概念がもっぱら担うのは、度量単位としての役割である。しかし労働力は、物態にある可能性であり、外化前の自由を宿す種子である。すなわち自由に実在性を与えるのは労働力であり、それだからこそ商品は価値を持つ。ただし個々の商品が実現する自由は、やはり特定の自由であり、自由一般ではない。それゆえに商品相互の交換は、特定の自由の交換として常に困難を抱える。この困難は、自由一般を体現する一般的商品の登場によってのみ解消される。もちろんここで現れる自由一般を体現する商品とは、金として現れる貨幣のことである。商品価値の実体が労働力であり、労働力が物態にある自由であるとしても、その自由は個々の商品の個別性に制約されていた。ところが貨幣はその制約から自由な普遍的商品である。このために貨幣は、商品価値としての自由をより純度と普遍性を増して体現する。マルクスは商品の物神性を暴いてみせたが、その物神の究極の姿は貨幣にこそ現れる。
(2017/11/04)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項   ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項  ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項  ・・・ 良心
  E章 A/B節    ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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