唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(B章.自己意識)

2016-05-07 20:56:28 | ヘーゲル精神現象学

 先のA章でさっさと認識論に決着を付けたヘーゲルは、物理法則に従属した意識の論理から生存本能および思想に従属する自己意識の論理へと弁証法記述を進める。ここでは、精神現象学のB章にあたる自己意識の章を概観する。

[B章全体の概要]

 自己意識は意識と違い、対象を知覚するだけの静的存在ではなく、無限循環の形で自己自身と対峙する動的存在である。つまり自己意識における認識とは生命活動であり、その対象は自己自身であり、それが生存闘争を通して自己として現象する。その生存闘争では乱立する自己意識の勝者が主語として現れ、敗者となった自己意識が述語として主語に従属する。したがって自己意識は、まず主語であり、次に述語である。ただし実際には主語は述語に従属しており、述語が行う否定と自立こそが主語の個別性である。この個別性は、それ自体が一つの様式として自立した自己意識である。この自己意識は、自己の現実と乖離した場合、観念的自由に陥った純粋思惟として暴走を起こす。しかしそれが、自己の不自由な現実に向き合った場合、逆に自らの不幸を自覚し、理想的彼岸を目指す思惟となる。その思惟とは、直観した理想的彼岸を現実の根底に見出し、そこに帰依した自己否定によって不幸からの離脱を実現するキリスト教である。自己意識は、この思惟を通じて理想的彼岸に到達し、理性となる。


1)自己意識と生命(主語の分裂)

 対他存在としての物は、自らを消失して他者に現れるような虚ろな真理であった。一方で物に対して現れた意識は、ただ単に物の真理からはじき出された虚偽であり、そもそも非存在として現れた。これらの虚ろな真理または偽と違い、対自存在としての自己意識は、自らを維持してなおかつ充実した真理である。この自己意識では、自己自身に対峙する自己が現れ、自己自身を統一する。自己自身はこの運動そのものであり、逆にそうでなければ自らを存立できないような儚い存在である。このとき自己意識にとって自己自身と自己の統一は、自らのアプリオリな存立条件である。したがって自己意識はその統一の欲求でもあり、その統一は自己意識の生命として現れる。ところが自己意識にとって、始めにその統一は成立していないし、成立しても持続しない。自己意識はそもそも対自存在なので、自己自身と自己の分裂を避けることができないからである。加えて自己意識では、新たに自己意識の生命自体が自らの実在を存立している。このことから自己意識は、自らと生命との分裂にも遭遇する。自己意識は自らの生命に支配されるのだが、むしろその従属を前提にして自己意識は真に自立する。


2)自己認識と生命活動(並存する主語の闘争)

 自己意識の始まりでは、自己自身と自己の統一は、対自における単なる自己認識でしかなかった。この自己意識に至る以前の意識は、まだ自己自身を対象にせず、自らに現れる物を対象にしていた。したがってそこでの対象の実在性も、物の実在性の姿のままであった。一方で自己意識の自立性は、自己に対立して現れる対象の側に否定的性格を与える。対象が自己意識にとって否定的であるためには、対象も自立していなければならない。もちろんこの段階なら、物はまだ自立している。それゆえに自己意識は、対象の否定性のゆえにその対象の廃棄を欲する。ただしそれがもたらすのは、意識においてあったような単なる対象認識ではない。それは、物の自立を廃棄して自己に統一する現実的な運動であり、端的に言えばそれは、自己が物を食らう生命活動である。しかしこれ以後の自己意識では、実在する対象として現れるようになるのは、物ではなく自己に対峙する自己自身である。ここでも自己意識の自立性は、自己に対立して現れる対象の側に否定的性格を与える。自己意識の始まりのときと同じように、対象が自己意識にとって否定的であるためには、やはり対象の自立が必要である。そして実際に自己自身は自立している。したがってここでも自己意識は、対象の否定性のゆえにその対象の廃棄を欲する。当然ながらここでも対象の廃棄は、単なる自己認識ではなく、自己が自己自身を食らう生命活動として現れる。しかし既に生命を得た自己意識では、その生命活動の様相が少し違ったものとなって現れる。それと言うのも、自己自身の自己への統一が、単なる生命活動の枠を超えて、自己自身の自立性を廃棄し、それを自己に統一する運動に置き換わるからである。結果的に自己意識では、自己自身と自己の双方が自らを存立しており、両者の統一は互いの否定を目指す熾烈な闘争へと発展する。ただしこの生命活動も、自己意識が理性に到達すると、さらに承認行為へと置き換わることになる。なぜなら対象の自立性を完全に廃棄してしまえば、自己意識における異なる自己意識の存立もできなくなり、そもそも自己意識の自己自身が存立できなくなるからである。したがってそこでの承認行為も、対象自身の自主的な自立性廃棄に対する承認として現れなければならない。このときの自己意識は、自己自身と自己の双方の存立を得た集合的精神の端緒になっている。


3)主人と奴隷(主語と述語)

 自己意識では自己自身と自己の双方が即自存在と対自存在として存立しており、自己意識は両者の統一としてある。ただしこの統一の中にあっても自己自身と自己は、互いに相手を媒介にして排他的に存立する。しかも両者は、相手に相対することで相対した当の相手になる。この入れ替わりは双方に、自らと相手が同じ自己意識であることを気付かせる。またそのことは、双方の自己意識に自らの個別性を自覚させることになる。ここで言う個別性とは、自己意識の排他性であり、すなわち否定性と自立性である。ただしヘーゲルは、自己意識が個別性を自覚するためには、自己意識が自らの生死を超越しなければならないと考えている。言い方を変えるならそれは、自己意識が自我を自覚するためには、無私の境地に達しなければならないと言う逆説である。したがってここで自覚される個別性は、以前の自己意識にあったような、物に等しい相手との対立において存在するだけの無自覚な個別性と異なる。上記で既述したように、双方の自己意識は互いの完全な否定を目指す熾烈な闘争に終止符を打ち、生命の具体的廃棄に替えて、その抽象的廃棄に納得せざるを得ない。このとき自己意識における即自存在と対自存在の存立も、自立する主人とその主人に従属する奴隷の存立に置き換わる。一方の主人は、死をも恐れぬ生命活動の勝者であり、物を支配する意識として君臨する。他方の奴隷は、死の前に屈服した生命活動の敗者であり、意識に支配されるだけの物態にある労働力である。両者の間には、主人からの奴隷の行為に対する一方通行な承認だけがある。ただしここでの主人は、奴隷があってこその主人であり、その実態は単なる奴隷所有者としての従属的な自己意識である。つまり即自存在の自立性は、対自存在において発現するだけの非自立性に過ぎない。一方の奴隷は、主人の所有物となった自己意識であるが、その従属性は主人を必要とするものではない。つまり対自存在の従属性は、いつでも相対する即自存在を廃棄し、自ら即自存在になり得るような真の自立性である。それと言うのも、奴隷は主人の否定性と自立性を、自らの内に恐怖の記憶と共に刻み込んでいるからである。だからこそ奴隷は、主人が自らの否定性と自立性に無自覚なのと違い、それらを自覚し得る。さらに奴隷の労働は、対象を否定し食い尽くすような主人の享楽と違う。労働は主人に対する奉仕の実現であり、対象を否定せずにそれを生産物として形成する。労働において奴隷の自己自身は否定されるが、奴隷の自己はその生産様式において永続的に自立する。つまり労働は、そのまま自己意識の個別性になっている。ここでの奴隷の無私は、自己意識が生産様式として自立するための条件である。


4)ストア主義と懐疑主義(思惟の成立)

 生産様式とは、主従の隷属関係から遊離した自己意識であり、その物態において思惟である。もともと自己意識は、自己自身と自己の統一であり、対象と意識の統一であった。思惟においてそれは、さらに即自存在と対自存在の統一、すなわち主語と述語の統一として現れる。ここで対象が物や知覚または表象であるなら、対象と意識の統一は、意識が対象を取り込む生命活動として現れる。また自己意識も対象の否定を通じて自立する。ところが対象を概念としてのみ扱うなら、対象と意識の統一は単なる意識同士の直接的な統一にすぎない。しかしこの生命を持たない自家撞着は、自己意識に独我論的自由をもたらす。ヘーゲルはストア主義と懐疑主義を、そのように自家撞着することで自らを純化した思惟として捉えている。いずれにおいてもその自己意識は、意識の自由だけを自らの内容としており、自己意識の個別態から遊離した無内容な純粋思惟である。また純粋思惟も、個別態からの遊離において不変たり得ている。しかし純粋思惟における対象の否定は、生産物の実現において自らの否定を完結させていない。ヘーゲルはこの純粋思惟の誕生の背景に、民衆を奴隷化する圧政の存在を感じ取っている。すなわちその誕生の必然は、圧政下で自由を希求する意識の必然にあると理解している。
 ストア主義の自己意識は、意識の優位を前提にして対象の自立を否定する。しかし自立を否定される対象に自己自身が現れるなら、自己意識は自らの非自立を是認せざるを得ない。このときストア主義における対象に対する自己意識の圧倒的優位は、逆に自己意識の圧倒的不利へと変わってしまう。ところがこのような意識の優位の危機に対しても、懐疑主義は自らの足場の欠如を弱点として認めることは無い。それと言うのも懐疑主義は、ストア主義と同様に自己の自由を確信しており、自己意識の自立と意識の優位を疑わないからである。そこでストア主義の独我論は、懐疑主義において不可知論に転化してゆく。その不可知論は、自己意識を自立していない偶有な個別意識とみなす一方で、同じ自己意識を意識一般として自立させる。この結果としてその自己意識は、知を否定して無知を確信し、次にその無知を否定して知を確信する運動を繰り返す。


5)不幸な意識(キリスト教の成立)

 ストア主義や懐疑主義の純粋思惟では、自己確信と不安の二つの自己意識が並存ないし相互移行する形で現れた。しかしその二つの自己意識は、実際には一つの自己意識において不変と個別に分裂した意識にすぎない。もちろんその分裂した意識は、以前の自己意識では主人と奴隷として現れたものである。そして今ではそれは、自己の理想的彼岸と現実的此岸として現れている。しかも自己意識に現れるのは、自らが主人ではなく奴隷であり、理想的彼岸ではなく現実的此岸だと言う自覚である。つまり自らの不幸の自覚である。またこの不幸の自覚こそが自己意識に不変と個別の概念をもたらしている。ただし自己意識は、ここで自らの個別を自覚するだけで終わらない。それと言うのも自己意識は、自己分裂した状態にある自己自身の不変も自覚するからである。このような自己意識の対自は、不幸の自覚それ自体を思惟として自立させることになる。なぜならこの不幸の自覚は、自己意識の個別を通じて不変を出現させる思想に繋がっているからである。もちろんこの思想とは、キリスト教である。ここでヘーゲルはキリスト教の見取り図を、不変の神に対立して現れる個別者、個別者イエスとして現れる不変の神、個別者における不変の神との和解の三契機において描く。しかしこの見取り図では肝心のイエスが死んでしまうと、現実的此岸に立つ個別者は、理想的彼岸にいる不変の神に到達することができない。そこでヘーゲルの考えるキリスト教的自己意識は、個別者の不変への到達を、自己意識以前の意識、自己意識、自己意識に連なる集合的精神の三階層を経て実現させようとする。
 最初の自己意識以前の意識では、不変は情念として現れ、個別者から遊離していない。ただし意識は、情念において理想的彼岸の現実を感じている。そこで次の自己意識では、不変は現実として現れる。個別者は労働と享楽を通じて、自らを支えてくれるこの不変を消費する。したがってこの神聖な現実は、意識にとって単なる虚無的現実ではない。この神聖と虚無とに分裂した現実は、分裂した意識の現実でもある。当然ながら個別の意識は、不変の意識に感謝すべきである。さらに言うなら主人は奴隷に感謝すべきであるし、奴隷は神に感謝すべきである。そこで最後の集合的精神では、口先に留まらない感謝の実現が焦点になる。もともと個別者が個別に留まる限り、不変への感謝は口先だけの絵空事である。しかし個別者のこの自覚は、全ての個人的享楽を虚偽にしてしまう。したがって不変への感謝は、個別者における個別の廃絶として実現されるべきである。ところが個別の廃絶を個別者自身が行ってしまうと、やはりそれは個人的享楽にすぎない。これを回避するために、個別の廃絶には個別者ならぬ別の媒介者が必要となる。個別者はこの媒介者、すなわち教団を通じて、自らの行為と享楽と資産を放棄するし、果ては狂信を目指すに至る。ただしこの自己放棄は、個別者の自らの不幸からの解放であり、教団を通じた不変の実現でもある。ヘーゲルはこの自己意識を、理想的彼岸へと到達した理性だとみなしている。

(2016/05/07)続く⇒(精神現象学C-Aa) 精神現象学の前の記事⇒(精神現象学A)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項    ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項   ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項  ・・・ 良心
  E章 A/B節   ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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