唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(6.善の外化)

2017-07-04 08:13:25 | ヘーゲル精神現象学

6)善の外化

6a)目的論の起点

 因果の論理的原型は、意識と肉体の関係にある。肉体の刺激は意識に現れ、意識の決定は肉体の動きに現れる。とは言え、始まりの現存在に意識と肉体の区別は無い。それゆえにそこでの分離していない両者の関係は、因果として現れない。このことから、むしろ始まりの意識に因果帰結の原型が最初に現れるのは、分離した二者関係においてである。その二者関係とは、生命体としての自己意識における自己と自己自身の関係である。そしてそこに現れる自己意識の最初の目的は自己維持である。端的に言えば、目的論の因果帰結の原型は、有機体の捕食行動である。ただしその捕食対象は、有機体の外に現れた有機体の自己自身である。その自己自身は意識の自己に対して食物として現れる。そして有機体が目的として目指すのは、その自己自身と自己との結合である。もし自己自身と自己が結合するなら、有機体は満足を得る。すなわち有機体は、食物を食べて幸福に至る。それは自己と物の結合がもたらす快である。したがって目的論的因果を表現する文章も、その始まりの姿は「私は食物である」となる。ちなみに自己が自己自身であることを表現する文章の原型は「私は肉体である」である。そして「私は食物である」の文章は、「私は肉体である」における肉体としての自己自身が、肉体の外の食物として現れただけの文章である。すなわち「私は食物である」の文章は、「私は肉体である」の派生表現である。


6b)快と善

 「私はシュウマイである」「私はトンカツである」と言う表現は、もっぱら食卓やレストランで使う表現である。しかもその表現は、捕食対象の選択表現であり、限定表現である。限定が可能になるためには、あらかじめ無限定な対象認識が必要である。この対象認識は、意識の始まりにおいて捕食行為に等しい。なぜなら始まりの意識はとりあえず対象を捕食し、それによりその対象を食物と知るからである。つまり始まりの意識の認識行動は、無限定にひたすら食べることにある。したがって始まりの意識の捕食対象は、現存在であり、その世界の全てである。もちろんそのことは、始まりの意識の認識対象および目的が全世界であることを示している。したがって意識は先天的に、この全世界を認識し、自らのものにすることを欲する。ここで目的として実現されるべき価値意識は、意識一般における善ではなく、個別意識における快として現れる。その快は自己自身と結合する自己が得る幸福である。ただし始まりの意識において、善と快は区別されていない。なぜなら始まりの意識において、一般と個別は区別されていないからである。したがってここでの快は、そのまま善でもある。さらに始まりの意識の対象および目的が全世界であるなら、その意識の自己自身も全世界として現れる。なぜならここでの自己意識は、対象および目的と自らを区別していないからである。したがってその自己意識は、ストア主義式に自らが独我的自由にあると思い込んでいる。もちろんその思い込みは、捕食不能な対象との遭遇により日々刻刻と打ち砕かられる。そのときに意識は、対象の実在の対極に虚実を見い出し、自らがその虚実であるのを知る。したがって対自存在における意識としての自覚は、世界から放逐された不幸の自覚として始まる。そしてそのような意識の不幸が、最終的に意識に自己否定をもたらす。このときの自己意識は、全世界であるどころか、全くの無である。自己否定は、個別意識としての自己意識の否定である。それは自己意識を意識一般へと導く。もちろんそれは自己意識における快と善の区別の始まりでもある。したがって不幸な意識の自己否定は、単に観察理性の始まりであるだけでなく、実践理性の始まりでもある。


6c)徳

 ヘーゲルは始まりの意識における幸福と善の未分離を示した。そこでの善の実現は自己意識の快、すなわち幸福である。つまり始まりの意識では、幸福と善を排他的に対立させるカントの倫理観が成立していない。しかしヘーゲルはそれだけではなく、快の自然成長の延長上にも善を示す。なぜなら快も善も、有機体に有益な価値であり、自己意識の目的だからである。しかし一般者の善と違い、個別者の快は目的実現とともに消滅し、不変の姿を持たない。永遠の快は、限定された個別意識の元に無く、無限定な意識一般の先に善の姿としてあるだけである。自己意識が永遠の快を追及しようとするなら、自己意識は個別意識の快を放棄し、意識一般の善の実現へと自ずと快のパラダイムシフトを行わざるを得ない。もちろんその場合でも、自己意識は自己否定を行う。しかしその自己否定は、不幸な意識における自己否定と異なる。不幸な意識の場合、自己否定は現実世界から強制される。しかし善の追求の場合、自己否定は自己意識が自ら希求する。例えその希求が現実世界から強制されたものだとしても、意識自らは両者の差異を維持している。不幸な意識の場合でも善の追求の場合でも、その自己否定により自己意識は個別者としての自己を否定し、一般者としての自己に変わる。しかし善の追求の場合、意識は自ら自己否定したので、その自己否定は形式的なままに終わる。なぜならその意識の自己確信は、否定されなかったからである。またその意識の拘泥する自己利害の中身が一般利害に変質したことで、その意識は自己利害に拘泥したままに自己利害から離脱したからである。しかし自己否定とはそのまま自己確信の喪失であり、自己意識は不安のうちに善の追求に進まなければならない。そこで自己否定する意識は、自らの自己確信の真理を欲し、それを個人的恣意から一般的理性に高めようとする。その意識が目指す先は、他者による自己確信の承認であり、自己と他者の自己意識の統一である。そしてその統一が実現するのは一般者であり、人倫的実体としての精神である。徳とは、そのように自己犠牲により善の実現を目指す自己意識を言う。


6d)世俗

 一方で不幸な意識の自己否定でも自己利害の変質は進む。不幸な意識は、自己否定により喪失した自己利害を不変的一般者と目される他者の利害に置き換える。ヘーゲルはここでの他者に宗教教団を想定している。ただし不幸な意識にとって宗教教団は神に等しい。そして自己否定する自己意識は、自ら主人ではなく奴隷になり、他者に自らの実在の全てを献上する。今では奴隷の自己利害は神の利害に従属しており、奴隷は神に奉仕する喜びに新たな自己利害を見出す。労働のもたらす充実はこの奉仕の喜びであり、この至福のゆえに奴隷は神に感謝する。ここで明らかになるのは、不幸な意識の場合でも、先に見た善の追及の場合でも、幸福と善を排他的に対立させるカントの倫理観が成立しないことである。つまり善の実現が自己意識の快となること、すなわち善と幸福の両立は十分可能である。ちなみに不幸な意識における自己否定は、自己確信を持たないままの個別意識の単純否定である。その自己意識が人倫的実体としての精神の実現に寄与するかどうかは、その自己意識が帰依する他者が決定する。それゆえにその自己確信を持たない自己意識は個別意識の対極に過ぎず、独断的自己確信する個別意識と同様に、内実として意識一般の否定者である。ヘーゲルはそのように個別意識に対して自己否定を強要するだけの自己意識を世俗と呼ぶ。徳と世俗と独断的個別意識は三つ巴に対決するが、博愛的自己犠牲を訴える徳の側の勝機は薄い。なぜなら他の二者は、意識一般の否定者として徳の自己犠牲につけ込み、または徳を堕落させ、徳を攻め滅ぼすからである。ここでの徳の敗北は、幸福と善に排他的対立を見るカント式倫理観を是認するように見える。しかしヘーゲルにとってそれは、徳の善が抱えていた虚偽が露呈した出来事にすぎない。それと言うのも、なるほど善は自己利害の放棄として始まったのだが、対他存在を得た善は逆に自己利害の追求を意識に要求するからである。したがってヘーゲルにとって徳の敗北とは、むしろカント式倫理観が抱えた虚偽の露呈である。ヘーゲルは実際には善が利己的行為として現れると考えている。


6e)先験法と事自体

 目的実現の意識が快であるのは、ヘーゲルが言わずとも理解できる話である。したがって目的としての善の実現が快として現れるのも、当然のことである。ところがカント式倫理観は幸福と善を排他的関係にあると考えるので、善の実現によって意識が快に達するのは不適切な結果である。あるいは快の実現によって意識が善に達するのは不適切だとみなされる。この倫理観が表現するのは、神聖な善行を肉欲と対立するものと考え、両者を遠ざける宗教的禁欲主義である。その倫理観は、個別意識に現れる快が神のための善と別物であり、快と善の両者が相互対立するのを前提にしている。しかし善を神のためのものとせず、意識一般のためのものとし、さらには人倫的精神のためのものと考えると、善行と肉欲の対立は次第にあいまいになってくる。その場合、個別意識に現れる快は、意識一般のための善と別物ではなく、両者は必ずしも相互対立しない。さらに言えば、食べることも無く性生活の無い意識は、意識一般ではないし、そのような個人が一般化する方がむしろ人倫に反する。それでも幸福と善を排他的関係にあると考える場合、そこに前提されるのは、個別意識に現れる快が、意識一般のための善と別物であり、両者が相互対立することである。このときに善として現れるのは、実在する個人から遊離し、物と区別され快と無縁な個人の仕事そのものである。それは個人の仕事でありながら意識一般の仕事として現れる。その現象の背後に控えているのは、仕事それ自体を成す内在的理念である。それは、仕事の手順や方法を規定する仕事の法であり、事自体である。カント式の物自体が観察理性の思い描いた個々の存在者の客観的理念であるなら、事自体は実践理性が個々の存在者を擁立する作業手順の主体的理念である。しかしここでの事自体が持つ非個人性は、事自体を先験的な法としてだけ規定する。この場合の先験法は、法の確立の経緯に無関心であり、自己矛盾の排斥とひたすら法の遵守を要求するだけの無内容な法である。そしてその先験法の現実は、確立された悪法の遵守を強要する司法の独裁である。カントにおける物自体と現象の分断は、ここでも事自体と法の分断として現れている。当然ながら、ヘーゲルは事自体を先験法の地位から解放し、人倫の確立から事自体を語り直そうとする。
(2017/07/04)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項   ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項  ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項  ・・・ 良心
  E章 A/B節    ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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