唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(E章C節.宗教(キリスト教))

2017-02-26 12:12:21 | ヘーゲル精神現象学

 先行のA~B章で自然崇拝と芸術誕生で宗教の生誕と発展を説明したヘーゲルは、さらにこれまでの精神発展史をなぞる形でキリスト教成立の史的考察に入る。ここではD章B~C節(啓蒙・道徳)に対応するE章C節(啓示宗教)を概観する。


[E章C節の概要]

 自然宗教において静的実体であった精神は、芸術宗教において主体的自己意識となった。それは自ら対象化した自己を自ら外化することにより、全実在を喪失した無内容な抽象としてのデカルト的自己である。しかしそれは自らの悲劇をストア的自覚において喜劇に変え、さらには自らを精神として意識する精神、すなわちキリスト教を生み出す。芸術における現実的自己意識と即自的実体の結合は、宗教におけるその最終形として、自己意識を得た現実の人間へと受肉する。つまり精神は、キリストとして対象化した自己自身において自己を確信する。そして啓示とは、そのような精神の予定調和についての直観である。その精神の直接態は、一般的自己意識ではなく個人であり、すなわち現在である。このことから一般的自己意識は、常に現在ではなく過去として現れる。つまり現在は過去の中に消失しつつ、再び現在として復活する。宗教的意識においてそのことは、個人が教団の中に消失し、再び個人として復活する運動として現れる。ちなみに教団との関係を廃棄する原理主義とは、無概念に留まる宗教的小児病にほかならない。その精神の抽象と現実は、純粋思惟において対立を廃棄している。しかし純粋思惟は自己を欠く対他存在であり、精神は純粋思惟としての自らを物象化することにおいて世界を創造する。そこでの精神の定在が、個人である。思想を意識するまでの個人意識は、精神ならぬ即自存在に留まる。しかし思想を意識することにおいて個人意識の自己は、自己自身の他者となり、すなわち対自存在となる。そこでの自己自身は自己の自然定在なのだが、この自己と自己自身の不等を原罪として悪が現れる。つまり自己の自然的定在を含めて、此岸の世界は悪である。善はその彼岸であり、自己における自己自身の確信である。そこでの自己自身は、自己意識である。善悪の両者は思想上の実在であり、それらの現実は対自存在として自存する。しかし両者の現実は、神的実在および互いに対する偶有に過ぎない。そこで両者は自らの一般態を自己意識および自然定在として疎外する。その疎外は個別者の死であり、その一般者における復活である。そしてこの死と復活において両者の対立は廃棄される。また個別表象に過ぎなかった自己意識の現実も、善悪の対立を踏まえた一般態としての概念に移行する。教団は概念において悪を善の媒介者として理解し、神的実在と対自存在の実存対立、そして現実が実在に帰属する自己内存在のいずれもを必然的契機だと理解する。善悪は運動として現れ、その運動において両者の区別も廃棄される。またこの運動において個別者から生じた一般者は、自らの他在において自らを現す精神であり、知として現れる。知において個別者の定在は一般者の中に溶け込み、精神もその非現実な表象を脱して主体的自己意識となる。この精神は自己自身に等しい実体である。それは神的実在の肉体的な死によって、または精神が悪を赦し自ら動くことによって得られたものである。ただし教団における神的実在と自己は既に彼岸の統一としてあるので、個別の消失や意識の主体化は彼岸の表象に留まっている。それは自己意識の即自存在に過ぎず、自己意識としての自覚に欠けたままにある。すなわちそれは、自己意識の対自存在、すなわち絶対知としての精神ではない


1)芸術宗教の統括としてのキリスト教

 自然宗教において静的実体であった精神は、芸術宗教において主体的自己意識となった。しかもその自己は、偶有的非実在から絶対的実在に変わっている。それと言うのもその自己意識は、自ら対象化した自己を自ら外化することにより、再び実体を回復したからである。しかしそのようなデカルト的自己は、全実在を喪失した無内容な抽象であり、法国家における点として現れる不幸な意識である。ところがこの自己におけるストア的実在の自覚は、不幸な意識の悲劇を喜劇に変え、人倫的精神を没落させてしまう。そしてその没落により彫像や叙事詩は、以前に持っていた神聖さを失う。ただしその没落の運命は、それら彫像や叙事詩などの個別表象の住居であり、精神の純粋形式である。その形式は、芸術宗教の各種形態を包括する純粋概念として即自存在している。この没落の悲劇的運命の精神こそが、自らを精神として意識する精神、すなわちキリスト教である。


2)降臨するキリストの啓示

 精神は自らを対象化して個別者へと分裂する自己意識であり、かつ自らを物象化して一般的実在へと回帰する主体である。つまりそれは、現実的自己意識と即自的実体が結合して受肉した定在である。したがって精神は自らの外化を必然とする概念である。自らを外化しない自己意識は、精神ではない。またもし自己意識の思い描く自分自身がただの思い込みであるなら、そもそもそれは自己意識ではない。それゆえに精神は、信ずる意識に即して、自己意識を得た現実の人間として現れる。精神の対象はこの対他存在する自己であり、精神はこの対象化した自己自身において自己確信する実在である。絶対的宗教における啓示とは、神的実在が精神であり、それが自己意識として存在することの直観である。したがって宗教的意識において神は、人間として直接的意識に現れる。またその存在としての単純で現実的姿こそが、神の最高の実在形態である。


3)原始キリスト教

 精神の直接態は、純粋思惟としての無媒介の個別的自己意識である。それは一般的自己意識を感覚的他者として排除する。すなわち精神の直接態は個人であり、神としての現在である。それに対して感覚的他者の定在は、現実と言う知覚表象として現れる。現在するのは常に前者なので、後者は常に過去へと移行する。そこで同様に精神の対象的定在も、常に過去として現れることになる。かくして精神の直接態は、意識へと移行する。ただし直接態の神は、過去となることにより感覚的他者として消滅する一方で、個別的自己意識の内に現在として復活する。さらに直接態の神が持っていた否定性は、教団の形で一般的自己意識の側に移行する。このことから個人は、復活した神と教団の全体表象として現れる。ただしそのような全体表象は、表象間に矛盾を抱えたままであり、存在と思惟の未完成な結合である。すなわちそれは概念となるべきである。このことから判るのは、宗教の原理主義が、教団との関係を廃棄し静止的実体に留まる点で、単なる退行だと言うことである。


4)人間の原罪

 精神の抽象的な純粋実在は、それが表象される限りで抽象ではなく現実である。つまり現実の精神は、統一形式として現れる他者である。それゆえに精神の抽象と現実は、純粋思惟において対立を廃棄している。したがってその精神は、思惟されただけの純粋概念も廃棄している。しかしここでの純粋思惟は、自己を欠く対他存在である。そこで精神は純粋思惟としての自らを他者とし、世界を創造する。世界は精神の定在を含んでおり、それが個別者としての自己として現れる。ただしその自己としての世界は、即自存在する意識に留まっており、対自存在する自己意識ではないし、精神でもない。この自己が精神になるのは、自己が思想を意識したときであり、それによって自己が自己自身の他者になったときある。しかしそのように自己が自己自身に相当しないのは、悪である。とは言え、悪が存在すると言うことは善も既に存在すると言うことである。そのような善における自己自身とは自己意識である。その自己は自己意識の現実として自己意識に等しい。


5)キリストの復活

 善における自己自身は自己意識である一方で、悪における自己自身は自然定在である。すなわち自己の自然的定在を含めて、此岸の世界は悪である。善悪の両者は共に思想上の実在として表象されており、それぞれの現実は対自存在として自存する。この両者の現実の前では、神的実在の方が非現実の抽象である。そしていずれにおいても自己はそれぞれの自己自身の現実である。ところがこの現実は、神的実在の前では偶有に過ぎない。しかも善悪の両者は、思想上の対立で相手に依拠した非実在なので、それぞれは一般者としての自己意識と自然定在を自ら疎外する。この疎外とは、自己の死である。ただしこの外化は精神の出現にほかならず、その神的実在の復活において善悪の対立も終わっている。


6)キリスト教団

 自己意識の現実が廃棄されると、その実在は一般的自己意識となる。それは表象に過ぎなかった教団の概念への移行でもある。精神は表象としての自己から、概念としての自己意識に移行したわけである。また表象の各部分も、対立する意味を得ることにより、自らの意味を完成する。この移行では、悪が善の概念的確立の媒介者であること、また神的実在と対自存在の実存対立、そして現実が実在に帰属する自己内存在のいずれもが必然的契機であることが明らかとなった。ただしこの必然は、表象的意識には理解できなかったものであり、自己の死を通じて自己意識となった精神だけがそれを理解する。なぜなら概念把握とは、個別の自己意識が死んで、教団と言う一般者に復活することだからである。しかもその精神は、教団の中で日々生き死んで復活している。ここでの自己が他者になる悪、または自己が自己自身を確信する善とは、運動である。その運動において個別者から生じた一般者こそが知である。したがって精神は善悪を運動だと理解し、それらの区別を廃棄する。このことが精神をそれらの区別に対して無頓着にさせる。


7)神的実在と自己の統一

 個別の現実として現れた精神は、自らの他在において自らを現す知となる。このときの個別者の定在は、知の一般者の中に溶け込んで消えている。ただし非現実な表象に過ぎなかった精神は、今では現実の主体的自己意識である。それは自然的定在を外化することで純粋否定性となったがゆえに、自己自身に等しい実体である。ここでの個別の消失や意識の主体化は、神的実在の肉体的な死によって、または精神が悪を赦し自ら動くことによって得られたものである。ところが肝心の教団は、自らを自己意識として意識することもなく、表象を自らの内容としている。それと言うのも、信心する意識にとって神的実在と自己は既に彼岸の統一としてあり、個別の消失や意識の主体化は彼岸の表象に留まるからである。しかしその統一は自己意識の即自存在に過ぎず、その対自存在すなわち絶対知としての精神ではない。

(2017/02/26)続く⇒(精神現象学F) 精神現象学の前の記事⇒(精神現象学E-A/B)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項   ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項   ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項  ・・・ 良心
  E章 A/B節    ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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