泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

祖さまの草の邑

2024-03-30 14:24:59 | 読書
 石牟礼道子さんの詩集。
 タイトルは、「おやさまのくさのむら」と読みます。
 祖さまというのは、連綿と続いてきた命そのもののことかもしれません。
 生き物のそれぞれが音を持っている。
 耳を傾けることのできる人は、自然の交響曲を楽しむことができる。
 この辺りの描写は、ミヒャエル・エンデの「モモ」(岩波書店)を思い出しました。
 マイスター・ホラに連れられて、モモは「時間の花」を見ます。そこでは豊かな音楽が流れていました。
 人々は、自然の中で生きていました。
 そこに「会社(チッソ)」がやってきた。
 護岸工事をし、渚をコンクリートで固めてしまった。
 渚は、海と陸とが呼吸をするところ。
 小さな貝たちや、タコの赤ちゃんたちがたくさんいた。
 近代化の名の下に、壁を作っていったのは人間。
 電気に化学肥料にビニール。どれも欠かせなくなった。
 一方で、不要となった毒が撒き散らされた。
 自然が壊されていく。小さな生き物たちが死んでいき、その音がかき消されていった。
 石牟礼さんは聴いている。書かずにはいられない。
「のさられ」て。
「のさる」というのは、私の理解ですが、自分とは違う魂を引き受けること。
 無くなっていった生き物たち・人々の怨霊とも言える。
 そんな声なき声を拾い、代弁する。

 昨年の今頃からか、私は耳栓を使うようになりました。
 通勤のとき、休憩のとき、家にいるときもうるさければ。
「鈍感な世界に生きる敏感な人たち」(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を読んだのがきっかけだったような気がします。
 耳栓をして、静寂がこんなにもありがたかったのかと、驚いた。
 それまで、騒音で随分とストレスを感じていたことを実感したものです。
 カウンセラー・詩人・小説家にも、共通しているのは「耳の良さ」でした。
 耳を守る必要性もあると自覚し、今では耳栓を携帯しています。
 そんな私が最も共感した詩を一つ、紹介します。
 本書の58ページから63ページです。
 ちなみに作品中に出てくる「おどま」とは、熊本の方言で「私たち」という意味です。

 蟇(がま)の蟇左ェ門(二)

 肥薩ざかいの山麓は
 ついこの間まで
 紫尾(しび)のおん山々と尊称されていた

 天気の良い日に渚を歩くと
 不知火海の雄大な満ち潮に映し出されて
 その霧の中に 美しい形の野ぶどうが
 映り出て 遠く
 近くに彼岸花も草いちごのたぐいも沈んで見え
 そのまんま秋になってゆく

 渚の鼻からゆるゆると見わたす
 ご先祖たちが掘りあげた由緒ある
 蟇左ェ門の穴蔵に サイレンがひっかかった
 三百万年くらい前に出来た穴蔵である

 歴史の変り目ごとに会社のサイレンと
 ガシャリとぶつかるのだ

 うをおーん うをおーん と聞こえるのは
 穴蔵で昼寝をしていた蟇蛙の声かと思われたら大まちがいだ
 蟇の長者が出てきて言うには
「ここを何と心得る 豊葦原の瑞穂の国なるぞ われらがしゅり神山 ご先祖たちが 掘って掘って掘りあげ
 百万遍も唱えごとをしたご神殿である」

 うをおーん うをおーん

 鳴いているのは 大地の魂の声であるぞ
 新しくきた会社のサイレンが毎日夕方になると
 ひゅをおーん ひゅをおーん
 と うなるが ばかを言うにもほどがある
 おどま会社のサイレンぞ
 おどま今までこの世になかったサイレンちゅうもんぞ
 首の後ろを電気のこが行き来するような
 無情な音だった
 その音は 諸々のものたちの魂をぶった切るので蟇左ェ門は
 治療してまわるのだ
 花の蕾も 夜鳴く虫たちも 大昔からあの声に育てられたのだ

 うをおーん うをおーん
 と啼かれるとそのたんびに頭をたれる
 ひょっとすると私のひいひいおじいさんかもしれないのだ
 ゆっくり屋が急げば ろくなことはない
 魂の病人たちばかりだから つける薬はない
 それ あれでゆけ

 うをおーん うをおーん

 あの声が躰中に五十ぺんばかりしみわたるとなると
 カクメイという発作が起こるかもしれない
 豊葦原の瑞穂の国とは 不知火海の渚から陸上を見わたして
 その内陸の先を見はるかしながら 四方の山々に陽が射すと 丘がいっせいにせり上がり
 稲の花が咲いているにちがいない
 なんとゆかしい香りであろうか
 近頃やって来た会社のサイレンが しゅり神山一帯のふうわりとした稜線を
 なんともヒステリックな音を出してぶちこわす
 ゆかしい香りをたてていた瑞穂の原は たちまちげんなりとして ただ首をたれているだけになってしまった
 九州山地の稲田に立てば 細長い列島の全容が見える
 稲束をかついだ人々は それ自身が香り立っている初々しい
 聴覚だった
 豊葦原とは なんと瑞々しい名前ではないか

 石牟礼道子 著/思潮社/2014

 

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