泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

本物は解放する

2023-05-17 18:30:18 | 使える知識
 この前書いたら、もう一つ書きたいことが出てきたので書いておきます。
 それは、「本物は解放する」ということ。
 これが「使える知識」なのかは、よくわかりませんが、私が体験から学んだ「結晶化した知恵」のようなものです。
 特に、人間関係において、腑に落ちることが多いと思います。
 そもそも、何が「本物」なのでしょうか?
 揺るがない、たった一つである、にせ物や見かけばかりの物ではないこと、その名に値する。
 例えば、「先生」、それに「友人」。本物は、その名に値する。
 ニセモノではなくホンモノであるから、持続する。持続可能性ということも、本物の条件に入っていると思います。
 本物は、真、真実でもあります。
 心で、体で、その人の存在そのものが、そのようになろうとしている真。
「ああしろ」とか「こうしろ」とか「こうした方がいい」とか「はやく!」とか、あるいは「ばか」とか、ではなく。
 要するに言葉だけじゃない。どんな服を着ていても、マスクをしていても、あるいはメイクをしていても、人間だからこそ「感じ取って」しまうもの。
 お酒の力を借りないと、「腹を割って話す」ことが難しい人がいます。
 お酒を飲んで、体を痛めてまで、その人は何をしようとしているのでしょうか。
「解放」されたいのではないでしょうか?
 何から解放されたい?
 自分でもよくわからない、息苦しさから。生きにくさから。あるいは慢性的な疲労、寝不足、イライラ、不安。
 真、いのちとしての自分の現在の状態と、会社や仕事でつきあう人間関係や家族関係の中での自分との「ずれ」。
 そんな誰にでもあるけど、人によってものすごく大きくなってしまうこともある「ずれ」を、話し合うことができれば、そのずれを修正していくことが生きる希望になる。逆に、「ずれ」が、その人と会うことによって広がってしまうなら、その関係は偽物ということ。それが本当の親子であったとしても。
 ただ、偽物と分かっていても、付き合う必要のある関係もある。仕事の上司とか、同僚とか、クラスメートとか、学校の先生とか、ママ友とか、親子も。でも、自分が満たされることのない関係ばかりでは、息苦しくなって当然ですね。
 生まれた子は、その親を「人間の見本」として、「人間の真の姿」として真似をして育ちます。
 いつの間にか言葉を覚えてしまったように。その人の喋ることや喋り方も、「感じ取って」学習して身につけるもの。
 でも、人は、一人一人違う。
「親のように育った」とはいえ、「親と同じ」にはなれません。そもそも、生きている環境も違う。遺伝子も違う。その子にはその子にあった、たった一つの生き方が備わっている。
 生まれ持った、備わったものがどんどん開発されていくこと。そのことを人は「解放」と呼ぶのではないでしょうか?
 備わったものが、倉庫に仕舞われたまま出番が来ず、腐っていくのではなく、次々に注文が来て、他の人の人生に貢献できている。そうであれば、人はしあわせを感じる。
 自分は、「探す」のではなく、「思い出す」もの。あるいは、自分の中に「見つける」もの。
 その人にとっての「本物」は、その人にしかわかりません。
 振り返って、ああ、あの人と出会えて本当によかった、と心から思えて、今でも連絡を取ることができる人、その人たちが私にとって本物の人たち。
 だって、私の一部になっているのだから。
 いくつかの本当に大切な本が、私の一部になっているように。
 そんな数少ない、でも確かな「本物体験」が、私を支える自信になっている。
 その人と会うのが楽しいのかどうか。その人と会うと肩に力が入るのか抜けるのか。時間が経つのを忘れるか長いと感じるか。
 人に防御は必要です。が、防御を固めれば固めるほど、身動きは取れなくなっていきます。
 今、あなたの周りに、話しやすそうな人はいませんか?
 その人を、あなたは、「感じ取る」ことができるはずです。
 先日も、大手出版社の若手の営業さんが、「つい」、私にグチをこぼしていかれました。グチという名の、言いたいけれど言えなかった「本音」たちです。
 私は、そんな本音が好きなのかもしれない。好きだからこそ、「つい」聴いてしまう。拾ってしまう。
 そうやって集まった本音たちが、いつしか壮大な物語を建てるための柱やねじの一つ一つになっていくのかもしれません。
 私も、私の近くにいた「話しやすそうな人」に本音を話すことから、やっと自分の人生は始まった。
 まさに物語ることが始まった。
 物語が、人に必要なわけです。
 だから本当の物語も、人を解放せずにはいられないはずなのです。
 長くなりました。少しは伝わったでしょうか?
 フォロワーが一万人いるからといって、国営テレビが放送しているからといって、その人の発言や表現が「本物」かどうかの保証にはならない。数の暴力に流されないでください。
 人は流されるものだし、勘違いするものです。だからこそ、「感じ取る」能力も持ち合わせている。「なんか、くさいぞ」と。
 もし、「くささ」も感じ取れなくなっているとすれば、その人は成長することも無くなってしまった人。
 成長は、目標との「ずれ」を埋めようと必死になるから達成できる。目標という「言葉」に、中身がどれほど追いついているか。その「言葉」に、どれほどの真実が詰まっているか。
 だから、偽物は成長しない、とも言える。逆説的だけど、偽物は変わらない、とも言える。変わらないことで、時代に取り残されて、消えてゆく。成長の過程の中で、不要物となって捨てられていく。
 本物は、解放する。
 私は、いつも書くことで、解放されてきました。
 解放されるとは、ときはなして自由になること。
 そして、自由とは、自分が理由になること、です。
 自分が、この人生の主人公になる! ということです。
 写真は、矢車菊。
 古代エジプトで、魔除けの花として可愛がられていました。
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感情の転移 大切な人とのこと

2022-12-11 16:46:43 | 使える知識

 11月の29日でした。疲れを取りにお気に入りのスーパー銭湯に行っていたのですが、風呂から出るとケータイに何度も父から連絡が入っていました。
 不安しかよぎりません。で、電話してみれば、母がコロナ陽性になったとのこと。
 ついに。家にも。
 ショックでした。
 その風呂場から母の通っているクリニックは近いので歩いて行き、すぐ抗原検査を受けました。
 父と私は陰性。母の入院もできる病院はあるとのことでしたが、場所が遠いのと、症状は軽かったので、自宅療養となりました。
 それからの1週間は、長く、重く、緊張の連続でした。
 父と私で家事を分担し、隔離している母の部屋に食事を運ぶ。用心深くマスクして、消毒をして。
 いつも作ってもらっている手料理を、今度は私たちがした。洗濯も、自分のものは自分で。
 市や田舎からの支援物資にも助けられました。
 母は透析患者なので重症化リスクがあり、一番恐れていることが起きてしまったのでした。
「死ぬかも」と思ったのは二度目。
 一度目は、慢性腎臓病のために食事療法で透析をしないで済むように頑張っていた母がおかしくなったとき。
 意識が混濁し、自力で歩けなくなった。かかりつけ医に電話して透析が必要だからと受け入れ可能な病院を紹介してもらって、父と二人で運びました。
 後で知ったことですが、そのときの母の症状は「尿毒症」でした。腎臓で取り除くことのできなかった毒素が体を巡って頭まで入ってしまった。
 最悪のときは、もちろん会話もできず、目は開いているのに痙攣したり、舌を出したりと、見ていられなかった。暴れるので拘束までされて。
 でも、透析を繰り返すたびに意識を取り戻していった。「意識」の大切さを知らされたのも母を通してでした。
 で、二度目。
 コロナ感染を知らされた夜はろくに眠れなかった。心配してしまって。
 母とメールのやりとりをいくつかしましたが、「すまない」「申し訳ない」「迷惑かけてごめん」ばかりで、余計に気が滅入る。母の「すまない気持ち」は十分すぎるほどに伝わってきていました。
 で、思った。私は散々母に迷惑をかけてきた。その様々な体験が蘇った。だから伝えた。「私も迷惑をかけてきたから、お互い様です。今度は私たちを頼ってください」と。涙も出た。それで緊張はほぐれた。
 1週間たち、症状も治まり、再度の検査でウィルスの減少も確かめられ、主治医にも「もういいんじゃない」と言われ、その言い方の曖昧さに不安を拭えなかった母に、マラソン大会のために取っておいた抗原検査キットを使って、後日私がもう一度検査しました。そして綺麗に陰性でした。晴れて解除。
 この一連の体験を通じて、改めて私にとって、母は大切な人なのだと実感させられました。
 そして、大切にすることもできました。食事の世話だけでなく、母がいつも大切にしていた花瓶の花の存在にも気づき、枯れていたものを私が買った花と入れ替えもして。私が買った花の中には、おそらく初めてのカーネーションが入っていました。
 前置きが長くなりました。
「感情の転移」とは、私にとっての母のように、大切な人との感情を、他の人に置き換えることを言います。心理療法で必ずと言っていいほど起きる現象で、これを克服できるかがかなり重要なテーマになります。
 この「感情の転移」は、しょっちゅう起きています。が、気づきません。無意識なので。というか、意識できたら、もう「転移」ではないでしょう。
 なぜ気づかないのか? 気づかないようにしているからです。私もそうでした。母が大切って、マザコンかよ。私に限って、そんなの関係ない、と。むしろ積極的に否定していました。
 じゃあ、どうして気づいたのか?
 私が思いを寄せた女性たちと、ことごとくうまくいかなかったから。似たようなあらすじをなぞることが何度もあった。その人は、私を恋愛対象と見ていなかったり、すでに異性の相棒がいたり。
 具体的な話をすると、その人が誰なのかわかってしまうのでぼかしますが、そんな「感情の転移」の破れを体験させてくれた最後の女性がいました。その人のあるところに、母とまったく同じ場所に同じような小さな「いぼ」があったのです。それを見て、私は「この人に違いない」と思い込んだ。しかし、それこそが、私が女性に「母に代わる存在」を見ていた証拠でした。その人は、程なく結婚することを知りました。もちろん、私とではありません。そのときの感情の乱れをなんと言っていいのか。つらくて、自分の未熟さがふがいなくて、恥ずかしくて、自分から「さよなら」を伝えて、その人への悪口をグッと堪えて、一人静かに涙した。
「分離不安」もあったのでしょう。大切な人にとっての良い子を演じていれば、見捨てられることはないし、愛される。自分自身を頼る前に、良い子のメリットを身につけてしまうと(それもほとんど無意識で)、長い不幸の時代が続くことになります。ある程度信頼関係を作った女性と別れるとき、不安が高じることがよくありました。不安がもとで付き合ったとして、互いが幸せになれるはずもありません。
「感情の転移」は無意識で起きていて、意識が蓋をしている。どうしてなのかは、さっきも書きましたが、事実を認めたくないと否認しているから。認めることを恥であり、ありえないと意識しているから。認めることは、その人の在り方の変更が伴う。変更しないでもやってこれたから、人は今のままでいいんだとどこかで思っている。意識の体制に突破口を開けるのは大変なこと。でも、一度開いてみると、あーそういうことだったのね、なんか前より楽になった、という感じがします。
「感情の転移」が問題なのは、要するにその人をその人として見れなくなってしまうから。目の前の人の本当の姿を見ることができない。私とあなたとの間の、見せかけではない信頼を作ることができない。だって、他の人との感情がどうしても再現されてしまうから。適応するのが困難になってしまう。職場でうまくいかないとか、私のように恋愛関係が順調に進展しない(あるいは、確信犯的に、進展しないようにしていたのかもしれません)とか、ネット上の炎上とか、虐待の連鎖とか、陰謀論が力を持ってしまうわけ、とか、挙げれば切りがないほど「感情の転移」は起きています。
 このささやかなブログの中で、「使える知識」を新設し、伝えたかったことの一番かもしれません。この「感情の転移」のこと。
 たぶん、読んだだけではわからないと思います。仕方ないです。私も、知識として知っていても、実際腑に落ちたのはここ最近のことですから。
 ただ、知識として頭に残っていれば、どこかで、「あ、これ、転移かも」と気づくこともあるでしょう。「転移」が見えたらしめたもの。ずいぶんと人間関係は楽になります。だって、余計な感情に邪魔されずに済むのですから。その人が、その人として、見えてくるのですから。あなたも、私も、すっきりと、一人に。
 付け加えておきたいのは、「感情の転移」は解決されなければならないことではあるけれど、「感情の転移」が起きることによって守られている命があるということです。「転移」がある間は確かに不完全な状態かもしれない。だけど、人はそんなすぐに成熟するわけでもない。そこに至るまでの過程があるのであって、巡り合わせの順番や順序もある。失敗を重ねることで学んで、人を見る目も確かさを増すでしょう。内側から湧き上がる欲求の強さ、意欲の確かさも意識を変えるきっかけになります。
 出会いも助けになってくれます。出会いは、向こうから来ます。私に「感情の転移」を破らせてくれたその人との出会いには、感謝しかありません。
「感情の転移」という繭がほどけたとき、やっと希望が生まれるのかもしれません。
 それは、自分が起点になるということ。自分が作る。自分が作っていける。自分で生きていく。この、自分への揺るがない頼りがい。
 もう誰かの目を気にしなくてもいい。もう誰かの言葉に煽られなくてもいい。その清々しさ。
 その人との関係に、他の人との関係を重ねなくてもいいありがたさ。
 やっと、その人の在り方を、できる限りありのままに受け入れ、支え、愛することもできる、という希望。
 別れることを過度に恐れなくてもいい気楽さ。むしろ、離れるときこそ成長のチャンス。行きたいところにいくためには、ここから離れなくてはならない。それができる、かけがえのない自由。
 大切な人が、私を今まで守ってくれた。今度は私が、私の大切な人を守る。
 守られ、大切にされてきたからこそ、私にはもう守り、大切にする力は備えられている。
 備えができた。だからこそ破った。
 自分から大切な人たちに伝えていく。
 私は、もう、伝えることができる。その喜びを感じながら。
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私ってなんだろう?

2022-11-20 15:37:21 | 使える知識
 人が人を信頼し、健康に、本来の姿として成長していくために必要な3つの条件の3つ目。というか、順番をつけるなら、はじめの一番かもしれません。
 それは「純粋性」と呼ばれますが、要するに「私」であるということです。
 何かの「役割」を演じているだけの人を、人は決して信頼しません。「役割」は「カウンセラー」だけではありません。「父」「母」「子」あるいは「長女」「長男」「後継」「男」「女」「社長」「店長」「総理大臣」「作家」「魚屋」「八百屋」「フリーター」「引きこもり」「うつ」さらには「明るい」「暗い」「元気」「固い」「若い」「年寄り」「おばさん」「おじさん」などなど、もう無数にハマる可能性のある役割や仕事名、状態はあります。
 言葉で生きる人間の性(さが)なのでしょうが、その人が表現していたり言われたりしている言葉と、その人の今の本来の「私」は必ずしもぴったり一致しているとは限りません。むしろ、ズレている方が多いです。言葉と私がズレているからこそ、人はもやもやし、悶々とし、悩み、誰かに相談したくなります。あるいは誰かに突っ込まれたり、糾弾されたりもします。「死にたい」と言ってみたりもします。そのとき、その相談相手も、「私」とかけ離れたところにいたらどうなるでしょう? 混乱と消耗と不幸の増大しか見えてきません。
 で、その信頼できる「私」とはなんでしょう?
 純粋に私であるとは、どんな状態のことでしょう?

 私は、走り始めて、やっと私でいることに落ち着いたと感じています。
 私は、私です。
 私は私です。ではありません。
 私は……。でもなく。
 私は、私。「私は」のあとに、「、」が入ります。意訳すれば、「私ではなく」になります。
 私は、私ではなく、私です。
 私は、私ではないところに行き、私に帰ってきます。
 私ではないところから、たまたま私になり、再び私ではないところに帰っていく。とも言えます。
「私」はなんとなくわかるけど、「私ではないところ」って何? と思うかもしれません。

 睡眠を思い返せばわかるかもしれません。
 私は私はああ私はどうしたらいいの? こんな不安や心配を抱えたままでは眠れません。「私は私」状態。私を、私ではないところ(この場合は睡眠)に任せることができない。頭の発する言葉(私)が、体の欲する睡眠(私ではない)を拒んでいる。受け入れる隙がない。
 赤ちゃんは、眠りに落ちる前に泣きます。赤ちゃんに聞いても、まだ言葉を使いこなせないので「そうだよ」とは言ってくれませんが。側から見てると、眠いなら眠ればいいじゃん、と思う。でも、猫とは違って、人はそうじゃない。眠ってもいい保証が欲しいのでしょうか。それこそ「無条件の肯定的配慮」と「共感的理解」と「純粋性」と。せっかく生まれてきたのに、この私からいなくなる(眠る)なんてやだ! だって、また私に戻ってくる保証はどこにあるの? そんな「私は……」と消えてしまうことへの恐怖と疑いが、赤ちゃんの訴えにはあるのかもしれません。「いないいないばあ」をするとキャッキャと喜ぶ。あれもまた「ある」が「ない」になり、不安になり、でもやっぱり「あった」、本当にあった、ともうすでに実存的欲求を満たす遊びだからなのかもしれません。
 で、「私」ってなんだかわかってきたでしょうか?

 「私」は、「私ではないところ」と「私」を往復する運動であるということ。
 走るようになって安定してきたというのは、走ることは「私ではない」状態、言ってみれば「風」や「空」や「自然」になってしまうことだから。「頭を空っぽにする」ということです。有酸素運動を繰り返していれば、小難しいことなど吹っ飛び、ただ今走っていることだけに集中します。そしてその状態が気持ちいい。
「私ではない」状態への慣れと親しみが深まれば、自ずと睡眠の質も上がってきます。ぐっすり眠れます。「私ではない」質が高まれば、自ずと「私」の質も上がります。シーソーみたいなものでしょうか。
「私ではない」状態に親しむために、私にはランニングが適切だったということ。方法は、人によっては様々でしょう。様々であってしかるべきです。ただそこにアルコールや薬物やタバコや賭け事や色事やゲームなど、過度に入り込むことは問題です。「私ではない」を突き詰めれば死に至ります。生きているということは「私」に戻ってくることができるということです。

 走る前からやっていたこと、読書、もまた、私から離れ、私に戻ってくる運動を楽しむことです。
 私から離れて得た成果を、読書感想という形で書き、保存してもきました。
 そこで書いた文章は、新しい私の一歩を支える言葉となり、道となります。

 私が運動であるならば、そこには足跡のような道ができます。
 この道は、「文学」というようなとてつもなく大きな「私ではないもの」への道もあります。
「私ではないもの」は、「文学」だけじゃなく、「ランニング」も「学問」も「芸術」も「政治」も「経済」も入るでしょう。
「私物化」が問題となるとき、「私ではないもの」への接近が不足しています。「私ではないもの」は、翻って「みんなのもの」になります。「公」とも言えます。
 みなに共通するものがあるから使えるし、納得もできる。お金(みんなのもの)を払って私のものにするという運動も起きます。
「私ではないもの」を確かにつかみ、それでいてその手は「私」のものでしかない。
「私」は、「私ではないもの」と「私」の間を何度も繰り返し行ったり来たりしてできた道の複合体、と言えるのかもしれません。
 大きな道もあれば遥かな道もある。小道もあれば凸凹道もある。山道も獣道も坂道もある。
 そんなたくさんの、確かに自分の足で歩いた道の数々は、複雑に絡み合って、立体になっている。立体の形は人それぞれで、常に変化している。立体を通る道のどこにいても私。私は、面であることもあるし、線であることもある。見栄えはいいけど中は空っぽという立体もある。柔軟で、変幻自在で、立体の中で他の人物を作ることもできる。得意も不得意も、人それぞれ。その姿は、決して目には見えないけれど、人は感じ取ることができる。
 開拓してきた道のどこかにいること。私を作る道の上で反応することが純粋であること。そうでないと、何かイヤーな感じがしたり、避けたくなったり、追及したくなったりするものです。
 
 そして、そんな「私」を作っていく道を歩いて、ときに走って、行くことができるのは、あなただけしかいません。
 あなたが、あなたの人生の主人公です。
 道は、行き来するだけでなく、修復したり、拡張したり、通行止めにしたり、新規開通したり、橋をかけたり、と必要に応じて変化します。

 空を見上げて深呼吸する。
 海を眺めて、波の音に耳を澄ませる。
 花の美しさに打たれて思わずシャッターを切る。
 土いじりをして新しい種を植える。
 温泉に浸って、溜まっていた息を吐き出す。
 クラゲを見つめて、心でクラゲになってみる。
 月が地球の影に隠れて、また出てくることを楽しむ。
 どれも、「私ではないもの」に触れてホッとする時間のこと。
「効率」や「コスパ」や「タイパ(タイムパフォーマンス)」、あるいは「個性」も優先されがちですが、人は決して「私」だけでは生きていけません。
「私ではないもの」は、もちろん「他者」も入っています。
「私ではない」けれども信頼できる人(私ではない私)との対話は、確かな道となって、私たちを支えます。

 
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共感的理解とは

2022-10-30 17:49:45 | 使える知識

 人が人への信頼を作り、人として成長していく上で必要な3つの体験、「無条件の肯定的配慮」「共感的理解」「純粋性」のうち、2つ目。
「共感的理解」を、どうしたら伝えられるのか? ここのところずっと思っていました。
 まず、「共感」は「同情」ではありません。
 共感は、「共」があるように、お互いの違いを認め、そのまま受け入れることが前提です。個別の違いがあるけれども、共に感情を分かち合えること。
 詩人で小説家で画家でもあった武者小路実篤の言葉を借りれば、「君は君、我は我也、されど仲よき」。
 私の好きな言葉です。「されど」が、共感的理解と読めます。
 一方で、「同情」は、情を同じくすることで、私を忘れることが前提。互いの違いを忘れてしまい、一つの感情に没入すること。一体化する快楽を味わえるけれども、どこか危険な香りもします。私にはあまりいいイメージがありません。サッカーでのファンの暴動とか、ハロウィンでのバカ騒ぎとか、大学生の飲み会とか、カルトとか戦争とか。
 で、「共感的理解」を達成するために必要な下準備として、「内的思考の枠組み」を感知して受け取らなければなりません。
「内的思考の枠組み」とは何か?
 それは、まさにその人を成り立たせている主観の総体。その人が周り(自分自身も含めて)を意味付けする方法であり論理。多くは価値観でできている。それは誰かに植え付けられたものかもしれないし、自主的に摂取したものかもしれない。あるいは生まれつきの特徴もあるかもしれない(発達障害など)。
 習慣で身についたものもある。外からの圧力の影響もある。体の病がそうさせているのかもしれない(認知症とか)。あるいは暑さとか飢えとか。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と言います。坊主が憎ければ、その坊主の着ている服までも憎たらしくなる。これは「誤った一般化」の一つですが、そう思う人を理解するには、なぜ坊主が憎くなったのか、その歴史や体験を掘り下げていくしかない。
 どんな人にも、その人独自の世界の了解の仕方があります。人の意味づけの癖も。
「ありのまま」に受け止めることがいかに難しいか、は、実際に人の話を聴いてみればわかります。ほとんどの人が批判をしてしまうのではないでしょうか? 私と違うことを受け入れられずに。「私の正しさ」から抜け出せずに。
 ツイッターに溢れている批判とも言えない悪意に満ちた投稿たち。人や出来事を、そもそも人はそのままに受け取れないのかもしれない、とすら思いたくなる。
 でも、あきらめたら、人は人を信頼しないし成長もしない。真実を理解もせずに、自然を食い尽くして自滅するだけ、あるいはその結末にさえ無関心のままで終わることに同意すること。それは、いやだ。
 子供たちが(私も)大好きなアンパンマンのテーマソングに、こんな歌詞があります。
「何のために生まれて/何をして喜ぶ? わからないまま終わる。そんなのはいやだ!」
 おそらく、「感動」は、「共感的理解」が発生したときに起こる。
 この歌が、東日本大震災の後、ラジオから流れてきて、思わず泣いたことがありました。心の底で思っていたことを言ってくれた気がして。期せずして亡くなった方達の思いを代弁しているようにも感じられて。深いところで、共感的に理解していた。理解してくれていた。こんな体験に裏付けられて(言語化できていなくても)、アンパンマンへの信頼は揺るがない。共に生きている感覚があり、それがその人たちを支える。
 プチ共感的理解は、あちこちにあります。
 本屋で接客していても、お客さんの欲するものにできるだけ近づき、提供できたときの喜びというのは全身に駆け巡って「よかった」と納得できる。
 一緒に働いている仲間の抱えている課題を聴けたこともあった。誰にでも言えることではないことを話してくれたとき、自然に感謝の気持ちが湧き、できる限りその人の「内的思考の枠組み」を理解して、そのために渦巻いている感情や体の不調を共にしようと働いていた。
 そんな動きをしてしまうのは、私がたくさん「共感的理解」をしてもらったから。引き出しに様々な「共感的理解」が使用可能となっているから。ストックがある。
 たくさん本を読んできたことも、もちろん「共感的理解」の育成には役に立つ。引かれる本には、何かしら私にとって必要な知識やドラマや言葉や画像が入っているから。読後の気持ちを言葉にしていく習慣を持っていれば、その本に引かれて読んだ自分自身の何か新しい面を定着させることもできる。

 で、「死にたい」と言う人がいたとして、あなたはどう対応しますか?

 マニュアルでは、「死にたいのですね」と、おおむ返しするのがよいとされます。
 が、おおむ返しだったなら、こいつただ上っ面だけで言ってやがるな、とか、こいつビビってんな使えねえ、とか、こいつもこの程度か、絶望がいよいよ濃くなった、などなど、あっという間に「死にたいのですね」と言った言葉の裏にある態度や気持ちや感情が相手に伝わってしまいます。
 言葉よりも気持ち。言葉は氷山の一角。言葉の下には、膨大な言葉以前の「内的思考の枠組み」や感情や欲がうごめいています。
 人が「死にたい」と訴えたとき、その人の気持ちの1%か0.1%か0.01%かもしれないけれど、どこかに絶対「生きたい」が隠れている。あるいは押し潰されている。じゃなかったら、わざわざあなたに向かってその人は「死にたい」とは言わない。言わずにもう死んでしまっている。
「死ぬ気になれば何でもできる」とか、「死にたいと言う奴ほど死なない」とか、まったくの根拠のない言葉の羅列です。むしろ、「死にたいほど苦しんでいる人」を理解できないことの言い訳です。わからないならわからないと伝えればいい。わかったつもりでやり過ごすこともまた「内的思考の枠組み」の一つと言えます。
 そのとき、その場面、その人の表情、声の調子や動作など、言葉だけではないその人を理解できそうな情報は出ている。どれだけありのままに認知して、応答することができるのか。
 私だったら、どう対応しているでしょう? どれだけ何を感じ取っているかによると思いますが。
「苦しいね」なのか、「つらいね」なのか、もう言葉も出ずに「あー」とか「うん、うん」だけかもしれない。でも、そこに気持ちがこもっていれば、「共感的理解」が伝わっていれば、「死にたい」と言った人の「次」が現れる可能性が開ける。出して、受け取ってもらえたからこそ、「死にたい」が少し空いたスペースに「次」は入っていける。
 その「次」は、その人によって違うでしょう。まだまだ「死にたい」かもしれない。「死にたい」気持ちを出してしまったら、急に疲れが出てきて眠ってしまったかもしれない。見えていなかった葛藤が意識されてくるかもしれない。いずれにしても「次」に動いていくことができる。動くことは生きることにつながっていく。

 人は「わかってほしい」ものです。
 私もそうだった。わかってほしくて書いていた。
「わかってほしい」は、私から誰かへ、という方向だけでなく、私から私へ、という方向もあった。今思えば。
 でもいつからだろう。「わかりたい」と思うようになった。
 いや、この二つ、「わかってほしい」と「わかりたい」は、いつだっていつもあったのかもしれない。
 その時の状態によって、シーソーのように「わかってほしい」が上がっては下がり、「わかりたい」が下がっては上がって。
「わかってほしい」が満たされれば満たされるほど、「わかりたい」は上がっていくのかもしれません。
「みんなちがって、みんないい」は、詩人、金子みすずの言葉。
 大切な言葉。気持ちのこもったゆずれない思い。みすずが、命をかけて、守りたかったこと。
 これが、一人ひとりの「内的思考の枠組み」を支える柱の一つとなることを願ってやみません。
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無条件の肯定的配慮

2022-10-12 18:25:28 | 使える知識
 人が信頼を作るための土壌、もしくは基礎となる空気を醸し出す源がこの「無条件の肯定的配慮」だと、私は思っています。
「無条件の肯定的配慮」なんて、たぶん聞いたことないでしょうね。私も、カウンセリングを学ぶまで知りませんでした。
 この単語としては知らなかったけど、思い返してみれば、「無条件の肯定的配慮」に当たる体験はしていた。
 真っ先に浮かぶのは、おばあちゃんの笑顔でしょうか。夏休み、気仙沼の母の実家に行けば、必ずおばあちゃんが笑顔で迎え入れてくれた。
 前も書きましたが、記憶のある限り、自分の意志で買ったおもちゃの第一号はレゴブロックの郵便局。おばあちゃんがデパートのおもちゃ売り場に連れて行ってくれて、僕が好きなものを選ぶまで待っていてくれた。あの時の空気。
 母親が、どんなときも手料理を作ってくれたこともそう。父親が、毎日金魚の世話をするのと同じように、私を居心地良いように配慮してくれたこともそう。
 それでも足りないとき、精神科医が、カウンセラーが、大学の先生が、私への無条件の肯定的配慮を提供してくれた。
 長くお付き合いすることになった友人や知人たちに共通するのもこの無条件の肯定的配慮がお互いに続いているから。
「無条件の肯定的配慮」は、いろんな言葉に置き換わっている。
「おもてなし」「愛」「思いやり」「リスペクト」。自分が自分へという方向になるとき、それは「自己肯定感」や「自尊心」につながっていく。
 ポイントは、「無条件」だということ。
 これは本当に難しい。頭で理解することはできないと思う。頭は基本的に条件付けばかりしていると思うので。
 体験するしかありません。
「ほっとした」とか「肩の力が抜けた」とか「心の底から温かくなる」とか「思わず泣いてすっきりできた」とか「本当のことを言うことができた」とか。
 文学の表現で思い出すのは、山崎豊子の「大地の子」とか志賀直哉の「暗夜行路」とか。どちらも長い小説ですが、最後の最後にすっと楽になる瞬間が来ます。あの感覚。
 詩だと、谷川俊太郎さんの「二十億光年の孤独」でしょうか。人から愛されなくても、ひとりぼっちでも、自然、地球、宇宙から愛されている、肯定されている、支えられているという実感が伝わってきます。
 マンガだと、「ドラえもん」に出てくる「土管が置いてある広場」でしょうか。のび太がよくごろんとして雲を見上げているあの誰のものでもなく、誰のものでもある広場。そこに肯定的配慮は乏しいかもしれないけど、「無条件」な感じはよく出ていると思う。
「公園」ですらない「広場」がほとんどなくなってしまったように、「無条件」も絶滅の危機に瀕しているのかもしれない。
 だって無条件ですよ。
 このブログすら、誰でも見れるはずだけど、パソコンやスマホを持ち、月々の使用料を払えないと見れない。私も、月々の利用料を払ってブログを継続できている。
 祖父や両親に愛されたのも、意地悪く見れば、自分が孫であり息子であるから。
 精神科医やカウンセラーよりも歴史の長い、本当の宗教家の方たちは、この無条件の肯定的配慮を実践してこられたのかもしれません。
 無知ゆえに差別されてきたハンセン病患者の方達を支援していたのはキリスト教の教会の方達でした。
 女性の避難場所で、かつ縁切りもさせてくれたのは仏教のお寺の方達。
 あるいは医者や学者など、「いのち」を見る目があれば、様々な条件を通過することもできたのかもしれません。
 そう、「条件」は「頭」であって、「無条件」は「いのち」と言えます。
 だから「無条件の肯定的配慮」と言うより、「いのちへの肯定的配慮」と言った方が腑に落ちるかもしれない。
 沖縄の文化である「ぬちどぅたから」(命こそが何より大事)とか「ぬちぐすい」(命の薬)という言い方に近い。
 思えば、学校教育で「無条件」を体験したでしょうか? 「条件」をクリアすることばかり学習してきたのではないでしょうか?
「良い子」もまた「条件付けの塊」みたいなものです。権威ある者への服従合戦。どこかの政治システムを連想しませんか?
 もちろん、条件の中で生きていくことが求められます。それができなければ、どんな報酬も得られない。
 ただ、知っておいて欲しいのは、その前に「いのち」があって、「たまたま私になっているいのち」は、無条件の肯定的配慮によってしか支えられないという事実。
 沖縄が観光地として人気がある理由もそこにあるのではないでしょうか。「いのち」にまで届くケアは、自ずと「私」へのケアにもつながっていくから、結果的に深い満足度を得られる。
 どんなサービス業や接客業や行政の仕事も、基本的に「無条件の肯定的配慮」を満たせばある程度の満足度となって返ってくる。
「若いから」とか「イケメンだから」とか「可愛いから」とか、逆に「ブサイクだから」とか「デブだから」とか「頭悪いから」とか、じゃない。
 人は見た目とか権威とか慣習とか悪口とか陰口とかに、本当に弱い。影響を受け続ける生き物。それは人は群れて暮らす社会性を持っているから。コミュニケーションが取れなければ、食べ物を得ることも、異性のパートナーと協力することも、次世代を担う子たちを育てることも、できるだけ多くの人たちが満足できる仕組みを作ることも、人を支える作品を生み出すことも、できない。
 そのために、十分に、木の根が存分に地下に張ることができるように、無条件の肯定的配慮がいる。人が育つための必須の心理的栄養と言えます。植物にとっての太陽のように。
「次のテストで〇〇点取ったら〇〇買ってあげる」ではないということ。
「〜たら」「〜れば」からの卒業。頭は、あちこちの飛ぶものですが、スケジュールの調整とかは得意ですが、いのちは今、ここにしかありません。今、自分に流れている血の温かさを感じられていますか?
 僕は、寝る前、シミを予防する液を(もうおっさんなので)ほっぺたと手の甲に染み込ませながら、自分の温かさを感じ取るようにしています。そして心の中でつぶやきます。「今日も生かしてくれてありがとう」「よくやったね」「あったかくてほっとする」「愛している」などと。これは僕の一つの無条件の肯定的配慮の実践。
 他の知識もそうですが、いかに言葉だけ神棚に上げてありがたがっている状態から行動に引っ張り下ろすことができるか。使えてこそなんぼの知識。
 文学は実学だから。
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信頼か不信か

2022-10-02 16:16:42 | 使える知識
「使える知識」の4回目は、「信頼か不信か」。これは「信頼vs不信」とも言えます。相反する力の中でどう乗り越えていけるのか。
 私がかつて、「自己同一性」に苦しんでいたとき、エリクソンというアメリカの心理療法家を知りました。「アイデンティティ」という言葉を広めた人です。
「アンデンティティ」、要するに「自分とは何者か?」。職業選択の際に悩みまくりました。
 若者向けの(確か29歳以下)ハローワークにも行ったことがあります。そこでも自己分析やグループワークをやるのですが、私の場合、結局「書きたい」という結論になる。だからといって「書く」ことが仕事に直結しない。あまたある「ライター」の仕事はどうしてもやる気が起きない。じゃあどうすればいいのか? 結果的に大卒でアルバイトで入った書店勤務が続いています。が、今だって葛藤が解消したわけではありません。
 エリクソンは、人の発達の過程で8つの危機があると提唱しました。
①乳児期の信頼感vs不信感
②幼児期の自律性vs恥、疑惑
③学齢前期の自主性vs罪悪感
④学齢期の勤勉性vs劣等感
⑤思春期、青年期の自我同一性vs同一性拡散・混乱
⑥成人期の親密性vs孤立
⑦壮年期の世代性vs自己陶酔
⑧老年期の知恵vs絶望
 これを見ただけでも、ははーん、と思いませんか?
 これらの危機をどう乗り越えていけるか。その具合によって個体の発達も決まってくる。
 私は5番目で大きくつまづいたわけです。まさに同一性どころではなく、拡散と混乱にあった。二つの相反する力が心の中で闘っているイメージ。
 5番目でしくじると4番目もダメだったかもと弱気になってくる。4番目もダメだと3番目も、いや2番目も、いやいや、最初からやり直しだったかもしれない。いっときは人間不信にも陥っていましたから。父に、「自分て何?」と問うた記憶があります。それほど自分を無価値に思って。ですが父は「宝だ」と言ってくれました。心から。それで救われた。
 いつだってこの見えない闘いは行われていて、おそらく課題をクリアしていくほどに発達もよく、幸福度や充実度や社会への貢献も増大すると思われます。オリンピックの汚職事件などは7番目の自己陶酔に傾きすぎたと言えます。おじさん・おばさんたちはいつも自己陶酔の危機にある。自分も例外ではありません。
 課題をクリアしていたとしても、引き戻しの力もいつもある。そしておそらくこの発達過程も階層になっていて、前の段階の発達具合が次の発達課題への支えともなれば足を引っ張ることにもなる。今うまくいっていなければ、ひとつ前に戻って組み立て直す必要がある。私にとってはとても腑に落ちるエリクソンからいただいた大切な知識です。
 で、①をご覧ください。人のしょっぱなの課題、ミッション、獲得のための闘い、それは人を信頼できるかどうか、です。
 これは本当に生まれ落ちた環境に左右される。「よく来たね。生まれてきてくれて本当にうれしい。ありがとう」と、最大限のようこそ! ウェルカム! でいっぱいだったのか、あるいはその逆、「お前のせいであたしゃ不幸になったんだよ。生まれなきゃよかったのに。邪魔だ。クソガキうるせー。生むつもりなんかなかった」など、呪いとしか言いようのない環境に生まれ落ちてしまったら、人を信頼するどころではありません。不信感が募ってしまう。
「三つ子の魂百まで」と言いますが、この発達課題の一発目の乗り越え方が、後々の人生の課題に重くのしかかってくることと言えます。
 ①から⑧までの課題、危機をすべて乗り越えられなかったらどうなるでしょうか? 不信感の塊で、恥じて疑ってばかり、罪悪感が薄まることもなく劣等感に苛まれ、自分が何者かわからないまま、悩みを打ち明けられる友もなく、解決を試みることなく現状に没入し、やがて絶望感が雪だるまのように膨らんでいく。そんな人は何をするでしょうか? 思い出したくないけど、しっかり脳裏に刻まれている数々の悲惨な事件が思い浮かんでは来ないでしょうか?
 そんな「どん詰まり」に行き着く一番始め、いわば初期設定に「信頼vs不信」があるということ。人を信頼できるかどうか。この能力が人の人としての基本です。
 この知識はどんな対人関係でも応用できます。例えば接客。接客業が終わりのない修行と言われる所以でもあります。私も書店での接客業が長くなりましたが、まず信頼していただくことが第一だと学習できたから続いてきたとも言えます。
 じゃあ、何が人の信頼を作るのか? 「ようこそ!」「ウェルカム!」「いらっしゃいませ!」これらの言葉に共通している心とは何なのか?
 それは、カウンセラーをカウンセラーたらしめる三つの条件、「無条件の肯定的配慮」「共感的理解」「純粋性」だと、私は思っています。そしてこの三本柱もまた普遍的で全世界に共通の応用可能な人の能力なのではないでしょうか? しかもカウセラーだからこそできるという難しいものでもない。誰でも無意識にやってもいること。だけど、あまり意識してはいない。意識して使える人が増えれば増えるほど、先に挙げた課題を克服していく人も増える、と思う。だから私は広めたいと思って書いています。
 その三つ、「無条件の肯定的配慮」と「共感的理解」と「純粋性」とは何なのか? それは次回から順に、書いていこうと思います。
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欲求の階層

2022-09-30 20:38:44 | 使える知識
「使える知識」の3回目は「欲求の階層」について。
「欲求」と一口に言っても様々な欲が人にはあります。
 そこには、満たしていく順番があるよねと指摘したのがアメリカの心理学者マズローでした。1943年に発表したと言われてます。
 欲求の一番下にあるのが基本的欲求で、生理的欲求。食事、排泄、睡眠、暑さ寒さの調整、喉の渇き、傷害の回避など。
 次は、安全の欲求。住む場所や危害のない人間関係の確保など。
 次は、所属欲求。孤立していないということ。
 次は、愛情欲求。親の立場の人たちや友人知人たち周りの人たちから愛されているか、大事にされているか。
 次は、尊敬の欲求。これは他者からの評価だけでなく、自尊心の有無にも左右されます。
 最後が自己実現の欲求。自分自身になっていくこと。やりたい職業に就くための努力や、仕事がうまくいくようになっても継続発展させる力となる。
 マズローは、晩年に、もう一つあると言ったそうです。自己実現の先に。それは自己超越の欲求。自己すら超えていきたい。夏目漱石の「則天去私」の心境でしょうか。
 以上の欲求の順序は、心理的発達具合と比例します。よく発達すればするほど、基本的欲求からは離れ、自己実現の度合いが右肩上がりに上がっていく。
 で、興味深いのは、そもそも人は何によってよく発達するのか、という問題が、基本的な欲求から順々に心理的欲求を満たしていくと、さらに社会的によく活躍する人は生まれるという解答で解消されること。そのための政策なりサービスなりがより普遍的に提供されればよりよい社会もできる。
 なのですが、実際にはそううまくいっていないように見えます。特に日本に住む私たちは、他の国に比べて幸福度がとても低いですから。欲求階層説によれば、自己実現を果たせば果たすほど、人生の充実度も幸福度も上がるとされています。
 何が足りないのか? 改めて欲求の階層を眺めてみます。
 私にも思い当たるのですが、この国の文化度では、一つ目と二つ目の生理的欲求と安全欲求はほぼ満たされると言えるかもしれませんが、そこから上がなかなか厳しい。
 三つ目の所属の欲求。学校のクラスで、仲間はずれになれたら(ハブられたら)、あっという間にダメになってしまいます。それはもはや個人の責任などではなく、人はそうできているから。ヤングケアラーの存在。親に守ってもらう立場なのに、親を世話しなければならず、勉強する時間も友達と遊ぶ時間も体力も削られて、孤立に追い込まれてしまう。
 孤立しなかったとしても四つ目の愛情は満たされているでしょうか。大事にされているか。ケアし、ケアされるお互い様の関係ができているか。
 人は愛情だけでも足りない。尊敬される必要もあります。ここに個性の目覚めもあるのかもしれない。尊敬は、たった一つの存在の価値を認めることだから。「たった一つの存在」でありつつ、「孤立していない」。私にはこれが分かりませんでした。
「作家になりたい」という自己実現の欲は大学生時代からありました。そこで学生寮も飛び出して一人暮らしをし、さらにバイトまで辞めてしまって勝手に缶詰状態。ほんの少しは書けましたが、あっという間に所属や愛情の欲求は枯渇していった。これはまずいぞと気付きつつ、干からびるままで何もできなかった。金欠にもなってくるし、眠れなくもなるし食欲までなくなる。一番下の欲求まで損なわれていった。挙句が鬱病の発症で、「死にたい」という思いにつながっていった。
 その後はまずガッチリと担当の精神科医と信頼関係を作ることが大事でした。まさに命綱。そこを頼りにして、両親との関係の再構築と学校の先生との対話が重要でした。途絶えがちだった友人との交流も再開し、大事になっていた喫茶店での時間やマスターとの何気ないやりとりも必須だった。どうしてもっと自分の欲求に忠実じゃなかったんだろうと、今は思います。そんなものなのかもしれませんが。
 立ち直るまで、ずいぶんと苦しい夢も見ていました。よく覚えているのが、高い塔の最上階にいて、巨大地震が来た時のように左右にぐわんぐわん揺れて投げ出されそうになる夢と、走っているのに、もっと早く走れそうなのに、ぜんぜん足が自分の思い通りに動かず、スローモーションにしかならない夢。
 高い塔の夢は、よくこの欲求の階層を表していると思う。自己実現を重視するばかりに、そこに至るまでの基本的で心理的な欲求をいかに軽視し、満たしてこなかったか。土台がしっかりしていなかったら、どんな塔だってすぐに崩れ落ちる。走りたいのに走れないというのも、今となってみればよーくわかる。当時は、走りたいなんて思ってもいなかったけど。ランナーの本能は当時からあった。
 所属、愛情、そして尊敬。この土台にある基本的生理的欲求と安全。美味しいものを食べ、十分に休み、眠り、安全が確保された場所で住み働く。仲間たちと協力して支えあって、大事にし合って尊敬し合って。この十分な経験の蓄えがあって、初めて自己実現は叶えられていく。この事実を言いたかった。
 大学の先生が言った「着実に一歩ずつ」の意味。それはただ勉強をしろよと言う意味だけじゃなかった。どれもおろそかにはできないということ。
 ある人を軽蔑したとすれば、その軽蔑は鏡のように自分に跳ね返ってきて、自分の尊敬を削り取るでしょう。尊敬されるだけじゃなく、自分が自分をリスペクトするという自尊の気持ちの発達がミソかもしれません。自尊心の発達も、以上で述べてきたように、そこだけ伸ばそうとフォーカスしても無理ということです。自尊に至るまでの確かな道程がいる。しっかり食べて休んで、安全な人間関係を作り、その中で居場所を得て、愛し愛される十分な体験を積んでやっと自分が自分を認め、思いやる心が育まれる。この私がそうでしたから。
 
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モデリング

2022-09-19 13:02:28 | 使える知識
「使える知識」の二番目は「モデリング」。
 この用語は、様々な意味合いで使われますが、以下に書くのは、私が理解している「モデリング」ですのであらかじめお断りしておきます。
「モデリング」は、基本的に「観察学習」のこと。他者の行動を観察して、観察者の行動も変化すること。いわゆる、「習うより慣れろ」です。
 ですが、「ロールモデル」と言うとき、「ロール」は「役割」のことですが、ただの観察学習に止まらない響きがあります。幼い鳥が、ある一定期間に動く生き物を見ると、その対象を親だと生涯に渡って思い込む「刷り込み」とも似ていますが、人間に「刷り込み」があるのかははっきりわかっていないようです。
 経験的に理解しているのは、人の子は親の背中を見て育つという事実。どんなお説教よりも行動が、無言の背中が何より雄弁に語り伝えています。そして子は、親をモデルとして真似ることで社会的な立ち居振る舞いを学んでいく。だから親は「正しい」。正しくは、親の「やり方・生き方」は正しい、はず。そう思うことが自然で、そうであればこそ学習の効果も上がるのではないでしょうか。「お前の母ちゃん、でーべーそ」と親をバカにされたときの燃え上がるような怒りは、今でも鮮明に覚えています。子にとって親は、それだけ大事で正しい存在です。
 なのですが、親を真似て成長していくことも限界に達するときが来ます。思春期に入ると、それまでヒーローやヒロインだった父母が、急にダサく見え、ときにウザくなり、あげくにクサいとまで言われてしまう。そうなったら両親からのモデンリングは一旦終了。子は、両親とは違う自己に目覚めたから。
 それまでの親の発言と行動との乖離や矛盾を正確に突いてもきます。
 そして大人になりかけた子は旅に出るわけです。新たなる、自分にふさわしい、両親とは異なるロールモデルを求めて。
 ピッタリと、ガッチリと、そんな信頼できる、尊敬できる、真似したいと心底思えるロールモデルと出会えた人は仕合わせだと言えます。そのモデルから十分に愛情や知恵や生き方の片鱗を吸収し、観察して学習して必死に自分のものとして、やっと大人として自立可能になってくる。自分の言葉や技や生き様も生まれていく。「憧れの存在」にときめいている状態から「夢の実現」へと歩みを進めていくことができるようになる。
 私にも大切な出会いがありました。何度か書いてますが、大学の先生、精神科医の先生、カウンセリングの先生、そして池袋の書店で働き始めてからは、石田衣良さん、角田光代さん、吉本ばななさん、西加奈子さん、はサイン会でお会いすることができました。大江健三郎さんはレジに来て大量の本を買っていかれました。小説家の方達は、どの人も私には輝いて見えた。私にとっては忘れられない「刷り込み」体験です。大学や大学病院、それにカウンセリングの場では、一人で抱え込まずに辛いときは相談していいんだということを学びました。信頼できる大人は確かにいることを知りました。そんな大人の一人になりたいと思ったのも、「モデル」になってくれる大人と出会い、確かに関わることができたから。今となっては感謝しかありません。
 そんな「モデリング」をなぜ伝えたいかと言えば、かつての私のように問題を抱え込んでしまった人や、家庭環境に恵まれない人たちにとって、どんな言葉や支援物資よりもなまの「人」こそが最高の薬となり栄養となるから。もちろん、避難シェルターのような場所と十分な栄養と休息は必要ですが、その上で「人」。だって相手も「人」なのですから。ここで思い出すのは「星の王子さま」の有名な一言、「大切なことは目に見えないんだよ」。
 自分にって必要不可欠な「モデル」を見出そうともがいているとき、何を頼りにしていたのでしょう? そもそも、我が親を大事にしようとする気持ちはどこから湧いてきたのでしょう? それは自分が頑張らないと身につけられない一部の恵まれた人だけが持つ「スキル」なのでしょうか?
 そうじゃないと思う。人の本能として身についているものだと思う。
 そう思うから、私が「使える知識」として言語化して提示することで、目に見えなかったけどそこにあった能力に気づくのではないかと。
 大切なことは目に見えない。この言葉は、こう言うこともできます。「大切なことは文字になっていない」と。
「自分」を文字にする前に、今の自分の状態がある。もやもやとか、嫌な感じ、とか。引っ張られる感覚もある。イメージ化すると、胸の内側に矢印が出ているような(↑、→、↓、←)。もちろん、直線とは限りません。渦巻きかもしれません。ある人と接したとき(テレビなどのメディアを通じてでも)、どんな感じがしますか? もっと接したいか、もういいか。すぐさま離れたいか、また会いたい、また見たいか、どうでもいいか。
 私の今の感覚で言うと、「おいしい」かどうか。「おいしい」は、食べ物に対してだけでなく、人や人の表したもの(文章や発言やスポーツにおける表現も)にも対応しています。「おいしい」ならば、自分が必要としているのでまた接して吸収することになります。
 人によって感覚も違います。「いやだ」ならわかるかもしれない。「いやだ」と感じているのが確かならば、まずはそれをやらない。それだけでも、自分が何に引かれるのか、欲してるのかをわかるきっかけになります。
 ちなみに、小さな子供にも「イヤイヤ期」があります。2〜3歳くらいでしょうか。とにかく親の言うことに「イヤイヤ」する。理屈などなく、ただ「自分でやってみたい」のです。「自分でできるもん」の萌芽。「自分」という存在の初めての試み。「いやだ」という感情は、自分を形作る原型だとも言えそうです。
 だから大人になっても(どれくらいの成熟度かは別にして)、「ノー」と表現することは大事。それは自分を大事にすることだから。もし「ノー」と言いたいのに言えないとどうなるでしょう? 「イエスマン」が誕生するのではないでしょうか? 「イエスマン」の恐ろしいところは、溜め込んだ「ノー」を、どこかで一気に爆発させる危険を孕んでいること。インターネットでの炎上が良い例でしょうか。あらゆる差別や暴力、戦争にすら通じます。そしてまた当然なことに、「イエスマン」もまた「モデリング」の対象となりうる。ゴテゴテと勲章やら美辞麗句やらで飾りつけて。
 長くなりましたが、それほど「モデリング」は、人間を作る基本の能力とも言えそうです。
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誤った一般化 

2022-09-16 18:09:40 | 使える知識
 新しいカテゴリーを作ることにしました。
「使える知識」です。
 私が文化人なのか知識人なのかわかりませんが、人生も折り返しを迎え(もう45歳です)、生涯学習なのはわかってますが、私が身につけてきた「これは使える!」と自信を持っておすすめできる知識をお伝えしたいと思うようになりました。自分だけ良ければ良い、のではないから。何を残していけるのか、どれだけ伝えることができるのか、わかりませんが、むくむくと自ずと湧き上がってきた思いなのでやってみることにします。
 私の中では「小説」がとても大事で、日々こつこつと成長させてもいるのですが、それはそれとして。
 写真は写真で大事で続けていますが、主にインスタグラムに載せることが多くなりました。そこから持ってきたのは萩。萩は、母校の東北大学のシンボルでもありました。

 前置きはそれくらいにして、「誤った一般化」について。
 これは「早まった一般化」とも言われます。
 そもそも「一般化」とはどういうことでしょう?
 ある特徴や物事が広く行き渡ること。
 就職活動をする際にスーツを着ることは一般化している、と言えます。が、これは日本だけのことです。他の国がどうなのかは調べないとわからない。なのにその過程を飛ばして、全ての国において就職活動をする際にスーツを着ることは一般化している、と言ってしまったら「誤った一般化」になります。「本当にそうなのか」を確かめずに一つの事柄を他の地域や人にも当てはめてしまうこと。
 全ての鳥は飛べる。これも誤った(早まった)一般化の例。ペンギンは飛べますか? ダチョウは?
 特に人に当てはめた場合、問題は起きる。
 ロシアは悪い国だ。と誰かが言う。でも、本当にそうなのでしょうか?
 確かに、平和に暮らしている隣国に押し入り、人を殺して生活を破壊し略奪している。違法であり、許されないことです。
 が、ロシアが行なっている、ということになっているけど、実際に行なっているのは、プーチン大統領の指揮に従う一部の人々。そこにはもはやロシア人だけでなく、他国から雇われた傭兵もいる。何も知らされずに派遣された軍人が、自らの判断で戦争に反対し、持ち場を放棄した人もいる。ロシア人皆が人を人とも思えない悪人だというわけではありません。
「誤った一般化」がなぜ問題かと言えば、要するに個々の真実が覆い隠されてしまうから。本当にその真実が他の事例や生命にも当てはまるのかは、本来慎重に検討しなければわからないはず。そこをはしょったら、「偽造」でしかありません。偽造を真実だと思い込んだら、次には「誤った信念」に固定化される危険もあります。
 言葉は慎重に扱わなければならない。と僕は思ってますが、みんながそう思っているわけではありません。僕は哲学科を出て、カウンセリングも体験し、詩や小説に救われてきた人間ですから、人一倍言葉に敏感だと言える。だからこそ、「一般化しつつある過ち」を看過できない。
 幸不幸は、その人が体験している現実と、その人が表す言葉(言葉にできない子供なら行動)との一致度に比例します。一致度が高ければ幸せで低ければ不幸せです。
 人は、言葉より体験や感情の方が真実として伝わります。
「愛してるよ」と言う母から恐怖しか感じないという子供の体験は実際にあります。そんな体験は不幸しか作りません。
「ふつうは〇〇」という言い方も要注意ですね。私が嫌いな言葉の一つでもあります。大概こういうとき、目の前のことは否定され、「ふつう」ではないことをなじっている。
「ふつう」ならば安心なのでしょうか。「ふつう」が正解なのでしょうか? 「ふつう」=「一般化」とも言えそう。
「ふつうに〇〇」とも聞くようになりました。「ふつうにおいしい」とか。は? と思いますが、要するに、目の前のことも「ふつう」に入ると判断されたようで。僕は何かゾッとします。判断の基準が「私」ではなく「ふつう」に乗っ取られている感じがするから。
 大多数の人たちがいる方に入っていると安心だ。この心理が一般化して、この大多数の人たちがそう言うんだから正解だ、と錯覚する。
「一般化」自体を止めることはできません。それは物事を迅速にとらえるために必要な方法だから。学習の転化でもあって、過去の事例から現在の現象を理解するための枠組みとなっている。それでうまくいったことも多々あるのでしょう。だから人の無意識に備えられた本能(パターン化本能)とも言えます。
 でも、「誤った一般化」は防がないといけない。なぜなら、個体の特徴や生を奪い、人々に不幸を撒き散らすことにつながるから。
「誤った一般化」を防ぐためには、「一般化」することができない事象を挙げればいい。さっきのペンギンとかダチョウとか。
 その目的の中に、詩や小説といった文芸の仕事も入ってくるわけです。
「誤った一般化」は「早まった一般化」でもあります。「誤る」ことは「早まる」こと。効率やスピードが重視されるばかりに、「早まった一般化」が大量生産されている可能性もあります。人の情報処理や作業効率には限界がある。人の現実をできるだけ正確に理解し、それに合った仕組みや言葉を作ることが、結果的にその人や組織の能力を最大限に引き上げることに通じ、利益も自ずと上がる。
 自分の間やリズムや習慣(ルーティーン)を身につけて日々生活すること。自分は「ふつう」ではなく、たった一人の個性ある自分なのですから。
 立ち止まってみる価値もあると思います。行きたくないところには行かない、という決断も。
「良い子」「良い嫁」「良い社員」、そんなの全部「誤った一般化」。辛くて苦しくて当たり前。だって自分じゃない存在を演じないといけないので。辛さや苦しさは、意識を向けて欲しいからこそ訴えている。今の言葉の体制では不十分だから人は話したくなる。話して話して話し尽くして、子供なら遊んで遊んで遊び倒して、ふっと新しい言葉や態度が心身の内側にやって来る。気兼ねなく、自由に、話して話して話し尽くし、遊んで遊んで遊び倒す、場所と相手はあるでしょうか? いざというとき、頼りになる人がいて逃げ込む場所もある、という確証は、人が十分に機能する上でとても大事なことです。「誤った一般化」の呪縛から解放されるためにも。
 
 どうでしょうか?
「誤った一般化」
 書き手である私こそが、一番に気をつけないといけないことでもあります。だからこそ、「使える知識」の一番目に来たのだと、ここまで書いて気づきました。
 初めての試みなのでうまく伝わっていないかもしれません。
 何か気づいたこと、おっしゃりたいことが出てきたら、遠慮なくコメントしてください。
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