泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

宮沢賢治のこと

2024-05-01 16:59:30 | 
 私が花巻に行きたかったのは、そこが宮沢賢治の故郷だからでした。
 大宮から東北新幹線に乗って、よく降りる仙台でもなく一関でもなく、新花巻まで北上して初めて下車。胸がどきどきしていました。
 改札口を出ると、左に売店、右に食堂。右奥にコインロッカーとお手洗い。正面奥に観光案内所と、大谷翔平選手をはじめとした花巻ゆかりの野球選手たちのグローブやスパイク、ユニフォームなどの展示コーナーがありました。ロッカーに荷物を預け、まずは野球選手たちの備品を眺める。大谷選手のスパイクのデカさに驚きました。
 で、観光案内所で、宮沢賢治の記念館に行きたいのですが、と相談すると、係の人は親切に地図とバス・電車の時刻表を手渡し教えてくれました。
 記念館にはバスで行けるのですが、本数は少ない。ちょうどいいバスがなかったので帽子を被り、歩いていくことに。
 歩いて20分弱。入り口が右手に見えました。ちょっとした山道のように、屋根付きで木製の階段が伸びている。交通整理のお姉さんに「ここを登るんですね?」と言うと、白い歯をこぼして「はい」と笑顔。登りました。367段。その通路に左下に、一段ずつひらがなが。なんだろうと思って読み始めると、それは「雨にも負けず」なのでした。
 記念館に行くまでの道にも、地元の子供達の描いた賢治の作品の一場面(「よだかの星」や「どんぐりと山猫」)が描かれていて飽きさせません。
 たどり着いた見晴台での一枚がこちらです。



 左奥に見える山が早池峰山です。
 見晴台で涼んで、息を整え、歩き始めると左手に山猫軒が。



 こちらは記念館に行った後お邪魔しました。
「どなたもどうかお入りください。決して遠慮はありません」が効いています。
 レストランと土産物屋です。カツカレーにりんごアイスとコーヒーをいただき、いくつかお土産も買いました。
 腹を空かせた山猫はいなかったようです(自分のことか?)。

 記念館の左手前にあるのが、冒頭の「よだかの星彫刻碑」です。賢治の作品の中で、おそらく「よだかの星」が一番好きなので。
 そしていよいよ記念館。入り口右手にいるのがこちらです。



 猫の事務所ですね。
 玄関を入ると、正面がカフェで右に券売所と入り口、左が土産物。チケットを買って、中へ。
 会場は「科学」「芸術」「宇宙」「宗教」「農」「宮沢賢治のフィールド」と分かれていますが仕切りのないワンフロアでした。分け隔てることのなかった賢治らしい作りをイメージしたのでしょうか。
 盛りだくさんでした。
 実物を見るとやはりお会いしている感じが増します。
 チェロもあった。妹のトシのバイオリンも。顕微鏡も、名刺も。
 一番引かれたのは原稿でした。



 これは「業の花びら」という題。このように黒字に白枠の棚に展示物がぎっしり詰まっています。賢治の細胞をのぞくかのように。
「銀河鉄道の夜」もある。「永訣の朝」もある。その二つは複製が販売されていたので買いました。原稿を買うなんて初めて。
 で、「業の花びら」ですが、何度も何度も書き直しています。原稿を見るとよくわかります。後の一つの言葉と結びついて。



 この写真に載っている言葉は「農民芸術概論綱要」の「結論」部分。



「農民芸術概論綱要」は、賢治が30歳のとき書いたもの。
 盛岡高農の研究生を経て、花巻農学校の教諭になったのが25歳、それから5年後の3月に教職を辞している。なのでこれからの指針であり、賢治の考えでもありました。
 序論には有名な「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」の一文があります。
 農民芸術の興隆、本質、分野、主義、製作、産者、批評、綜合ときて、結論に、賢治の愛されている理由を発見しました。
「永久の未完成これ完成である」
「農民芸術概論綱要」何度読んだでしょうか。他にも、すばらしいとしか言いようのない箇所がたくさんあります。
 ただ、「永久の未完成これ完成である」に、収斂していく感じです。これか、これだったのかというような。
 原稿を見ればわかるように、どんどん変わっていっています。そう、作品は変化していく。
「永久の未完成」であるからこそ、小学生たちでさえ、賢治の作品に触発されて独自の世界をまだ小さい胸の中に作ることができる。
 しかもただの未完成ではない。「永久の未完成」
 土がどんどん生まれ変わっていくように。人がどんどん生まれ変わっていくように。
「綜合」にはこんな文もあります。
「まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう
 しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きている」
「無方の空」
 こんな表現見たことなかった。あちらでもこちらでもない、方向などない、無方。



 この絵本は、昨年の秋、仙台の金港堂本店(4月30日に閉店されました)で行われていた古本市で買ったもの。
「やまなし」 クラムボンがかぷかぷ笑うあれです。
 思えば賢治との出会いはこの「やまなし」が最初でした。
 小学校の3、4年でしたでしょうか。教科書に載っていました。
 なぜ覚えているかと言えば、登校中に友達と「クラムボンってなんだろね?」と話し合った記憶があるからです。
 答えは出ませんでした。正解という完成形はないのでした。
 今日読んで思ったのは、「クラムボン」は、カニから見た人のことなのではないかと。
 クラムボン(人)は、カニから見ればかぷかぷ笑うし殺される(津波や戦争や疫病や飢饉などで)。なぜ笑ったり殺されたりするのかはわからない。
 カニにとっては大きな魚が泳ぎ、その魚を一瞬にして鳥がさらう。カニたちはおびえる。カニたちは死を見てしまった。
 そこに父さんカニが来て、鳥はカワセミで、うちらとは関わりないので大丈夫と安心させる。それが5月のこと。
 12月になって、カニの兄弟は大きくなり、吹き出す泡の大きさを競っている。そこにトプンと落ちたものがあった。カニ兄弟はまた鳥だと思って怖がる。
 父さんガニが落ちたものをよく見ると、それはやまなしだった。熟してとてもいい香り。カニ親子は流れるやまなしを追っていく。
 やまなしは枝に引っかかって止まった。そのやまなしの上に月光の虹がもかもか集まっている。
「おいしそうだね」と言う子カニに、父さんカニは「2日すればひとりでに落ちておいしい酒になるから待とう」と教えて家に帰っていく。
 中身をどう受け止めてもいいのです。この絵本もまた一つの農民芸術。
 言葉だけの表現にこれほど想像力を刺激される。
 農民芸術の「製作」にはこんな文もあります。
「無意識即から溢れるものでなければ多く無力か詐偽である
 髪を長くしコーヒーを呑み空虚に待てる顔つきを見よ
 なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ」
「無意識から」ではなく「無意識即から」。この言葉の正しさに感嘆します。「即」は近くという意味でしょうか。できるだけ近く、という謙虚な言葉遣い。
 さらに「髪を長くし」って、そこまでかと思いますが、父さんカニのような「まあ待て待て」という成熟を待つ姿勢の大事さもよく伝わってきます。
「なべての悩みをたきぎと燃やし」
 賢治が「業」や「修羅」とまで自分に言わざるを得ないのは、今でいうところの性的マイノリティーであったからと言われています。が、本当のところはわかりません。ただ人一倍悩み苦しんでいて、その苦しみを享受し、作品に昇華するエネルギーに変えていたのは確かだと思います。

 


 花巻駅の夕焼け。そんな賢治が生きて歩いていた花巻に行けて、歩けて、走れて、本当によかった。
 やっとたどり着いたという感慨があります。
 小学生のとき、おそらく人生初めての文学の体験を私は賢治で味わっていた。
 夏休みは宮城の気仙沼に遊びに行きました。そのとき、一関から大船度線に乗って行くのですが、途中観光名所の猊鼻渓の手前に陸中松川駅があります。そこをよく通っていたわけですが、そこにも賢治はいました。教師を辞した後、東北砕石工場技師として働いていました。この事実も初めて知りました。
 賢治は37歳で結核のため亡くなってしまうのですが、最期まで農民たちの肥料相談を受けていたそうです。
 土壌を作る人だったんだなと思いました。私も、知らず知らず立っていたその土壌を。



 花巻駅のすぐ近くにこの壁画があります。「未来都市銀河地球鉄道」と言います。花巻の名所の一つで、完走証のデザインにもなっています。



 これは「銀河鉄道の夜」に出てくる「白鳥の駅」。バス停の一つで、ここから歩いてすぐイギリス海岸があります。



 写真左手前に白い泥岩があり、イギリスのドーバー海峡に似ていると賢治が言ったことから。今は水量が増えて見えませんが、賢治の命日である9月21日に、ダムの水量を調整するなどして川の水位を下げる試みをしているそうです。
 かつては生徒たちを連れて、賢治は胡桃の化石を拾ったりしていました。
 記念館のある胡四王山も賢治がよく登った山で、またそば屋の老舗である「やぶ屋」もよく通った店。そこにはマラソン後、食べに行きました。
 そんなふうに、賢治が今でもそこかしこに息づいている花巻。生家は空襲で消失しましたが、同じ場所に今でも宮沢さんは建て替えられた家に住んでいます。そのご家族の方が営んでいる林風舎にも行きました。「デクノボーこけし」など買いました。少しの雑談も楽しく、ピアノ生演奏もすばらしかった。



「生徒諸君に寄せる」にあるように、私もまた「諸君の未来圏から吹いて来る透明な清潔な風」を感じたわけです。
「新しい時代のコペルニクスよ
 余りに重苦しい重力の法則から
 この銀河系統を解き放て」

 まだまだ余韻が続きそうです。
 それほど私には大きな旅でした。
 
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牧野植物園

2024-02-24 18:30:53 | 
 高知3日目は、牧野植物園へ。
 その日は朝から細かい雨が降ったり止んだり。高知は多雨の街でもあります。
 バスで行くのですが、これも予想を超える激坂。五台山にあるのですが、完全に山道です。
 一方通行で、バスだと道幅もぎりぎり。
 運転手さんたちの仕事があってこその旅だと、改めて感じました。
 門を入ると、もう植物を紹介する案内板が所狭しと立てられています。
 一つ一つ、丁寧に。全部読んでいったら、とても時間が足りません。
 その中でも目についたのがこちらです。



 バイカオウレン。
 牧野さんの生家の裏庭に生えていたそうで、ふるさとを思い出させる特別な植物であり続けたそうです。
 順番に植物たちを眺めながら、チケットを買って、いよいよ植物園の中へ。
 まず「こんこん山広場」という頂上付近に上がって眺望を楽しみます。
 次に降りて少し行くと「土佐寒蘭センター」がありました。
 中にあったのがこちらです。



 寒蘭(カンラン)も初めて見ました。
「一条の司」と名付けられていました。園芸品種がたくさんあります。
 南天の鉢植えもたくさんありました。どれも見たことないものばかりです。
 次は、温室へ。
 ものすごい数のランたちが待っていました。



 温室なので東南アジア原産のものが多かった。
 黒かったり、変な形だったり、捻じ曲がっていたり。
 たくさん写真を撮りましたが、撮りきれるものでもありません。
 で、唯一残したのはこちら。



 金銀草(キンギンソウ)と言います。
 花が最初は白く、やがて黄色になることから命名されました。
 これもランなのですね。一口にランと言っても、さまざまな種類がありました。
 温室を出て、その下の庭をぶらぶら。
 そこで見かけたのがこちらです。



 節分草。
 これも初めて見ました。画像としては見たことありましたが。
 想像より小さい花でした。
 数を減らしているというのもわかります。
「人間嫌い」という花言葉を持っているくらいですから。
 出会えて良かった。

 もう一つ、目についたのがこちら。



 万両と、左側に見える赤い葉っぱはオタフクナンテン(お多福南天)。
 十両、百両、千両、とありますが、さすがの万両という感じ。
 お多福南天は、南天の改良版で、花実はほとんどつけず、葉の美しさが特徴。
 縁起のいい組み合わせですね。

 他にもたくさん見て回りました。一日いられますね。
 資料館では、牧野さんの足跡をおさらい。
 今のお金で7000万ほどの借金があったときもありました。が、援助者が現れて危機を乗り越えています。
 やっぱり、人柄なのでしょうか。好きなものに打ち込む人に、人は応援したくなるのかもしれません。
 牧野さんの写真は笑顔が多いです。
 植物と接する幸せを、多くの人たちに伝えたかったと、本人の言葉も残っています。
 そうじゃなきゃあの笑顔にはなれない。
 好きこそ物の上手なれ。
 幸せこそが生きる原動力。
 牧野植物園に行って、理屈じゃなくて、そうなんだと納得できました。
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高知へ

2024-02-21 18:59:11 | 
 高知に行ってきました。
 写真は高知城です。
 初めての四国でもありました。
 行きは新幹線とバスで。
 岡山から「龍馬エクスプレス」という高速バスに乗り換えます。
 今かな今かなと地図を見ながら、お目当ての一つであるものがついに現れました。



 瀬戸大橋です。
 写真は瀬戸大橋から見た瀬戸内海。
 不思議ですよね。
 山なのです。なのに海。
 後日少し調べました。
 今から約1400万年前、「瀬戸内火山活動」と呼ばれる短期間の激しい火山活動がありました。そのとき噴火したものが山となって残っている。
 さらに約300万年前、四国を南北に分ける中央構造線が横に動いたため、横ずれの「しわ」として隆起したところが後で島になった。
 今の瀬戸内海となったのは約1万年前と言われています。
 瀬戸大橋を渡っていよいよ四国の香川県へ。
 山々を縫うように西へ。
 愛媛県に入って、大きく左折。それが高知自動車道です。
 その道も、よくぞ拓いた、というような山道の連続。四国の山々は険しいのです。
 これも後日調べました。
 南東からフィリピン海プレートが、ユーラシアプレートの下に沈み込んでいるのですね。そのための隆起と言われています。
 南海トラフ地震が懸念されている所以です。
 険しい山々を越えると、ぱっと開けます。
 山が山だけに、開放感も大きい。そこが高知でした。



 高知駅から路面電車に乗ってはりまや橋へ。そこから歩いてすぐ中央公園があり、「高知龍馬マラソン」の受付をし、ホテルも近くにあったのでチェックイン。
 路面電車だけでなく街のあちこちにアンパンマンがいました。
 作者のやなせたかしさんのご両親が高知県の香美市出身ということで香美市立アンパンマンミュージアムがあります。
 来年春のNHK連続テレビ小説「あんぱん」も決まっています。バイキンマンとドキンちゃんの銅像もありました。
 で、商店街を少し歩けばもう高知城。



 こちらは天守閣から見た高知駅方面です。
 遠くには山。
 川が3本流れて浦戸湾で合流しています。そして海に流れる。
 太平洋に広く面して、そのへそに当たる場所が高知市。
 古くからカツオとクジラの漁が盛んでした。それに材木。
 海と山に恵まれていたから。行ってみて納得です。
 その日は「ひろめ市場」という屋台村で夕食。
 カツオのたたき丼は外せません。ニンニクはおろさず、スライスしたものをつけるのが高知流でした。それとネギとミョウガ。薬味との相性が抜群でおいしかった。
 あとはクジラハム、ウツボのたたきもいただきました。そんなにうまい! というものでもありませんでしたが、話のネタに。
 翌日はフルマラソンです。温泉に入ってから早めに就寝。
 フルマラソンの話は、また後日。
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2度目の荒浜へ

2023-11-06 08:18:06 | 
 昨年の5月に続いて、2度目の宮城県仙台市、荒浜へ。
 昨年は海からの風がものすごくて、時間もあまりなく、急足になってしまっていました。今回は昼には入って、じっくりと見て、聞いて、感じ取ることができました。風は穏やかで、ほんの少しの小雨程度。写真は、荒浜の海です。とても美しかった。
 荒浜小学校の中も、改めて、じっくりと。

 明治時代から、140年以上もの歴史がある荒浜小学校。荒れる海は豊かな漁場。松林にはキノコがたくさん生え、貞山堀と呼ばれる運河にはシジミがいっぱい。江戸時代、侍たちが開拓した農地にはコメも実った。先祖への感謝の思いを新たにし、未来への希望を込めた祈りを捧げる灯籠流し。深沼海水浴場には多くの客たちであふれた。独特の文化を築き上げ、活気と人情に満ちた町。

 7メートルの津波。やっぱり信じられませんが、この震災遺構に生まれ変わった荒浜小学校に行けば、記憶も新たに生まれます。
 地元の人たちでさえ、津波が来るって言っても、1メートルくらいだろう、とか、そもそも津波は来ないと思っていた人もいました。
 荒浜小学校の屋上に避難した人たち(およそ320名)は全員助かりましたが、荒浜小学校に通う児童1名を含む、およそ200名が津波に飲み込まれました。
 

 小学校の体育館にあった時計です。津波に襲われた時間で止まったまま。
 図書室があった場所で、長く時間を過ごしました。NHKの録画番組を視聴することができ、津波被害から4年経ってやっと稲作を再開した農家たちの姿を見聞きしました。

本もたくさんあり、いくつか読みました。

 なかでも、「はしれ、上へ! つなみでんでんこ」(ポプラ社)のラストは印象的でした。

 本当に、私たちは、海との付き合い方を忘れてしまったのかもしれません。恵をもらうばっかりで。
 荒浜小学校にある小さな椅子に座って、お尻を痛くしながら、吸収すべきことはまだまだあった。
 そして、私たちが伝えていくこと。その地に立って、感じて、初めて形になるものたちがありました。
 翌日は、東北・みやぎ復興マラソンを走るのですが、そこでも共通していたのが、この地で見て聞いて感じたことを、ぜひ持ち帰って今度はあなたから伝えていって欲しい、という現地の願いです。
 そう、私は、昨年荒浜を訪ねてから、小説の構想が一気に膨らんだ。そしてちょうど一年前の気仙沼大島のつばきマラソンを走って戻ってから書き始めています。
 荒浜という地が、今書いている小説にとってとても大事なものになっています。それは、私なりの伝え方。
 どうぞお書きになってください。そうおおらかに託されたような感じです。
 主人公たちの今を感じながら、改めて、大きく呼吸ができた。そして背を押されました。
 多くの命を救い、風化に抗う拠点としてあり続ける荒浜小学校。私からも、ありがとう。
 また会いに行きます。
 
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夏目漱石の家

2023-02-20 13:22:41 | 
 そして、熊本は文学の街でもありました。
 これも仙台と似ていて、私が引かれた大きな理由だったと、行ってみてわかりました。
 泊まったホテルの600メートルくらい先に、かつて夏目漱石が暮らしていた家が残っていました。
 その日は4時半まで公開されていて、入場無料、さらに解説してくれる方もおりました。フルマラソンの後だったのですが、間に合ってよかった。
 先人の作家の家に遊びに行くのは3軒目でしょうか。調布にある武者小路実篤、津軽の太宰治、そして熊本時代の夏目漱石。
 英語教師として四国の松山に赴任した後、熊本の五校の教師となり、4年も暮らしていた。その後、イギリスに留学。
 熊本時代、結婚して子供も産まれた。寺田寅彦が五校の生徒で、泊めてくれと懇願されたこともあった。
 大型犬を飼っていたとは知らなかった。
 その犬、通行人に噛みついて警察沙汰になったとか。漱石は、噛まれる人は愛想がなく、犬に対して嫌悪感も抱いており、犬ばかり悪いわけじゃないと警察に言ったとか。
 でも、あろうことか、その後、帰宅したご主人もまたその犬に噛まれたそうです。で、猫派になったのかなあ。
 貴重な直筆原稿もありました。

 机の前に座って、読書することもできます。

 正岡子規に送って、○をつけられて返された俳句もあった。
 洋間には肖像画が。
 ここにも全集などそろっていて、読書できます。

 仙台の東北大学図書館には、漱石の弟子である小宮豊隆が館長だったつながりで、漱石の蔵書が保管されています。戦時中に焼失することを避けるためでした。
 
 熊本には、書店も多かった。アーケード街を歩いただけでも古書店3店舗、新刊書店2店舗。
 そして、少し離れたところに、行きたかった「長崎次郎書店」があります。


 明治の創業。大きなお店ではありませんが、品揃えが素晴らしかった。
 熊本にはまだまだ作家がいて、石牟礼道子さんもその一人。石牟礼さんの本を3冊買いました。
「星の王子さま」を翻訳した内藤濯もまた、この長崎次郎書店の近くで生まれたとは知らなかった。
 2階はカフェになっており、本を読みながら、コーヒーとフレンチトーストとプリンと漱石饅頭をいただきました。

 作家たちは、文学を受け継いで、新しい文学を自分で作って、次の人たちに手渡していく。
 その気持ち、その言葉が、やっぱり愛おしいと、改めて感じました。
 その土地でなければ感じられないことでもあります。
 ほんと、十分に体験できてよかった。
 あの家で、漱石も昼寝していた。飼い犬に噛まれた。我が妻、我が子を抱いた。
 作家の芽は育っていた。豊かな熊本の地で。すくすくと。
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熊本城へ

2023-02-20 11:52:54 | 
 熊本に行ってきました。
 熊本城マラソンに参加するためですが、それだけでもありません。
 熊本にも、大きな地震がありました。熊本城は、離れてみれば復旧したようですが、石垣など、まだまだ立て直しに時間がかかります。




 天守閣も登りました。
 登ったのですが、そこに至るまで特別に橋がかかっていて、なんとも痛ましい。
 それでも、難攻不落の城。
 熊本は城下町です。熊本城は、市民のシンボルなのかもしれません。
 ビルの合間からその姿が見えれば、つい見てしまう。富士山みたいに。
 宝物。見ているだけでなんかほっとする。
 私の泊まったホテルは、客室からばっちりその姿が見えました。


 なんか、やっぱ似てるなあと思った。
 仙台と。
 仙台も城下町で、もう天守閣はないけど、川に囲まれた天然の要害。
 戦中は軍の要でもあった。
 何を食べても美味しかった。
 水が、すべて天然水だからでしょうか。
 ご飯が、もうそのままで美味しかった。
 熊本ラーメン、からし蓮根、いきなり饅頭、馬焼き、馬にぎり、桜そば。地元の食も楽しみました。
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気仙沼市復興祈念公園

2022-11-09 16:25:57 | 
 この彫刻は、気仙沼市の鹿折地区から少し登った安波山のふもとの陣山に造られた気仙沼市復興祈念公園にあります。
 言葉やパネルの展示だけでは伝えきれないものを伝える「伝承彫刻」です。
 復興祈念公園には3体の伝承彫刻があり、写真に撮ったのはその一つで「海へ」。他に「ごめんね」と「よかったね」があります。
 作家は皆川嘉博(みながわよしひろ)さん。秋田公立美術大学の准教授だそうです。
 下から登っていくと、「ごめんね」が迎えて、「よかったね」と出会い、「祈りの帆(セイル)」と呼ばれる白い帆に見立てた空間の中に入ると、正面に気仙沼湾が見え、献花台があり、祈りを捧げることができます。白い帆の中で、人目を気にせず、包まれるような明るい安らぎを感じながら。そして「祈りの帆」から出て、右手の一番の高台に「海へ」があります。
 それは、大津波が来ても、多くの犠牲者が出ても(亡くなった方達のお名前が、住まれていた地域から集まるように、公園の中央に彫られています)、「海とともに生きる」気仙沼の人たちの祈りの姿を代表するもの。
 この場所には、マラソン大会の翌日に来ました。この後、安波山にも初めて登りました。気仙沼の海がよく見える場所です。海とともに生きてきた気仙沼の人たちの原風景と言ってもいい場所かもしれません。震災前にはなかった橋が2本かかっています。気仙沼大島大橋(鶴亀大橋)と気仙沼湾横断橋(かなえおおはし)。



 復興のシンボルでもある2本の大きな橋のおかげで、住む人たちは格段に便利になったと言います。以前は船しか交通手段がなかったから。
「おかえりモネ」というNHKの朝ドラのおかげで、ドラマのゆかりの地は観光客で賑わうようにもなってきています。「気嵐(けあらし)」という、よく冷えた朝方に朝日を浴びて海から立ち上がる霧も有名になりました。
 2本の橋を車で渡って大島に入ると「ウェルカムターミナル」が迎えてくれます。私の親戚もお店を出しています。観光案内所もあります。お土産もたくさん買って、コーヒーもいただきました。が、その場所こそ、以前は更地だった場所。更地の前の賑わいも覚えており、記憶がミルフィーユのように重なって重なっていきました。ゆっくりと。
 大島の南端は「龍舞崎(たつまいざき)」と呼ばれ、まるで龍が舞うように荒々しく波が岩にぶつかっています。露出する岩たちは、地質学的に貴重で、約1億4500万年前の白亜紀のもの。アンモナイトやサンゴの化石が発見されています。子供の頃以来、散策してきました。松林が陸を守っているのがよくわかった。
 大島の北には亀山があります。山頂の少し下に大嶋神社があり、初めてまともに参拝してきました。1000年以上の歴史がある神社。対応してくれた奥様と話もできてよかった。おみくじは「吉」でした。両親に長寿のお守りをペアで買い、私には「縁結び守」を買いました。亀山の山頂も整備されて進化していました。4年後にはケーブルカーを設置する予定だと知りびっくり。どんどん変わっていく。前に来たときは、火事で焦げた松たちの姿が丸見えで痛々しかったけど、今回はずいぶん緑が増えていてほっとしました。
 気仙沼の内湾地区には行けなかったので、次回の楽しみにしておきます。気仙沼の陸側の南端にある岩井崎まで行き(そこはおじいちゃんに連れて行ったもらった記憶があります)、震災遺構として保存された元気仙沼向洋高校、現在の気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館を訪ね、リアス・アーク美術館を楽しむ。帰ってきたばかりなのに、もう次の計画が出てくる。次は一人で行くかどうかわからないけど、一ノ関からレンタカーかな。一ノ関から気仙沼までの道も新しくなっており、快適でした。
 仙台もそうだけど、気仙沼も私のふるさとであり、再訪するたびに発見があって尽きません。食材も魅力も溢れており、ご先祖たちが(気仙沼はアイヌ語からきていると聞きました)住み着いたのもよくわかりました。海水温の上昇によって、名産だったイカや鮭にイクラやサンマも獲れなくなった。一方で今まで獲れなかったブリやノドグロもいると言います。柚子に椿油、最近はオイスターソースも名産となっています。変化を受け入れつつ、進化していく。
 変わらないのは人々の心の温かさ、おもてなしの手厚さでしょうか。
 一人ひとりが、津波が来ても、コロナが来ても、生きている。一人ひとりに、固有の言葉があり、歴史があり、思い出があり、景色があり、仲間があり、家族があり、傷があり、文体があり、心があり、人生がある。当たり前だけど、当たり前ではなかった奇跡を、会うことによって、話しあうことによって、ともにいることで、確かめ、満たすことができました。
 私は、東京の東村山から行ったのだけど、なんか宮城の気仙沼から行った気がしています。私は、気仙沼から来たのだと。
 頼もしく、賑やかな、バックアップしてくれる人たちがいて、初めて自分は自分の道を心おきなく進むことができます。私は私の仕事を進めることができます。
 小説を、十分に書き尽くすことにつながっていきます。
 感謝を深める旅でもありました。
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中尊寺金色堂

2022-05-14 22:05:51 | 
 仙台からバスで1時間半、岩手県の一関へ。そこからまたバスで20分ちょっと。初めて中尊寺に行きました。マラソンの翌日です。
 きつい月見坂を登っていくと、右手に中尊寺、そして左奥に金色堂が待っていた。
 その日の平泉は五月晴れ。好天もあって、ここが浄土かと思うほど、空気がおいしく、清々しかった。小鳥たちのさえずりも耳に心地よく。
 中尊寺は、敵味方の区別なく、戦争で亡くなった方たちを弔うために建てられました。その奥州藤原家も、戦争に巻き込まれて滅亡してしまいました。平安時代末期のこと。源氏が平家を倒し、また源氏の内部抗争(兄弟喧嘩?)に巻き込まれる形で。
 平泉には豊富な金があった。また名馬の産地でもあり、豊かな文化を作り上げることができた。
 たくさんの宝も残されています。金色堂が最たるもので、建造物としては唯一のもの。撮影は禁止です。基本的に墓ですが、仏像に地蔵に金箔に貝細工。もう至れり尽くせり。そんな浄土が守られてきたのは、この地を作った人の優しさがあまねく伝わっていたからなのでしょう。本当の心というか。
 平安時代の末期は、怨霊や裏切りや流言、憶測、主従関係の不安定、税を取られる農民の不満、不満を代弁する武士の登場、殺し合いの果てしない連鎖、などなど、平和に生きることが難しかった時代と想像します。だからこそ、極楽浄土への思いは、途方もなく大きく膨れていたのだと思う。
 さまざまなお宝を通じて、当時を想像することができる尊い場所。尊いお寺。世界遺産も納得です。
 時間があまりなかったので、地元のそばを食べることができず、もっとそこにいたかったけど、また次回に取っておきます。
 こけしは買いました。もちろん。
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杜に聴く

2022-05-14 21:38:27 | 
 仙台の広瀬川沿いにある、かつての私が住んでいた場所とも近い西公園にある「杜に聴く」という銅像。昭和61年(1986年)、今から36年前に設置されたそうです。
 仙台は彫刻の街。しかも風景に溶け込んでいます。風景と銅像に再会し、風に吹かれ、光を浴び、学生時代の自分を呼び起こし、対話を重ねてきました。
 作者の雨宮敬子さんは、「健康で豊かな仙台市の発展を願って制作した」とおっしゃったそうです。
 健康で豊か。確かに、発展していると思います。
 宮城に住む友人二人ともコロナ後初めて再会できました。いろいろ話せて本当によかった。
 牛タン定食も、仙台っこラーメンも、気仙沼あさひ寿司も、ずんだシェークも、食べることができました。
 白松がモナカとささかまをお土産に買う。友人からもらった福島産のエゴマ油、もう一人の友人が営む古本屋(「マゼラン」と言います)で本も買って持ち帰る。
 行きたいところに行き、食べたいものを食べ、会いたい人に会い、話したいことを話し、買いたいものを買う。そのしあわせを、十分に味わうことができました。
 仙台は、ふるさと。
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荒浜の空

2022-05-14 20:21:47 | 
 空は一つ。
 空は、つながっています。
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生き残った松

2022-05-14 20:10:04 | 
 深沼海岸にあった松林を想像することも難しくなった場所。
 荒浜小学校にいた案内の方に教えられて驚きました。
 津波に流されなかった松が、仙台にもあったとは知らず。
 ただ、枝のない部分は、津波に持っていかれました。
 その高さにまで津波は来たということです。
 それでも、生き残っている。
 ものすごい強風でも、立ち続けている。
 なんて強いんだろう。
 なんて健気なんだろう。
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震災遺構 仙台市立荒浜小学校

2022-05-14 18:39:45 | 
 ここは、大学でお世話になった先生の紹介で知りました。次、仙台に行くときは必ず寄ろうと思っていました。
 やっと、行けた。やっぱり、行ってよかった。
 海岸から700メートルほど。津波は、二階の床上40センチまで迫った。
 この小学校に逃れた320名は皆、救助されて無事でしたが、逃げ遅れた方たち、190名以上が亡くなっています。
 一階、二階はそのまま。津波の痕跡がまざまざと残されています。
 三階は未公開。で四階に、かつての荒浜地区の様子を伝える写真や、東日本大震災の際、実際にどう行動したのか、当時の校長や教頭、町内会長のインタビュー映像が流されています。他にも、震災前の荒浜の街を再現した模型や防災グッズの紹介など。
 屋上も公開されていて、付近を一望できます。が、この日は海からの風がとても強く、すぐ校舎に引き返しました。
 かつてこの地域が、活気に溢れていたことがよくわかりました。仙台では唯一の海水浴場だった深沼海水浴場があり、多くの人たちで賑わう魅力的な場所。
 貞山運河もすぐ近くにあって、シジミなどたくさんの海の幸に恵まれていた。豊かな松林にもキノコが山ほど生えた。
 何より、住民たちの団結力があった。砂浜が続くので戻った船は引っ張り上げるしかなく、皆で協力する文化が自然に育まれていたのかもしれません。
 この地域に、昔から津波が来ていたことは知られていました。それでも、この素晴らしい土地に住むべきではないという判断までにはなっていませんでした。
 東日本大震災を経て、荒浜は人が住めない場所に変わった。そして、仙台市が遺構として整備し、近くには避難できる丘も作り、仙台東部道路の手前にもう一本かさ上げ道路も築いた。
 震災の記憶の風化を防ぐ建物として、かつて住民たちに確かにあった思いやりを取り戻すことのできる場所として、また人々が学び続けることのできる学校として、荒浜小学校は生まれ変わった。
 訪れた人も、自ずと生存のための変化が促され、持続させる場所なのかもしれません。
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あおもり犬

2019-09-26 22:03:14 | 

最後に、青森県立美術館へ。
シャガールの大きな布に描かれたバレエ「アレコ」のための壁画にお出迎えを受ける。
シャガールも久々だった。彼は愛で描いた人。
今でも私の部屋には、シャガールの絵葉書が飾ってあります。
棟方志功の版画もたくさんあった。けど、今回はあまり引かれなかった。顔がどれも似ているように見えて。
常識を刺激するような展示が続き、締めは奈良美智。弘前出身でした。
「あおもり犬」は、強い雨の中、地図を見ても今ひとつたどり着くことができず、係員に尋ねてやっと出会えた。
見る角度によって様々に見えるのが面白かった。
目がまた印象的で。悲しんでいるのか、喜んでいるのか。
手前に円形の花壇があり、私はそれが入るように撮ったのですが、それが餌のようにも見える。
三方はコンクリートの壁。正面はガラスで、美術館の中から見えるようになっている。
やっぱり、悲しんでいるように見えるのだけど、「砂の女」のように、そこにはまり込んでむしろ喜びを見出したようにも見える。
ここから出たいのか出たくないのか。二者択一じゃない。というのはわかった。
例えば、彼は背中から羽が出るのをじっと待っている、とか。
その気になればジャンプしてこんな狭い空間から出られるのに、見る人たちを喜ばせたくてあえてここにいる、とか。
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三内丸山遺跡

2019-09-26 21:37:06 | 

次は、三内丸山遺跡へ。国の特別史跡。
今から約5900年前〜4200年前の集落跡。
縄文人の暮らしが、日本一の出土品によって詳しく再現されている。
写真左は、復元された大型掘立柱建物。屋根の形状が不明なのでついていません。
木材は栗。表面を焦がして腐らないように加工してある。
それにしてもこのデカさ。何のために?
想像力が刺激されます。灯台のようなものなのでしょうか?
海や山で漁をしていたそうなので。当時は地図もコンパスもないでしょうから。
右奥の大型竪穴建物もデカイ。中に入れたのですが、200人くらいは余裕で入れそうです。
集会をしたのでしょうか。首長の演説があったのでしょうか。
言葉は? 土器や板状土偶も大量に出土しており、もちろん手作りなので形は様々。
なのに言葉らしきものが見当たらない。言葉のない生活を想像するのが楽しい。
身振り手振りや、翡翠など鉱物の首飾りに、漆を塗った髪飾りもあった。
結婚や子育てはどうなっていたのだろう?
なにせ1000年も続いた時代。興味は尽きません。
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斜陽館

2019-09-26 21:05:48 | 

八戸に別れて、新青森駅へ。
改札を出ると、すぐ学生寮時代からの友人が待っていた。
19歳からだから、何十年になるんだろう。続く人とは続くものです。
学生時代の記憶も自然に蘇り、話にどんどん花が咲く。
この人がまた古い学生寮の卒寮文集や、私の古い小説らしきものも持っていて。
詩集を出すとき、寮で募金活動をしてくれた。
寮から出るというのに、引越しの手伝いをしてくれた。
鬱で苦しんでいるとき、図書館の前で相談に乗ってくれた。
出会うべき人とは出会っていたんだ、と、改めて思いました。ありがとう。
で、翌日、彼の運転する車で斜陽館へ。
太宰治の生家がそのまま保存・公開されており、重要文化財。
明治四十年(1907年)にできたというから驚き。
地主で、貴族院議員で、300人近い小作人に金貸もしていた。そのカウンターやソファも生々しく残っていた。
そんな父を持った太宰(本名は津島修治)が、金に甘かったのはうなずけた。
もちろん、環境ばかりで人格は決まりませんが。
手紙も展示されてましたが、どうも太宰の言葉は心に残らないのです。
芯の弱さの現れなのでしょうか?
だからこそ、「人間失格」という題名にも引かれて、若者たちを一度は招く存在なのかもしれません。
佐藤春夫は、種差海岸に魅せられた文学者の一人ですが、彼は太宰に芥川賞をあげなかった。
ちなみに、石原慎太郎に芥川賞を授与することにも反対していた。
んー、わかる。

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