泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

26年ぶりの

2024-11-13 18:07:53 | エッセイ
 やりましたね。26年ぶりの日本シリーズ制覇。
 思わず買った雑誌には「日本一」となってますが、システム上そうなのですが、三浦監督も「日本一」とは言っていません。なぜなら、リーグ優勝をしたわけではないので。
 リーグ3位から、クライマックスシリーズ(CS)で2位の阪神に勝ち、優勝した巨人にも勝ち、セリーグ代表となって日本シリーズに出ていました。それは7年前にもありましたが、そのときは今年と同じホークスに負けていました。
 様々なことを思い出します。
 私が横浜ファンになったのはいつだったか。確か高校時代からでしょうか。
 よく遊ぶ2人がいました。学校に近い方の友人宅におじゃまし、よくプレイステーションの野球ゲーム「実況パワフルプロ野球」をやっていました。1人は阪神ファンでもう1人は中日。じゃあ私は、というところで横浜を選択していました。
 横浜は、12球団で一番負けているチームです。プロ野球の初期からある巨人、阪神、中日が横浜より千試合以上試合数が多いにもかかわらず、です。今年度終了時で4394勝5369敗323分、勝率は4割5分。
 三浦監督もよく負けたピッチャーでした。通算172勝184敗。これはプロ野球歴代13位の黒星の記録です。かつて阪神から熱烈なオファーを受け、出身が奈良なので移籍しようとしていましたが、多くのファンの声によって思いとどまった過去があります。そのとき彼はこう言ったそうです。「強いチームから勝ちたい」と。
 26年前、リーグ優勝し日本シリーズも制した文句なしの日本一になったときの監督は権藤博さんでした。今年のシリーズ初戦で始球式を務め、85歳にも関わらずノーバウンドでストライクの投球。そして右手でガッツポーズ。
 かっこよかった。そうでした、ああぼくは権藤ファンだったのだと思った。
 26年前のシリーズ初戦、私はなぜか気仙沼におり、祖母とテレビで野球観戦していた記憶があります。思い出してみると、そのとき私は大学の3年で、3年から理学部から文学部に転部しており、かつ学生寮からも出た直後だったようです。文化の日もあって連休となったとき、ふと田舎に行きたくなったのかもしれません。
 後で聞いた話ですが、祖母も横浜ファン(当初は大洋ホエールズ)だったそうです。なぜかといえば、気仙沼出身の投手がいたから。その名を島田源太郎と言います。祖母は島田のファンだったそうです。
 島田は完全試合(相手を無四球無安打に抑えること)を達成しています。その年の1960年、当時の大洋はリーグ優勝し、日本一にも輝いています。当時の監督は三原脩(おさむ)監督で、選手起用が変則的(投手をすぐに変えるとか)で三原マジックと言われていました。
 その38年後、今から26年前の1998年、権藤監督率いる横浜が日本一になりました。権藤監督は右膝を階段の上に乗せ、その上に右肘をついて右手で顔を支えるポーズで動かない。打順も変わらない。石井、波留、鈴木、ローズ、駒田、佐伯、谷繁、進藤。斎藤、野村、三浦、川村という先発ピッチャーがおり、五十嵐に盛田という中継ぎがいて、最後は大魔神、佐々木が締める。あのプロフェッショナルな集団が好きでした。銘々の個が最大限に輝いて、チームとして一つになって、マシンガン打線と言われて。
 それからは3位になることはあっても優勝には届かない長い低迷期。優勝は38年周期説までささやかれて。有力選手たちの流出も続きました。
 今年も3位。終盤に広島が大失速して。まあAクラスか、よくやった。そんな負け慣れたファンたちも多かったのではないでしょうか。
 でも、今年は違った。シーズンが終わってからどんどん強くなっていきました。そんなチームを今まで見たことがありません。セリーグの混戦が選手たちを強くしたとも言えます。特に巨人との闘いは、もう本当にどっちに流れがいくか読めず、ずっと目が離せない。ヒリヒリしっぱなしでした。
 シーズン中、あれほど失策が多かったのに(セリーグワーストです)、みんな球際に強くなっていました。三浦監督はこう言っていたそうです。「エラーは反省したら忘れろ」と。今年のチームスローガンは「横浜進化」。まさに言葉通りの選手・チームは進化していきました。
 次へ、次へと反省を生かして進化し、持てる力を出し切って勝ち切る。一人一人が最高の仕事を果たし、好循環が生まれ、点が線となったとき、日本一のチームが生まれていました。
「夢は叶う」青いバラの花言葉。横浜はバラが有名でもあり、「夢は叶う」もチームとファンが共有する大事な言葉の一つになっていました。その通り、本当に叶いました。
 感無量です。横浜ファンでよかった。
 来年はリーグ優勝そして真の日本一を。
 これからもともに、応援します。
 ひどい負け方をするとついぼやき、寝つきが悪くなったりしてしまいますが、終わってみればその時間もありがたかったなあと。
「夢は叶う」私も続こう。
 権藤監督の口ぐせは二つ。
「プロの意地を見せろ」そして「やられたらやり返せ」。
 シンプルですが心の奥底に届く普遍性を持っています。
 権藤さんの現役時代、1961年中日に入団し、69試合に登板、35勝19敗で新人王と沢村賞と最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振も獲得。翌年も30勝して最多勝利に輝くものの、投げ過ぎにより肩を痛め、1968年に引退。権藤、権藤、雨、権藤とまで言われました。1973年からコーチに就任しています。
 よい成績を残したからよいコーチや監督になれるわけではありません。自分の経験をいかに他者に活かせるか。自分に通用したことが誰にでも通用するわけでもありません。「Number」には権藤さんによるシリーズの解説も載っています。それを読むと、ああこの人はよく野球を読む人なんだと感心しました。片肘ついてじっくり見ていたのは「野球」であって、野球を演じているプレイヤーの一人一人なのだなと。
 7年前の宿敵ホークスを破っての日本シリーズ制覇。
 やられたらやり返し、プロの意地を見せてくれました。
 強いチームに勝ち、ミスを反省しては忘れ、進化し進化し、夢を叶えた。
 様々なことがつながり、一つに集まるとき、人々は最高の力を発揮できることも私たちに見せてくれました。
 本当におめでとう。そして、ありがとう。
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それぞれのオリンピック

2021-08-09 20:24:26 | エッセイ
 オリンピックが終わりました。
 私は、野球とマラソンだけは生中継を観ました。
 野球は長年の悔しさを土台にして、悲願の金メダル。選手たちが生き生きと攻めていたのが印象的。
 マラソンは、男女とも暑く、過酷なレース。女子は一山選手が8位入賞。男子は大迫選手が6位入賞。一山さんは「悔いはない」と言い、大迫さんは「100点満点」と言った。力を出し切ることが難しい中で、見事なレースでした。
 一方で、敗退した選手たちの方が圧倒的に多い。サッカー男子では久保選手が号泣。吉田キャプテンは「悔しさを積み上げるしかない」と言う。男子リレーではまさかのバトンがつながらず。鉄棒でも内村選手がまさかの落下。経験はすべて生かすことができる。今後の人間力が問われます。
 というのも、私もまたそうだから。私は長年、「文学」という競技の「小説」という種目に挑んでいる。
 8月6日に発売された集英社の「すばる」9月号に、第45回すばる文学賞の予選通過者が載っています。
 私はその日、本屋で早番でした。雑誌出しの中、おもむろに「すばる」に近づき、急いでページをめくる。
 そこに私はいなかった。
 何度も見たけどやっぱりいない。
 この現実を受け入れるのに3日はかかった。久々に降りるべき駅をうっかり通過したりして。
 読書に身が入らず、オフになっていた小説脳がフル回転。猛烈な一人反省会が自動的に始まった。
 私としては悔いはない。今できることを精一杯した。
 それでも、私より上に、少なくとも87人(予選通過者の人数)がいたということ。
 応募総数は明記されていませんが、過去の実績からすると2000名弱というところではないでしょうか。
 1800名くらいだとして、上位87名は、約5%。
 私としては、過去最高位まで押し上げることはできたと思う。でも、まだまだ、ということ。
 何が足りないのか?
 三人称を使用したこともあり、登場人物が増え、その一人一人の人物造形に時間も力もかかった。
 以前は一人称を使い、自分と登場人物のダブりが課題だった。
 今度は、多人数となったため、全体のインパクトが弱まってしまった。
 おそらく小説的な賢明な判断は、人物の一人を100枚かけるほど掘り下げるべきだったのでしょう。
 それができず、結果的に「寄せ集め」あるいは「ダイジェスト版」みたいになってしまった。
 もっとその一人に徹するべきだった。だけど、書いている最中は、そこまでの判断はできなかった。
 今でも、登場人物たちは私の中で生きています。今後、またどこかで登場してもらうかもしれない。
 それほど登場人物を愛せたのが何よりの収穫。
 足りなかったのは、小説的判断、構成力。これはもう、場数を踏むしかないのではないかと思われます。
 あと、人物をつくり上げる際、どこかから借り物の知識を当てはめている傾向がある。
 忘れてはいけいないのは、名前は後からつけられるということ。オギャーと生まれた赤ん坊に、まだ名前はついていないのと同じで。
 3月末で提出して4ヶ月。この間、小説は1行も書けていない。こんなブランクも、この10年ほどはなかったんじゃないかと思う。
 次こそが大事という感覚もずっとある。何度か書こうともしたけど出てこない。
 次、何書こうか? と自問したとき、ここにあるじゃん、という答えを聴いた。
 やっと準備はできた。私の中の雑音は消えた。書かなくてはどうにも進めなかったことは書き尽くした。
 ここからだ。
 私は、最もおいしいものを、一番最後までとっておく性質。
 寿司で言ったら、最後まで残しているのはイクラ。
 やっとイクラまでたどり着いたのだ、という感覚。
 自分の中にある、最もおいしいところを、最もおいしい形でお届けしたい。
 それだけです。考えもシンプルになった。
 多人数を書き分ける技量も言葉も足りなかった。
 今度は一人。まずはその登場人物の一人を、じっくりと描き切りたい。
 個に徹すれば天に通ずる。
 この8月で、走り始めてからちょうど10年になります。今日も14キロ走った。
 10年前も、見えないけど分厚い壁にぶち当たって苦しんだ。乗り越えさせてくれたのは走ることだった。
 それから10年。今度ははっきりと壁が見える。
 まさに写真のこのページ。プリントして机の真ん中に貼りました。
 必ずこの壁を乗り越える。
 毎日毎日、自分の小説の向上を意識し、工夫し、実作し、再び書き上げます。
 87人の予選通過者たち、おめでとう。
 確かに生きて書いているあなたたちは、私にとって負けたくないライバルであり、同時にかけがえのない同志です。
 男子マラソンでオリンピック2連覇を果たしたケニアのキプチョゲ選手の夢。これが、今回のオリンピックで一番感動しました。
「ランニングを通じて、争いのない健康な世界を作ること」
 文学を通じてだって、できる。
 自分が作家になることよりも、もっと大きな夢が私にもあることを、最高のマラソンランナーは教えてくれました。
 大丈夫。夢の種は、しっかり私の中に植っている。
 日々、言葉を大事に生きること。
 日々、夢を愛して育てること。
 今、自分にできることを、着実に積み上げていく。
 作家が誇りにできるもの。それは没になった原稿の数々。
 没原稿たちに押し上げられて、いつか必ず壁を乗り越えることができる。
 下積みは裏切らない。自分を信じて、また、何度でも、小説に挑みます。
 忘れられない夏。
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痛と和

2020-12-31 18:23:05 | エッセイ
 写真は、枇杷の花です。こんな寒いときに咲きます。
 朝、メジロたちの鳴き声で目覚めて。どうやらこの花が目当てのようです。
 果実は、6月ごろでしょうか。今年は柿が大不作でしたが、枇杷は豊作でした。
 年賀状を書いて出し、読書感想も終えて、やっと年末という感じ。
 今年の一文字は「痛」。そして「和」。
「痛い」の反対語は「痒い」か「快い」みたいですが、はっきりしません。
 私にとっては、「痛」一文字の反対語は「和」。
 年始に女性関係の「痛」があり、尿路結石という人生最大の「痛」もあり、もちろんコロナ禍で友人、知人と会えない「痛」、またマラソン大会中止の「痛」でもありました。
 飲食店や航空関係、旅行業など、職種による影響の差が出た「痛」もあります。
 うつ病もひたひたと増え、木村花さんや三浦春馬さんの自死という「痛」も忘れられません。
 本の需要は増え、本屋は激務と化しました。うれしいようでも心身に限界はあります。特に今月の鬼滅の最終巻発売日(12月4日)はすごかった。朝から並ぶわ並ぶ、カウンターからぐるっと一周して周回遅れ(?)まで発生。整理係やってました。
 結果、首や肩や背中を痛めました(今は癒えてます)。
 本屋だけでなく、保健所・医療関係者をはじめ、保育、教育関係者も大変な一年だったと想像します。
 そしてまた、東京では過去最高の一日の感染者が1300人越え。
 地下鉄の運転手の感染が判明しました。もう都心には、ほんと行けないですね。
 それでも行かなければならない人たちのストレスもまた大変なものだと思います。
 だからこそ「和」のありがたみをより強く感じた年にもなりました。
 自分の好きなこと、好きな人がよりはっきりしたとも言えます。
 マラソン大会の中止が続けば、やっぱり出たいなあ、走ることが好きだなあと感じる。
 プロレス好きもより鮮明に。レスラーたちはまさに「痛」と日々闘い、負けまいとしている人たちですから共感しない訳がなかった。
 自宅時間が増えれば呼吸するように書いていた。
 小説が、やっと読んでいただけるところまできて、今日までで11人の読者に恵まれました。
 年賀状を書いていて気づきましたが、物語とは、人と人との関係の歴史、あるいは言葉や経験の積み重ねそのものだなと。
 年賀状で自分を語れる人が複数いるしあわせもまた感じた。
 小説は、一人で書き抜いても完成しません。読んでくれる人がいて初めて生まれる。
 それはコミュニケーションそのものだと言った人がいましたが確かにそう。私は、それがしたい。
 互いが持っているものを交換しあって、より素敵な自分たちに変わっていくことを楽しむように。
 それは心の呼吸とも言えるかもしれません。
 本のまとめ買いが増えたということは、それだけ息苦しい人たちも増えたということ。
 よき書き手の一つとなれるように、痒い背中のそこに届くような文章を作れるように、死ぬまで前進したいと普通に思います。
 タバコを止めて丸一年経ちました。まったく吸う気はなくなりました。
 書くときはよく音楽を流していましたが、それもあんまりしなくてよくなりました。
 創造することが何より楽しいとわかったから。
 そんな自分の中の「和」が確立できたのも、多くの人たちの出会いと支えがあってこそ。
 自分にとって重要な体験はきちんと保存され、いつでも再生可能になっています。
 それらは、描こうとする小説の一つのシーンを下支えするものとしてちゃんとここにありました。
 だから大事なのは、一つ一つをやり抜くという体験の積み重ねなのかもしれません。
 小説は、原稿用紙を一枚一枚積み重ねることでしか仕上がりません。
 読むときは、一枚一枚めくっていく。
 それは物語そのもので、人生を代表するものとも言えます。
 だから本は、コミックや雑誌も含めて、不要不急ではなく、要で急なものとなった。本は、能動的に関わるものであるから。
 自分が求め、自分が手にし、自分が読まない限り、本は先に進まない。その感覚こそが、多くの時間が止まった人たちにとって必要とされたのかもしれません。
 ああだから走ることと書くことは相似なのだなあ。走ることは、明らかに自分が進む感覚を体験できますから。
 ということで、やっぱり今年もまとまりませんが、これでよし。
 明日からまた3連勤です。気持ちも新たに。
 今年一年、貴重なお時間をお付き合いいただいて本当にありがとうございました。
 みなさまどうぞよいお年をお迎えください。
 

 
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あけましておめでとうございます 2020

2020-01-06 16:57:08 | エッセイ

 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いいたします。

 数あるカレンダーの中で、この「飛び猫」(五十嵐健太/アートプリントジャパン)が気に入りました。
 初めて買ったのですが、今にぴったり。飛躍の年にしたいので。
「次の場所」に飛び移るためには、「今の場所」から離れないといけない。
 正月から、さっそく「別れ」を経験しました。詳しくは書きませんが、まさに正された。
 小説は、最後まで一人で書き抜かなければならないのだ、とも知らされました。マラソンと同じように。

 最近のお気に入りの歌は、スピッツの「空も飛べるはず」と、いきものがかりの「YELL」。
「サヨナラ」は、悲しい言葉じゃない。次の空へ、孤独な夢へとつなぐエール。
 今なら空も飛べるはず。君と出会えた奇跡が胸に溢れている。

「空を飛ぶ」というのは、とても意味深い。
 心理学を勉強していたとき、精神分析の理解と出会った。
 幼子が、親に抱っこされている体験が元になっているという。なるほどと思った。
 安全に守られている充足感。
 しかし子は、成長とともに自分で立ち、歩きたくなるもの。
 地に降りた子は、今度は大人がやりとりしている言葉を飛翔体とみなす。
 私の上空で行き交っている言葉。そこに自分も確かな位置を占めたいと願う。
 驚くほどに子どもが言葉を覚えていくのは、生きていく上で欠かせない手段だから。
 この世界に適応し、認めてもらい、自由に行き来したいから。

 私は、サヨナラするのが苦手だ、と改めて思う。
 何かにつけ「また」と引き伸ばして。
 大事にしたものほど大変だ。
 今の作品とも、完成すれば別れなければならない。
 親とも、もちろん、別れなければならないときが来る。

 でも、今回はちゃんとお別れできた。
 痛くて、苦しくて、悲しかったけど、「サヨナラ」を伝えたら、あたたかい涙がこぼれ、すっと楽になっていった。
 このままではいられない。その関係は、もう育たない。
 お互いの成長にとって。そう、何かが教えてくれた。

 飛んだ猫の真剣な眼差しの先に、何があるのでしょうか?
 ネズミか。鳥ささみか。はたまたチャオチュールか。
 くもりのない目で、目の前の人を見たいと思う。
 そして大事なものをつかみとり、言葉にして、人に返したいと思う。
 それで喜ばれ、私も生きていけるなら本望。

 何かあるたびに書き、書くことで乗り越えてきた自分は本当です。
 豊かな想像力が、ときに的外れになることもある。
 敏感すぎるくらいで、考えなくてもいいことまで考えてしまう自分も本当。
 たくさんある自分をまとめ切らなくてもいい。
 全てで、一つの私になってくれているのだから。

 元旦は普通に本屋で働いて、小金井のレースには出ませんでした。
 理由はいろいろありますが、変えるべきところは変えていく。
 昨日は誕生日でした。43歳になりました。祝ってくれた方々、本当にありがとうざいます。
 新年、始まったんだなあと、やっと実感してきました。
 一つ、また殻を破った自分で。
 どんなことと、どんな人と出会えるんだろう?
 わくわくしながら。
 
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Beyond the Limits.

2019-12-30 16:33:18 | エッセイ
 上のポスターは、今年一年、部屋に貼っていたものです。昨年の「月刊陸上競技」12月号の特別付録。時計回りに、大迫傑選手、設楽悠太選手、川内優輝選手、藤本拓選手、中村匠吾選手、そして井上大仁選手。本屋で朝、雑誌出しをしていて目が止まって。
 無事に怒涛のクリスマスを乗り越え、ほっとしています。年賀状も書いて出しました。もう、今年を振り返るとき。
「Beyond the limits.」その限界を超えよ。私にとって、その限界とは何だったか?
 マラソンでは、念願の東京マラソンで自己ベストの3時間38分30秒で完走。しかも、冷たい風と雨の中で。多くの人たちに助けられた。自信が深まった。
 勢いに乗って、その後は小説を書き進めることを第一に過ごした。現在217枚。100枚以上書いたことがなかったのだから確かにこちらも限界突破。今月にはやっとゴールも見えてきて、改めて一から書いています。原稿用紙からパソコンへ。そのパソコンも今年買った。
 部屋の大掃除も行った。窓や網戸がすっきりきれいに。カーテンも買い替えた。書類や本、CDも整理し、机や部屋が広々と快適に。溜まったもので窮屈になっていた自分からの解放。これもまた限界突破と言える。
 いくつか習慣を見直しもした。眠る前の日記は机で。歯科医や歯科衛生士さんの指導のもとに口の中のケア方法も安定した。朝ランも欠かせない新習慣となった。タバコもやめた。風邪を引いてから、一本も吸っていない。
 青森に行けたのもよかった。いつか行きたかった東山魁夷の「道」。種差海岸。そこにたどり着けた喜び。それもまた友人との縁があってこそ。
 点から線へ。線が像を結ぶ楽しさ。
 小説に教わりました。書き進めながら、ああそうだったのかと、自ら発見したりつながったりすることがとても多かった。その時間を何より大事に扱っています。「黄金の時間」と呼んで。週に1時間は必ず確保するようにして。
 それは、カウンセリングの1時間の後にやってきた豊かに湧き上がる体験と等しい。創造的であるとはどういうことか、カウンセリングの中で体験させてもらった。そこで溢れた泉は、枯れずにある。そのカウンセラーの先生はもういない。でも、今書いている小説に、また私自身に生きている。
 そうやってつながっている。つながってくる。走り続けることで、私の密度も日に日に増しているのでしょう。
 バラバラであることの結末が孤立です。孤立は万病の元。
 そこから始まった私の道。
 振り返れば、限界突破の機会は、いつだってあったのだと思う。ただ、自分が、その流れに乗れたかどうか。自信がなければ、当然出した手を引っ込めるしかない。自信が確信に変わりつつあるということ。ここまで来るのに、どれだけの力と時間がかかったことか。
 だからこそ、私の小説は面白くないはずがない!
 謙虚さも大事ですが、自分の能力を信じ、育て続けることも大事です。
 ということで、まとまりませんが、これでよし。
 ぼちぼち、作品を発表していきます。

 今年も、大変お世話になり、ありがとうございました。
 どうぞ良いお年を、お迎えください。
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12年続いた「自発」

2018-08-02 12:46:41 | エッセイ
 このブログは2006年8月1日から始まっています。12年経ちました。
 7月には、地下鉄サリン事件などを起こした13人の死刑が執行されました。
 毎日新聞に村上春樹さんの寄稿が載りました。「師を誤ることの不運と不幸」という言葉が印象に残っています。
 今日も暑すぎて走れないので、少し今思っていることを整理したくなりました。

 このブログを続けているのは、私が続けたいからです。
 一方、サリンの袋を傘の先でつついた人たちは、自分からつつきたかったのでしょうか?

 ものすごく簡略化していますが、「自発」の実態がよくわかります。
「おのずから」という動き、これはカウンセリングで注目されていました。
 私が得たのは、自ずから動いてもいい、むしろその方が心地よい、という体験の根付きでした。

 カウンセリングの終結とともにブログが始まり、当初は楽しくてしかたなかった。
 なんでもかんでも投稿していたように思います。写真も、取捨選択できず。
「自発」には、喜びがある。とともに、責任がある。とともに、他者がいる。
 後者の「とともに」は、時を重ねるたびに増えているようです。

「オウム」の後継団体「アレフ」は、未だに活動を続けています。足立区に施設があり、地域住民は反対運動を続けています。
 春樹さんも書いていたけど、本当に終わっていない。「平成のうちに片が付いた」なんて言う官僚もいるみたいですが。
 真面目に生きようとしている人たちが「修行」に価値を見出したいようです。
 オウム真理教は、忖度組織の典型だと言う人もいます。
 命令に背けば殺される。あるいは社会的に抹消される。忖度の裏には恐怖も隠れているのではないでしょうか。
 そして「自発」が無視されていく。客観的、法的根拠が忘れ去られていく。

 地下鉄サリン事件は、1995年3月20日に起きた。私は18歳。大学受験にすべて失敗し、予備校生となる直前のこと。
 ものすごいショックでした。今でも覚えているわけですから。
 読書に没頭するようになり、夏に日記をつけ始めた。
 大学に入ってからは地球科学から哲学へ専攻を変え、一人暮らしをし、小説を書いた。
 その結果は、以前にも少し触れましたが、内なる暴力の発見であり、身体の喪失であり、絶望であり、鬱病。1999年7月31日、ぼくはあわや帰らぬ人となっていたかもしれない。
 7月の末になると、今でも思い出します。
 芥川龍之介の命日「河童忌」は、7月24日でした。その日も、1927年のことですが、暑かったんだろうなと想像する。
 ちなみに上期の芥川賞は7月18日に発表されました。どうせなら24日にすればいいのに。

「自発」が苦しめられ、痛めつけられ続けると、人はおかしくなる。犯罪者は、特に自発性に乏しいそうです。
 受験生もまた。私はそうだった。自然な遊びや体を動かす喜びは否定され、ひたすら勉強しようとした。できるだけ速く問題を解くために。
 よく覚えているのは、予備校でよく隣になっていた人たち、また同じ高校出身と思われる女子、あるいはチューターと言われるクラス担任。
 彼ら、彼女らに、ぼくは一言も話しかけることができなかった。シャイだったということもあります。
 先回りしてしまうのですね。予期不安と言いますが。そして固まる。これを打ち破るのに、ほんとに時間がかかった。
 鬱病の恐ろしいのは、何も楽しくなくなってしまうことです。もちろん、自発性もなくなる。
 そしておそらく、唯一発しているメッセージは、「楽になりたい」。
 休息が必要だということです。決して死ぬことではありません。そこを取り違えてしまう。判断力もまた奪われています。

 私が師と思っているのは、大学の先生、カウンセラーの先生、そして多くの作家たち。
 その人たちが生き、活躍し、私と関わってくれたからこそ今の私がいる。
「師を誤る不運と不幸」は、だからよくわかる。
「自発が歪められる不運と不幸」もまたよくわかる。
 人は、生まれる前に持たされた装置だけでは生きていけません。
 その時その時、必要なものを取り入れて成長します。
 その必要なものが、本当に必要なものだったのか、結果は時間が経たないとわからないこともあります。

 だから、「泉を聴く」なのですね。「泉」は「自発」そのものです。
「聴く」のは私。しかし、「泉」の場所に私はおのずから動いて聴きに行っている。
 聴き取ったことを書く。書いているとき、私はもう「泉」にはいない。
「泉」は、サリン事件におののく18歳の私でもあった。
「泉」は、鬱病患者である私でもあった。
「泉」は、カウンセラーである私と面接している来談者でもあった。
「泉」は、ある一冊の本でもあった。
「泉」は、ある一輪の花でもあった。
「泉」は、今取り組んでいる小説でもあった。
「泉」は、今気になっている女性でもあった。

 そうか、そうだったのか。
 ということは、「泉」は「自発」ではない?
「泉」とは、私との間で自発的に生じる相互作用、なのかもしれません。
 そして、読者との間で自発的に生じる相互作用、でもあります。
「自発」であればこそ信じられる。
 お互いにとって、それらの相互作用は生きる力になる、と私は信じています。
 
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ふるさとのこと

2018-03-12 18:15:17 | エッセイ
 

 東日本大震災から7年経ちました。
 いつものように朝起きて、食べて、コーヒーを片手に新聞を読んでいると、この記事が目に飛び込んできた。
 驚いた。少し鼓動が荒くなる。
 というのも、読売新聞で日曜に連載している「空想書店」、大学で大変お世話になった担当教授が出ていたから。
 野家(のえ)啓一先生。
 どきっとしたのは、大学時代のどうしようもない私を知っているからなのでしょう。
 ノートに詩を書きなぐることだけが唯一生きている感覚を保てた時代。
 先生は、その詩たちも読んでいる。読み返したことのない卒業論文も読み、B判定をされている。
 その上で助言をされた。「君は長い助走を必要とするみたいだ」「詩で食っている人は谷川俊太郎くらい。まず食い扶持を確保しなさい」
 そして今でも続いている年賀状のやり取りでは、いつも「着実に一歩ずつ進んでください」。
 これらすべては当たっていた。
 卒業宴会の中華料理屋で、編入学した私に友人はおらず、ぽつんと一人煙草をふかしていると、先生は寄ってきた。
 何を言うのかと思えば、「一本くれるかな。酒が入ると吸いたくなって」。
 特別な何かをしてくれたわけではない。ただ、私がずっと敬愛できる大人として、私が関わることのできるところにいてくれた。
 その出会いが、どれだけ大切なことだったか。時が経つほどに実感する。
 そんな先生が、3月11日、私が書店店主だったらこんな場所を作りたいと思いを語っている。
 被災し、現在は震災遺構として公開されている仙台市立荒浜小学校の空き教室で。
 震災と原発事故をめぐる書籍、映像、また坂本龍一の「津波ピアノ」、宮城名物のずんだ餅、コーヒーを飲みながら語り合える場。
 アメリカの歴史家ジョン・ダワーの引用も、相変わらず適切で深く響きます。最後の二段落、途中から引用します。

 震災直後に、歴史の中には突然の災害や事故のあとに「すべてを新しい方法で、創造的な方法で考え直すことができるスペースが生まれる」と語っていた。「しかし、もたもたしているうちに、スペースはやがて閉じてしまう」とも付け加えている。
 忘却と風化とは、このスペースが閉じることを意味する。私が営むブックカフェは、スペースを開いておく心張り棒でありたい。

 先生の色紙の言葉は「忘却と風化に抗して」。
 震災後、走り始めた私は、まさにぽっかりと空いたスペースを埋めるように走っていた。
 今は思う。スペースが閉じるのに抗して走っているのだと。
 走りに支えられて、心張り棒となって、今の私は生き、書いている。
 書いている内容が、その文の背後にある思いが、読む者に伝わることを信じて。

 今日も走りました。走った後、少し横になります。音楽を聴きながら。
 震災後、一番聴いていたのはブルックナーかなと思う。
 特に交響曲の第8番。第2楽章と第3楽章を今日は聴いた。
 激しさと静謐さと温かさと調和と。
 特に第3楽章は染みます。泣いてもいいんだよと、学生時代、精神科の治療を受けていた時間の土台の空気を思い出します。
 良くも悪くも、東北は私のふるさと。そのふるさとがあり、先生も健在であることを仕合わせに思う。
 ふるさとをなくした多くの人たちの悲しみも、また思います。
 一歩ずつ、着実に。今の自分にできることから始めましょう。改めて。新たに。一歩ずつ。
 私が活躍すればするほど、お世話になった人たちも喜んでくれるから。
 
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涙はどこから出てくるんだろう

2017-12-25 19:04:31 | エッセイ
 怒涛のクリスマス商戦が終わりました。
 ラッピングラッシュは、毎年のことだけど、ものすごいものがあります。
 これも一つの物語の力なんだよなと感じながら。
 売上も、去年よりよかった。
 本屋の仲間たちが協力して、それぞれが慣れ、少しずつできることが増え、速くもなって、その伸びが売上になったのでしょう。
 今日は休みで岩盤浴。年賀状の準備も始め、もう今年も振り返りの時か、と思わされています。

 よく泣きました。
 今日は、「陸王」の最終回を録画で観て、泣く。
 昨日は、「精霊の守り人」を観て泣く。
 一昨日は、「コウノトリ」を観て泣く。
 秋からのこの3本のテレビドラマは、純粋な楽しみとなってくれました。
 初夏には、「ブランケット・キャット」があった。そこでも泣いた。
 そして、これらのテレビドラマには原作本がある。原作本を書いた作家がいる。
 この事実に改めて打たれた。

 今年の年賀状には、「小説を書き抜く」と、あちこちで書いた記憶があります。
 が、まだ仕上がっていません。
 数えてみれば、原稿用紙で50枚ほどの進捗。
 50枚は、確かに少ないでしょう。
 しかし、私にとってみれば、大変な50枚でした。

 宮城に3回も行きました。
 フルマラソンを2回完走しました。
 初めて、4時間を切ることもできました。

 走ることと書くことが、私のちっぽけな意識を更新し続けている感覚があります。
 あるいは、地球が、薄っぺらな殻に覆われ、その地下で熱いものが絶えず動いているように。
 地震は、いつだって起きます。人を待ってなどくれません。
 表面を少し覆っているだけに過ぎない殻は、あっさりと壊される。
 私の言葉や、過去の出来事に関連付けた因果関係や、自分の好みに当てはめた条件付け(女性に対して)などは、どんどん壊れた。
 けっこうまだ過去にとらわれていることもわかった。
 ブログを週一回更新、という決まりも壊れた。
 そんな自己内満足にとらわれているより、誰かにとって大事となりうる小説の一行を進めた方がいい。

 年始に、蛇に左手を噛まれる夢を見ました。
 強烈な痛みがあって、今でもはっきり覚えています。
 以前に右手を噛まれたこともあった。そのときもものすごく痛かった。
 秋には、大蛇が胴体に巻き付いた。それも苦しかった。
 でも、やっと蛇に噛まれた、と、私はうれしく感じた。
 この右手も左手も、胴体も。
 蛇は、大地を這う、知恵の象徴だと私は思っています。
 ニーチェの「ツァラトゥストラ」に出てくる。
「ツァラトゥストラ」は、大学の哲学演習で出会った。その演習も、一年で50頁しか進まなかった。
 私は、やっと大地とつながれたのだと。

 東北・みやぎ復興マラソンを走り終えたときも泣いた。
 時が経つにつれ、「抜けた」感触が確かになってきています。
 殻を破った。ブレイクスルー。
 私の持っていた生命力がそうさせた。そうなるときに来て、そうなった。

 日記は、二十歳から毎日書いている。病めるときも、健やかなるときも。
 そのペン先が、今を刻んでいた。
 そのペン先が、原稿用紙のマス目を埋めていく。まったく新しい今として。
 原稿用紙50枚。たかが50枚、されど50枚。

 私は、私自身の防御が、どんどん薄くなっているのかもしれない。
 よく泣いたけど、よく笑いもした。
 私は、どんどん素直になっている、とも言えるのかもしれません。
 大地とつながった感覚は、自信とも直結している。

 地学科に入り、哲学科に移り、カウンセリングに没頭し、文学に至る。
 大学を出てからは、ずっと本屋にいた。
 高校を出る年、阪神淡路大震災があり、地下鉄サリン事件があった。
 大学を出る年、超氷河期だった。そうそうに就職活動もあきらめた。
 私の世代は、「失われた世代」。
 その間、ずっとそばに本があった。ずっと何かを書いていた。
 そんな私がやっと一つになって、その先から小説を生み出そうとしている。

 一歩ずつ、一行ずつ、確かに、この道を。
 生きる道が確かにあることを、涙が教えてくれる。
 何度でも、何度でも。
 
 失われてなんかいない。
 私たちが、見つける。

 
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あれから6年

2017-03-13 17:15:36 | エッセイ
 

 7回目の3.11が過ぎました。
 やはりその日は、私にとって特別でした。
 震災関連の報道が増え、食い入るように見聞きし、被災された方々の言動にうなずくことが多かった。
 そして、感情がかき乱され、何度も深呼吸をした。目が、自ずと潤んでしまう。
 小説を書くだけだと向き合うのですが、どうにも滞って、こうしていったんここで整理しようと。

 6年前のこのブログの記事も読み直しました。
 言葉が過剰ですね。つけ入る隙がないというか、肩に力が入りまくっているというか。
 どん詰まり感が半端じゃなかった。
 その当時、心にいた異性を心配しているふりをして近づき、結局は自分が救われたかっただけだった、ということもあった。
 走り始めたのはふられてすぐ。2011年の8月の暑いとき。

 記念日反応というのはどうしようもないのかもしれません。
 花が、そのときになれば咲くのと同じで。
 いったいどれだけの人たちが、今も人知れず苦しんでいるのか。
 報道されるのは、ほんのほんの一部だけです。しかもそれは選択されてもいる。

 行きつくのは、自分は自分にできることを精一杯やって、他の人たちの役に立ちたいということ。
 改めて思ったのは、僕はいつも言葉とともにいた、という事実。
 20年、毎日日記をつけてきた。今年40になり、日記をつけている日の方がそうでない日より増えていく。
 突き動かされて走るようになって、何を身に着けようとしてきたのか。
 本当に感じるのは、新たに何かを身に着けたのではなく、すでにあるものを最大限に生かそうとしている動き。
 私はただそんな機能の邪魔をしないだけ。不要なものを見極め捨て、必要なものを敏感に感じ取り吸収する。
 結果として、文章も際立つ。文章は、今の自分からしか出てこない。その自分がいかに充実しているか、それこそが大事だった。

 こうして書いても、簡単に感極まった感じは治まりません。
 ただ、ゆっくり、ゆっくり、と思う。
 ゆっくり、ゆっくり、と唱えながら走ると、タイムは伸びます。
 はやく、はやく、とせかしたら、怪我や病が待っているだけ。
 言葉は、いつだって体験の後。言葉を先にかかげることから、あらゆる問題は発生します。

 僕が毎日書きたいのは、体験を裏付けして、体験に蓋をして、安心したいからなのかもしれません。
 いくら蓋をしたって、次から次に湧いてくるのだから、蓋を仕切ることはできないのだけど。
 それだけ僕の不安は根が深いのかもしれません。用心深いとも言える。
 酒を飲んで意識を失ってそのまま寝る、なんてことはできない。
 しかし、これが私。この私を捨てることはできない。

 日々、体験と向き合い、言語化すること。この繰り返しの20年。
 一方で、常に言葉を越えようとする突き上げ。
 突き上げによって走り出して、ようやっとかみ合い始めた言葉と体験。
 そこを土台として、作品がある。日々の生活が成り立っている。

 ここまで書いて、うん、大丈夫だ、と思えてきました。

 これからも3.11は、私にとって特別な日であり続けるのでしょう。
 それまでを振り返えらざるをえない記念日。

 写真は、4年前に掲載しましたが、津波で流されつつも心ある人によって拾われ戻ってきた私の小学校入学時の記念写真です。
 またここから1年、再入学するつもりで、ゆっくりと、でも着実に進みたいと思います。
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電信柱

2016-03-11 09:52:54 | エッセイ
2011年5月2日、宮城県の気仙沼に、震災後初めて足を踏み入れました。
無残な変わり果てた姿に恐怖を覚えた。風がとても強く、亡くなった人たちの叫びかと感じた。
そんな中で、ふと目に入った電信柱。
それは震災後に立てられたもので、とても感動した。
当時の写真を見返して、やはりこれを再掲したくなった。
いつもだったら、電信柱なんてじゃまでしかない。
景観を損なうし、早く地に埋めてくれと思っていた。
でも、被災地で見た新しい電信柱は、とてもかっこよく見えた。
私があなたたちを支えているんです、というような。
人の支えの現れとして立っていた。電信柱に人の思いが見えた。
私も、ささやかながらそうなりたい、と思った。
あれから5年。走るようになった。
走るのは、不完全燃焼から卒業するため。
全力を尽くすとは何か、知りたかった。身につけたかった。
完全燃焼すれば、おのずと明るくなる。自信がつく。
明るさが増せば、見える世界が広がる。小説につながる。
そうした好循環が生まれた。
生まれさせてくれたのは、亡くなった人たち。遺族の方たち。
精いっぱい生きなければ申し訳ないから。
だから忘れません。忘れることはできません。
2時46分。黙祷をささげます。
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乗り越えられるように

2016-01-11 19:28:33 | エッセイ
書店では、クリスマス特需が終わるやいなや正月休みでもにぎわい
ただでさえ1年で最も疲れる季節なのですが
おまけに先週水曜は徹夜して棚替え。21時に出て10時過ぎまで働くという悪夢。
とどめが今夜の棚卸。店長の無事を祈るばかり……。
私は今日は休みで、この週2度目のスーパー銭湯。
お昼は奮発して、近くのファミマで醤油ラーメンと餃子と紫芋モンブランを買って食べる。
コンビニで一食千円以上も出したのは初めてか。
ラーメンの食べ方がわからず、レジのお姉さんに聞くと
そのままチンしてくださいとのこと。おいしいですよとも。
食べ物が体を作り、治すのだと十分に感じるおいしさでした。
やっと一区切り。
誕生日に祝ってくれた方々、ありがとうございました。
いただいた力で何とか乗り越えました。
写真の猫は、私が関わるおよそ5匹の猫村の中で唯一のオス。
なのに、いやだからなのか、体は一番小さく、きゃしゃな声で鳴く。
目はいつも潤んでいて、なにか悲しい思い出でもあるのでしょうか。
最近は寒さのためかよく食べます。
先日は猫ご飯の開封が待ち切れずうろうろしすぎてメスにパンチをもらっていました。
でも、よく見ればかっこいい。
この冬、なんとか乗り越えられるように。
出し惜しみはしません。
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うれし涙

2015-12-28 15:48:48 | エッセイ
 
今年を振り返って思い出すのは、2つのうれし涙でしょうか。
 一つは、春、大学卒業で池袋の書店のアルバイトを辞めた人へのプレゼント。
 本(スティーブン・キングの「ゴールデン・ボーイ」)と、簡単なメッセージをお渡しした。
 受け取った人は、「うれしい」と言ってぽろぽろ泣かれた。
 もう一つは、父の日。野鳥好きな父へ、「野鳥の歌」という野鳥の鳴き声を集めたCDと、簡潔な手紙をプレゼント。
「久々に感動した!」と言いながら、父は泣いた。
 その他にも、3月に投稿し、あえなくぼつとなった小説「涙の芽」を読んでくれた調布の元バイトさんも、主人公と自分が重なり泣いたと言う。
 今、目の前の人だけを思い、自分にできることは何なのか考え、差し出した言葉。それによって目の前の人は泣けた。
 それが、一番うれしかった。
 それは、たまたまできたことではないと思う。
 僕は学生時代、さんざん泣いた。
 大学を卒業しても泣いた。
 そのとき、目の前には精神科医がいて、カウンセラーがいた。
 彼女、彼が、やはり今の私と同じように、目の前の人の力、喜びになりたくて働いていた。
 だから僕もそうなりたいと思った。
 その方法として、最終的に文章を選んだ。
 その文章で、目の前の人の役に立てた手ごたえを感じた。
 カウンセリングで身に着けた自律訓練やフォーカシングや、またランニングによっても、集中する術を得たのだと思う。
 小説にしても、これでもかという推敲を重ねることで、その大事な一つを浮き上がらせることができつつあるのだと思う。
 でも、マラソンで4時間切りを達成できず失格したことが象徴するように、もう一歩、という詰めの甘さも感じた。
 小説でも結果はまだ出せていない。
 それでも、自分の歩んできた道は間違っていない。もっと創意工夫と経験を重ねること。
 分かち合う喜びを感じた、あるいは再発見した年でもありました。
 何十年かぶりで、山寺に行き、また高尾山にも登った。
 調布から富士見に異動し、猫たちとも会った。
 猫に私がごはんをあげるのも、彼、彼女らが喜ぶのを見たいから。
 来年は、自分自身がうれし涙を流せるように。
 みなさま、今年もお世話になりありがとうございました。
 どうかよいお年をお迎えください。
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第3のランニングシューズ

2015-10-29 15:24:26 | エッセイ
 

 走り始めたのは、2011年の夏。あの忘れもしない東日本大震災のあった年です。
「どうして走り始めたのですか?」とよく聞かれます。その都度、自分にぴったりの言葉で話してきました。
 簡単に言えば、自分に必要なものが目覚めたということ。
 これも何度も書きましたが、私の両親の実家は宮城県気仙沼市。太平洋に面した海の町。
 幼いころから通い、たくさんの思い出がつまった場所。そこが、大津波と火災によって、甚大な被害を受けた。
 私にできることは何なのか、突きつけられた。
 今までの歩みが、突如として崩されることがある、と知った。
 考えるだけでは焦るばかりで、何も前進できなかった。
 どん詰まり感。それを突き破るように、おのずと走り出していた。
 もう体が勝手に。

 あれから4年。11月15日には、自分にとって4回目のフルマラソンとなる第1回さいたま国際マラソンが控えている。
 制限時間は4時間。私のベストは4時間6分。4時間を切るチャレンジです。
 最近のランニングの悩みは、足の薬指の爪下に血豆ができること。
 原因を探ると、そもそもシューズが合っていないのではないかと思い至った。
 第2のシューズをよく見れば、靴底が擦り減っていた。それではブレーキも利かず、爪に負担がかかっていたのでしょう。
 そこで探しました。第3のランニングシューズを。

 雑誌「Number Do ランの未来学」を買って読み、「ランの進化論 シューズ」に出ていた「On」というメーカーに目が留まる。
 ホームページもよく見て、これかも、と感じつつもまだ決められない。
 決定打は色とサイズ。自分で自分の足を計ったら、24.5センチしかない。
 えっ。そんなに小さかったっけ?
 普段履いているのは25.5。だから、25はあると思い込んでいた。
 いつの間にか大きめのサイズが自分の足のサイズだと信じていた。
 で、Onのシューズは幅が狭いので、通常より大きめがよい。
 で、色は、やはりきれいな青とオレンジがよい。
 で、Onでは、最新版しか在庫がない。最新版には、青とオレンジはない。
 で、楽天で調べると、前の型は40%オフで、25か25・5ならある。その色で。
 で、よしこれだと決めた。

 おととい、試走。
 もう、このシューズを探し求めていた! というぴったり感。
 靴底に着けられたクラウドテックという楕円形が、接地時の衝撃を吸収し、推進力にもなる。
 まさにOn。地球にくっついている感覚がある。
 体への負担も軽減される。
 ランナーが作っただけあって、安定感と楽しさを支えてくれる。

 ああ、やっと巡り合えたんだな。
 大事に、いっしょに、走りましょう。
 一歩ずつ、前へ。
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第47回新潮新人賞

2015-10-15 13:56:10 | エッセイ
 

 先週の水曜日、普段は遅番なのに早番でした。
 雑誌出しをしていると、文芸誌に目がいった。
 私も応募した第47回新潮新人賞の結果発表。
 今回も力及ばず。

 新人賞を取れずとも何も失うものはない。
 その安堵と、受賞できなかった悔しさがないまぜになる。
 年々、悔しさの方が大きくなっている。

 何が足りなかったのか。
 読めばわかる。読まずにはいられなかった。
 3月末締めの大きな新人賞は、すばる文学賞と文藝賞。どちらも買って、むさぼるように読む。

 で、わかったことがいくつか。
 それを書き留めて、次作に生かしたい。

 まず、回収しきれていない断片があったということ。
 物語は、出てきたものすべてが有機的に結びつき、一つの流れを生み出したとき、最も力を発揮する。
 前作では、「俺」の一人語りを推し進めることで、ある程度のリズムは生まれた。
 でも、その他の登場人物の現実を浮かび上がらせるには至らなかった。
 読者を納得させるだけの分量も足りなかった。
 書き手自身が抱えている課題を「俺」が写し取り、言いたいように言わせた。
 言ってみれば、登場人物を作者の私が利用した。
 全部がそうだったわけじゃない。でも、部分的にでも、作者が物語に介入してしまった。
 作者は、物語の邪魔をしないように、後ろから最後までくっついていかないといけない。
 回収できなかった部分は、読者に不満足感を与えてしまう。
「新興宗教」を安易に持ち出した。
 描き切れていない何かをそこに押し込めた。それを消失点という。
 それも作者の都合だ。

 文体自体も定まっていない。
 あれかこれかと試行錯誤状態。

 物語に定型があることも理解した。
 定型からの逸脱こそが物語の面白さ。
 どこかに連れて行ってしまうような強さ。
 独自性。それもなかったわけじゃない。でもまだまだ。

 人物造形もまた定型から脱していない。
 頭の中にある理想が収まっていない。
 立派すぎるように感じさせしまうのは、頭がなせる業。
 現実はもっと生々しく、不可解。
 簡単に言葉に結びつかない感情の渦。
 わかっているのに書けない。このもどかしさ。

 独自性ともつながるけど、それを描かなければならなかった必然性。
 それに今、一番直面している。
 なぜ書かなければならないのか。
 この私が。
 その作品を。

 書けば書くほど向上している実感はある。
 単純に、書き足りないのだとも。
 文藝賞を受賞した一人は21歳だけど、小学4年からすでに小説を書いたという。
 キャリアでいえば10年以上。
 私は大学の最終学年で書き始めた。
 わざわざ学生寮から出て、一人暮らしして。
 書きたかったがゆえに寮を出た。そして書いた。
 結果、鬱病を発症した。
 治療を経て、そんな体験を生かしてカウンセラーになろうとした。
 実際に面接も受け持った。
 面接が終結すると、小説を書きたいと思っていた。29歳のとき。
 カウンセラーへの道は作家への道に修正された。
 東日本大震災があって、私の心もぐらぐらゆれた。
 揺り戻されもした。どん詰まり感に苦しんだ。
 そこからマラソンが生まれた。
 長年勤めた池袋の書店も閉店した。
 最後の日、駅に向かう通路で、やっぱり小説を書きたいと思っていた。

 何を書くのか。何が書けるのか。何を書きたいのか。

 まっさらな原稿用紙に向かってペンを取り、手を動かす。
 その中でしかつかめないのかもしれない。
 つかみ取って差し出したいと思う。
 読者にとって、読んでよかったと感じられる確かなものを。

 凹んでいるのは、自分のちっぽけな器が広がったから。
 新たな気持ちで、また原稿に向かいます。
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世界自殺予防デー

2015-09-10 16:38:54 | エッセイ
 今日は、世界自殺予防デーなのだそうです。
 自殺予防に関心がありながら、今まで知りませんでした。
 毎日新聞の記事で知りました。
 安心して「死にたい」と言える社会に。
 社会が漠然としているなら、「死にたい」と言える職場に、「死にたい」と言える家族に、「死にたい」と言える夫婦に。
 行き詰ってどうしようもないとき、「死にたい」と思う。
「死にたい」を言えないままだと、「死にたい」は現実の行動に置き換えられていく。
「死にたい」が言えたなら、関心を持って受け止めてくれる人がいたならば、その人は必ず「死にたい」の先に行ける。
 私自身が、「死にたい」の先を生きている。
 病院で、カウンセリングの場で、一人で溜めてしまいがちな「死にたい」を、何度も解き放つことができた。
 今だって。以前からの友人は、本当に大切でありがたくて、たまに電話したり会ったりして「ほっ」としている。
「死にたい」には、「よりよく生きたい」が含まれている。
「死にたい」のは、抱えているつらさを和らげたい一心で。
 思うに、そのつらさを和らげることができるのは、人しかいない。
 行き詰ってしまった自分を恥じている、というのもいたいほどわかります。
 批判されたり安易に解釈されたり励まされるのも恐れている。
 自分の経験から言えるのは、ひとつ。
 愛って、理解することだということ。
 こんがらがって自分で自分がわけわからなくなっていたとき、本当にありがたかったのは、理解しようと関わり続けた人。
 相手の立場に立って。
 だから僕は、それができる人になりたいと強く願った。
 最近やっと、相手の立場に立つことがどういうことなのか、わかるようになってきた。
「死にたい」=「生きるのがつらい」=「よりよく生きたい」=「ちょっと手伝ってくれますか?」
 一つの表明された言葉のなかに、言葉になり切らない多くの思いが入っています。
 10年以上前の私の「死にたい」は、「小説を書きたい」に成長しました。
 小説を書くことは、誰かを理解しようとし続けること。
 理解しようと根気強く関わってくれた人たちがいて、私はここまで来れたから。
 誰かを思うことで、この世は成り立っているから。

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