泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

桜、咲く

2025-04-05 19:29:00 | フォトエッセイ
 桜、咲きましたね。
 今日は2週間ぶりにランニングできました(22キロほど)。その間、冷たい雨が続き、強風とスギ花粉症もあり、マラソンの疲れもなかなか取れず、書店も忙しいで色々大変でした。小説の提出もありました。無事に出せたのでよかった。ホッとしたら疲れもまた出てきました。
 先週の水曜日の桜はこんな感じ。
 一輪だけ咲いてしまって、後続は保留。こんな姿はあまり記憶にないです。
 東京は開花したらみぞれでしたから、冷蔵保存の足踏みが続いていました。私もなんだかすっきりしない感じでした。
 ですが昨日から青空。桜も満開になりました。
 これは神代曙(ジンダイアケボノ)という品種です。
 近くの狭山公園で山桜を目当てに行ったのですが、山桜は半分ほど散ってしまっていて、隣のこの桜が満開でした。ソメイヨシノよりは小ぶりでピンクも濃いです。山桜は少し早いのだということと、神代曙、覚えました。
 お花見ランで近所の名所を巡りました。どこもお花見する人たちがたくさん出ていました。桜は、やはり日本人にとって特別なもの。
 戦後、焼け野原に桜を植えて育てることで、希望をも育んだ多くの方々がいました。ソメイヨシノは寿命が80年ほどと言われています。老木が目立ち始めたのもそのためです。今年、戦後80年ですから。
 これは毎年見に行っている全生園の桜公園。表紙の一枚もそうです。全生園は、東村山市にあるハンセン病療養施設です。
 特に右側の大木。枝が折れて白くなっていますが今年も元気に咲いていました。一番最後に見たのですが、やっぱりこの桜を見ないと締まらない感じがしました。
 この桜たちが枯れた後、どうするのでしょうか?
 ソメイヨシノは接ぎ木、挿し木でしか増やせません。自分の花粉では種ができないからです。なのでソメイヨシノはすべて同じ遺伝子でできているクローンです。なので病気にも弱く、寿命も短い。
 今まではそれでよかったかもしれない。でも、これからの80年、またソメイヨシノにするのでしょうか? 駅前の桜も、ずいぶんと切られているのが目立ちます。
 そんなことも思いながら、桜、満喫しました。
 様々なことを乗り越えてきたから、春の桜の満開の姿はやはり特別です。
 そして次へ。新緑は、もう芽吹いています。
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正欲

2025-03-29 18:26:14 | 読書
 だいぶ前に読んでいたのですが、感想を書けないままでした。
 物理的に時間がないということもありますが、気が重いというのもあって。
 朝井リョウさんは初めて読みますが、お名前はずいぶんと前から知っていました。ただ読むのは、やっぱり気が重くて。まだ若いのに才能が溢れていて、何かこうコンプレックスを刺激されるようで。
 朝井さんも「小説すばる新人賞」を受賞されてデビューしています。それで選考委員も務めていたのですが、今年からそのお名前が紙面から消えていました。
 選考委員の方々の作品を読む流れでこの本にも手が伸びたのですが、あれ? という感じ。もしかしたら、意見の相違から辞退されたのかもしれません。私の想像ですが。
 小説は、企みに満ちていました。
 最初から「ん?」という感じ。ある人物がスマホに書いて持ち歩いていた短い文章が冒頭にあります。そしてその人物が主人公なのかと思いきや、複数の人物がある時点まであと何日という設定とともに現れる。一見ばらばらのようですが、もちろん最後にはすべてが統合されます。
 が、解答はない。というか、解答をばらばらにするのが目的というか。
 解答を求める気持ち、それが正欲なのかもしれません。
 タイトル通り、正欲が主人公。
 そして正欲は、性欲の双子。
 性欲が芽生えたとき、正欲も芽生える。
 これは臨床心理士の東畑開人さんの解説を読んで腑に落ちました。
 中学生になって好きな人ができたとき、電話してあっさり振られたとき、自分とは何か、初めて考えさせられた。自分の欠点に次々と目が開き、もっと背が高くてかっこいい男を羨望した。比較して、自分がその正しさの中にいないことに苦しんだ。
 登場人物の多くが抱えている疎外感。それは性欲の対象が異性にないことに由来します。彼と彼女は水を愛していました。
 明日死なないために、二人は共同生活を始める。偽装結婚をして。その偽装もまた世間から見て、ということですが。
 そして二人は連帯を求める。自分たちのように一人で苦しんでいる誰かに向かって声を発信するようになる。
 パーティーが開かれました。その中の一人に小児性愛者がいました。
 小児性愛者でない人たちも、その容疑で逮捕されてしまいます。
 検察官に向かって、言ってもしょうがない、という態度。ただ男と女の姿をしている二人は、つながりを手放そうとはしない。
 その二人とは桐生夏月と佐々木佳道のことですが、もう一つの男女、神戸八重子と諸橋大也も印象的です。
 二人は大学生。ダイバーシティフェアという学祭で出会いますが、八重子の一方的な片思い。大也は異性に興味がないということでゲイだと見られています。ですが大也も水が好きな一人でした。
 ゼミで一緒になった二人は、八重子からどんどん大也に接近していく。大也がパーティーに行く朝でした。ついに大也は沈黙を破る。二人が本音をぶつけ合う場面は希望があります。

「面倒くさいなーもう!」
 その声は、自転車のベルよりも、車のエンジンよりも、開閉するポストの扉よりも、何よりも大きく住宅街に響き渡った。
「何から話していいのかわからないなら、何からでも話していこうよ! もっとこうして話せばよかったんだよ、きっと。私も色々勘違いしてたし、今でも誤解してることいっぱいあると思う。でも、もうあなたが抱えてるものを理解したいとか思うのはやめる。ただ、人とは違うものを抱えながら生きていくってことについては、きっともっと話し合えることがあるよ」
 大也は気付く。
 上昇しているのは、気温のほうだ。
 太陽の位置が変わっている。
「もう、優芽さんに言われたとか好意があるからとか関係ない。私は私と考え方の違うあなたともっと話したい。全然違う頭の中の自由をお互いに守るために、もっと繋がって、もっと一緒に考えたい。私いま、本当に心からそう思ってる」
 時間が経っている。
「ごめん」
 瞳の中で、自分が謝っている。
「俺、これからやっと繋がれそうなんだ」
 頭の中の自由を守るために手を組んだ人たちと。
 八重子の肩越しに広がる空に、真夏日のエッセンスがどんどん滲み出てきている。
「あんたが散々言ってた繋がりってやつが、やっと俺にもできそうなんだ」
 心臓を一枚剥いたかのような太陽が、これから自分が過ごす時間をも煌びやかに照らしてくれている。
「だから今日は、行かせてほしい」
 八重子がまっすぐに大也を見つめる。
「じゃあ」その小さな口が開く。「また絶対、ちゃんと話そうね。私のことも、繋がりのうちに数えておいてね」
 大也は、自分でも驚くほど素直な気持ちで一度、頷いた。

 458ページ〜460ページ

 小説は大きな比喩です。それはフィクションであって、現実には存在しません。
 だからこそ、人々の心をつかみます。どこを探してもなかったことがここにはある! と思わせることで。そのリアルを支えるのが文章。一つ一つの小さな文章の積み重ねが、大きな小説の存在を支えています。
 少し引用しただけでもわかります。その文の的確さ。強さ。純度の高さ。小さな比喩の正確さが大きな比喩を支えている。
 ぶつかり合うことで、相手の真心が私に入ってくる。それはもう言葉にするのも難しい。言葉よりも強いものだから。相手の確かな何かが入ることで、その人との共有地が生まれる。領土を奪い合うことじゃなく、互いが住める場所を開いていくこと。それが話し合いの中身でしょう。
 正欲にまみれた私たちにそれができるでしょうか?
 簡単なことじゃありません。
 ですが、もう『正欲』を読んでしまった。入れてしまった。気が重くなる所以です。
 朝井リョウは、唯一無二の小説家でした。
『正欲』は、これからますます読まれていく気がします。
 私たちが、異なるもの同士が、共存していくための礎(いしずえ)として。

 朝井リョウ 著/2023/新潮文庫 
 
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出し切ること 2025東京マラソンにて

2025-03-26 20:48:21 | マラソン
 東京マラソンの写真と公式記録、届きましたので載せておきます。
 大会の後、自分のビブス(ゼッケン)の番号で検索をすると写真が見られるサービスがあります(オールスポーツ)。私はずっと楽しみに使わせていただいています。年賀状に使う写真も、いつの間にかほぼここから。
 1枚目は東京タワーを背景に。35キロくらいでしょうか。直線が長く感じるところです。でも、前のランナーにくっついて風よけをしつつ休みました(走ってますが! そんなこともできるようになります)。そのときの写真。我ながらフォームがきれいになりましたね。すっかりランナーという体型にもなっている。いつも一人で走っているのでなかなかわからないものです。自分がどう見えていて、どう走っているのかということは。
 とにかく力を入れないことが長く走るコツでしょうか。特に上半身。
 それに大会では他のランナーをうまく使うことも大事です。引っ張ってもらう感覚というのは実際に経験しないとわからないかもしれませんが、あります。ついていけばいい、というのは楽なものです。自分と同じペースの人というのはいないので、しばらくすれば自分から離れるのですが。それに、苦しんでいるのは私だけではないというのも粘るための力になります。
 東京マラソンでは10分刻みでペースメーカーもいました。私は折り返しのとき、すれ違う3時間30分のペースメーカーを確認しては「ついていくぞ」という気持ちを奮い立たせてもいました。ペースメーカーも、やはり長く走る上では大きな助けになってくれます。

 2枚目はもうラスト1キロ付近でしょうか。周りを見る余裕はなくなり、目の前の足元しか見えなかった。一歩ずつ着実に前へ。その言葉を体感できるのがマラソンの素晴らしいところ。
 本当にきつかったですが。だからこそ完走した後の充実感・達成感と、じわじわと湧いてくる自信は何物にも変え難いものがあります。

 3枚目はドヤ顔。ゴールしてメダルをかけてもらって。ホッとしている感じも出ているかもしれません。

 そしてこれが公式な記録証。
 自己ベスト更新おめでとう、ですが、次からはここが基準となります。
 ここを超えていくことが目標。3時間30分を切ることも視界に入ってきました。
 ですが今日はもう25度越え。花粉に黄砂もまじってかなりの視界不良でした。風もあり、桜の開花状況チェックも兼ねて、マスクをしてのウォーキングのみ。
 先日の土曜日に、東京マラソン以来のランニング(20キロ弱)をしたのですが、あちこち筋肉痛になりました。まだ回復しきっていませんでした。
 東京マラソンで「出し切った」という感覚。それはレースの後半で沿道から聞こえてきた言葉でした。「出し切れー」と。それは今も耳に残っています。
 小説の投稿を今日済ませました。やはり緊張はしますが、今までで一番平常心に近いかもしれません。
 小説においても「出し切った」。だからスッキリしています。
 出し切れば、自ずと結果はついてくる。
 そして回復は、それまで以上にやってくる(「超回復」と言います)。
 走ることの種はここにあり、書くことの種もまたここにある。
 収穫を終えて、まずはホッと一息ですが、もちろん次の準備もここから始まる。
 また次、どこを走れるのか、またどんな物語を書けるのか、楽しみでしかありません。大地を休ませ、耕し、また植えて、愛を注いで大きく育てる。そのサイクルを生きがいとする自分がいる。だから大丈夫と言える。
 フルマラソンはまた来年。今思っているのは「いわきサンシャインマラソン」。
 5月11日は仙台ハーフマラソンを予定しています。
 久々の仙台。楽しみです。
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痛みの〈東北〉論

2025-03-22 19:17:53 | 読書
 昨年の3月11日に誕生した本です。少しずつ、今年の3月11日に向けて、読み進めていました。まだ十分に読み込んだ感じはしないのですが、一通りは読みましたので感想を書こうと思います。
 まず表紙の写真が独特ですよね。これは写真家の志賀理江子さんが撮ったもの。宮城県名取市の北釜(仙台空港のすぐ脇)在住で、その北釜海岸です。タイトルは「海に雪がふる日、波打ち際には蛇の道があらわれる その先を歩いてゆくと、もうここにはいない、近しいあの人たちに会える」。
 私もこの蛇の道のすぐ隣を、2023年の東北・みやぎ復興マラソンで走ったことがありました。防潮堤で海は見えなかったけれど。
 さて、本の内容ですが、2011年から発表した東北にまつわる論考をまとめたものです。
 そもそもなぜ「東北」なのでしょうか? それはどこから見た「東北」でしょうか?
 古代「東北」に住む人たちは蝦夷(えみし)と言われていました。エミシはエゾでもあり、日本の中央(大和政権)から見た蔑称。蔑称でありながら強い者をも意味したようです。
 実に300年かかっています。300年戦争。エミシを屈服させるまで。捕まえては九州の防人にしたという話もあります。昔から少数民族は不当な差別を受けてきました。
 エミシは狩猟採集民族で、アイヌとも言われます。アイヌは書き言葉を持たなかったそうです。農耕民族との違いははっきりしています。
 農耕をしたから富が蓄えられた。そして豪族が現れ、権力が生まれた。そもそも食料を自らコントロールする文化。人々をも従わせようとするようになるのも自然です。
 一方、狩猟採集ではどうでしょうか。自然相手でコントロールできない前提。海と山の恵は豊かですが、その分厳しい。人々は自ずと分かち合い、支え合ったのではないでしょうか。
 著者は歴史社会学が専攻。歴史の記憶は土地に染み付いているという。なぜ、原発事故は福島で起きたのか?
 300年戦争の後にも幕末の戊辰戦争があり、ここでも東北は負けています。「勝てば官軍負ければ賊軍」という言葉が生まれたように、またしても「賊」扱い(賊とは謀反人とか反逆者とか武器で傷つける者とかの意味)。
 そして戦後。東北からやってきた「金の卵」たちが東京を支えた。同じように、福島で作られた電気もまた東京へ。
 近代化は都市化であり、脳化でもあり、土をコンクリートで隠すことでもありました。そして私たちは錯覚していく。自立することは誰にも頼らないことだと。
 あの3月11日の大震災で露呈させたのは、東北がダメになれば東京もダメになるということ。計画停電というものがあり、自動車メーカーでは部品の供給も止まった。紙の供給も危なくなった。
 何より原発のこと。福島に原発があったこと、私は知っていただろうか?
 見えなくなっていたものが見えるようになった。大きな地震と津波によって。
「構造的暴力」もそう。この本を読んで知った概念なのですが、その地域や人々が本来有している潜在能力を発揮できず、蚊帳の外に置かれる状況のことを意味します。
 暴力についての明確な定義が書かれていたので記しておきます。
「ある人に対して影響力が行使された結果、その人が現実的に肉体的、精神的に実現しえたものが、その人のもつ潜在的実現可能性を下まわった場合、そこには暴力が存在する」220ページ
 無意識的な構造的暴力を振り撒いてしまうのが「パターナリズム」。それは家父長制、温情主義などと訳され、その人のためを思う愛情から、その人の意思を無視し、ライフコースを敷くような行為のこと。「あなたのためを思って」というよくある言い訳ですね。そこには徹底的に「あなた」が無視されていることを忘れてはいけません。悪への道は善意が敷き詰められているとも言います。防潮堤も、本当に住民が望んだことでしょうか?
 私もそうですが、東北の人たちは我慢強い。それは厳しい自然と共に生きてきたこととも関係があるでしょうが、前述したような歴史的背景も含まれていました。我慢強さは美徳となる一方で「抑圧」にもなります。「抑圧」は本来有している潜在能力を発揮できないことでもあります。無意識的に自分が自分に構造的暴力を振るっているとも言えます。自分を過小評価してしまってありのままに見えないとも言えます。
 そしてこの抑圧というのは、人から人へ、世代すら超えて様々な状況の人々と結びついていきます。この本で取り上げられていたのは元従軍慰安婦の方でした。その人は、著者の故郷である宮城県の女川に住んでおられた。語る言葉は漁師町の言葉で、自分のことを「オレ」と言っていた。その事実を、著者は震災の後に知りました。
 この抑圧について書かれた箇所、引用します。

 当たり前に可能だった「生活世界」がはく奪されることが何を意味するのかを、わたしたちは、すでに経験済みだろう。原発事故のみならず、度重なる災害や新型コロナのパンデミックが示したのは、抑圧そのものが生きもののように細胞分裂し、増幅するのだということだ。この二年間だけでも、どれほどの〈暴力〉が生み出されただろう。自傷/多傷、自殺/他殺——いじめ、虐待、ネグレクト、レイシズム、民族差別……そして戦争。こうした抑圧は、反射し、屈折し、加害と被害の関係さえ反転を繰り返しながら数世代を超えるほど長いあいだ、人間社会のなかに「生息」し、やがてどこかでFuture Trouble(あとくされ)となる。だが、わたしたちの世界には、過去や未来をケアしてくれるノロやイタコは存在しない、カムイもいない。 242ページ

 ナショナリズムとは何でしょうか? 
 それは意図的につくりだした仮想敵を悪魔化し、そうしたマイノリティを批判・否定する力を栄養とするシステム(32ページ)。福島の原発の「汚染水」を海洋放出することに反対する地元民に対して「非国民」とか「風評被害」だとか言う人たちは、よっぽど生きるための栄養が足りていないのでしょうか。
 著者は応答責任としてのケアを呼びかけています。応答責任とは、抑圧や構造的暴力や差別にあい、深い傷を負った人が、自傷も多傷もせず、あとくされ(フューチャー トラブル)の発生を導かないで済む手立てを考える責任のこと。私もこの考えに同意します。というか、そうやって生きてきたと言えます。
 最終的には「語られること」がケアを担います。洗いざらい語ってもらうためには沈黙がいります。沈黙を作ることのできるよき聴き手もまた必要でしょう。
 これからの私の指針もまたこの読書によって刻まれました。
「抑圧」に耐えうる飛び地をつくること。よき聴き手であると共によき書き手であることで。書く前にまず聴くこと。それは私がカウンセリングを体験した意味でした。
 その土地だけが持っている歴史があることは、そこを歩いて走って食べて出会って、わかるようになったことです。物語を発掘するために私は足を鍛えてもいました。
「あとくされ」の一つ一つをどのように解消し、また予防していくことができるのでしょうか?
 それはそれぞれの人が考え、試行錯誤し、ものにしていくしかないのかもしれません。
 私は、小説を仕上げていくことで、登場人物の語りを十分に聴き、書くことで、その責任を果たしていく。カウンセラーではない私にできることはそれしかありません。
 今までの歩み、学びを最も生かしてく手として、そこに導かれていく自分を、自分は認め、支え、そうできるように邪魔しないことくらいしかできません。こうして読書によって語彙や知識や視界を補強しつつ。
 幾重にも痛みを被ってきた東北。だからこそ、東北の人たちは温かい。行けばほっとします。食べるものはどれもおいしく、空気はきれい。温泉に浸かれば、いらない自我は春を迎えた雪のように溶けていく。
 東北だからこそできるケアがあり、東北だからこそ書ける文もあります。
 そのためにも、犠牲になった人たちを忘れないこと。消し去らないこと。

 最近、よく思い出すのです。初めて書いて投稿した小説のこと。
 それはもう26年前。やっぱり3月の末。集英社の『すばる文学賞』に『演奏』という題名で。その中身は、ピアニストになる夢を持った少女がピアニストの教師から性的被害を受け、それを苦に自殺するという話。彼女の残された部屋には、抗議するように植物が異様に生い茂っているというラストでした。
 小説を書くために寮を出て家賃の高い部屋を借り、アルバイトも辞めてしまって書き上げた大学三年生の春。その後、私を待っていたのは「抑圧」の病、うつ病でした。
「抑圧」を受けた後、どうしていくのか? それは私に宿っているテーマなのでしょう。初めての小説は、そんなこと考えず、ほとんど無我夢中で書いたらそうなっていたとしか言いようがありませんが。
 今度の水曜日、また小説を投稿します。
 私の試みは、26年経ってもそのまま。
 ピアニストの彼女のこと、これからも忘れずに。
「どうしようもない作品」とか言ってましたが、そうじゃありませんでした。大事なテーマだけでなく、大事な人をも浮上させる試みでした。
 そう言って欲しかったのでしょう。『演奏』という処女作は。
 
 山内明美 著/青土社/2024
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東京マラソン2025

2025-03-02 20:43:12 | マラソン
 6年ぶり2回目の東京マラソン、無事に完走できました!
 スタート時は曇り、気温12度、湿度は62%。防寒着がなくとも寒くなく、日差しもないので暑くもなく、ちょうどいい感じでした。
 おそらく20キロくらいまでは曇っていて、時に吹き抜ける風がとても気持ちよく、なんて走りやすいんだろうと思っていました。
 が、富岡八幡宮あたりからでしょうか、日差しが出始めて気温はぐんぐん上昇。ゴール時点では20度近く。ビルの影に入っていれば涼しいのですが、コースによって直射を受けるとこもあり、終盤になるにつれて暑さがこたえてきます。
 30キロ以降も粘ることができました。足に余裕があることも感じていました。今までで一番の練習量で挑みましたから。でも、東京タワーの前を通って品川方面に行く道は、前回もそうでしたが長く感じました。しかもちょうど向かい風。そんなに強く吹いたわけではありませんが、なんか進まないなと感じるくらいの向かい風。
 なので前を走っているランナーを利用させていただきました。風除けに。これが意外と効果があります。ちょうどペースも近いと、引っ張られている感覚があり休みながら走ることもできます。少しずつ遅くなっていったので次々と替えて3人くらいでしょうか、お世話になりました。それがあったからきついところもリズムに乗れて乗り越えられました。
 折り返してラストまでの直線も長い。ここはもうサングラスを外して応援を浴びます。でも、今回はかなり自分の走りに集中していたので、あまり周りは気になりませんでした。
 というのも、ちょっとしたアクシデントがあって。常に追わないといけなかったから。
 このラップタイムを見てください。特に3キロのところ。
 最初の1キロは仕方ありません。スタートしても全然進みませんから。小池知事に手を振ったり、写真を撮ったりして。
 ただ3キロの7分48秒は、トイレに行かざるを得なかったのです。3分のトイレロスタイム。
 これは、入場ゲートに入る荷物チェックで、500ミリのペットボトルが持ち込み不可だったのです。これは案内にも書いてあったのに、ついいつもの用意で入ろうとしたから。係の人に、ここで飲むか捨ててくださいと言われました。
 で、私は「じゃあ、飲みます」と言ってしまったのです。
 ほとんど500ミリまるまる残っていました。もったいないし、暑くなりそうだから飲んでおくがいいだろうと判断して。
 だけど、判断ミスでした。
 スタートまでの待ち時間が30分くらいありましたが、徐々にスポーツドリンクはあまり活躍することもなく膀胱へ集合。スタート時にはトイレを探す有様。で、3キロ手前で3分使ったわけです。
 あーあと思う。失われた3分を挽回しなければと、どこかで思ってしまう。だからと言って無理に加速したわけではありません。あくまでの自分の感覚でオーバーペースにならないようにコントロールしながら。
 ラストのラップタイム。42キロ以上走っているのも仕方ありません。スタート地点よりもかなり後ろに並ばされますから。
 号砲がドンと鳴った時点でスタートです。そこから測ったタイムが公式記録となり、グロスタイムと言われます。日本ではグロスが公式ですが、他国ではネットタイム(スタート地点から測ったタイム)が優先されることもあります。
 3時間36分22秒。
 自己ベストは3時間38分30秒でしたから、2分8秒更新できました。
 でもあの失われた3分がなかったらと思ってもしまいます。5分近く更新できたのに。
 だけどもう終わったこと。反省は次回に生かすためにあります。
 とにかく、目標を達成できてよかった。
 無事に完走できてよかった。
 ラスト1キロは本当に危なかった。おそらく軽い脱水症状だったのではないでしょうか。両手に痺れを覚えていました。顎が上がってしまって、足も進まない。30秒近くラップも落としています。
 ゴールするともうふらふらでした。
 感極まる余裕もなかったというか。
 出し切ることはできました。
 完走メダルの裏には点字がありました。何が書いているのかわからないのですが、関心を持つようになるのでいいデザインだと思います。
 目標を達成すると、自分に自信がつきます。自信の容量が少ない自分でしたので、コツコツと自信集めが必要でした。その方法として、マラソンは私にぴったりでした。
 だけど、大震災があってやっと目覚めた私のマラソン。でも今日は結構無心で走れたかもしれません。ただ自分の走りをしたくて。自分のリズムで前に行きたくて。心地よい時間が長かった。
 目的から解放されることもマラソンの大きな魅力です。
 次は5月の仙台ハーフ。
 やっぱり記録更新を狙ってしまうのでしょうが、仙台には行きたい場所もあり、会いたい人もいます。去年は仙台に行ってませんので、体調を整え、十分に仙台の空気を吸えたらいいなと思っています。
 まずは休んで。
 そして小説の提出も悔いなく終わらせて。
 次へ。
 マラソンと執筆は両輪で、私を次へ次へと運んでくれます。
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いよいよ明日

2025-03-01 20:04:22 | マラソン
 東京マラソンの受付に行ってきました。
 場所は東京ビッグサイト。大崎からりんかい線に乗って。
 地図で見ればよくわかりますが、そこはもう東京湾の中です。

 往復でちょうど3時間くらい。ちょっとした東京観光気分。外国からの方々もたくさんいました。
 帰りは新宿で途中下車して、紀伊国屋書店をぶらぶら。その後、追分だんごを買い求め、昔から愛用している登亭の鰻を買い求め、登亭の隣にあった讃岐うどんの店で腹ごしらえ。
 帰宅してからだんごをいただき、夕食は鰻をぺろり。これでもう前日の準備としては万全です。アスリートビブスもつけました。それが表紙の写真です。
 明日は気温が上がる予報(最低10度、最高20度)なので、半袖で十分でしょう。それと、一番思い入れのあるマラソン大会である東北・みやぎ復興マラソンが、年始に終了を発表しています。
 ショックでした。予想外のことでもありました。
 津波浸水域を走る唯一の大会とも言えました。そこで走った経験は、この3月に応募しようとしている私の小説に大きな影響を与えています。
 あの巨大地震と津波がなければ私は走り始めていなかった。その意味で、東北・みやぎ復興マラソンは、私にとって原点とも言える大会でした。
 だから、感謝の気持ちを込めて、完走賞のTシャツは三種類持っているのですが、その中でも一番のお気に入りを着て走ろうと思うようになりました。
 表紙の写真は裏で、表はこのようになっています。
 足跡のデザイン。私たちランナーの一歩一歩が、リバイブ(復興)の一歩一歩になると願いを込めて。
 私にとって、走ることは生きること。そして同じように、書くことは生きること。
 一歩ずつ、一行ずつ、再生の道を辿るように。
 その思いで、東京マラソンも走りたいと思います。

 レースプランですが、6年前に出した自己ベスト、3時間38分30秒を超えることが1番の目標です。
 そのときの走りを思い出すと、当日は冷たいみぞれが降っていました。雨対策ゼロで、待ち時間が寒くて長く感じたのを覚えています。
 なのでスタートしたら下り坂だったこともあり、ぶっ飛ばしていました。1キロ4分30秒切り当たり前みたいな。私の基本的なペースは、1キロ5分前後です。その影響は後半に出て、足が動かなくなり、最悪つりました。それでもいまだに自己ベストタイムなのは、それだけ東京がタイムの出るコースであり高低差だということです。
 スタートしても大渋滞が待っています。それを抜けてスピードを出した。だけど、その走りは未熟だったとしか言いようがありません。
 大人の走りをしたい。
 最初の1キロは、7分以上かかるかもしれません。それでも、前半の下りで十分に挽回できます。1キロ4分40秒で10キロ走ったとしたら、基本1キロ5分だとすると、200秒=3分20秒も貯金ができます。最終的な平均のペースが1キロ5分10秒でも、自己ベストは更新できます。
 最初の渋滞でいかに焦らないか。そしてその後の急な下りで、いかに足を使わず楽に下れるか。
 さらには、3万8千人も一緒に走るのです。それにずっと続く大歓声・大応援。自分を見失わない方が難しい。東京は誘惑に満ちた大会でもあります。勘違いの可能性に満ちているというか。
 だからこそ、大人の走りを。
 自分のペースを見失わず、それでいて走ること自体を楽しむ余裕も維持して。
 そもそも、元気に走れること自体が奇跡なのです。
 感謝を忘れず、笑顔でゴール。

 では、行ってきます。

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レッドタートル・耳をすませば・思い出のマーニー

2025-03-01 18:43:54 | 映画
 先日、久々に連休がありました。そのとき、前から気になっていたCDと本の整理をしました。不要なものを近くのブックオフに持って行き、売りました。6000円くらいになったでしょうか。
 ブックオフに行く目的は売るだけでなく、探しているものもあったのです。それは『耳をすませば』のDVDです。ジブリから発売されています。
 買取価格が決定するまでの待ち時間で、たっぷりと店内を見ることができました。今はレコードやフィギュア、ゲーム、カード、玩具、スマホまで売っている。それでも大部分は本。そのブックオフはヨーカドーの中に最近できたもので、品揃えはまだまだだなという感じでした。
 で、お目当てのジブリのDVDは、なかなか見つけられなかったのですが、3周目くらいでしょうか、やっと見つけました。が、品数は少なく、『耳をすませば』はありませんでした。だけど私の心を引きつけた作品がありました。それが『レッドタートル』です。

 ジブリ作品をだいたい知っているつもりでしたが、この作品は知りませんでした。絵の美しさに引かれ、海と亀と島にまた引かれ。連れて帰ることに。
 観始めてやがて気づいたのですが、この映画にセリフは一切ありません。ただ男のうめき声ぐらい。それでも映像の美しさに引かれてじっと見入ってしまいます。
 この記事の表紙にしたのは『レッド・タートル』の絵本(岩波書店)。映画の中から印象的な場面に池澤夏樹さんが言葉をつけています。池澤さんの解釈によってより作品の理解が深まった感じです。それが正解というわけではありませんが。
 例えば、無人島に漂流した男は一人ぼっちになり、いかだを作って島からの脱出を何度も試みますが、何か大きな力によっていかだは破壊されてどうしても島から出ることができません。そのとき、赤い亀が男をじっと見つめます。その亀は島に上がってきて、男に発見され、恨みをぶつけられて棒で打たれ、ひっくり返されてしまいます。私は、男と同じように、その亀が男の脱出を阻んでいたと思ったのですが、池澤さんの理解では、そうではありません。亀は、男と添い遂げることを決めて島に上がってきたのだと。
 ひっくり返された赤い亀は、固い甲羅がひび割れてくると、その中身は人間の女性になっていたのでした。女性は男の世話によって元気になり、男の子を産み、家族となります。その子は小さいとき、空のガラス瓶を拾って、この島から遠いところに文明があることを知り、大きくなってから島を出て行きます。ガラス瓶が文明からの誘いだとは映画を観たときには思い至りませんでした。
 また二人になった男と女は、穏やかに年を重ね、やがて男は亡くなります。
 女は、男を看取ります。そして、赤い亀に戻って海へ帰ります。
 それだけの物語。なのになぜ余韻が続くのでしょう?
「十牛図」みたいですね。情報は限りなく少なく、絵だけによって人の真実を表そうとしている。それはこれを作った監督が志向していることでもあって、前作の映画はわずか8分しかありません。だけど、ものすごいインパクト。1度観たら忘れられない。

『岸辺のふたり』 原題は『父と娘』。これも取り寄せて観ましたが素晴らしいアニメーションでした。影が印象的ですね。動きもまた魅力的です。

 それで『耳をすませば』ですが、観たくなったのには理由があります。
 まず、自作をある知人に読んでもらって感想を聞いたのですが「ジブリの絵がずっと見えていた」とおっしゃいました。それで私は「あーーー」と思ったわけです。
 絵は好きでよく観に行きます。そしてもちろんジブリ作品も観てきました。先に触れたように全てではありませんでしたが。
 小説を書くとき、私も頭の中で絵を観ています。それでジブリの作品をもっと観たくなりました。何か参考になり、自作を支えてくれるのではないかと。
 で、この話をいつもお世話になっている美容師さんに話しました。すると彼はこう言ったのでした。「僕は『耳をすませば』が好きですね〜」と。私はピンときませんでした。観ていなかったからです。
 さらに今読んでいる『正欲』(新潮文庫/朝井リョウ 著)に、「まるで『耳をすませば』の天沢聖司みたいに」という文があり、これがシンクロニシティ(意味のある偶然の一致。人生に意味と方向性を与えてくれるもの)かという感じで導かれて。
 で、パソコンに外付けできるDVDプレーヤーを買い、『耳をすませば』と前から観たかった『思い出のマーニー』をネットで探し、レンタル落ちという中古のものを買い求めたわけです。
 懐かしく温かい手書きの風景。京王線の聖蹟桜ヶ丘駅周辺がモデルとなっているそうです。
 読書好きの中学三年生女子、雫が主人公。彼女が図書館で本を借りると、読書カードに必ず「天沢聖司」の名前がすでにあり、誰だろうと気になっていきます。
 雫の友人が、意中の人でない人から告白されどうしようと相談。その伝令役を務めた男子が、実はその子の好きな人でした。雫の幼馴染のその男子は、実は雫が好きでした。でも雫はまったく気づいていなかった。そんな自分の鈍感さに落ち込みもします。
 彼女が借りていた本をベンチに置き忘れ、取りに戻ったところに天沢はいました。そこから彼との関係が深まっていきます。
 彼は、バイオリンを作る職人になりたいのでした。バイオリンも弾けるのですが、雫が演奏をお願いすると、お前が歌うならという条件付き。雫は、下手だからと怖気つきますが、演奏に促されて楽しくリズムに乗って歌うようになる。そのシーンはとても印象的です。
 聖司は、腕のいい職人になれるか試すために二ヶ月だけイタリアの職人のもとへ修行に。その間、雫はあることを成し遂げようと決める。それが物語の執筆でした。タイトルは『耳をすませば』。
 聖司の祖父が、雫の最初の読者となります。そしてまた印象的なことに、宝石の原石を雫に差し上げる。しっかり磨きなさいと。私もまた大学生のときから物語を書く試みを繰り返していました。だから雫の苦しみは痛いほどわかりました。
 聖司は帰ってきて、雫と再会。その後、どうなったのでしょうか? 観てのお楽しみです。
 美容師さんはこの作品が好きだから、物書きになりたい私のこともずっと応援してくれているのかもしれません。作品を通じて、人のことが少しわかるっていいですね。

 最後に『思い出のマーニー』。
 これは昨年夏に原作をとても面白く読みました(岩波少年文庫)。ジブリの映画があるのを知ったのはその後です。
 舞台はイギリスから、映画では日本の北海道に移されています。アンナも日本人の杏奈に。だけど、物語の大事なところはそのまま生かされています。驚くほど自然に。
 原作の良さはどこも失われていなかった。療養先のむかつく地元の子もしっかり出てくるし、漁師のとても無口なおじさんもちゃんといる。
 風車小屋はサイロになっているけれど、その不気味さはまったく変わらない。意地悪婆やもまた、ただ日本人になったというだけで意地悪なまま。マーニーの作った砂の城も、キノコ狩りの風景も、湿っち屋敷も。本当に感心しました。
 そしてやっぱり泣けました。自分が嫌いで、「ふつう」であることを願い続ける杏奈が、その核心とも言える「見捨てられることによる不信」をマーニーと追体験することによって克服していく過程が。マーニーが、本当に杏奈を一番大事にしていたことが、杏奈に十分に伝わったことで。そしてそれを可能にした環境が整ったことで。
 何度でも観たい作品になりました。

 映画、私は好きでした。最近はあまり観ていなかったのですが。
 大学生のとき、私も自分のことが嫌いでたまりませんでした。大勢の人たちの中にいるのも苦手で、しかも最初は学生寮に住んでいました。私は逃げるように、仙山線に乗って山寺へ行ったり、ただ広瀬川を眺めていたり、本屋や図書館でぶらぶらしていたりしていました。その中でも映画館に逃げ込む時間は特別でした。
 どうして特別だったのかは、映画を観た後、トイレの鏡で自分の顔を見てわかります。見たくもなかった顔が、少しは見れる顔に変わっていたから。その体験を、今回の一連のジブリ映画を観る中で思い出しました。
 物語を生きると、受け入れがたかったものが、少しは受け入れられるようになります。それが物語の持つ大きな力です。
 杏奈は、物語に没頭することで、許せなかったことを許すことができるようになりました。
 無人島に漂流した男も、何度も脱出を試みますが、やがてその島で生き直すことになります。
 雫は物語を書き抜こうともがく中で、自分に足りないものを見つけ、それを得るために進路も決まっていく。
 物語は目に見えないものです。だけど、語ったり、描いたりすることはできる。その価値は、測ることもできません。
 ただ、作品を作る側になることは、とても大変なことだけど、とても素晴らしいことだとも、改めて思いました。
 せっせと取り入れてきた作品の一つ一つが、私の作品を支えていることは言うまでもありません。
 だから、これからも、ともに。

 
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2度目の東京マラソンに向けて

2025-02-15 20:59:34 | マラソン
 東京マラソン2025まであと2週間になりました。
 2月はマラソン大会の多い月でもあります。明日は熊本城マラソン、高知龍馬マラソン、京都マラソン、おきなわマラソン、青梅マラソンなどなど予定されています。程よい緊張感に包まれているランナーも多いのではないでしょうか。
 11月に神戸マラソンを走りましたが、当日も、それまでの準備期間も暑い日が多く、満足いくような走行距離を蓄えることができませんでした。
 それに比べて2月は、言い訳のできないほど走り込みができていると思います。もちろん、雪の多い地域の方々は大変な思いをされていると想像しますが。
 私は1月の半ば、急性胃腸炎というのに罹ってしまいました。ほぼ2日ダウン。原因ははっきりしませんが、疲れと食べ過ぎと冷えが引き金になった自覚はあります。よく走り、よく働いてもいたので、挽回しようとよく食べてもいました。体重が増え気味だったのもわかっていましたが食べて疲れを取ろうとしていました。だけど、胃腸は「ムリ!」と悲鳴を上げました。
 足腰に問題はなく調子いいな、くらいに思ってました。だけど、胃腸はついて来れなかった。
 思えば年始からよく食べてました。5日は誕生日でもあったのでケーキなども。
 胃腸炎の間、お粥くらいしか喉を通りません。白湯と緑茶と。あと羊羹とか梅干しとか。りんごは胃腸炎でもおいしくいただけました。やっぱりいつだってりんごは味方だと確かめることもできたわけですが。
 要するに、胃腸は休みたかった。人気絶頂のアイドルだって、休みたいときはあるでしょう。なので休んでもらいました。ごめん、と謝りながら。
 少しずつ、胃腸は機嫌を直していきました。仕方ねえな、お前はこれくらいしないとわからねえんだからよ。そんな愚痴を聞きながら。
 真冬なのに夜のアイスを止められないでもいました。アイスを食べて締める、という習慣があったのですが、改めました……。
 元気なときには胃腸が働いてくれていることに気づきません。それが当たり前で空気のようで見えないし感じられない。今回のことで身に染みたので、忘れないように大事にしたいと思います。
 で、東京マラソンです。
 胃腸炎を除けば、いや、それによって体重は1キロ減となったのでそれも込みでなのかもしれませんが、順調にきています。
 1月、胃腸炎があっても107キロ。今月もまだ半分ですが99キロ走れています。
 ですが、問題があります。
 シューズのこと。
 今まで履いてきた「マジックスピード3」というアシックスのものですが、累計走行距離が850キロを越え、靴底の消耗が目立つようになりました。そこで新しい靴を買って東京に挑もうと思ったのです。
 まず買ったのは「ゲルカヤノ31」というもの。これもアシックス製。安定感抜群が売りです。安定感が必要かもと思って購入したのですが、重いのです。フォームも安定するし、足への負担も少ない。だけど軽いシューズに慣れた足にはむしろ負担に感じ、翌日は筋肉痛になっている。今まで痛んだことのないところが。
 で、これはレースでは履けない。
 次に、「マジックスピード4」を購入。これは「3」の進化版。厚底が増して硬い3から柔らかくなり、より足への負担は減った。これはいい! と感じていました。力を入れずとも進むし、フォームも綺麗になる感覚がある。
 しかし、くるぶし問題が発生しました。
 なんだそりゃ、ですよね。私も初めてです。
 長く走っていると(8日の37キロ走で自覚しました)、くるぶしの下が痛くなるのです。シューズの一部が当たるようです。そんなに長くなければ問題ない程度なのですが、さすがに3万歩以上ともなると蓄積されたダメージは許容範囲を超えてしまいます。
 じゃあ、と思い、インソールを買って入れて走ってみました。インソール分足は上がるのでいけるのではないかと。
 それを今日試したのです。いける! と思いました。が、徐々に、やっぱり痛んでくるのです。くるぶしの下。さらにインソールで圧迫された小指まで痛くなる始末。
 使えなかった……。あくまで、東京マラソンではの話ですが。
 じゃあ、今まで履き慣れた「マジックスピード3」をもう一度買うのはどうだろう? そう思って探したら、5ミリだけ小さいサイズのみまだ販売していました。カラーも違うもので、なかなかいいと感じました(紺に緑のライン)。
 ただ、5ミリ縮小。今までの25.5を25に。どうだろう?
 で、実際に足を測ると24センチでした。
 今まで、フルマラソンを走ると爪を痛めています。ほとんど無傷だったことはありません。靴の先に当たって、内出血を起こして黒くなります。日常生活には影響ないのですが。それって、サイズが大きかったからなのではないのか。
 アシックスのシューズはスニーカーを買うとき、試着して25.5が一番合うのを確認していました。だからランニングシューズでも25.5一択だったのですが。
「3」は25しかもう売っていなかった。これは買いなのか、と思い買いました。その選択が間違っていなかったかは、来週にはわかっているでしょう。
 新しいランニングシューズを買うときは、本当に迷います。これがベストシューズと感じていたものは、消耗して買い換えるとき、もうほとんど売っていません。どんどんアップグレードされていて、これは合っていると実感していた「マジックスピード」シリーズでさえ新規の問題が起きてしまう(くるぶし問題)。
「3」を履き始めたときも、初めてのカーボンシューズということで、御多分に洩れず(約7割の人は足を痛めるそうです)肉離れを起こしました。もうすっかり慣れるまで3ヶ月はかかったでしょうか。
「4」も3ヶ月後には最適シューズになっているかもしれません。が、東京には間に合いません。どちらかの「3」で走ることになりそうです。
 ロングタイツもインナーも穴が空きましたので買い替えました。あとはもう大丈夫だと思うのですが、どうでしょう。それを確認する2週間になりそうです。
 悔いのない準備を尽くして、あとは楽しんで走りたいものです。
 それにしてもシューズ。
 長い距離を走ってみて初めてわかることがあります。
 アシックス一択も改めようかと思います。他のメーカーも試してみる必要がありそうです。が、今年に入って3足も買ってしまったわけで、当分はアシックスのお世話になります。
 

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いのちの芽

2025-01-22 19:06:34 | 読書
 ごく個人的「選考委員の方々の作品を読もう」キャンペーンは継続しているのですが、年始一冊目はこの本にしました。
 詩集。私の創作も詩から始まっているから。初心に返りたい気持ちで手が伸びました。
 ただの個人詩集ではなく、ハンセン病の療養所で暮らさざるを得なかった方たちが書かれた詩を集めたものです。この詩集が刊行されたのは1953年のこと。それが70年の歳月を超えて初めて文庫になりました。
 私の住まいの近くにある国立ハンセン病記念館が詩の企画展をしたとき、特別に非売品として配られたものでもありました。私はその会場には行けなかったのですが、読みたいとは思っていました。
 どうしてなのか?
 ハンセン病記念館のある多磨全生園が、私の通学路内にあったからか。
 それもありますが、創作の原形があるように感じていて。
 記念館の多くの展示に接すると、創作活動というものが人間であることの最後の砦になるのだと感じられてきます。どこにも行けず、名前すら消されて、病によって指や目さえも奪われ、家族にも会えず、絶望したり狂ったりするのが普通のような状況に置かれて、なお人間であるために何が必要なのか。
 創作の展示の会場の入り口には、「舌読」されている方の写真が大きく掲げられています。指を失った人は点字を舌で読むのです。舌を酷使すると血が流れたと言います。そこまでして触れたいもの、感じたいもの、確かめたいものが言葉。いや、言葉を通じて暗示されるもう一つの世界なのかもしれません。
 もう一つの世界とは何でしょうか?
 優れた詩は、そのもう一つの世界が確かにあることを示してくれているように思います。
 この詩集で特に印象に残った詩人に志樹逸馬がいます。彼の詩を二つ紹介します。
 一つ目は「芽」。帯に引用された作品でもあります。

  芽

 芽は
 天を指さす 一つの瞳

 腐熟する大地のかなしみを吸って
 明日への希いにもえる

 ひかりにはじけるもの

 芽は
 渇いている 飢えている
 お前はもはや誰れのものでもない
(廻天する地球の風にゆれる
 花のものだ)

 ゆっくりと読んでみてください。
 何度も、何度も。声に出してみても。
 読むたびに、様々な景色が見えてきませんか?
 どんどん深まっていきませんか?
 立ち止まってよくよく見てみれば、草木の芽吹きにもこんなもう一つの世界があったのだと知られてくる。
 かなしみは腐熟するということ。そのたくさんのかなしみを吸って、芽は、明日への希いにもえ、ひかりにはじける。天という目標をはっきりと見つめて。
 飢えていて渇いている芽は、もはや所属を超えている。それこそがもう一つの世界とも言えます。そこで人々は仲間になれます。
 志樹さんは1917年、山形県生まれ。13歳で発病し、多磨全生園に入った後、岡山県の瀬戸内海に面した長島愛生園に移ります。17歳から創作を始めていたそうです。
 愛生園は当時、船でしか渡れなかったそうですが、詩作をともにするため詩人の永瀬清子は通っていました。神谷美恵子の「生きがいについて」(みすず書房)の中に、志樹さんの作品が引用もされているようです。この辺の事情はハンセン病記念館が開催した若松英輔さんによる公演「志樹逸馬の詩と出会う」に詳しいのでリンクを貼っておきます。
 もう一つは「青空」。

 青空

 青空には
 永遠につらなる人間の生命のつぶやきがある

 じっと見ていると
 それはしずかな輝きを増してくる
 ——果てしない深みの中に
 人間の 汗や よろめきや 悶えが
 皆んなここで濾過されて
 澄んだほほえみや涙になってかえってくるような気がする

 多くの人の希いも手と手を握る温味も
 青空は いつも見ていてくれる

 天はまねき 地はささえる
 生きとし 生けるものを
 私の十字架も
 青空の瞳の中に かかっている。

 青空が、どうしてこんなに気持ちいいのか、その理由が書かれていたように感じました。そうか、そこには永遠につらなる人間の生命のつぶやきがあったからか。
 永遠。これもまたもう一つの世界ですね。
 でも確かに、青空はいつも私たちを見てくれている。
 瞳。その中に私も還っていくという信頼感。

 本のカバーの絵は、当時小学校6年生だった愛生園の山村昇さんによるものです。
 瞳の中に映っているのは故郷。思い出の中でしか見ることのない故郷。帰りたくて帰りたくてたまらない故郷の姿。
 隔絶されて、社会との関わりを禁じられて。
 見つめ続けるしかなかったいつもここにある大地や空に、もう一つの世界を見出した志樹逸馬。
 詩はいつも呼びかけています。立ち止まることを。
 この詩集の感想を書こうと思っていたころ、私は思いがけず胃腸炎を患いました。久々に熱が37.4度まで上がり、日曜は仕事を休ませてもらい、月、火となんとか復帰できましたが、まだお腹はゴロゴロ言っております。
 今月は150キロ走るぞ、なんて頑張ってましたが、お腹がついてこれなかったようです。食べ過ぎもあるでしょう。冷えもあった。疲れもあった。今思えば、思い当たることばかりです。「お前はこれくらいしないとわからないからな!」というお腹の声も聞いた気がしています。
 しかしその思うように動けない間、この詩たちとより深く関わることができました。ハンセン病記念館による若松さんの講演もYouTubeで視聴しました。合わせて3時間近くありましたが面白くてあっという間でした。
 目標に向かって頑張っていくこともいい。だけど、じっくりと胃腸を労わる時間があってもいい。病気や怪我をしなければわからないことはたくさんあります。
 詩も、その必要性は普段あまり感じられないかもしれません。だけど、自分の存在が脅かされたり弱ったりしている危機のときほど味方になってくれるものです。「アンパンマンのマーチ」が大震災の直後、たくさん再生されたように。作詞したやさせたかしさんもまた詩人でした。
 情報操作の世の中ですから。言ったもの勝ちみたいでもあり、弱者を前提にした強者たちもいる。SNSはなりすましばかり。ポスト真実の時代なんて言われたりもする。
 でも、本当に強く生きるってどういうことなのでしょうか?
 一つ一つの詩と出会うこと。沈黙を保って受け皿となること。
 悲しみを拒まず、腐熟させるのだと耕すこと。
 来るべきものたちのために。
 文学(本)は、しなやかでたくましく、信頼できると改めて思います。
 まるで芽のように。

 大江満雄 編/岩波文庫/2024


 
 
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火車

2025-01-11 20:53:04 | 読書
 昨年末に読み終えていたのですが、感想を書く余裕がなく、年始になってしまいました。それでもこの作品のインパクトは絶大で、読後感が消えることもありません。
 私が応募しようとしてる「小説すばる文学賞」の選考委員には宮部さんもいらっしゃるのです。宮部さんの作品に触れるのは「ソロモンの偽証」(新潮文庫)以来でしょうか。文庫で全6巻もある大作ですが、あの時も夢中で読んでしまった記憶があります。
 今回もしかり。本当に久しぶりに、就寝前に布団で読むということをしました。続きが気になって。
 ネタバレになってしまうので結末は書きません。少しづつ少しづつ真相に近づいていきます。主人公は子持ちの中年刑事(本間俊介)なのですが、足をピストルで撃たれた後のリハビリ中なので休職中です。そのタイミングを狙って、遠い親戚の若い男が訪ねてきます。「婚約者が失踪してしまったので探して欲しい」と。
 探し人(関根彰子)を痛む足を引きずりながら勤務先や知人などを訪問し、話を聞いて彰子(しょうこ)がどんな人間なのかを浮き彫りにしていきます。彼女の理解を深めていくことで自ずと今どこにいるのかが見えてくると踏んで。
 実際にそうなっていきます。まったく読者の想像を超える形で。
 大きなテーマになっているのはクレジット破産です。
 この作品が発表されたのは平成4年(1992年、文庫化はその6年後)ですから、私は高校一年生。バブルが弾ける寸前でしょうか。
 クレジットカードの発行枚数は鰻登りでした。作中に弁護士による詳しい説明があります。
 彰子の「しあわせになりたいだけだった」というセリフがあります。それが本心でしょう。特技もなく地味な生活をしている人たちにクレジットカードは魅力的に迫ってくる。ブランド品を買う。ちょっといい生活をしてみる。カードで。
 いつの間にか返済ができなくなっている。それでまた借金。気づけば取り立て屋に追われている。
 彰子はそういう人でした。とても真面目だから追い込まれてしまう。
 読んでいて思い出したのは松本清張の「砂の器」(新潮文庫)でした。その主人公も誰にも知られたくない過去を持っていました。そしてその過去というのは、誰でもなりうるものです。宮部さんは松本清張をとてもリスペクトされていますので、自ずと作風が似てくるのかも知れません。骨太な「社会派」です。
 が、それだけでなく、物語を支える細部の表現がまた素晴らしかったです。たぶん宮部さんでしか書けない的を得た、かつ繊細な言葉。物語を支える様々な人物たちの描き分け。ストーリーが小説の骨組みなら、壁紙や床板、間取り、インテリア、設備なども整っていなければ住み心地のいい家にはなりません。小さくても気持ちのいい庭や緑も欲しいですが、そんな思いにも言葉が届いているというか。
 一人のカリスマ刑事(あるいは探偵)が謎解きをしていくというスタイルでもありません。真相に至るヒントは、日頃接している家族や友人、知人との対話から生まれます。刑事の仲間、子供、子供の世話をともにしてくれている同じマンションの住人夫婦、彰子の同級生やその妻、その他にも。出てくる人たちみんなの証言がラストに向かっていく。だから読むことを止めることが難しくなってしまう(しあわせなことですが!)。
 種明かしできないモヤモヤが残りますが、気になった方はぜひ読んでみてください。
 ある意味ホラーでもあります。私も読後、嫌な夢を見ました……。
 ですが、借金への見方は変わると思います。その人だけが悪いのではないのだと。
 ミステリーの謎とは、要するに人間のことなのだと。

 宮部みゆき 著/新潮文庫/1998
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今年もよろしくお願いします。

2025-01-01 17:27:04 | エッセイ
 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いします。

 年賀状の画像を使ってみました。
 今はスマホのアプリでスイスイと年賀状を印刷することができます。
 余白には、手書きでそれぞれの人に言葉を添えていますが。
 今は12人前後でしょうか。
 昔はもっと多かったけど、多ければいいというわけでもないことに気づいて、自然に減っていってそうなったという感じです。
 無理なく、続けられる範囲で、年始のあいさつだけでつながっている人もいますのでありがたく受け取り、送らせていただいています。

 年末の本屋は大わらわでした。いつものことですが、クリスマスイヴあたりからお客さんが殺到し始めて、ありがたいのですが流石に疲弊しました。今日は元旦でも営業してますが、私はたまたま定休です。あんことごまのお餅にお雑煮。姉と甥っ子が来てケーキを買ってきていただき(今月5日は私の誕生日)、雑談しながらおいしくいただき、疲れもほぐれていきます。ニューイヤー駅伝を観て元気ももらって。
 昨年も1000キロ走ることができました。
 TATTAというアプリのデータです。
 一昨年より距離と回数は減っているけどペースは上がっている。質が上がったという感じでしょうか。
 8700メートル登っていました。エベレストが8848メートルです。一方8585メートル潜っています。日本海溝は深くて8000メートル越と言われています。そう思うとよく走ったなと実感されてきます。「ちりつも」ですね。
 小説も似たようなものです。
 1200字詰めの用紙に130枚という作品を知り合いの方々に読んでいただいていますが、日々コツコツと積み上げた賜物です。ローマは1日にして成らず。
 他者の反応を確かめて、最終の筆入れをします。そして3月末に提出。
 昨年は2月に高知、4月に花巻、11月に神戸と、未知の街を走ることもできました。一年を通して風邪すら引かず、大きな怪我もなく無事に過ごすことができてよかった。
 やるべきこと、やりたいことを果たした充足感があり、ほっとしています。神戸の笑顔というのも、そんな私の足取りの表れだったのかもしれません。その感覚は持続していて、とんでもなく忙しい書店にいても、不思議と慌てることなく落ち着いていました。
 そして今年。目標ははっきりしています。
 もっと本を読みたい。もっと本を書きたい。もっと走りたい。もっと旅をしたい。もっと好きな人といる時間を増やしたい。もっと温泉に行きたい。もっとおいしいものを食べたい。もっといい写真を撮りたい。もっと面白い対話をしたい。もっとブログを更新したい。もっと収入を上げたい。
 単純なことです。やりたいこと、したいこと、好きなことをもっと。
 そのためにどうすればいいのか。
 どうしたら実現できるのか。
 内側から溢れてくる要求を満たしていく。そのための私は交通整理係に過ぎません。
 書くことも走ることも愛することも、私が少し関与することでその質が上がるということ。主体はあくまでも有機体としての私。
 まずは目の前の作品の質を上げること。
 そして2ヶ月後の東京マラソンで自己ベストを更新すること。
 書くこと走ることを中心に、自己ベストをすべての領域で達成したい。たとえ1ミリでも。貪欲に。
 巳年なので年男でもあります。
 蛇の脱皮は命懸けと言います。
 言うは易し行うは難し。でも言わなければ始まりません。
 得るためには手放すことも必要です。
 新しい自分に生まれ変わるために、離れることも厭わずに。

 
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ツナグ

2024-12-18 20:23:06 | 読書
 寒さが厳しくなってきました。北国や日本海側では大雪も降り、毎年のことながら関東に住む私は冬場にたくさん走ることができてありがたいと感じています。そんななか、私が応募しようとしている「小説すばる新人賞」の選考委員をされている方達の作品を読もう強化期間に入りました(ごく個人的に、です)。
 まず一作目がこちら。
 作者の辻村深月さんは「傲慢と善良」(朝日文庫)が映画化もされ、今よく売れてる作家のお一人です。私はまだ読んだことがありませんでした。
 たくさんある著作からこの本を選んだのは、私が一番読みたい作品だったから。
「使者」と書いて「ツナグ」と読みます。ツナグとは、一体何者でしょうか?
 何と何をツナグのでしょうか?
 様々な主人公が登場しますが、同じ強い思いを持ってツナグの電話番号に辿り着きます。強い思いがなければツナグと接触することもありません。
 それは「死んだ人に会いたい」という強い思い。ツナグは、生きている者と死んでいる者を一晩だけ会わせることができます。光の強い満月の夜、一番長く時間を持つことができ、夜明けまで会いたいと願いあった二人はホテルの一室で再会を果たします。
 家族に受け入れられることなく、会社でも居場所の限られた女性が、テレビで見た女性タレントに街中で助けられ、それをきっかけにファンとなって、タレントの急死を知ってツナグに連絡をする「アイドルの心得」。
 長男として工務店を引き継ぎ、口は悪いが腕のいい仕事人の男性が心に引っかかっていたものを確かめたくてガンで亡くなった母と会う「長男の心得」。
 婚約した女性が失踪し、七年経っても現れず、ついにツナグを頼った男性の「待ち人の心得」。
 二人の演劇部の女子高校生の一人が通学路で自転車事故のため亡くなってしまった。その親友は大事な舞台の主役を奪われたことを根に持ち、「事故でも起こればいい」と思ってしてしまった行動が事故死の原因になってしまったのではないかと恐れ、ツナグと出会う「親友の心得」。
 以上の4編は連作短編で、ここまでで終わってしまうと物足りなさが残るかもしれません。が、さすがは売れているだけはあります。次の5編目はツナグが主人公となっているのです「使者の心」。
 ツナグは、ある男子高校生が務めているのですが、その子がどうしてツナグを引き継ぐことになったのかが少しずつ明らかにされていきます。そしてツナグであるために必要なこと、またしてはいけないことも祖母から教えられていきます。
 その子の名は歩美(あゆみ)と言いますが、彼の両親はすでに亡くなっていました。父の浮気が原因の痴情のもつれとかなんとか、死に方が普通ではなかったので周りにささやかれたりして。その謎も解され、歩実は自らツナグとなる決心に至ります。
 歩美の前の4人も主人公ですが、やはりタイトルになっているようにツナグである歩美が主人公だったのだと読み終えて思います。彼の物語を読んでやっと全体が腑に落ち、「よき物語を読んだ」という充足感が湧いてきます。そしてこの作者の他の作品にも手が伸びていく、という感じです。
 小説は、文章の巧拙や人物造形の明確さ深さ、表現力語彙力、動機の切実さだけでなく、その物語を最も有効に機能させる構成を作る力が必要だと改めて思います。長い文章だけの世界ですから、いかに飽きさせない工夫ができるか。せっかく手を伸ばしてくれた人に、どれだけ親切でいられるかということにもなってきます。
 あと辻村さんの作品から感じたのは、登場人物が実に丁寧に描かれているということ。それは他者への敬意が滲み出たものとも言えそうです。その気持ちだけで上手に人物が描けるというわけではないと思いますが。
「私のために書いてくれた! というたくさんの幸福な勘違い読書体験が血肉となっている」とご本人は言っています。そう、あれこれ言ってみて言語化してみても、結局はどれだけ読んで自分のものになっているか。それらはいざ自分が書いたとき、支えとなっていると実感するものです。
 ということでもう次の方の作品は読んでいる最中です。あと少なくとも3冊は、「選考委員の方々の作品を読もう強化期間」シリーズとなる予定です。

 辻村深月 著/新潮文庫/2012
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死の森の犬たち

2024-12-14 20:55:31 | 読書
 読み出したら止まらなくなってしまいました。
「動物もの」と言っていいのかどうか。そんな単純な枠にははまらないように思います。
 主人公は確かに犬です。犬と言っても、「犬」とくくれるものじゃない。それぞれに個性があります。その個性の違いがドラマを生んでいるとも言えます。
 ゾーヤと名付けられた雌の子犬は、ナターシャの一家にあたたかく迎えられます。
 でも、その幸せはほんの一瞬でした。その後、長く過酷なサバイバルが待っていました。
 ナターシャの家は、チェルノブイリ原発のすぐ近くにありました。爆発、そして突然の避難。福島の記憶が蘇ります。
 ペットを連れて行くことは禁止されていました。しかし、ナターシャはこっそりゾーヤを連れてきました。とても置いていくことはできなかったので。
 バスに乗るとき、ゾーヤは見つかってしまいます。外に置かれたゾーヤは、バスが走り始めると一心に追いかけます。何かの遊びだと思って。だけど、バスは一向に止まらず、やがてゾーヤは追いかけることをやめてしまう。
 ナターシャとゾーヤのその後が展開していきます。
 ナターシャは人に本心を見せない勉強一途な科学者になっていきます。原発から避難してきた運命を受け入れてくれる人たちばかりではありません。変わった人と見られても、ナターシャは一人で過ごすことに慣れていきます。理解者であった父は、被曝の影響で早くに亡くなってしまいます。母は再婚しますが、その義理の父とナターシャは距離を置いたまま。ナターシャは父の勧めもあって核エネルギーの生みの親である物理の研究に邁進します。この道のりは、先にノーベル平和賞を受賞されてノルウェーで演説された日本原水爆被害者団体協議会の田中さんと似ています。成績は優秀で研究職にも恵まれますが、心には大きな穴が空いたままです。彼女は決して幸せではありませんでした。
 ゾーヤは、「魔女」と言われていたお婆さんのカテリーナに拾われます。カテリーナは避難を指示されても従わず、残ることを選んだ人でした。カテリーナは結婚相手を亡くしており一人。ゾーヤはカテリーナに懐いて、カテリーナもゾーヤがいることで孤独を癒されていました。
 が、狼がやってきます。そしてゾーヤは、雄の狼の魅力に抗えず、付いて行ってしまいます。そう、ゾーヤの中にも元々狼の血が入っていました。目の色が左右で違うのが証拠です。片方は冷たい青、もう片方は温かい茶色。
 ゾーヤは子供を二匹産みました。森の中の洞穴で。ミーシャとブラタン。ブラタンは弟で、生まれつき後ろ足が弱くて早く歩けず、その代わり噛む力は犬一倍強い。
 来る日も来る日も獲物探し。小熊と出会ったり、山猫に襲われたり。その中でも一番の強敵がやはり狼でした。
 雌の狼、クロスフェイスがミーシャの宿敵となっていきます。
 老いたゾーヤはカテリーナの家にかろうじて戻り、そこで安らかな最後を迎えますが、残されたミーシャとブラタンは、クロスフェイスから逃げるように住処を探す旅に出ます。
 無人となった農家に出会います。そこには野生化し生き残っていた犬たちがいました。ミーシャとブラタンは、そこのボスのコーカシアンシェパードに認められて仲間となることを許されました。コーカシアンシェパードは、狼を退治するために改良された品種です。
 ミーシャはそこで伴侶となるサルーキと出会う。
 サルーキは、この本の表紙の右側で走っている犬ですが、狩猟犬で顔が小さく足が長く、人との歴史が七千年もあると言われている最も古い犬種です。
 農家の地下室にソーセージを見つけてひとときの幸福を味わいますが、犬たちはまたしてもクロスフェイスが引きつれる狼軍団と戦うことになります。この場面は作者も一番力が入ったらしく、ハラハラドキドキの連続。かつての仲間だった馬が活躍したり、かつての遊び仲間だった小熊が助っ人に来たり。
 その後も息をつかせない展開が続きます。
 最終的にゾーヤの子であるミーシャはどうなったでしょうか?
 大人になったナターシャは、故郷に放射線を測定するボランティアとして戻ってきます。それは野生化した動物たちの保護が目的だったのですが。
 人間の活動によって「死の森」と化した場所が、かつてのペットたちの野生を取り戻す場所ともなったことが印象的です。犬が犬になり切れず、狼と連れ添うというのもこの作品では大きな特徴です。私は知りませんでした。狼と犬が、完全には別れていない種だったということが。人がいなくなったことによって動物たちが主導権を取り戻すかのように生き生きとする。それはいつも死と隣り合わせなのですが。
 動物たちが決して擬人化されていません。動物は動物として、その個性を尊重されて描き分けられていることもこの作品の美点だと思います。だからこそ、読者は一つの動物に感情移入してページをめくる手が止まらない。
「たましいのきずなはけっして消えない」
 愛された記憶は決して消えません。それが人を、人だけでなく動物も、生かしていく原動力なのだということを「死の森」が浮かび上がらせています。

アンソニー・マゴーワン 作/尾﨑愛子 訳/岩波書店/2024
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神戸マラソンにて

2024-12-07 20:28:34 | マラソン
 写真が来たので載せておきます。
 レース中の笑顔は珍しいです。
 おそらく40キロ付近だと思いますが、ここに来るまでたくさんハイタッチしてきたので、顔はほぐれていたのでしょう。
 応援してくださった皆様に改めて感謝します。本当に、いつもマラソンの後半は応援が頼りです。
 神戸から3週間経ちました。今日は20キロほど走りました。筋肉疲労も抜けてきました。
 次の東京マラソンに向けて、走行距離を伸ばそうと計画中です。
 絶対に自己ベストを更新したいから。
 着実に、でも無理はせず。
 東京の次の大会もエントリーしました。
 5月11日、2年ぶりの仙台ハーフマラソンです。ホテルももう予約しました。
 今年は仙台に行けなかったから。やっぱり行きたい、大事な場所です。
 マラソンは続いていきます。どこまでも。
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中空構造日本の深層

2024-12-04 20:25:51 | 読書
 少し前に読んでいたのですが感想がまだでした。
 前から気になっていて、執筆がひと段落して、やっと手が伸びました。
「中空」とはなんでしょうか?
 著者の河合隼雄さんはカウンセラーで、面接を重ねるうちに日本人独特の心があると気づきます。その典型を昔話や神話に見出してきました。
 中空のヒントは古事記から。アマテラス、ツクヨミ、スサノオという三神がおりますが、活躍し記述されるのはもっぱらアマテラスとスサノオ。同様の構造は、ホデリ、ホスセリ、ホヲリ、また、タカミムスヒ、アメノミナカヌシ、カミムスヒの三神(ホスセリとアメノミナカヌシがツクヨミに該当)にも当てはまります。
 日本神話に登場する神でありながら、なぜほとんど注目されないのでしょうか?
 空だから。特にないから。
 え? 神なのに特に記述すべきことがないって。
 いや、そうだからこそ存在意義がありました。
 西洋ではどうでしょうか?
 一神教ではどうでしょうか?
 神は一つ。それが当たり前で育つとどんな考え方になっていくのか?
 少し想像すれば見えてくるのではないでしょうか?
 異教を排除する。異端を追い出す。違う神を認めない。ジハードとか聖戦とかが正当化される。善と悪がはっきりと別れ、分断されることになっていくのではないでしょうか。
 一方で、三神のうち一つの神が無力だとしたら。
 善と悪だけじゃなく空が最初から入っていることで、善と悪の固定化が防がれる。善と悪が入れ替わる余地が生まれる。ちゃらになるというのでしょうか、空があることでリセットが可能になる。そして善と悪など対立する者同士の共存が可能になるのです。
 大した知恵だと思いませんか?
 それは環境の要因も大きいと思います。
 日本は島国です。地続きの国境というものがない。
 それに地震と津波と火山に台風まである。一つの建物が何百年と残ることはほとんどありません。むしろ定期的に建て替えるのが当たり前。
 自然は豊かです。一方で、人間の持つ力を肯定的に受け止めることは難しかったのかもしれません。すぐに震災でゼロにされてしまうから。
 そして天皇制という仕組み。天皇は国民の象徴で権力を持ちません。明治時代、天皇を神としてまとまろうとした日本は、海外の方達をことごとく敵視し、今思えば無謀としか言えない戦争に明け暮れました。
 中が空であることで、対立する者同士が共存できる。相反する力を象徴に統合することで乗り越えることができる。そんな日本という島国ならではの心の深層。
 一方で、短所もあります。
 無気力、責任感の欠如、自分の課題を棚上げしてしまうこと、過度の依存、意思が弱い、自分が何をしたいのかわからない、ミートゥーイズム、みんなと同じじゃないと不安、などなど。
 河合さんの提案は一つだと私は思いました。
「個々人が自分の状態を明確に意識化する努力をこそ積みあげるべきであろう。これは遠回りの道のように見えて、実は最善の道と考えられるものである。そのような意識化の努力の過程において、中空構造のモデルは、ひとつの手がかりを与えてくれるものとなるであろう」 77ページ4行〜7行
 何でもかんでも「やばい」ではなくてね……。もっと言葉(心)はあるから。
 カウンセリングも小説も「個々人の自分の状態を明確に意識化」するお手伝いができます。私もその努力をこそ積み上げてきたのだと思います。毎日日記をつけたり、こうして読書感想を書いたり。
 人の心というのは、それほどまでに不可解で広大で、無限とも言えるものだから。
 海のようなものです。海は広くて大きいから冒険に出たくなる。でも海のことを知らなければ、飲み込まれたり流されたりしてしまうことも起きます。
 一つずつ、知ったことを書いていく。その積み上げが、その人の人間の幅や奥行きともなっていきます。自分がしあわせになり、しあわせを他の人に運べるようにもなれるかもしれない。
 まずは自分から。自分という海を知っていくことから。
 人のせいにするでもなく、自分のせいにするでもなく。
 河合隼雄さんの書いたものを読むと、やっぱり心のどこかにピッタリと収まっていく感じがします。

河合隼雄 著/中公文庫/1999
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