暑中お見舞い申し上げます。
今日は暑すぎて、走ることを断念しました。仕方ない。こんな日もあります。
走らないでできた時間、ぼーっとするのも好きですが、今日はピクルスを作りました。
さまざまな、信じられない事件が起こります。
事実を事実のままに報道しないメディアもある。
家の近くでは、一家心中という火事がありました。
元首相の銃殺事件は言わずもがな。大国による軍事侵攻(パワハラ以外の何ものでもない)も終わっていない。
衝撃を受けるたび、胸の中がざわめき、不快な空気が充満します。
なぜ、なぜと一人問い、テレビやネットを見ても、溜飲が下がることはない。理解し尽くすことなどできない。
時とともに、事件は忘れ去られていく。また衝撃的な事件に上書きされもする。
でも、自分の心に残った傷は、ずっとそのまま。降り積り、降り積もって自分というものが見えなくなってしまうこともあります。
「拡大自殺」なんていう聞きたくもない言葉も聞くようになってしまった。
そこまで行ってしまうのは、そこまで行かせてしまった人たちがいるから。
目に見えない、でも切実な闘いが、今でも行われているのを感じます。
文学に集う人たちは、いち早く危険な空気を感じ取り、言葉にして人に知らしめていく。
炭鉱のカナリアみたいに。
昨日の選挙の投票率は52%だそうです。
約二人に一人は行っていない。
「どうせ変わらないから」という声を聞きました。
それは変わらないことに同意していること。
どうしてなんだろう?
もっといい、住みやすい、多くの人たちが幸せを感じやすい暮らしの土台を作るための改善策が見えていないから?
もっと納税者が納得する、税金の使い道を明らかにしてくれる人がいないから?
「変わらない」ではなく、本当は「変わりたくない」だったら?
投票に行かない人は、投票に行けないだけかもしれない。仕事が、育児が、介護が、あるいは足が不自由で、とかいろいろ事情はあるでしょう。
そんな人たちに多くの人たちの理解は届いて、希望が叶う仕組みはできているのでしょうか?
私が投票に行ってもしょうがない。そう思う人は、もしかしたら自己肯定感や効力感が育っていないだけかもしれません。
投票するという行為は、自分の意思を表明すること。もしかしたら、それが苦手、あるいはわからないという人たちもいる。
投票に行かない、行けない人たちを責めても逆効果。北風と太陽のように。
個人の気持ちが組織票に負ける。思い返せば、哲学の祖とされるソクラテスもまた圧殺された一人でした。
書くことが、書くことそのものが希望。
昨日だったか、今まで、いろいろ書き散らしてきましたが、そんな心境に達しました。
少なくとも、今の日本でも、こうして書いた文章が検閲され、黒塗りされることはない。
不断に続く人の歴史において、やっと獲得された(はずの)個人の自由。
その恩恵に感謝し、私にとっては書くことそのものが希望。この真実を、これからの文筆生活の基としたい。
たとえ短い文章でも、長い小説でも、いつどこで誰の心に触れるかわかりません。
希望がこもった文章ならば、きっと読む人に希望が伝わる。
千人に一人かもしれない。五十年後かもしれない。それでもいい。伝わる希望はゼロにはならないから。
希望は、今日を生き、明日も生きてみようかと思い、行動できること。
誰をも殺す必要もなく。
いつか見た夕焼けの写真です。
行き詰まり、どんな言葉(人)も信じられないとき、自然の中に入ればいい。
人を拒絶しているとしか思えないときもあるけれど、そのときはそのときでわかってあげて。
人は、永遠に自然の子だから。
「美しい」と感じること。またその景色を見たいと願うこと。
それだけで希望は回復しています。
今日は暑すぎて、走ることを断念しました。仕方ない。こんな日もあります。
走らないでできた時間、ぼーっとするのも好きですが、今日はピクルスを作りました。
さまざまな、信じられない事件が起こります。
事実を事実のままに報道しないメディアもある。
家の近くでは、一家心中という火事がありました。
元首相の銃殺事件は言わずもがな。大国による軍事侵攻(パワハラ以外の何ものでもない)も終わっていない。
衝撃を受けるたび、胸の中がざわめき、不快な空気が充満します。
なぜ、なぜと一人問い、テレビやネットを見ても、溜飲が下がることはない。理解し尽くすことなどできない。
時とともに、事件は忘れ去られていく。また衝撃的な事件に上書きされもする。
でも、自分の心に残った傷は、ずっとそのまま。降り積り、降り積もって自分というものが見えなくなってしまうこともあります。
「拡大自殺」なんていう聞きたくもない言葉も聞くようになってしまった。
そこまで行ってしまうのは、そこまで行かせてしまった人たちがいるから。
目に見えない、でも切実な闘いが、今でも行われているのを感じます。
文学に集う人たちは、いち早く危険な空気を感じ取り、言葉にして人に知らしめていく。
炭鉱のカナリアみたいに。
昨日の選挙の投票率は52%だそうです。
約二人に一人は行っていない。
「どうせ変わらないから」という声を聞きました。
それは変わらないことに同意していること。
どうしてなんだろう?
もっといい、住みやすい、多くの人たちが幸せを感じやすい暮らしの土台を作るための改善策が見えていないから?
もっと納税者が納得する、税金の使い道を明らかにしてくれる人がいないから?
「変わらない」ではなく、本当は「変わりたくない」だったら?
投票に行かない人は、投票に行けないだけかもしれない。仕事が、育児が、介護が、あるいは足が不自由で、とかいろいろ事情はあるでしょう。
そんな人たちに多くの人たちの理解は届いて、希望が叶う仕組みはできているのでしょうか?
私が投票に行ってもしょうがない。そう思う人は、もしかしたら自己肯定感や効力感が育っていないだけかもしれません。
投票するという行為は、自分の意思を表明すること。もしかしたら、それが苦手、あるいはわからないという人たちもいる。
投票に行かない、行けない人たちを責めても逆効果。北風と太陽のように。
個人の気持ちが組織票に負ける。思い返せば、哲学の祖とされるソクラテスもまた圧殺された一人でした。
書くことが、書くことそのものが希望。
昨日だったか、今まで、いろいろ書き散らしてきましたが、そんな心境に達しました。
少なくとも、今の日本でも、こうして書いた文章が検閲され、黒塗りされることはない。
不断に続く人の歴史において、やっと獲得された(はずの)個人の自由。
その恩恵に感謝し、私にとっては書くことそのものが希望。この真実を、これからの文筆生活の基としたい。
たとえ短い文章でも、長い小説でも、いつどこで誰の心に触れるかわかりません。
希望がこもった文章ならば、きっと読む人に希望が伝わる。
千人に一人かもしれない。五十年後かもしれない。それでもいい。伝わる希望はゼロにはならないから。
希望は、今日を生き、明日も生きてみようかと思い、行動できること。
誰をも殺す必要もなく。
いつか見た夕焼けの写真です。
行き詰まり、どんな言葉(人)も信じられないとき、自然の中に入ればいい。
人を拒絶しているとしか思えないときもあるけれど、そのときはそのときでわかってあげて。
人は、永遠に自然の子だから。
「美しい」と感じること。またその景色を見たいと願うこと。
それだけで希望は回復しています。
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