泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

写真は今しか撮れない

2023-07-08 14:37:12 | フォトエッセイ
 当たり前のことなのですが、「写真は今しか撮れない」のでした。
 今日、ふと思って、書いておきたくなりました。

 しばしば書いてきましたが、このブログが始まったのは、私のカウンセリングが終わるとき。
 カウンセラーを相手に充分に語り尽くして、表現の場を自分で作りたくて。
 そして、ブログとともに始まっていたのも写真でした。
 今はスマホで撮っていますが、かつてはデジカメ。初めてカメラを買って、撮りまくった。
 被写体は花が多かった。
 どうしてでしょう?
 これもカウンセリングが終わるとき、道端に咲いている花に気づいたのでした。
 今でも鮮明に覚えています。
 目白のカウンセリングセンターからおとめ山公園の脇を通り抜け、右手にあったマンションの生垣。
 鮮烈な赤だったので、おそらく椿だったのでしょう。
 その花を撮りたい! と強く感じたのでした。

 過去に縛られなくなった。足を引っ張られなくなった。
 未来が怖くなくなった。蓋が外れた。
 過去と未来に挟まれて身動きできなかった。
 そこに風穴を開けることができたのは、薬ではなく、人間を相手に語り尽くすことだった。
 語って語って語って、今が広がっていった。
 そしてやっと見えた。あの花が。

 自分の人生を切り開くには、どうしたって語ることが必要です。
 語ることによってしか、自分の人生は紡げないのではないかと思います。
 人にはその物語を紡ぐ力が備わっている。
 のですが、充分に語る機会に恵まれないと、充分に発達することもできません。
 そこで「小説」が役に立つわけですが、そこかしこに「陰謀論」も待ち伏せしています。
「陰謀論」って、遠い世界の話だと思っていましたが、そんなことはありませんでした。
 インターネットの広がりによって、とても身近なものになったように感じます。
 物語の力は、常に陰謀論と闘っていると言っても過言ではないかもしれません。

 何かうまくいかないことが重なったとき、「呪われている!」と思ったことはありませんか?
 あるいは教室や社内で、「あいつのせいだ!」と決めつけたり。
 それらは「陰謀論」の発端かもしれません。
 不特定多数の人たちが共有し始め、ほんの発端だったものが誠にそれらしく膨張し形を整えていくと、さらに大きな力を持つようになる。
「陰謀論」が恐ろしいのは、人々を動かす力をも持ってしまうこと。
 それらは「陰謀論セット」のようになってしまい、どっぷり浸かってしまった人を「素に戻す」のは大変な労力を要すると想像します。
 内面を鍵で閉められてしまったかのように。その鍵とは、「陰謀論という物語」。
 そう、陰謀論にも物語の力は働いています。
 優れた小説と違うのは、同じ物語であっても向こうは悪役ということでしょうか。
 あるいは、個人の自由を尊重しているかしていないかの違い。
 陰謀論は悪の存在が前提であり、悪をあぶりだすために必要とされるとも言えます。
 だからそこに処罰や粛清や殺しはつきものだし、人々を分断させずにはいられません。
「正義」の振りをして誹謗中傷、というのも、知らず知らずに陰謀論に絡め取られてしまっています。
 その人たちの言説は、もはや「大きな物語」という肥大化した陰謀論の中にしか留まらず、陰謀論自体を拡大させることはできますが、その人の人生を生きることからは益々遠くなってしまいます。自分の人生から遠のけば、自然と不安は強くなる。そしてもっと強い陰謀論に縋ることになってしまいます。

 この尊い一回だけの人生を、納得して生き切るために、花と写真が助けてくれています。
 多くの花たちは、年に一回しか咲きません。
 その一瞬のために、一年間準備しています。
 その長い助走期間を思うと、花々の美しさと可愛らしさは何十倍にも増します。
 だから私は花々に引きつけられる。
 そして撮らずにはいられない。
 写真は、私の中に記憶されていきます。
 そしていつか物語を支える基礎となってくれる。
 目に見えない大切なものを、私の中の目に見えない大切な場所に写すように。

 今日も、蓮が見たいがために早起きして走りに出たようなものです。
 蓮は、やっぱりありがたく、美しかった。
 美しいからこそ、撮りたくなる。
 その命を大事にしたいと感じる。
 美しさ、可愛さもまた、共存の鍵でもありました。
 私は、花々の美しさ、可愛さを通して、私の中に共存できる場所を増やしていったのかもしれません。
 そしてその共存できる場所は、物語のための舞台になってくれます。
 そのように私は私を作ってきたのかもしれません。
 混沌の世界に、一つずつ秩序を生み出して。
 綿や繭から糸を紡ぐように。
 その貴重な糸を編み込む作業が、私にとっては書くことでした。
 紡いでは書き、紡いでは書き。そのように途方もなく繰り返して、編み込んで編み込んで、やっと私は私になっていきます。
 小説ができていきます。一枚ずつ。

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