泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

カレンダーよりも、桜

2022-03-28 19:57:28 | フォトエッセイ
 今日は良い天気に恵まれ、いつもより1時間早く目覚めました。
 心身が、桜の呼ぶ声に反応したかのように。
 近所の桜の名所を走って回りました。合計21キロ。
 5月に仙台ハーフマラソンを控えています。無事、開催されればいいのですが。
 東北新幹線も、復旧作業の最中です。
 私は私で、自己ベストを更新するべく、準備を始めています。今日の21キロもその一つ。
 写真は、無数の写真を撮りましたが、やはり一番感動する、全生園の桜公園。
 国立ハンセン病記念館のすぐ前です。
 去年は遠慮して立ち入りませんでした。
 今年は、立ち入り禁止区域が明示されていたので、許容範囲の中で、十分に堪能できました。
 台風で枝ごと折れていたり裂けていたり。ゴツゴツとして、ウネウネとして、しっかりと根を地に張り、高く、高く。
 この場所にあるから感動する。
 多くの絶望を胸にいっぱいためた人たちを勇気づけたであろうから。
 ほんと、永遠に残してほしい。
 カレンダーをいくら見ても、季節の移り変わりは実感できない。
 でも、桜を写真に収めれば、自ずと1年経ったのだと納得する自分がいた。
 原稿を提出してからちょうど1年。
 リセットされた感覚。
 アップデートされた感覚。
 本屋で20年働き続け、走り続けて10年も経た。走って10年が、ちょうど助走終了地点だったのだと、今は思います。
 力を、蓄えてきた。
 小説を書いて、投稿するのは、私の力試し。
 新しい冒険を、始めよう。
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夕日 Sunset

2022-03-10 19:19:13 | フォトエッセイ
 夕日をじっくりと見たのはいつ以来だろう?
 記憶にないくらい。
 仕事帰り、タイミングが合えば、駅のホームや電車の窓から夕焼け空を眺めることはあるけど、日が落ちていく様を見られることはない。
 この写真を撮った日は、午前に用事があり、午後は前日の東京マラソンの録画を観戦していた。4時くらいに観戦も終わり、そういえば父が多摩湖からの夕日を見たいと言っていたことを思い出し、日の入りの時間を確認して走りに出た。
 多摩湖に着いたときから、太陽の周りに輪っかがあった。
 富士山もはっきり写っています(左手の小さな三角)。
 光の輪っかはハロという現象で、日暈(ひがさ)や白虹(しろにじ)ともいい、太陽の周りに薄い雲がかかると見える珍しい現象。その後は天気が下り坂になるらしく、実際次の火曜日は朝から霙(みぞれ)が降り、一日曇って冬に戻ったような寒さでした。
 で、夕日もいいなあとしみじみ。
 今まで、朝日にばかり価値を置いていた気がする。
 沖縄に行ったのは2009年の8月。泊まったホテルは東海岸にあり、ばっちり朝日が見えた。朝日が見たくてそのホテルにしたようなものだった。
 あれからもう12年と半年が経った。
 夕日は英語で「Sunset」。セットと書いて連想したのは、陸上のトラック競技。「セット」と声が掛かれば、選手たちは腰を浮かしてスタートの準備に入る。
 いやもしかして「セット」には、もっとたくさん意味があるのかもと思って辞書を開けば、出てくるわ出てくるわ。
 置く、据える、する、課する、つける、あてがう、調整する、合わせる、はめ込む、向ける、設定する、組む、卵を抱く、実をつける、植える、獲物の方を向く。まだまだ前置詞とセットになれば、書き留める(down)、旅を始める(forth)、促進する(forward)、出発する(off)、などなど。
 夕日の美しさは、一日が無事に終わることへの安堵や感謝も起こす。会えない人たちへの思いも新たになる。何より、今、自分がここに生きてあることを、刻々と沈みゆく太陽を見守ることで実感もできる。
 個人的な思いとしては、昨年の今頃、小説の原稿と格闘していた日々を思い出す。3月末で提出したからもう一年になろうとしている。
 郵便局に出した日から、もう次の小説の準備は始まっていたのだと今は思う。
 まだ、一行も書けていない。
 そして、書き始めようとしている。
 一年、かかった。
 いや、実際はもっとかかっている。
 言ってみれば、生まれたときから。
 今だからこそ書けるものが確かにある。
 自分自身が大きく、強くならなければ掬えない、書けない、届かない、つかみ取れないものたち。
 そのときそのときで、全力を尽くして書きつないでいけばいい。
「物語」が必要なのだから。
 物語は、受け入れられないものを受け入れ可能なものにしてくれる。
 対話があれば、物語は自然に生まれ、人々は生きていける。
 対話がなければ、対等な目線で語り合える人がいなければ、人は孤立し、暴挙へのカウントダウンが始まる。
 自然との対話もまた、日本人は特に大切にしてきた文化だと思う。
 夕日を眺めながら、今日一日を、これまでの人生を見つめ直す時間も、たまには必要なのでしょう。
 いい写真はいい時間のことであり、自分と自然が一致した、しあわせな瞬間のことなのかもしれません。
 しあわせな瞬間は、人々と分かち合うことができる。
 一日が終われば、新しい一日が始まる。日は、また昇る。
 しっかり準備はしてきた。いい時間を積み重ね、充電してきた。
 小説を書く前に、もう一つ、読んでおきたい大きな作品があります。その世界をもまた十分に味わって、いよいよ。
 桜とともに、になるのか。
 桜も、散った瞬間から、もう次の開花の準備を始めている。
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新年の抱負は

2022-01-20 18:40:00 | フォトエッセイ
 寒中お見舞い申し上げます。
 やっと蝋梅が咲いてきました。
 今年は開花が遅い。雪が降ったし、寒いし。
 昨年は暖冬で、がんがん走っていたのですが、今年は北風が冷たく、体もなかなか温まらず、少なめ。
 それでも、やっと納得のいく写真が撮れました。
 新しいスマホになって約1ヶ月。やっと慣れてきた。
 ランニングシューズも新調しました。3年ほど履いていた前の靴は、底が消耗し、先端から剥がれてもきたので。
「ありがとうございました」と感謝を伝えてから、破棄。
 新靴は、アシックス製。初めて日本の会社のにした。
 今まではアディダスとかナイキとかオンとか。オンは気に入っているので併用していますが。
 10年走ってきて、やっと日本製に至る。
「マジックスピード」という名がついていますが、ほんと足にピッタリ。
 アシックスのスニーカーはちょっと前から履いていたので信頼はしていましたが。
 10年続けてやっとこさ自分に合ったものを知った感じ。
 出会ってみれば、なんで今までカッコつけて海外メーカーの作ばかりに目がいっていたんだろうと思う。
 小説についてもそう。
 今まで、原稿用紙に万年筆でまず書かなければ気が済まなかった。そして書いたものを基準にしていた。
 外側にあるものを大事にして、自分を合わせていた。
 一つ、小説を書き抜いたからこそ開けた景色なのかもしれない。
 書くべきものは内側にある。それを外にあるもの(ブランド化され、言語化され、固定化されたもの)に合わせていた。
 それじゃあつまらない。不安定さは軽減されたように感じるけれども。
 とはいえ、人は真似をすることで成長していく。学ぶということも、できる人の真似することとも言える。
 真似て真似て真似て、やっと人という木は、己の芯が保たれるほどに太くなるのかもしれない。
 なんて気の遠くなる営みなんだろう。
 45年、積み重ねてきたものが、確かな年輪が、言葉の層が、自分にはある。
 十分に幹が育って初めて、美しい花も咲き、おいしい実もなるのでしょう。
 自分という木の存在に気づいて初めて、僕はカメラを花に向けた。
 その日の衝撃を、忘れてはいません。
 花を大事にする心があれば、人は大丈夫なのだろうと思う。
 花の写真も、撮って撮って撮って、何枚撮ったのかわからなくなって、やっと自分の中にある花の輪郭がつかめてくる。
 走って走って走って、痛んで倒れて食って寝て復活して、やっと自分の走りが身についてくるように。
 書くことも同じ。
 全ては自分の中で一つにつながっていく。
 その出口として、一つの文章が生まれる。
 より多くのものがまとまった一つには、勢いがある。
 誰かのふさがった心に、入口を開ける力すら宿しているかもしれない。
 そんな文とも、たくさん出会ってきた。
 出会いは楽しみ。
 楽しみがあればこその人生。
 楽しみがあれば、そこに本物もある。
 楽しみを、生きる基準にしていいんだと思う。
 コロナ禍による自粛生活によって、自分にとっての楽しみは、より鮮明に浮かび上がった。
 蝋梅の一つ一つの蕾が、一人一人の新年の抱負に見えた。
 小説家デビューと結婚。この二つで一つが、私の新年の抱負。
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今年の漢字は?

2021-12-27 17:58:55 | フォトエッセイ
 クリスマスが終わり、ほっとしています。
 書店で働き始めてもう20年。毎年、クリスマスは一番働くときになっている。
 子供向けのラッピングが増えるからですが、今年ほど「ありがとう」と言われたこともなかったかなと思う。今までだって言われていたと思うけど、今年はその言葉の一つずつがしみて、ありがたかった。小説を読んでもすぐ泣くし、なんだろう、感度が上がっているのか、単に年を取ったのか。
 クリスマスが終わるともう来年の準備。これから年賀状も用意します。その前に、今年の振り返りを。
 私の今年一年、漢字一文字で表すなら「平」でしょうか。
「平」を作った。「平」が完成した。新しい地平に立てた。新しい地平に立つ準備ができた。これまでの自分を平定した。もちろん、コロナよおさまれ、という願いの「平」でもある。
 前作の小説を仕上げて提出して予選落ちして、夏に新しい小説の構想を得て、温めて、形になってきて、動こうとしていて。
 今はまだ次作を書いていないけれど、確かにここにある。原稿用紙に向き合っていなくても落ち着いて準備を進めることができている。
 小説は、やっぱりマラソンと似ている。フルマラソン8回も完走したから、わかる。マラソンは準備が9割だと。
 大会で実際に走るのは残りの1割。結果の9割は、準備の質と量で決まる。
 小説もそうだった。準備も不十分なまま、書かないと不安だからと書き始めても、途中で息切れしたり、怪我したり、トイレの場所もわからずその辺でしたら近所迷惑だし、何より自分のペースや力量を把握していてこそのレースプランや目標がある。私の初マラソン大会も散々の出来だった。ほんと死ぬかと思った。初小説でもそうだった。本当に死にそうだった。一作一作、一本一本、経験を積み重ねて、学んで学んで今がある。洗練に洗練を繰り返し、無駄に気付いては捨て、枝葉や本当の愛ではないことを痛みとともに知ってきた。失敗に謙虚に学び続けることは、幾つになってもできる。
 次こそがデビュー作だ、と信じています。
 小説に近づき、小説の中に入り、小説に怖くなって、小説から離れ、小説が恋しくなって、また小説と出会う。小説の奥深さや意味を、拾い集め直した一年でもありました。
 私の中で、いつからか、小説家になることと結婚が結びついています。文章でお金を得るまでは結婚できない、あるいは一人前の男ではない、なんていう観念。実際、正社員として働くことをずっと拒否しているので、今の収入で不自由なく暮れせているのは、自分が独身で実家のお世話になっているから。自分の読み書き走りの時間を確保し、実践してきた日々でもあった。
 でも、それも変わってきた。
 正直、家から出るのが怖かった。一人暮らしの失敗を引きずっていて。
 それも「平定」されたので、自分が新居を二人で作っていくことに「楽しそう」と思えるようになった。ま、それも相手あってのことですが。ただ、それももうできるんだなという実感があります。これもまた新しい「平」。
「平和」であることのしあわせもまた、今まで以上に感じる年でした。健康であることも平和と言えるかもしれない。今年は尿路結石の再発もない。レモン白湯を十分摂るようになって、疲れも溜まりにくくなったと感じています。
 一日に、このブログの訪問者が千人を越えた日がありました。『「うつ」の効用』でした。「千」は、今まで見たこともなく、現状突破の兆しは確かに感じられました。ツイッターを有効活用するようになったのも大きい。それも夏からの変化。伝えることそのものの質を上げる工夫の一つ。
 走ること、書くことは、自分にとって、生きていることを喜ぶためだったと知ったのも今年でした。これは、コロナ禍が続いたからこそ鮮明に悟ったと言えます。
 来年は、やっぱりマラソン大会を走りたい。今まで行ったことのない土地を走り、人々と食べ物と風景と出会いたい。
 そしてもちろん、小説が書きたい。どんなに苦しんでも、恥を晒しても、書き抜いたら必ずもっと魅力的な次があることも知ったから。
 そんなことで、強烈なクリスマス寒波の中ですが、どうかご自愛されてください。
 自分を愛することもまた、より一層深まった一年でした。
 自分が自分を適切に愛することは、どうしてけっこう難しいのでしょうね?
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祈るということ

2021-12-09 19:05:54 | フォトエッセイ
 近くの神社で。お参りして、走る前。
「祈ること」が、明らかに増えた一年でした。いや、まだ今年も三週間ありますが。
「すばる文学賞」の予選に落ちてからは、今まで「小銭なし」だったのを「小銭あり」にグレードアップ。
 手を叩き、頭を下げることも様になってきた。
 どうしてだろう?
 祈らずにはいられない、ということもあります。
 小説家になることに、何の保障もない。デメリットばかりが頭を占めることもある。
 手を叩き、邪念を払い、手を合わせて、自分の中心を意識する。
 手を合わせると、過去と未来が合わさったように感じ、今に集中できる。
 合わさる手は、自分の本来持っている「あたたかさ」を感じさせてもくれる。
 神社のある場所は、たいてい自然が豊かで、大きな木がある。空気もきれい。
 大自然が尊ばれているのがわかるから、自分の内なる自然も喜ぶ。背筋が伸びる。
 子供の頃は、この神社の回りでよく遊んでいました。
 湧いてくる言葉は、自分の中心からの願い。目を閉じて、心に耳を傾ける。
 私自身を最大限に生かすために必要な調整をしている、と言えるのかもしれません。
 今の自分を確認もしている。自分とは何者か? は、古代から大きな謎だったのではないでしょうか。
 だからこそ、「鏡」は宝となり、神社の奥に鎮座している。
 三月の末、郵便局に小説の原稿を届けに行ったことを思い出した。あれから八ヶ月。あの時も、帰り道、祈った。
 何度でも何度でも、祈って、書く。自分の中心にあるものこそが、文章の核となるから。
 今日、感じたのは逆のこと。
 希望する未来へ自分を導くことではなく、忌まわしい過去をどう乗り越えていけるのかということ。
 過去は変えられない。どんなに悔やんで自分を責めても、失ったもの(人)は戻らない。恥も消えない。憎しみは、むしろ増大するのかもしれない。
 それらは、波のように何度も何度も押し寄せ、その人を苦しませる。その人を救う言葉も方法もない。
 じっと耐え続ける中で、波を波と感じなくなる時が来る。波が来ても、もう大丈夫な自分になっている時が来る。
 それまで、隣に誰かいてくれたら、どんなに助かるだろう。
「冷たいね」「ああ、冷たいね」
「痛いね」「ああ、痛いね」
 共有できる人がいることで、その人の健康度と耐久力は、格段に上がる。
 隣にいる人は、少しだけ波の当たる範囲が少ないかもしれない。
 その隣にいる人は、もう波が当たらないところにいるかもしれない。
 その隣にいる人は、浜辺から家に帰ることができるかもしれない。
 家にいる人は、誰かのためにご飯を作ることができるかもしれない。
 それが人とのつながり。希望が決してなくならない理由。
 それを書きたいのだ、と思う。
 紅葉した葉っぱたちを見て、今年も一年おつかれさま、と思う。
 来年もまた、元気な若葉を見せてくれるのでしょう。
 私もまた。小説という果実を実らせよう。
 たくさんの葉っぱは、一冊ずつの読書。
 ランニングで出会う、一枚ずつの写真。
 もちろん、それだけじゃない。
 毎日、あったかいお風呂に入れることも、おいしくご飯が食べられることも。
 ぐっすり安心して眠れることも、書店で元気に働くことも。
 家族、友人、知人、仲間、お客さんとも交わす会話の一つ一つ。
 一つになってその人の強度や密度や正確性を上げる効果も、祈ることにはあるのかもしれません。
 
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日が差して、風が吹く

2021-11-18 20:43:37 | フォトエッセイ
 イチョウが見頃だろうと思い、所沢の航空公園へ走って出かけました。
 花や紅葉の見頃を察知する感度は、日に日に高まっているようで、今日もドンピシャり。
 公園内をぐるっと走って、最も引かれた場所で写真を撮っていると、ずっと曇りだったのに日が差し、風が吹いた。
 ハラハラと黄葉が落ちて舞った。
 かがんでいる私の上にも舞い落ちた。
 タイミングというのは合うようになっていくのでしょうか。
「うつ」という長い滑走路から離陸するために、私に必要だったものはたくさんありますが、ランニングと写真は、その中でも大きな場所を占めています。
 このブログは、歩くことと写真から始まったと言ってもいい。
 歩くことが走ることに進化し、写真は写真のままだけど、風景だけでなく本も撮影するようになったし、小説を作る上でも欠かせなくなった。
 夢中になれるものは続いていく。続いていくことで、夢中になれるもの同士はつながっていく。点が線となり、線は面となり、面には色がつき、立体化し、独立し、歩き始め、ついには人物ともなる。夢中の中に小説の芽があり、人間の成長も回復もそこにあった。
 走って写真を撮ることで、私は私から抜け出し、自然の中に入っていくことを学んできたのかもしれません。写真と文章は、その一回ずつの記録。
 空っぽになり、自然と一体化すること。これ以上のストレス発散を知りません。
 写真から発展したインスタグラムも継続しています。
 今日はイタリアの方、ロシアの方からも「いいね」をいただきました。
 写真は、簡単に海を超えていく。国境も文化や言葉の違いも。
 人に、確かにある共通の感性を分かち合うこと。
 これもまた小説の細部の土台になり、ささやかだけど大事な生きる楽しみになっています。
 私よりももっと上手に写真を撮る方々は、数え切れないほどいらっしゃる。私よりも、もっと上手に小説を書く方々が、たくさんいらっしゃるのと同じように。
 だからこそ謙虚に学び、良いものは共有しあい、少しでも上手くなりたいと願い、実践は続いていきます。
 
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緊張という卵

2021-11-15 22:37:02 | フォトエッセイ
 人は、どうして緊張するんだろう?
「うつ」と同時にあったと思われるのが「緊張」だったと思い出した。
 よく覚えているのは、初めてだったか、放送大学の心理臨床研修会に参加し、打ち上げの飲み会にも参加しようとして、希望者を募るとき手を挙げたのに、帰り際になって急に不安と緊張に襲われ、すたこら帰ってしまったこと。惨めな帰り道、講師の方から電話をもらい、緊張が解け、次回から参加できるようになった。
 その後は常連のようになってよく仲間としゃべりあった。お酒も(ほどほど)入って、楽しい時間を過ごせました。
 そもそも、私の通っていたグループカウンセリングの場は、「自由」だった。「先生」からお題目が出されるでもない。一方的な講演などない。誰が何をしても、何を言っても自由。通い始めて1年くらい、私はずっと無言だった(と思う)。言いたいことはずっとあった。心=身体は反応していた。でも、頭の蓋が頑丈だった。
 心=身体の反応を頭が閉じ込める。しかし、閉じ込め切れるものではない。沸騰した鍋が蓋をガタガタ持ち上げるみたいに。
 それはとても苦しいもの。言いたいのに、頭で言語化するのに、言ったら他の人がどう反応するかを考え、考え、わからずに考え、ぐるぐる回り、場はいつの間にか移ろっている。そして今、これを言ったらおかしいだろう、と考え、また飲み込む。自分で自分に、必死に閉じこもる。そんな体験を、しっかりやった。「話せ」と促されることもなかった。「覇気がない」とは言われた。そう言われても、実際そうだから、なんとも言い返せなかった。悔しさはあった。こんなはずじゃないとも感じていた。だから通い続けた。
 突破口は、やはり個人面談を受けたことだけど、研修会の後の飲み会なども、自分の緊張を解くには重要だった。コロナ禍で、飲み会や部活など、人との交流が制限されたことで、緊張もうつも増大しているのかもしれません。
 でも、ただ緊張を解けばいいわけじゃない。緊張は、その人を守っているから。
 すっぽりと、その人を守るために、卵の中に入っているように、中身が成熟し、形になり、十分に機能するまで、緊張という卵は必要だった。
 自然に孵化する力を、どんな生命も持っている。
 でも、卵と人が違うのは、人には文化が不可欠だということ。
 いや、文化というか、人が必要。人薬と言うけれど、人を助けることができるのも人。
「この人だ」という先生や友人や職業人は、頭で判断してそう思うわけじゃない。
 子どもが、理屈ではなく、親を信じ、親を真似る能力を持っているのと同じで。
 親と同じではない自分に目覚めたとき、この自分を生かす他者が、絶対に必要。
 腹の底から呼吸しあえる関係。それが、その人を、その人として育てる。
 うつで実家で療養していたとき、仕事で忙しい父が、時間を作っては私と散歩に出かけてくれました。そのとき、父が、川に面した広場で、深呼吸の大切さを教えてくれました。人と人とのつながり以上に大切なことはないことも。そして、お前は宝だということも。
 自分自身に価値があるかないか、など、難しいことはとりあえずかたわらに置いておいて、まず深呼吸してみる。苦しいときは、浅い呼吸になっているものです。
 そして、気持ちよく呼吸できる場所と人を、確実に増やしていく。キープしていく。
 今の私は、そんな様々な支えの総合体なのだと実感します。
 写真は、この前の木曜日に訪れた、大宮の氷川神社で。様々な菊が奉納されていました。
 花は、みんな種だった。この花を育てた人は、どこにも見えない。でも、確かにいる。
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走って10年、そして。

2021-10-18 20:03:49 | フォトエッセイ
 そういえば、走り始めてから10年経ちました。今日、走っていて急に思い出した。
 2011年の夏、でした。どんな靴はいて、どんな格好で走ったのかも覚えてないけど、自分ががむしゃらになって汗だくになるのが心地よかったことは覚えています。
 あれから10年。いろんな大会にも出て、フルマラソンまで出て、たくさんの完走証や記念品を獲得してきた。
 それで思った。自分が一番大事にしてきたのは、走ることによって、自分にとっての無駄を削ぎ落として、自分の中にある物語をより鮮明につかむことだと。
 だから走ることは、文体を作ることでもありました。
 自分は感受性が強いから、影響を受けやすい。そんな自分が、自分の芯を見つけ、強くなるために必須な運動がランニングでした。
 今日もいつもの多摩湖へ。陽を浴びながら湖畔でキラキラ揺れるススキがきれいだった。きれい、美しい、と自分が感じるものをカメラに収め、触発されて文をつづる。これもまた、自分を育てることだったのかもしれない。
 そして、今、温めている物語。それは確かに自分の中にあって、育てられるのを待っている。
 十分に言葉なしで体験した上で、できる限りの鮮度を保ったまま言葉で描写していく。みなさまにもおいしく届けられるように。
 10年、始めはがむしゃらに、ときに厳しく、いつも楽しく、走ってきた。
 書店員は20年。自分でシャツにアイロンをかけながら、今日はその白いシャツを着て働いてきた自分の背中が見えた。シャツの背中を、熱いアイロンでシワを伸ばしながら、自分が自分の背中をそっと支える感覚。
 通勤時には必ず何かを読み、そして日々書いてきた。
 よく生きてきた。
 よく頑張ってきた。
 物語というのは、そんな自分に与えられたプレゼントなのかもしれない。
 今日、青空の中、走っていてそう思った。
 ありがとう。
 今度こそ、ちゃんと取り出して、届けるから。
 失敗しても、何度でも与えてくれる。
 人生は、自分が考えているよりも、もっと大きくて、広かった。
 生きていて、よかった。
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言葉を手放す必要

2021-10-11 21:03:30 | フォトエッセイ
 人の成長は、新しい言葉の獲得にある。
 ただの新しい言葉ではなく、今の自分にぴったりで、今まで持ってなかった言葉。
 一方で、だからこそなのか、捨てるべき言葉もある。捨てようとしなくとも、自ずと消えていく言葉。
 今の私にぴったりな「古い自分は死んだ」と呼応する夢を三つ見た。
 一つはまさに自分が死んでいるところ。
 喉を下からピストルで撃ち抜き、温かい血が流れ落ちている。私は、机に突っ伏し、意識が遠のいていく。
 なのに、痛みは一切なく、とても心地よいのです。そして、とても温かい気持ちがしていた。
 すぐに、これはゲーテの「若きウェルテルの悩み」の焼き直しだと気づく。今の自分に合ったストックされた映像が引き出されていた。
 村上春樹の「騎士団長殺し」の騎士団長が殺される場面も思い出した。「死」は、そのように描かれ、受容されていたのだと。
 二つ目は、それまで暮らしていた部屋をきれいに片付け、何も無くなった部屋を眺め、出て、扉を閉める場面。これは仙台での一人暮らしの終わりを想起した。それはもう20年前に体験済みのはずなのに、心理的にはここまで続いていたのかもしれない。
 最後は、真新しい木造の帆船に乗り込み、出港する図。このイメージは、石巻で乗船した「サン・ファン・バウティスタ号」の復元船が下敷き。石巻の月浦から、伊達政宗の命を受け、支倉常長率いる隊が、太平洋を渡り、ヨーロッパまで辿り着いた船がサン・ファン・バウティスタ号。
 私の古い小説が終わり、新しい小説が始まった。まさに今はターニングポイントなのかもしれません。人生においても。
 先の読書感想にも書きましたが、小説を完成させる上で、書かないで物語をまず体験する重要性を知りました。この新しい方法は、使い古された言葉よりもまず自分自身に頼ることを意味してもいる。より柔軟に、より近く、より生々しく人の中に生きてある物語に触れ、取り出す方法でもある。よりよく伝えるために、あえて言葉を手放す必要性。
 これだったんだ! という確かな感触が、喜びとともにあります。
 これも、長年、原稿用紙に万年筆で一から書くという方法をがんこに守ってきたからこそ分かった。
 走ることも、花を愛でることも、言葉から離れ、私の中で地に足を着ける体験知と時空間を育んでいた。
 紙に字が載るのは、最後の最後。だからこそ本は愛おしい。
 そこに至るまでの工程が、明らかに一つ増え、分厚くなった。
 分厚く再統合された。
 イメージや言葉ばかりが先行し、小説において、展開が早すぎると指摘されることもたびたびでした。それもこれも、全体を見渡してから書いてないから。すべてが頭にあれば、焦ったり、一つの場面にばかり力を入れることもなくなる。自由に指揮者が踊れるのも、頭にしっかりとスコアが刻まれているからでしかない。
 穴の空いたスニーカーも捨て、新しい真っ白な、今まで買ったことのないメーカーのスニーカーに買い替えました。
 ランニング用のポーチも新モデルに買い替え。プリンターも、新調しようと思っています。
 コスモスも白に引かれた。3つの白い花。数字の3は、社会の象徴でもあります。
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彼岸花 

2021-09-17 18:48:43 | フォトエッセイ
 いつも走る公園に。
 台風前で、満開で、ちょうどよいタイミング。
 くもりではあったけど、なんとか工夫して。
 彼岸花。不思議な花。体に巡る血を連想させる真っ赤な花。
「彼岸」を想像させてくれる特別な花でもあります。
「古い自分は死んだ」
 最近の、私にぴったりな、新しい言葉。
 死んで彼岸に渡ってこそ、その姿がよく見えるということはある。
 毎年、大切にこの花の写真を撮り、向き合っていることは、過去の自分と向き合っているということなのかもしれません。
 みなさま、それぞれに、どんな自分が浮かんでくるのでしょうか?
「今」を、最も感じさせてくれる花でもあるのかもしれません。
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キバナコスモス

2021-09-06 17:34:18 | フォトエッセイ
 ワクチン二度目の接種、本日完了しました。ファイザー製です。
 帰り道、多摩湖自転車道を一駅分(花小金井〜小平)歩きました。
 ひときわ鮮やかだったのが、このキバナコスモス。
 この花は、東北・みやぎ復興マラソンの象徴とも言える花です。
 津波で色彩を失った土地に、地元の高校生たちが発案して新しい道沿いに植える「コスモスロード」計画の花。
 今年も、リアル大会は中止。私にとって、初回から毎年参加している思い入れのあるマラソン大会です。
 東日本大震災があったからこそ、私は走り始め、悔いなく力を出し切るようになった。
 忘れられない、忘れてはならない原点。
 なので今年も、昨年に続いてオンライン復興マラソンに参加します。エントリーしました。
 まずは岩手から。9月18日からの二週間でフルマラソンの距離を走ったらゴール。
 参加賞がすてきです。「サバ飯の素」、「サンマあぶりだしラーメン」、「ドライアップルスティック」。
 サバもサンマもリンゴも、私の大好きなもの。迷った末に、アップルスティックにしました。
 今回からフルマラソンだけでなくハーフと10キロもあります。初心者も大歓迎。
 東北の今を思いながら、まずは岩手のバーチャルコースを走りたいと思います。
 宮城、福島のコースも控えています。制覇、できるかなあ。
 また一から、一歩ずつ、前へ。
 小説もまた、一から、一行ずつ、前へ。
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はいあがるもの

2021-07-29 18:21:04 | フォトエッセイ
 近くの神社の石灯籠に。セミの抜け殻。
 夏はセミ。夏は苦手だけど、セミのおかげで地中暮らしの長さを想像できた。
 よくはいあがって成虫となった。もそもそと暗闇を蠢くことしかできなかったのに。
 大いに鳴いている。これもまた命の声。
 命にとって当たり前のことが見えにくくなっている。
 コンクリート。アスファルト。際限のない私物化に商品化。
 敏感な人ほど、自分をも殻でくるんでしまう。
 守るために必要だから。
 私の殻も固かった。
 殻は、内側からしか破れない。
 はいあがるものは、どんな生き物にも備わっている。
 自分の中にもあるその力に、セミの抜け殻がはっとさせた。
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雲梯にて

2021-07-15 18:10:02 | フォトエッセイ
 雲梯。
 なんて読むかわかりますか?
「うんてい」です。小学校にありましたね。
 英語では「Monkey bars」。猿たちがぶらぶらと遊んでいる様子が目に浮かびます。
 由来は、雲まで届きそうな梯(はしご)の意で、昔の中国の戦争で、城に登るための車輪付きの梯をそう呼んでいたそうです。
 今日まで知りませんでした。古来の兵器が遊び場にあるなんて。
 3月末で小説を書き終えてから、1ヶ月以上に渡って謎の痛みが背中と肩と首にありました。
 今思えば小説提出に伴う重圧だったとしか思えません。
 と同時に、今までにない負荷がかかると、心身の弱いところに反動が現れます。
 走っているので足腰に自信はあるのですが、そういえば上半身はストレッチ以外は何もしていなかった。
 そもそも、筋トレは嫌いなのです。何度か試したのですが続きません。
 その原因はつまらないから。
 走ればいろんな景色と出会えて楽しい。それに比べてしまうと意欲は湧きません。
 が、気づけばそこに雲梯があった。
 家から歩いて1分の小さな小さな公園に。
 走り終えた後、おもむろに近づいた。
 ぶら下がってみる。
 そして、体を持ち上げようと力を入れた。
 上がんねえ!
 まじかよ! びくともせず、ただぷるぷる震えている。
 期待と現実は、往々にして食い違っているものです。
 軽くため息を吐いて雲梯に背を向けると、そこにベンチが。
 ベンチは座るためだけにあったのではなかった。
 両手を板に乗せ、体を斜めにして支える。
 自ずと腕立て伏せ開始。
 何日か経って、走り終えてまた雲梯の下に立つ。
 ぶら下がり、体を持ち上げる。
 上がった!
 小さな感動。
 懸垂で体が少しずつ、確かに上がるようになった。
 今日は顎まで、1回できた。
 蛙飛びのようなことも始めた。
 スクワットの要領で、しゃがみこんでから一気にジャンプ!
 10回もやると息が上がります。
 高みにあるものをつかみたい。頭角を現したい。
 心の身体表現なのでしょうか。
 走ってきてもそうだった。それまでにない領域に入るたび、新しい痛みが伴った。
 アスリートで言えば怪我。怪我は、自分の限界を教えてくれる。だから現状打破のヒントが詰まっている。
 腕立て伏せと懸垂と蛙ジャンプ、続けよう。
 ランと一緒なら続けられる。
 新しい習慣。新しい人生。
 季節の変わり目は行ったり来たりで激しい揺り戻しもある。
 でも、天気も人も、着実にかわっていきます。
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いつも走っているところ

2021-07-12 17:41:14 | フォトエッセイ
 よく走っている多摩湖に隣接した狭山公園の林。
 ここはあまりにも空気がきれいで、いつも深呼吸しながら走り抜けるところなのですが、今日はふと立ち止まり、振り返って写真を撮った。
 深い緑が作り出すおいしい空気。差し込む木漏れ日。夏を感じさせる日差しを遮る木々の作る木陰のありがたさ。
 写真と文だけでは十分に伝えられない。でも、僕は、よいと感じたものを記録し、届けたい。
 大学を鬱とともに出たようなものです。だから私のこの20年間は、鬱に抗し、いかに自分を生かすことができるか、に注力していた。
 いつの間にか鬱のことなど忘れていたけど、やっぱりあの強烈な体験は身にしみて忘れることはない。
 あれがあればこその今の健康。自分を生かすために学んだことはたくさんある。
 その一つ一つを、小説が主になりますが、あらゆる文章の下味、隠し味、あるいはだしとして使っていく。
「鬱」そのものをテーマした小説もありだと思う。けど、なんかそれはつまらないと思った。
 自分が熟知しているものを書くだけでは創作にならない。
 知っているものを読んでもおもしろくない。知らないからこそ知りたいと欲する。その欲がページをめくらせる。
「いつも走っているところ」も、地理的には同じ場所だけど、温度も湿度も木々の成長の度合いも光の加減も地球の位置も、もちろん自分の状態も違う。
「走る」という同じ行為の中に、違うところを感じ取り、今の自分を確かめている。
 それは書くことも似ている。
 自分を客観視できれば鬱にはならない。自分を放っておくことができれば不眠にはならない。
 鬱は意味の病でもあります。
 人にはそれぞれ大切な意味がある。そう言われれば言われるほど、自分には生きる意味がないと思われてくる。
 だから意味から脱出できる装置や仕組みが癒しにつながります。
 私が無意味と親しくなれたのはランニングのおかげ。走っているときは、真っ白でいられる。ランニングは、肺も頭もきれいにしてくれる。それだけでなくて、細かな体の中の連結を強化してくれる。それまで通っていなかった脳内の神経が一本通り、開拓されていなかった肉体に毛細血管が走る。
 だから走ることも私にとって創作。
 走り続けることで得られる常に新しい私の心身を資本として文章は立ち上がるのだから。
 ああ、鬱々とした気分をぶっ飛ばす小説を書きたい。
 やっぱりそこに辿り着きます。
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苔むす木

2021-07-08 16:40:59 | フォトエッセイ
 雨の日が続いています。
 伊豆の土石流。人災であればこそ、落とさないでよかった命のことを思うと胸が痛みます。
 無意識に痛めつけてきた自然の逆襲。
 新型コロナウィルスは次々と変異し、その生命力の強さを誇示しているかのようです。
 外出や人流や外食も止められる。東京で4度目の緊急事態宣言。
 もうずっと緊急事態なわけです。
 巣ごもりが続けば、鬱病の危険も上がる。実際、増えていると耳にします。
 鬱から復活した者として、そう聞けばうずうずしてしまう。
 私に何かできることがあるのではないか? と。
 先月は合計100キロ走りました。
 100キロ目指したわけでもなく、ただ日常のリズムで、がんばったわけでもなく、ふつうに。
 走り出す前には考えられなかったこと。自分がランナーになっているなんて。
 でも、その芽は、自分の中に確かにあった。
 目覚めるのがいつになるのか。それだけのこと。
 写真の苔むす木は、近くの神社の脇に立っているけやき。
 先日、歯医者の帰り、ぶらぶら歩いていて苔の美しさにハッとした。
 こいつら、梅雨を楽しんでいるな、という感じ。
 今まで、苔に目を奪われたことはなかった。それほどまでに生き生きとしていた。
 なかなか写真では、苔たちの喜びまでとらえることは難しいのですが。
 生き物にとって、何が得意なのか、何が苦手なのか、ある程度遺伝子で決められているのかもしれません。
 そうであっても、生物には死があり、死があるから新しい命を生み続ける。
 そこに変異が生じる。よりよく環境に適していく可能性を宿して。
 人には学ぶという能力も備わっている。
 私の喜びは、こうして書くこと。改めて実感しました。
 書くことが生きていること。
 ランニングも写真も、野球やプロレスの観戦も、音楽や絵の鑑賞もとても大事でありがたく、欠かせないものです。
 が、最も長く関わってきたもの、それらすべてを統合するものでありかつ基本として文がありました。
 土台となる日記があり、無意識の発露としての詩が生まれ、本とつながった証としての感想文、写真と連動したブログ、そして最終形態としての小説が生じた。
 神社でお参りしてから走り、帰って一休みしてから書くという私のリズム。これを作るのに何年かかったことか。
 苔むす木は、いったい何歳なのか?
 神社に頭を下げているのではない。その大きな自然に頭を下げていた。
 稲穂が成熟するほどにこうべを垂れるように。
 鬱病とは何なのか?
 今こそ真正面から向き合い、書くべきときが来たのかもしれません。
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