泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

言葉を手放す必要

2021-10-11 21:03:30 | フォトエッセイ
 人の成長は、新しい言葉の獲得にある。
 ただの新しい言葉ではなく、今の自分にぴったりで、今まで持ってなかった言葉。
 一方で、だからこそなのか、捨てるべき言葉もある。捨てようとしなくとも、自ずと消えていく言葉。
 今の私にぴったりな「古い自分は死んだ」と呼応する夢を三つ見た。
 一つはまさに自分が死んでいるところ。
 喉を下からピストルで撃ち抜き、温かい血が流れ落ちている。私は、机に突っ伏し、意識が遠のいていく。
 なのに、痛みは一切なく、とても心地よいのです。そして、とても温かい気持ちがしていた。
 すぐに、これはゲーテの「若きウェルテルの悩み」の焼き直しだと気づく。今の自分に合ったストックされた映像が引き出されていた。
 村上春樹の「騎士団長殺し」の騎士団長が殺される場面も思い出した。「死」は、そのように描かれ、受容されていたのだと。
 二つ目は、それまで暮らしていた部屋をきれいに片付け、何も無くなった部屋を眺め、出て、扉を閉める場面。これは仙台での一人暮らしの終わりを想起した。それはもう20年前に体験済みのはずなのに、心理的にはここまで続いていたのかもしれない。
 最後は、真新しい木造の帆船に乗り込み、出港する図。このイメージは、石巻で乗船した「サン・ファン・バウティスタ号」の復元船が下敷き。石巻の月浦から、伊達政宗の命を受け、支倉常長率いる隊が、太平洋を渡り、ヨーロッパまで辿り着いた船がサン・ファン・バウティスタ号。
 私の古い小説が終わり、新しい小説が始まった。まさに今はターニングポイントなのかもしれません。人生においても。
 先の読書感想にも書きましたが、小説を完成させる上で、書かないで物語をまず体験する重要性を知りました。この新しい方法は、使い古された言葉よりもまず自分自身に頼ることを意味してもいる。より柔軟に、より近く、より生々しく人の中に生きてある物語に触れ、取り出す方法でもある。よりよく伝えるために、あえて言葉を手放す必要性。
 これだったんだ! という確かな感触が、喜びとともにあります。
 これも、長年、原稿用紙に万年筆で一から書くという方法をがんこに守ってきたからこそ分かった。
 走ることも、花を愛でることも、言葉から離れ、私の中で地に足を着ける体験知と時空間を育んでいた。
 紙に字が載るのは、最後の最後。だからこそ本は愛おしい。
 そこに至るまでの工程が、明らかに一つ増え、分厚くなった。
 分厚く再統合された。
 イメージや言葉ばかりが先行し、小説において、展開が早すぎると指摘されることもたびたびでした。それもこれも、全体を見渡してから書いてないから。すべてが頭にあれば、焦ったり、一つの場面にばかり力を入れることもなくなる。自由に指揮者が踊れるのも、頭にしっかりとスコアが刻まれているからでしかない。
 穴の空いたスニーカーも捨て、新しい真っ白な、今まで買ったことのないメーカーのスニーカーに買い替えました。
 ランニング用のポーチも新モデルに買い替え。プリンターも、新調しようと思っています。
 コスモスも白に引かれた。3つの白い花。数字の3は、社会の象徴でもあります。

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