泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

祈るということ

2021-12-09 19:05:54 | フォトエッセイ
 近くの神社で。お参りして、走る前。
「祈ること」が、明らかに増えた一年でした。いや、まだ今年も三週間ありますが。
「すばる文学賞」の予選に落ちてからは、今まで「小銭なし」だったのを「小銭あり」にグレードアップ。
 手を叩き、頭を下げることも様になってきた。
 どうしてだろう?
 祈らずにはいられない、ということもあります。
 小説家になることに、何の保障もない。デメリットばかりが頭を占めることもある。
 手を叩き、邪念を払い、手を合わせて、自分の中心を意識する。
 手を合わせると、過去と未来が合わさったように感じ、今に集中できる。
 合わさる手は、自分の本来持っている「あたたかさ」を感じさせてもくれる。
 神社のある場所は、たいてい自然が豊かで、大きな木がある。空気もきれい。
 大自然が尊ばれているのがわかるから、自分の内なる自然も喜ぶ。背筋が伸びる。
 子供の頃は、この神社の回りでよく遊んでいました。
 湧いてくる言葉は、自分の中心からの願い。目を閉じて、心に耳を傾ける。
 私自身を最大限に生かすために必要な調整をしている、と言えるのかもしれません。
 今の自分を確認もしている。自分とは何者か? は、古代から大きな謎だったのではないでしょうか。
 だからこそ、「鏡」は宝となり、神社の奥に鎮座している。
 三月の末、郵便局に小説の原稿を届けに行ったことを思い出した。あれから八ヶ月。あの時も、帰り道、祈った。
 何度でも何度でも、祈って、書く。自分の中心にあるものこそが、文章の核となるから。
 今日、感じたのは逆のこと。
 希望する未来へ自分を導くことではなく、忌まわしい過去をどう乗り越えていけるのかということ。
 過去は変えられない。どんなに悔やんで自分を責めても、失ったもの(人)は戻らない。恥も消えない。憎しみは、むしろ増大するのかもしれない。
 それらは、波のように何度も何度も押し寄せ、その人を苦しませる。その人を救う言葉も方法もない。
 じっと耐え続ける中で、波を波と感じなくなる時が来る。波が来ても、もう大丈夫な自分になっている時が来る。
 それまで、隣に誰かいてくれたら、どんなに助かるだろう。
「冷たいね」「ああ、冷たいね」
「痛いね」「ああ、痛いね」
 共有できる人がいることで、その人の健康度と耐久力は、格段に上がる。
 隣にいる人は、少しだけ波の当たる範囲が少ないかもしれない。
 その隣にいる人は、もう波が当たらないところにいるかもしれない。
 その隣にいる人は、浜辺から家に帰ることができるかもしれない。
 家にいる人は、誰かのためにご飯を作ることができるかもしれない。
 それが人とのつながり。希望が決してなくならない理由。
 それを書きたいのだ、と思う。
 紅葉した葉っぱたちを見て、今年も一年おつかれさま、と思う。
 来年もまた、元気な若葉を見せてくれるのでしょう。
 私もまた。小説という果実を実らせよう。
 たくさんの葉っぱは、一冊ずつの読書。
 ランニングで出会う、一枚ずつの写真。
 もちろん、それだけじゃない。
 毎日、あったかいお風呂に入れることも、おいしくご飯が食べられることも。
 ぐっすり安心して眠れることも、書店で元気に働くことも。
 家族、友人、知人、仲間、お客さんとも交わす会話の一つ一つ。
 一つになってその人の強度や密度や正確性を上げる効果も、祈ることにはあるのかもしれません。
 

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