朝陽(あさひ)~三重・河芸の地域情報~

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河芸・歴史のあらまし~鎌倉・室町・安土・桃山時代~

2009-03-24 08:49:02 | 河芸の歴史

(写真は、現在の浄光寺(北黒田)さんです。)

この時代の当地では、上野御厨(みくりや)、北黒田御厨、別保御厨、林御厨などほとんどが伊勢神宮領でしたが、鎌倉幕府が成立すると当地にも鎌倉武士が進出し神宮との間で度々いざこざが起こりました。

幕府の滅亡後は朝廷によって神宮領は安堵されましたが、長禄年間(1457~1460)には在地の領主と神宮領との間に紛争が頻発し、神宮の経済的基盤は大きく揺さぶられました。

また仏教の布教も活発で、北黒田・浄光寺、東千里・本福寺が創建されました。

やがて戦国時代になり織田信長が伊勢に侵攻、当地方を平定し、永禄11年(1568)上野城に弟・信包を配しましたが、天正8年(1580)信包は津城に移り、上野城には分部光嘉が入城して、上野の集落を城下町として整備しました。

(まちの文化財から)


上野の地が歴史上に姿を現したのは、永禄12(1569)年織田信長の弟である信包(のぶかね)が津城の仮城としてここに居城を定め、元亀元(1570)年上野城を築き入城したときからであると考えられています。

天正8(1580)年、信包は津城が完成するとその城主となり、上野城は津の出城として、家臣分部光嘉(みつよし)に城代として上がらせました。天正10(1582)年の夏、本能寺の変で豊臣秀吉が天下を取ってからは、信包と光嘉は豊臣方に仕えましたが、朝鮮出兵の折、秀吉の忌諱(きい)に触れ、信包は領地を没収され江州(現在の滋賀県)に移封、代わって富田知信が津城主、光嘉が上野城主となります。

光嘉は秀吉から知行壱万石を与えられ、このとき初めて独立した上野城となりました。

(河芸町制施行50周年記念誌から)


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