分部家は上野城にあること50年、第2代・光信が元和5年(16199には近江国・大溝に移封(いほう)され、城は廃され、当地は紀州藩領となりました。
徳川幕府は国内統治を促進するため特に道路整備に意を注ぎ、各地の街道を改修し、伊勢街道を整え、上野には宿場を設けたので、上野は城下町から宿場町として繁栄しました。
一方、海岸平野部は低湿地で住む人も少数でしたが次第に陸化が進み、多くの人が定着し豊津地区は漁業基地として発展しました。
(まちの文化財から)
江戸時代に入ると、関東方面への人々の往来がはげしくなり、伊勢湾に沿って南北に走る主要街道であった伊勢街道は、諸大名の伊勢神宮参拝のための通行などに利用されていたこともあってますます繁栄を極めたといいます。
特に上野宿は桑名や山田への道のりが十里ほどの位置にあったため、旅人の宿泊が多く宿場町として発展していきました。このような諸大名や旅人たちの宿泊により、本陣ができ、また荷物や旅人、文書などを運ぶ問屋や公文書を運搬する御七里ができ、およそ2キロメートルにわたる上野の宿場は日夜多くの人々でにぎわったといいます。
現在ではひっそりとたたずむ伊勢街道筋の町並みを歩いていると、旅をする人々でにぎわっていた当時の情景が思い浮かぶ情緒が残っています。
(河芸町制施行50周年記念誌から)
徳川幕府は国内統治を促進するため特に道路整備に意を注ぎ、各地の街道を改修し、伊勢街道を整え、上野には宿場を設けたので、上野は城下町から宿場町として繁栄しました。
一方、海岸平野部は低湿地で住む人も少数でしたが次第に陸化が進み、多くの人が定着し豊津地区は漁業基地として発展しました。
(まちの文化財から)
江戸時代に入ると、関東方面への人々の往来がはげしくなり、伊勢湾に沿って南北に走る主要街道であった伊勢街道は、諸大名の伊勢神宮参拝のための通行などに利用されていたこともあってますます繁栄を極めたといいます。
特に上野宿は桑名や山田への道のりが十里ほどの位置にあったため、旅人の宿泊が多く宿場町として発展していきました。このような諸大名や旅人たちの宿泊により、本陣ができ、また荷物や旅人、文書などを運ぶ問屋や公文書を運搬する御七里ができ、およそ2キロメートルにわたる上野の宿場は日夜多くの人々でにぎわったといいます。
現在ではひっそりとたたずむ伊勢街道筋の町並みを歩いていると、旅をする人々でにぎわっていた当時の情景が思い浮かぶ情緒が残っています。
(河芸町制施行50周年記念誌から)