(写真手前のオレンジ色の屋根の建物が三行公民館です。その奥の小高い丘が城跡です。)
三行の公民館前の小路を北に登って行くと左手に小高い丘があります。
俗称を城屋敷といい城跡で標柱が建ててあります。
西端の一段高いところにわずかばかり平地があり、ここが本丸で天主台があった場所です。
周囲の平地に侍屋敷があって井戸の跡もあったようです。
城主は工藤祐経(鎌倉時代、曽我兄弟に討たれた武士)の子孫で、元亀年間以前(1570年ごろ)は織田信長の配下であった長野親光-伊藤光種-伊藤助重が城主であったが、元亀3年(1573)当時城主であった伊藤重坊は名を茂坊と改め、領地と城を上野城主分部光嘉に譲り、村の神社の神職となりました。
なお、三行は江戸時代以前は、御幸と書いたので「御幸城」と名付けられています。
(まちの文化財から)