古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

ヤマトタケル論―ヤマトタケルは木霊してヤマトタケ…と聞こえる件― 其の二

2020年08月31日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
(注)
(注1)津田1963.に、「クマソタケルがヤマトタケルの名を命に上つたといふのも、また説話であつて、ヤマトタケルといふ語はクマソタケル、また古事記の此の物語のすぐ後に出てゐるイヅモタケルと、同様ないひ表はし方である。即ちクマソの勇者イヅモの勇者に対してヤマトの勇者といふ意義である。それがヤマトの物語作者によつて案出せられたものであることはいふまでもなかろう……。」(141頁、漢字の旧字体は改めた。)、吉井1977.に、「ヤマトタケルの名はヤマトの人々によって呼ばれた名で、ヤマトの勢威の拡大によって、そのヤマトの意味するところも拡大されていったものと考えてよい。……ヤマトタケル物語が、小碓命、日本童男、ヤマトタケルのそれぞれを主人公とする話を、一つにつづけて作られたものであることを示しているのである。」(27~28頁)とある。これら教科書ガイド的な解説が何を語らんとしているのか当惑させられる。例えば、グラフが描いてあって、そこから何が読み取れるかという問いは、甚だしい戸惑いを起させる。見ての通りにするためにグラフ化している。一目瞭然となっていないのであれば、それは“グラフ化”の失敗例である。記紀の物語はテキストにしてグラフである。肝心なことは、グラフの目盛りを見つけて「読む」ことである。
(注2)ヤマトタケと訓んだ初見は、日本紀竟宴和歌35、藤原有実(848~914)の「得日本武尊」歌、初句の「也末度多介(やまとたけ)」である。岡部1969.に、「「タケの命」といふのも要するにr音の脱落作用によつて平安朝以後(竟宴歌)に訓まれたもの、もしくは字数をそろへるために訓まれたものとな」(34頁)るとする。
北野本日本書紀(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1142344(19/39)をトリミング)
(注3)青木2015.は中村2000.に同調している。「……紀の……「賤(いや)しき賊(やつこ)が陋(いや)しき口(くち)」で「尊号(たふときな)」を奉(たてまつ)ると言い、「日本武皇子(やまとたけるのみこ)」という名は「川上梟帥(かはかみたける)」が奉(たてまつ)ったとある。蛮族(ばんぞく)・異族(いぞく)の称である「梟帥(たける)」は、「武(たける)」と同質とはいいにくい。倭地方ではなく「日本」の「武」は、タケルよりタケと読む説(中村啓信『古事記の本性』平12)がふさわしいであろう。やはり……日本を代表する皇族将軍のイメージがある。」(395頁)とある。中村2000.は、印象論を避けてヤマトタケと訓むべきと考えていたが、印象論に戻ってヤマトタケがふさわしいとしている。
(注4)文字を借りているだけで言葉はヤマトコトバ、後の日本語である。木の種類など、同じ漢字なのに表す種が違うことが多い。文化財の例として、三彩についてあげてみる。中国の唐三彩は俑として作られているが、奈良三彩に器財となっている。製造法を含め、別のものに変じている。
左:三彩武人俑(中国、唐時代、7~8世紀、東博展示品)、右:三彩瓦(史跡唐招提寺旧境内出土、奈良時代、8世紀、東京新聞 「TOKYO Web」http://www.tokyo-np.co.jp/article/metropolitan/list/201706/CK2017062002000181.html)
(注5)上田1973.に、記紀の話の共通点として、熊襲のことむけが、女装する小碓命によって、新築を祝う宴において行われ、勇武をたたえて日本武尊(倭建命)と名を奉られていることの3点によって、儀礼的な雰囲気、呪的な祭式、寿詞的な意味合いが述べられているとする。あまりにもうがった考え方である。話を話として聞いた時、単に女装して潜入し、暗殺したにすぎない。通販のない時代、男の子が女の服を盗んだらいろいろ疑惑を持たれるが、叔母さんから授かったなら何の問題にもならない。三重に警備しているところへ入るには、新築祝いのパーティでもなければ無理である。名前もそれまでの呼び名と同等で、人格に変化はない。一貫して勇んでいる。
 また、吉井巌、前掲書にも、新嘗祭にかかわる新室ほぎの祝宴の場で、その場面のもつ観念を汲みあげながら物語が成立し、伝承されてきたとする。しかし、新築祝いのパーティに、呪性や儀礼性を見出すことは難しい。熊曽建(川上梟帥)が新嘗祭のために忌み籠りをしているとは読み取れない。紀の時期も十二月に設定されており、寒いから宴会は新室のなかで行われたとして妥当である。
 また、西郷2006.に、「ヲグナが……年齢階層にかかわる語であるならば、これはヲグナからオトナへと生れ変ったことになろう。オホクニヌシが大国主神となる意味……を参照されたい。ヤマトタケルという英雄の誕生にも成年式の影が落ちている。ただこの新たな名は敵たるクマソが献じたのである点、かなり変形されていることも否めない。」(51~52頁)とある。通過儀礼に当て嵌まらない話を当て嵌めようとして、わからなくなってしまっている。
(注6)『日本産育習俗資料集成』に、「出産に関する俗信・禁忌・呪法」の例があげられている。ある地方の話として大系本の孫引き解説に当たるようなものが載るものの、景行紀の話から民俗的習慣となったものかもしれず、臼と双子との関係は習俗を先にして解かれるものとは言えそうにない。
(注7)中村2000.の指摘に、「梟帥」が「咆え、叫び、馬のように嘶き、獅子のように大怒する」とあるが、何のどんな鳴き声なのか決められていない。雰囲気的にそのようだ、ぐらいのことで話が伝わるものではない。どんな声で建(たけ)く誥(たけ)ぶようにしていたのか、具体的に効果音を含めて喋るから話は伝わる。そもそも獅子(lion)の鳴き声を(漢民族も含めて)聞き知っていたか、不明である。
(注8)料理は実験である。その都度うまくいったりいかなかったりの試行錯誤である。お粥風に煮て食べようとして失敗してうまい具合に一度でも炊きあがれば、これはいい感じであるとしてそうしようと努めたと思う。その段階に至るのに、弥生時代の数百年を必要としたとは到底考えられない。また、考古学に、土器製の甑が渡来人によって伝えられるまで確実ではないから、蒸す調理法はなかったともされることがあるが、タロイモ文化圏にあったので葉っぱにくるんで蒸すことをしたことは確かである。木枠や曲物の蒸し器が出土していないのは、朽ちたか転用されたか、また、土器に簀子を使い二段底にして、あるいはチマキにして蒸すことも可能である。原理はアルマイトの蒸し器に同じである。調理法に“決まり”があって間違えたら死罪などということはない。
 ただし、今、筆者は、「大碓」を酒造と関係すると考えている。酒造りには、米をよく舂き、また蒸すことが求められる。どのような蒸し器であったか想像できない。あるいは、この大碓・小碓の話は、古墳時代になって甑が伝来して来てから創案されたものであろうか。なお、言葉として、ご飯を「炊(た)く(焚く)」という言い方は、中世後期頃から用いられるようになったとされている。今日でも言葉遣いに地域差があるように感じられる。おでんは煮るものか、炊くものか、意見は割れるであろう。古墳時代、ご飯を煮て食べたか、蒸して食べたかという問題設定は、語学的には不毛の議論に陥る。今日のIHジャー炊飯器の行うような、炊き上げるというすばらしい方法について、あるいは女房詞に何か手掛かりがあるかもしれないが、言葉の上で適合語を持たなかった。そして、米という主食の加熱調理法についてなら、「炊(かし)く」とも言われている。新撰字鏡に、

 ◇(火偏に亠の下に䀠、さらに下に安?) 於緑反、五穀を炊く也。可志久(かしく)、又宇牟須(うむす)。
 鏊◆(金偏に熬) 二同、五到反、熬也、熟飯也、熬字同、奈戸(なべ)、又加志久(かしく)。

とある。m音始まりを嫌がってウムスと言っているが、「蒸す」である。炊き上げることも、蒸し上げることも、同じ言葉にまとめている。火を止めてから放置して蒸らす作業工程を含めて、過程は無視して一語にまとめてしまった。調理の方法が問題なのではなく、結果的においしく食べられればオーライだからであろう。当たり前のことほど念頭に上らず、記録する意欲が起こらないものである。
(注9)ヲグナという語については、いくつか論考がある。木村2009.に次のようにある。

 景行紀の表記「日本童男」から見ると、いかにもヤマト言葉らしいヤマトヲグナとは、男・女の呼称に地名を被せる他の古例、

 やつめさす 出雲タケルが佩(は)ける太刀(景行記歌謡)
 つぎねふ 山城(やましろ)の 木鍬(こくは)持ち 打ちし大根(おほね)(仁徳記紀歌謡)
 御諸(みもろ)の いつ橿(かし)が本 忌々(ゆゆ)しきかも 橿原(かしはら)ヲトメ(雄略記歌謡)
 あり衣(きぬ)の 三重のコが 捧(ささ)がせる 瑞玉盞(みづたまうき)に(同)

等から類推しても、どこどこの地の男・女といった部外かからの呼称に発した可能性が高い。その場合のヤマトとは、日本国家をいう以前の、崇神陵・景行陵・箸墓なども残る奈良盆地南東部の山沿い地域のヤマトのことで、ヤマトヲグナとは、当の小碓尊(をうすのみこと)の母方の在所である吉備・播磨あたりの人々からの、たとえば「豪家の若様」といった風な呼称だったと考えられないだろうか。……そうでなければ、なぜヲグナがヲトコに排除れた語彙システムが出来たかの辻褄が合わないだろう。(19~20頁)

 また、山口2011.には次のようにある。

 ……ヲグナ(童男)について、一つ考えられるのは、ヲを「小」、クは「男性」の意のキの転、ナは愛称とする解釈である。これだと、ヲミナと一対になって、具合がよい(『新明解古語辞典・補注版』「をとこ」の項を参照)。オキナはあるのに、ヲキナがないからである。しかし、この解釈だと、キがどうしてクに転ずるかの説明がつきにくい。
 もう一つ考えられるのは、ヲは「男」、クは「子」の意のコと同源、ナは愛称とする解釈である。ウ列音とオ列音とが交替した例はかなり多い(いわゆる上代特殊仮名遣いによる甲乙の別を言えば、このオ列音はオ列甲類音である)。
  アラ(足座・胡床)―アラ/ガ(栂)―ガ/イノカミ(石上)―イノカミ/ク(着)―ク/アジ(主) ―アジ/ナタケ(萎竹)―ナタケ
などがそれである。しかも、ウ列音がもとで、後にオ列音に転じたと考えられるものが多い。したがって、コ(子)は古くクと言ったのではあるまいかと思われる。ヲグナのクは、「子」の意であったと考えてもおかしくない。
 ただし、それならば、「少女」を意味するメグナという語がありそうなものであるが、それは見つからない。もっとも、ヲグナも上代に一例だけ発見される語であるから、メグナもかつて存在し、文献に出て来ないだけのことかも知れない。筆者は、第一の解釈よりも、この第二の解釈の方が無理が少ないと思う。(68~69頁)

 新明解古語辞典・補注版(第二版)の西宮一民による補注に、「男性はK(g)の音、女性はMの音をもつ表現と、ヲとメとの表現との二系列があったわけである。」(1104頁)とする。
 筆者は、1例しか確かには見られないヲグナという語から、男女の呼称の語彙システムまでも論ずる気力は湧かない。むしろ、ヲクナではなくヲグナと濁音である点に興味をおぼえる。上に、ヲウス(小碓)とヲグナ(童男)とは、言葉として洒落に同じことを意味すると考えた。ヲク(招)+ナ(菜)の意なら清音でいい。名を招く場合も同じである。ただし、話の実際にあるのは、倭男具那(日本童男)(やまとをぐな)という主人公の姿である。美少年の両性具有性は、今日のアイドルにも受け継がれている。彼が女装したら、熊曽建(川上梟帥)はロリ娘だと思っている。紀には「戯弄」とまで書いてある。「戯弄」すれば「成り成りて成り余れる処」(記上)も知れたのではないかと思われる。記紀には、「其嬢子」、「其童女」とある。「其」という指示詞で、今話しているところの、いわゆる、の意を伝えている。すると、あるいは、熊曽建や川上梟帥は、同性愛と知りつつ呼び込んだのかもしれない。性交のことはクナグといった。名義抄に「婚 トツギ、ツルブ、メマク、クナク、シウト、マク、コヒト」とあり、紀の伊奘諾・伊奘冉の話に「交(とつぎ)」の道を教える鳥として、ニハクナブリ(鶺鴒)があげられている。クナの音を伴う語には、カタクナ(頑)、クナタブルといった語がある。

 噫(あ)、入鹿、甚だ愚痴(かたくな)にして専(たくめ)に暴挙(あしきわざ)を行ふ。(皇極紀二年十一月)
 悪(きた)なく逆(さかしま)なる奴(やつこ)久奈田夫礼(くなたぶれ)まどひ、奈良麻呂、古麻呂等い、逆なる党(ともがら)をいざなひ、率ゐて……(天平宝字元年七月、19詔)
 事別きて宣(のりたまは)く、久奈多夫礼らに詿誤(あざむか)えたる百姓(たみども)は京土(みさとのうち)履(ふ)む事穢(きたな)み……(同上)

 愚かで狂った性交渉は、アナルセックスである。輪にかけて倒錯しているのが同性愛のそれである。そのような下卑た悪評価の事柄について、言葉でつとめて表そうとするとき、濁音が用いられることが知られる。例えば、小さいの古語、チヒサシが濁音化して、悪評的差別的な揶揄にチビと呼ばれている。まともな性交ではないから、クナブの語幹がグナへと変化し、ヤマトヲグナと言っている。もともとヲウス(小碓)とされていたのも、ウス(碓・臼)が女性器の凹みの謂いであるから、ヲ(緒・男・雄)であるはずはなく、自己矛盾した形容であった。名に負う存在として、男同士のホモセクシャルの女役として成立させられていた。以上のことから、後代にヲグ(招)と変化したとされるように、濁音をもって強調されていたと推測する。
(注10)猪股2016.に、「「室」は「家」のあたり(「辺」)に、「家」と呼ばれる建築物とは別に「楽」の空間として新たに作られている。「家」は厳重に警護していて容易に入ることはできないが、「室」は違う。「楽」の日には「女人」どもが「囲」みの中へ、外から「入」って「坐」すことができるのである。「室」はまた、「西方有熊曽建二人。是、不伏無礼人等」(景行天皇)とされた西の国人、クマソタケルたちが作った宴のための建築物である。」(249頁)とある。新築祝いをするのに新築の建物を見せないでどうする。記には、「其のの内に入り坐しき」と書いてある。「辺」はヘ(甲類)と訓んで「三重(みへ、ヘは甲類)」に「軍」が「団」ることを述べようとしている。真福寺本古事記に、「團」(団)とあって、「圍」(囲)とはない。「團」が正しいと考えられる。三重に軍勢がマロガルことをしていたら、賊の拠点は「室」と称するのにふさわしい丸いものとわかる。矢の的のデザインのように三重丸になっているから、「室」はムロなのだが、ヤ(矢、屋)に当たるところなのである。
 警備はなお厳重であったろうが、「楽」の日に、気に入られて室に入れられている。「見-咸其嬢子」(記)、「感其童女之容姿」(紀)とある。「見咸」や「感」は、メデルと訓んでいる。「感」にはカマクという訓もあるが、その場合、美少女か美少年かに興奮し、思慮を欠いてしまったという意になる。メデルという賞美の意では鑑賞する眼が備わっている。カマクとなると理性を失った状態に陥っていることを伝える。鼻息が荒い川上に棲息するクマのような動物が「感(かま)」けると、宴会のどんちゃん騒ぎのように「囂(かま)」しい騒ぎに陥る。そのとき、クマは相手をイヌだと見くびっていた。その宴が終わろうと静かになったところで、狼男へと変身した。そう考えるとわかりやすい。ただし、「見咸」や「感」の古訓はメデルばかりなので、そのままとしたい。
(注11)拙稿「犬の遠吠え」参照。
(注12)ほかに甘えた声でキュンやエンと聞こえる声もある。イヌという語の語源について、甘え声のエヌから来ている可能性も指摘されている。
(注13)「山幸彦」(神代紀第十段一書第三)という名は、山の幸にちなむ男の呼称であるから、またぎのような狩猟民を表すようである。「山人(やまびと)」(万4293・4294)というのは仙人に当たり、「杣人(そまひと)」(万1355)というのは木樵りを指すようである。
(注14)きわめて閉鎖的な社会(これを近代に「社会」と呼べるのかどうかは不明であり、E・ゴフマンのいう「全制的社会(total institutions)」とでも呼ぶのかも知れないが)においては、役所の長や学者、師匠、医師、弁護士などを敬う傾向が見られる。称して「先生」である。尤もらしさからいって現代版の枕詞である。接客業での呼称はお愛想である。ニュースに、「専門家は……」というコメントが差し挟まれるがかなり怪しい。目新しい視点、アイデアがあるのなら、商品化や情報戦略にして売ることができ、起業して巨万の富を手にしているであろう。感想と同程度の評論が行われてニュースが成り立つ構造は、枕詞的叙述の呪縛からいまだに抜け出せていないあり様なのかもしれない。自覚しながらそうしていた上代人と異なり、無自覚なうちに「先生」と呼ばれ、専門分野以外までも尊ばれるかのように錯覚して全能感を抱いて単なるコメンテーターに成り下がる人がいる。両者の違いは、後者が、文字どおり文字の上に成り立つ存在だからであろう。逆にいえば、物事の道理を弁えた上代の人々にはあり得なかった。それをミコトという語はいちいち枕詞を冠することで伝えてくれている。
(注15)記に、「聴(ゆる)す」とありながら許さずに殺しているのは、言葉と事柄が完全一致しなければならない言霊信仰にあっては不都合であると考えられもするが、その矛盾を回避してくれるのが、奉られたヤマトタケルノミコという名を部分的に採用して部分的に排除していることと大いに関係すると見られる。「暫(しまら)く」、「且(しばし)」だけ延命しているから「聴す」ことになっているとの強弁である。
(注16)キノコのことをいう「茸(菌)(たけ)」という語のケの甲乙については、仮名書きの例がなく定まっていない。

 菌茸 崔禹食経に云はく、菌茸〈而容反、上は渠殞反、上声之重、爾雅注に菌に木菌、土菌有り、皆多介(たけ)と云ふ〉は、之れを食せば温むるも小毒有り、状(さま)人の笠を著る者の如き也といふ。(和名抄)
 䓴 而元反、上、弥ゝ太介(みみたけ)(新撰字鏡・享和本)
 ▼(草冠に困) 因音、馬之屎茸(新撰字鏡)
 故(このゆゑ)に、京(みやこ)に遠からずと雖も、本(もと)より朝来(まうく)ること希(まれ)なり。然れども此より後、屢(しばしば)参赴(まうき)て、土毛(くにつもの)を献る。其の土毛は、栗・菌(たけ)及び年魚(あゆ)の類なり。(応神紀十九年十月)
 宍(しし)を多気(たけ)と云(い)ふ。(皇太神宮儀式帳)

 キノコのことをタケ(茸)とするのは、いま、マツタケ、シイタケ、エノキダケなどと呼ぶのに続いている。岩波古語辞典に、「たけ【茸】《タケ(長)と同根。高くなるものの意》きのこ。」とある。そう捉えると、タケのケは乙類に当たる。しかし、茸と竹とが同音であったとは考えにくい。竹の食べる部分は、竹の子(筍・笋)である。古語には、タカムナという。竹の子の様態が、「蜷貝(みな)」に似ているからそう命名されているという説が有力である。茸の子が筍(笋)であるとは思われないから、それは別の言葉であった方がわかりやすい。すなわち、茸(たけ、ケは甲類)とするのである。この時点では、消去法的な整理に過ぎず、説得力を有するものではない。とはいえ、茸の意を丈が高くなるからとして同根とする考え方はいただけない。丈はあまり高くならないし、なっても数日すると跡形もなく無くなってしまう。ウドの大木という言い方があるのは、ウドが木ではないと周知のうえで行われる修辞表現である。
 汎用される漢字の「茸」字は、本邦において、タケの意としている。説文に、「茸 艸の茸茸たる皃、艸に从ひ聦の省声」と、草の茂りみだれる様、また、鹿茸というように鹿の袋角をいう。キノコとは無関係の字である。説文にキノコのことは、「菌 地蕈也。艸に从ひ囷声」、「蕈 桑䓴、艸に从ひ覃声」、「蕈 木耳也。艸に从ひ耎声、一に萮茈」などとある。中国では、木の子のことを木の耳であると考えたようである。忌詞に茸のことをタケ、またクサヒラ(草枚)と言うのは、キノコの笠を1枚、2枚と数えて、蔬菜類に含めて捉えているからであろう。
 無理に使っている茸の字義の鹿茸は、強精薬とされ、インポテンツにも効果があるとされている。タケル(建・感)ことに通じている。そのタケルのケは甲類である。キノコの形には陰茎を思わせるものがあり、それを語源とするとする説もある。茸(たけ)のケも甲類と見なされるべきか。
(注17)話の組み立てが記紀の説話の他の部分と似ているとして議論されることが多い。ヤマトタケルがクマソを討つ話は、神代のホデリノミコトがホオリノミコトに臣従する物語と共時関係にあって、それを歴史化したものと考えられたり、ヤマトタケルノミコト像にやはり神代のスサノヲの面影を見て、支配者にはなれない征討者の宿命が共通していると捉えたりしている。そう捉えようと努めればそう捉えられるが、強いてそう捉えなければならない必然性は見られない。ヤマトタケルノミコトの話が言い伝えられて書いてある。それだけのことと捉えられるなら、最もシンプルな考えで一番正解に近いであろう。
 中村2000.に、日本書紀と古事記の文章の違いを検討して、「省略・抽象化の筆削も、添加・具象化の加筆のいずれもが太安萬侶の手にかかるものであろうことは確実とみてよい。」(314頁)とする。無文字文化における伝承は、伝言ゲームである。編纂時になかば創作したものではなく、伝えられてきた話自体に記紀2通りのバイアスがあった。文字を知っている人、エディターの都合でまとめられたとするなら、記のように長らくお蔵入り状態になることはなく、読まれ続けなければ不自然である。また、数多くの人たちの功業を1人の姿に投影、統合してヤマトタケル像が語られているものでもない。文字やビデオのない時代に人の行ったことを伝えるのに必要なのは言葉ばかりである。ヤマトコトバが人よりも先にある。第一義的に言葉のお話(咄・噺・譚)である。先に話ができている。今日の人が勝手に背景を拡張してファンタジーに扱うことは、上代にはなかったことである。なぜなら、好みが違って通じない人が途中に1人でも介在したら、話は伝達されないからである。すべての人に理解されうる話とは、話し発している言葉がその時その場で逐次、その言葉自体を説明して行っているからである。地名をその地の意味を表現するために用いていた民族が知られるが、記紀の説話はヤマトコトバの辞書として活用されたのである。自己言及的に洒落を交えて伝えていって伝えきっている。

(引用・参考文献)
青木2015. 『青木周平著作集 上巻 古事記の文学研究』おうふう、平成27年。
石上1983. 石上堅『日本民俗語大辞典』桜楓社、昭和58年。
猪股2016. 猪股ときわ『異類に成る―歌・舞・遊びの古事記―』森話社、2016年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
上田1973. 上田正昭『日本武尊』吉川弘文館、1973年。
岡部1969. 岡部直裕「倭建命(日本武尊)―称号訓読考―」『神道史研究』第17巻第2号、昭和44年3月。
木村2009. 木村紀子『ヤマトコトバの考古学』平凡社、2009年。
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第六巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
桜井2000. 櫻井満『桜井満著作集 第八巻 古代伝承の世界』おうふう、平成12年。
佐藤1999. 佐藤稔「「感動詞」の写すもの」佐藤武義編『語彙・語法の新研究』明治書院、平成11年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新明解古語辞典・補注版(第二版) 金田一春彦・三省堂編修所編『新明解古語辞典・補注版 第二版』三省堂、昭和49年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(一)・(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
津田1963. 『津田左右吉全集 第一巻 日本古典の研究 上』岩波書店、昭和38年。
中村2000. 中村啓信『古事記の本質』おうふう、平成12年。
中村2009. 中村啓信訳注『新版 古事記』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
西宮1993. 西宮一民『古事記の研究』おうふう、平成5年。
『日本産育習俗資料集成』 恩賜財団母子愛育会編『日本産育習俗資料集成』第一法規、昭和50年。日本図書センター、2008年復刻。
日本民俗大辞典 福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邊欣雄編『日本民俗大辞典 上』吉川弘文館、1999年。
三輪1978. 三輪茂雄『臼』法政大学出版局、1978年。
守屋1988. 守屋俊彦『ヤマトタケル伝承序説』和泉書院、昭和63年。
山口2011. 山口佳紀『古代日本語史論究』風間書房、2011年。
吉井1977. 吉井巌『ヤマトタケル』学生社、昭和52年。

(English Summary)
In this paper, we will verify the name of superstar ‘Yamatö-Takeru’ that appears in Japanese chronicles. ‘Yamatö-Takeru’ can be seen in the Keikou Emperor's Article in Kojiki. ‘Takeru’ means to roar in Japanese ancient language, ‘Yamato Kotoba’. So, ‘Yamatötakeru’ sounds like ‘Yamatötake..’ in howls and echoes. From this consideration, it will be understood that self-referential explanation of ‘Yamato Kotoba’ ensured the communication in spoken language in the non-literary era. And it suggests that it is a basic feature of ‘Yamato kotoba’.

※本稿は、2017年9月稿を、2020年8月に加筆、訂正、整理したものである。

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