古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

相撲と力士―雄略紀十三年九月条と万3831番歌を考えあわせて― 其の一

2020年09月19日 | 古事記・日本書紀・万葉集
はじめに

 ヤマトコトバに相撲(すまひ、ヒは甲類)は、犢鼻(たふさき)を腰にまわして互いに引きつけあって舞うようにした力比べである。力士(ちからびと)同士の取り組みで、頭髪の一部を剃っていて、鳥で言えばアオサギの風情を醸し出している。万3831番歌にある力士舞の歌とは、従来説かれてきた伎楽にばかり由縁を求めても理解しえない歌で、本邦の相撲文化の上に歌われた歌である。民俗に竿灯の桙として伝わっている。本稿は、雄略紀の女相撲の逸話を端緒に、相撲の本質を見ながら往古の“力士”像を再現する試みである。

女相撲で大工がミスをする

 秋九月に、木工(こだくみ)韋那部真根(ゐなべのまね)、石を以て質(あて)として、斧(ておの)を揮(と)りて材(き)を斲(けづ)る。終日(ひねもす)に斲れども、誤りて刃を傷(やぶ)らず。天皇、其所(そこ)に遊詣(いでま)して、怪(あやし)び問ひて曰はく、「恒(つね)に石に誤り中(あ)てじや」とのたまふ。真根、答へて曰さく、「竟に誤らじ」とまをす。乃ち采女を喚(め)し集へて、衣裙(きぬも)脱ぎて著犢鼻(たふさぎ)して、露なる所に相撲(すまひ)とらしむ。是に真根、暫(しばし)停(や)めて、仰ぎ視て斲る。覚(おもほ)えずして手の誤(あやまち)に刃傷(きずつ)く。天皇、因りて嘖譲(せ)めて曰はく、「何処(いづく)にありし奴(やつこ)ぞ。朕(われ)を畏れずして、貞しからぬ心を用て、妄(みだりがは)しく輙軽(ただち)に答へつる」とのたまふ。仍りて物部に付(さづ)けて、野に刑(ころ)さしむ。爰に同伴(あひ)巧者(たくみ)有りて、真根を歎き惜(あたらし)び、作歌(うたよみ)して曰く、
 あたらしき 韋那部の工匠(たくみ) 懸けし墨縄(すみなは) 其(し)が無けば 誰(たれ)か懸けむよ あたら墨縄(紀80)
天皇、是の歌を聞かして、反りて悔惜(あたらし)びたまふことを生して、喟然(なげ)きて頽歎(なげ)きて曰はく、「幾(ほとほど)に人を失ひつるかな」とのたまふ。乃ち赦使(ゆるすつかひ)を以て、甲斐の黒駒に乗りて、馳せて刑所(ころすところ)に詣(いた)りて、止めて赦したまふ。用(よ)りて徽纏(ゆはひづな)を解く。復作歌して曰く、
 ぬば玉の 甲斐の黒駒 鞍著(き)せば 命死なまし 甲斐の黒駒(紀81)一本に、命死なましといふに換へて、い及(し)かずあらましと云へり。(雄略紀十三年九月)

 大工の韋那部真根は、手斧、おそらくは釿(ちょうな)(注1)使いの名手で、木を削って失敗することがなかった。それを見ていた雄略天皇は、ふつうなら材は渡しかけるところを、石を下にあてがうのは変だと思っていたずら心が働いた。そして、本当にあてがっている石に刃を欠くことはないのかと聞いた。当て推量、当て事で悪く評価しようとしている。絶対にないというので、采女に褌(ふんどし)に当たる犢鼻(たふさぎ)だけつけて、ほとんど裸の相撲を取らせて気を散らせて失敗させた。言っていることとやっていることが違うだろうと糾弾し、天皇は真根を処刑するために野へ送った。すると意外なことに、助命嘆願の歌謡が歌われた。その歌を天皇は聞いて、後悔し、早馬を遣わせて赦したという逸話である(注2)
女相撲(窪田春満・空音本調子(安永九年(1780))、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9892454(18/23))
 この話の真髄は、台となる質(あて)に当てて利器を欠くことの意味を深く考えたものである。新撰字鏡に、「𢾤 知今反、平、椹字、礩也、阿氐(あて)」とある。説文には、「礩 柱下石也、石に从ひ質声、之日切」とある。礎石のようなものであるが、史記・范雎・蔡沢列伝・第十九に、「今、臣の胷(むね)は以て椹質に当たるに足らずして、要(こし)は以て斧鉞を待つに足らず。(今臣之胷不以当椹質、而要不足以待斧鉞。)」とあり、椹質とは刑具の一種で、胴斬りの刑のための台に体を当てること、横たえることを言っている。話の上でのことではあるが、だから、真根の刑は、野において胴斬りにされようとしている。天皇は「恒不誤中一レ石耶」と質問し、「竟不誤矣」という答えの言葉を逐語的に解釈している。采女の裸相撲を見せるという、男の弱みを突くことで言行不一致を導き出した。それを殊更に責め立てて死罪に処そうとしていた。この記事の評価としては、いじめではないかとする感想程度しか述べられていない。問答自体を客観的に考えると、質問という質(あて)に当てて真根という利器を欠くところであったとの悟ったという話になる。質(あて)に当てることの意味とは何か、アテということを深く考えた話である。他動詞アツ(充・宛・当・中)は下二段活用をする。実際的に名工を失うということを糺しているのではなく、言語の論理上、上位にある包括概念を見極められなかったことが問題なのである。この韋那部真根の逸話を禅問答風に解釈した解説を見ない。
 歌問答の紀81番歌謡の中で、甲斐の黒駒に鞍をつけていたら間に合わなかっただろうと言っている。新編全集本日本書紀に、「甲斐産の黒駒が良馬との評判である……ゆえ処刑寸前に間に合ったのである。」(②195頁)としている。ピント外れである。鞍を着けずに裸馬で行かせたから間に合ったと歌っている。伝令が裸馬に跨がれたかどうか疑問なしとしないが、そういうことではない。主題は、工匠の墨縄について歌っている。墨壺から引き出した縄を材にぴんと張って直線を引く。墨は黒いから黒駒が引き合いに出されている。質(あて)の話から、材に当て交って線を引く墨縄という道具のことへと展開している。事はアテのことばかりで帰結するものではなく、アテガヒへと引き継がれて事柄となる。馬を罪の代償として質(あて)としたこともあったろう。だから、黒駒に当てがう鞍にはどれがいいかと選んでいる場合ではない。一刻も早く真根の「徽纏」を解かせなければならない。そのためには、馬の結わい綱をさっと解いて急がなければならなかった。その次第顛末を語っている。アテの話を縄や綱(徽纏)のことと絡ませて言っている。そして、馬の手綱を引き、ぴんと張ったり緩んだりする様は、墨縄を使う仕種によく似ている。話の展開自体に、ヤマトコトバの説明が展開されている。言=事とする言霊信仰にかかる人の頭脳による思考過程が見て取れる。
左:子どもの墨縄(士農工商図屏風、狩野探幽(1602~74)筆、紙本墨画淡彩、江戸時代、17世紀、個人蔵、東博展示品)、右:刃物作業(遊行上人縁起絵巻 乙巻、紙本着色、鎌倉時代、14世紀、田中親美氏寄贈、東博展示品)
 撚ってできている縄や綱が有り難いのは、真根の「同伴巧者」のネットワークの助命嘆願を示唆するものである。撚りをかけた細縄を墨縄に使う時、墨縄を材に当ててなんぼのものである。真根が刃を石に一度当てたからといって、言行不一致により死罪とされたのではとても仕事にならないとする。真根一人いなくなっても代わりがいるだろうと天皇は考えている。それを「同伴巧者」は、さらに簡単な墨縄を当てる仕事を持ち出してできないと訴えている。そんな言い分が、天皇の屁理屈よりも長じていたのは、彼の名前がマネ(真似)だからである。天皇は、刃が欠けたのでは話にならないだろうとしたが、大工仲間は修行の基本、真似ることが許されないとなると、みな素人集団になってしまって仕事にならないとした。しかも、手斧を使う際に、材の下全体に石を当てるとはおかしな話である。大工の道具箱の中に、質(あて)となる石があるかといえば砥石しかない(注3)
 当てどころが悪いから、砥石に当てて刃が傷ついている。きちんと使えばうまく機能することは、真根も砥石も同じである。「同伴巧者」の言はそれらの事情を含意している。アタラシビ(惜)ているとは、手斧が石に当たっているのはちょうど矢が的に当たっていることだと言い換えてみている。的(まと、トは甲類)と同音に真砥(まと、トは甲類)がある。刃毀れを起こした刃物は、次に使うために砥石でとぐ。和名抄に、「砥 兼名苑に云はく、砥〈音は㫖〉は一名に䃤〈音は篠、末度(まと)〉は細礪石也といふ。」とある。洒落の流れとして、よそ見して的を外れて刃毀れしたから、真砥が必要になっている。研ぐ道具は用意されている。相撲が長引いた時同様、水を注せばよい。すると決着する。仕事に水を注したのは、天皇の余計な好奇心とひねくれた言葉の解釈である。すなわち、質(あて)に使っていた石は、当てていて何の問題もなかった。言葉のロジックとして、天皇の考えは的外れで何重にも誤っていた。縄つながりの徽纏をもって収束させている。
 紀80番歌に、「かけし墨縄 …… 誰かかけむよ」とある「かけ」には、墨縄をかく(懸、書)ことと、斧の刃を欠くことと、鞍を掛けることなく黒駒を駈けさせたことなど、多義多様な意味合いがかけられている。「かけ」という言葉を登場させているところ自体が、自己説明的な注釈であることを示している。したがって、本文中に、「終日斲之、不誤傷一レ刃」、「不覚手誤傷刃」とある「傷」には、ヤブルという古訓が有力で、キズツク、ソコナフといった訓み方も行われている。端的には、カク(欠)というヤマトコトバの意味合いである。刃毀れを起こすことは、ハ(端・刃・羽・歯・葉)の一部を欠くことである(注4)

 尾に至りて剣の刃少しき欠(か)けぬ。(神代紀第八段本文)

 無文字時代には、文字時代に比べて、言葉は論理哲学的になっており、はるかに重みをもって使われていた。雄略天皇は頭が悪かったということになる。墨縄をかける匠であるとの認識に乏しかった。むりやり失敗させる状況へ追い込んでいい気になっていたことは、ヤマトコトバの深みを知らぬ点でしっぺ返しを食らうことになり、慌てて鞍をかけないで伝令を使わせている。無文字文化の智恵のやりとりと言える(注5)

力士舞の歌の謎

 万葉集に、力士を歌った歌が一首ある。

  白鷺の木を啄(く)ひて飛ぶを詠める歌
 池神の 力士儛(りきじまひ)かも 白鷺の 桙(ほこ)啄(く)ひ持ちて 飛び渡るらむ(万3831)
白鷺啄木飛一歌
 池神 力士儛可母 白鷺乃 桙啄持而 飛渡良武

 この歌は、伎楽の一つの美女の呉女を追う外道の崑崙のペニスを力士が桙で落とし、それを振って舞う舞のことを詠んだものと解釈され通説化している(注6)。諸家の意見の古い例に、山田1955.がある。「抑もここにいふ力士儛とは伎楽即ちかの推古天皇の朝に百済人味麻之の伝へたりといふ呉楽の一曲にして、伎楽は伝来以後専ら佛楽として用ゐられ、奈良朝の盛時に諸大寺に行はれたりしことは記録に存するのみならず、それに用ゐし遺物の法隆寺又は東大寺の正倉院に保存せられて今に伝はるものあるにても思ひ半にすぐるものあり。伎楽は代面をつけて舞ひ、笛と腰鼓と銅鈸子とを伴奏としたるものなり。その曲は……源博雅の笛譜に……九曲……教訓抄に……十曲……[なるが、]崑崙と力士とは常に続けるはこれ偶然にあらずして実にこの二曲合せて一曲たるが故なり。今教訓抄によりてその状を按ずるにこの力士儛は崑崙に次ぎて合せて一曲を構成する者にして、其状、先づ、崑崙の曲にて五人の女燈爐の前に立ち、後舞人二人出で舞ひ五女の内二人を懸想する由を演ず。力士の曲は之を承くる者にして、最初に力士手をたたきて出で、かの五女に懸想せる外道崑崙を降伏せしむる状を演ずるなり」(150~151頁、漢字の旧字体に改めた。)とある。法隆寺伽藍縁起并流記資材帳に、「力士壱面」(天平十九年(747))とある。しかし、伎楽は中世には廃れ、現在、書物と伎楽面の遺物、寺院の資材帳などから推定しているにすぎない。最大に豊富な史料とされる狛近真の教訓抄(1233年成立)も、式次第と楽の要領を簡素に記しているに止まっている(注7)
 万3831番歌を、伎楽を詠んだと限定するには数々の問題点がある。「力士儛」という語は、はたして伎楽の舞のことのみを示していると考えて誤りとならないか。教訓抄には、師子が舞うものを師子舞、迦楼羅が舞うものは走手舞とあるが、力士舞という呼称は指定されていない。「マラフリ舞」とあるから隠語のように用いられているとして正解といえるのか。また、歌の冒頭の「池神」は地名であるとし、そこで伎楽が練習されていたのかもしれないというが、どこのことかわからない(注8)。白鷺から白衣の舞を連想したというが、伎楽の力士が白装束であったのか疑問である。法隆寺献納宝物や正倉院宝物の伎楽面としては、仏教の守護神の金剛力士を2つの尊格に分け、それぞれに阿形と吽形に作っている。そして、阿形を「金剛」、吽形を「力士」と定めている。金剛は赤褐色、力士は赤色に塗り分けている。また、力士脛裳は紫地花唐草文の複様綾組織経錦である。それを白鷺に譬えて腑に落ちるものか。コーディネート上も考えにくいように思われる。また、仏教では、金剛力士像は金剛杵を持って仏法を守護するように立つが、手に持つ金剛杵を鳥が口にくわえると譬えるのは不自然ではないか。さらに、白鷺が木を咥えて飛んでいるという題詠で、その木を歌中に桙と言い換えている。木→桙→仏像彫刻にある金剛杵のこと、と連想ゲームを進めるのは強引ではないか。いろいろと疑問が浮かび、決しておさまりのいい解釈とはいえない。他に説得力ある説が現れないから、伎楽比喩説に甘んじている。素直に納得できるものではないため、絵を見て歌ったものとの説も提出されている(注9)。絵を見て歌を詠む風習が万葉時代、流行っていたとは知られていない。
伎楽面(左:力士、中:金剛、右:崑崙、クスノキ製、彩色、飛鳥時代、7世紀、法隆寺献納宝物、東博展示品)
力士脛裳(正倉院宝物、呉楽 力士脛裳 第15号、奈良時代、8世紀、宮内庁正倉院HP、https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000014952&index=0をトリミング)
 寺院の山門に凄みをきかせて並ぶ仁王像では、儀軌に定めがあるわけではないが、どちらか一方が持ち物を持ち、一方が持たないことが多い。あるいは、万3831番歌は、金剛力士が金剛杵のような桙を揮って舞うと考えられたとするものか。歌の題詞に、「白鷺の木を啄ひて飛ぶを詠める歌」と状況説明がある。人工物を自然の景物に譬えるならいざ知らず、自然のもの(シラサギの行動)を見て人工のもの(伎楽)に譬えていて奇妙である(注10)
 予断があるように思われる。土屋1970.には、訓み自体から再考を求める意見が提出されている。「池の神 力士舞へかも 白鷺の ……」と訓み、「池の神が、伎楽の力士を舞ふからであらうか、それに附き従ふやうに、白鷺が、木の枝を桙にして口に食ひ持つて飛び渡るのであらう。」(268頁)の意ととっている。「イケノカミ[は、]池を支配する神とみるべきだ。」、「力士儛といふ独立の一曲があるのではなく、力士は登場者の一人に過ぎない。依つてリキシマヒと訓む根拠はないであらう。」、「杵持の持つたものは西大寺資財帳ならば、杵幡二流とあるものとしなければなるまい。或は高麗楽の方に載せられた桙四枝とあるのを、通用したと見るべきであらうか。」、「白鷺の営巣期には、相当大きな枝も食ひ運ぶことは、巣を見ても分るし、実際飛んで居るのも見られることで、……鷺の枝を食つて居るのを、伎楽の桙持に見立て、鷺が桙持を演ずるならば、鷺の棲む池をうしはく池の神が、力士を舞つて居るのであらうと、想像しての一首である。鷺を池神の眷族従者と見るのは当然な見方だ。」(268~270頁、漢字の旧字体は改めた。)などとある。
 筆者は、「力士儛」という語について、仏教にまつわる芸能、伎楽の舞であると同時に、むしろ列島に元来からあって続けられているスマヒ(相撲)であると見る。両者を融合させることで語義を理解しながら、新しい漢語が用いられていると考える(注11)。当然、相撲は、対戦相手があって初めて成立する。すなわち、「池神」と「白鷺」が闘ったのである。眷族ではない。そして、「白鷺」は逃げていって飛んでいる。「池神」は、土俵たる池に残っている。だからこそ、「池神」の「池神」たる所以である。第一句は、「池神(いけがみ)」と訓むべきである。助詞トを略した原文表記の例としては、「汝吾」で「汝(いまし)と吾と」(万2419)と訓む。一人相撲はイレギュラーなのだから、「~と」の形になることは察せられる。
 本邦での相撲の起源については、野見宿禰(のみのすくね)と当摩蹶速(たぎまのくゑはや)の話が必ず語られる。両者の対戦を「令捔力(すまひとらしむ)」(垂仁紀七年七月)とし、当摩蹶速のことを「力士(ちからびと)」と呼んでいる。野見宿禰のことは「勇士(いさみびと)」とする。ほかにも、「相撲」の記事に、「健児(ちからびと)」(皇極紀元年七月)とある。上に、雄略紀の采女の相撲話をとり上げた。天武紀・持統紀には隼人の相撲が天覧されている(注12)

 秋七月の壬辰の朔甲午に、隼人(はやひと)、多(さは)に来(まうき)て、方物(くにつもの)を貢(たてまつ)れり。是の日に、大隅の隼人と阿多の隼人と朝庭(みかど)に相撲(すまひと)る。大隅の隼人勝ちぬ。(天武紀十一年七月)
 五月の丁未の朔己未に、隼人大隅に饗へたまふ。丁卯に、隼人の相撲るを西の槻(つき)の下(もと)に観る。(持統紀九年五月)

スマヒ(相撲)とは何か

 スマヒという語は、動詞スマフ(拒)の連用形名詞であろう(注13)。和名抄に、「相撲 漢武故事に角觝〈丁礼反、訓は突と同じ〉は今の相撲なり。王隠晋書に云はく、相撲〈撲の音は蒲角反、須末比(すまひ)、本朝相撲記に占手・垂髪・総角・最手等の名の別有り、亦、立合の相撲の長有る也〉は下伎也といふ。」とある。相手の攻撃をふせぐことを、拒絶する意、スマフという語によって表現している。スマヒは四段動詞の連用形に当たり、スマヒ(ヒは甲類)と推測される。後の時代に、当て字として「相舞」、「素舞」などとあるのは、あながち間違いとは言えない。互いにまわしを取って振り回しあう姿は、遠目には舞(まひ、ヒは甲類)を舞っているように感じられる。「舞ふ」という語は「回る」と同根の語で、平面上を旋回している。類義語の「踊る」は跳躍する。したがって、互いにまわしを引きあって旋回運動をする相撲(すまひ)という語は、大きな2人が組み合って力比べをする格闘技でありながら舞でもあると見て取ることができる。「まわし」という用語も、腰に回すものであり、互いに取り合って回し回されるものである。言葉と形容の両方に掛けて、組み合いの格闘技のことをスマヒという一語にまとめ切っている(注14)
 相撲については、そのルーツを探ることがしばしば見られる(注15)。それに対して、土屋2017.は、「わたしたちが親しんでいる日本の相撲は、いつはじまったのだろうか。そしてどこからきたのだろうか。この問いに答えるのは難しい、というより不可能に近い。……力くらべ、そして相手と争うことは、スポーツ競技のごく原初的な形態で、文明が誕生した当初から行われていたと思われる。このような原初的なものが、世界各地で徐々に洗練していき、そしてルールが制定され、さまざまな格闘技ができあがったのだろう。ちょうど言語が諸系統にわかれて世界各地に存在するのと同じように。」(1~2頁)と名調子で解説されている。また、新田2010.に、「「相撲」の原義が「格闘」そのものである以上、さまざまな形態の格闘を「相撲」と表現しうる。従って同じ「相撲」の字を用いていても、それによって表現されている格闘の形態は同じとは限らない。原型としての「格闘」は、それぞれの文化圏で、特定の様式・内容を持った競技として成型されていった……」(24頁)とある。本邦のスマヒは、本邦において生まれ、中国や朝鮮半島など周辺地域の同種の格闘形態、漢字に「相撲」、「角力」などと記す形態の影響を受けながらソフィスティケートされていったと考えるのが妥当であろう(注16)。人的交流も多かった。とはいえ、同じ呼称であるからといって同じルールであったとは考えにくい。字面に同じ表記(漢字)を用いても、両者には大きな違いがある。中国に角力、角抵、角觝などとあるのは、カクリョク、カクテイなどであって、ヤマトコトバにスマヒと呼んでいたものと言葉が違う。相撲とあってもソウボクである。朝鮮にシルム、モンゴルにブフ(ボフ)と呼ばれる。
 本邦では、力が強くて闘う勇者のことは、チカラビトと呼ばれていた。そこへ、舶来の言葉として、「力士(りきじ)」という語が入ってきている。「金剛力士」という変体した仏教思想がもとである。この「力士(りきじ)」という漢語については、ヤマトの人が理解する際、それまでに培われてきたスマヒ(相撲)に関するヤマトコトバ、チカラビトのことと文脈的理解において相同であると認識された。リキジと空で言われてもわからない。それを「力士」と書くと知り、しかもその文字の意味を理解できる段階に至ってはじめてリキジという言葉はわかる。チカラ(力)持ちのヲトコ(士)のことなら知っている。スマヒ(相撲)の競技者のような体の大きい力の強い人たちを指すのだとわかっている。文字の習得によってのみ、リキジ(力士)なる新しい言葉が通用することとなる。
 金剛力士は、寺院の門を守護する仁王像としてよく知られる。もともと、仏教の守護神で金剛杵を持つからそう呼ばれている。本来一神であるはずが、二神となって門前に控え守っている。口を開いた阿形像と、口を結んだ吽形像の二体を一対として造形されている。密教に後付けの理屈が唱えられているものの、なぜもともと一つのはずが二つに分身したのか謎である。中村1988.には、「それにしても、仁王の起源は不明である。」(504頁)と、わからないことを不思議であると記す叡智が示されている。理屈をこねてわかった気になろうとしなければ、当然浮かんでくる疑問である。そして、この点について、古代において特段に説明が行われないままに過ぎてきている。すなわち、日中問わず当時の人々が、門前の警備には2人いて当然であると、すでに直感していたことを知らず知らずのうちに伝えてくれている。日本は中国の真似をしただけではなく、そういうものであると納得しながら仁王さんを受け入れている(注17)
 2つになった理由としては、第一に、門前で守ることが関係する。一身であると、真ん中に立っていて守ることとなり、参詣者が出入りしにくい。二身なら、両サイドに立って睨みを利かせていれば悪い者は立ち入れなくなる。たいへん力のある大男として想定される。東大寺では南大門に途方もなく大きな仁王さんが筋骨隆々の姿で両側に立っている。大変なところへ来たと思わされる。首をすくめて中へ進んでお堂へ入ると、それどころではない物凄く大きな仏さまがあらわれる。仏教世界とは斯くの如き強く大きなものであるかと感服させられる。現在、お相撲さんは、みな力持ちで大きい。なかでもひときわ強いのが横綱である。幕内力士が揃って土俵入りした後、横綱の土俵入りが行われる。露払い、太刀持ちを伴っている。東西両横綱があると、横綱に向かってそれぞれ左に太刀持ち、右に露払いが蹲踞する。ちょうど、大仏さまに対して、左に阿形の金剛杵を持った金剛力士、左に吽形の金剛力士と同じである。横綱の土俵入りが始まったのは江戸時代のこととされている。形として様になっている。
 第二に、その守護神が人間警備に準えられているからである。今日の機械警備会社でさえ所属する五輪選手をCMに用いて人的警備を思わせるシーンを流している。視聴者が感触として、“わかる”ことをねらっている。金剛力士とは何か、古代の人もチカラビト(力士、膂力者、相撲取)を以て理解したに違いない。防犯カメラの場合は、死角をなくすように設置すればいいが、人が警備する場合、格闘に負けないようにお相撲さんのようなチカラビトであって欲しい。非常事態に備えて毎日準備を重ねていなければならない。一人では四股、鉄砲といったトレーニングはできても、実践的な稽古はできない。本場所に向けて稽古しておきたいから出稽古をする者もいる。金剛力士は二身となって門前にいて当たり前で、チカラビトの話として納得される。
 雄略紀十三年条では、采女に褌を締めさせている。それを、「犢鼻(たふさぎ)」と呼んでいる。スマヒをする際には、タフサギを着けるのが決まりであったようである。ヤマトコトバにタフサギという。辞書類には次のようにある。

 襣 夫寐反、去、犢襣 太不佐伎(たふさぎ)(新撰字鏡)
 □◆(ネ偏に單) 之太乃太不佐支(したのたふさぎ)(新撰字鏡)
 衳子 女乃最志多乃太不佐伎(したのたふさぎ)〉(新撰字鏡)
 褌 方言注に云はく、袴にして跨無きは之れを褌〈音は昆、須万之乃毛乃(すましのもの)、一に知比佐岐毛能(ちひさきもの)と云ふ〉と謂ふといふ。史記に云はく、司馬相如は犢鼻褌を著くといふ。韋昭に曰く、今三尺の布もて之れを作る。形は牛鼻の如き者也といふ。唐韻に云はく、衳〈職容反、典鐘同じ、楊氏漢語抄に云はく、衳子は毛乃之太乃太不佐岐(ものしたのたふさき)、一に水子と云ふ〉は小さき褌也といふ。(和名抄)
 衳子 毛之多乃多不佐岐(もしたのたふさき)(図書寮本名義抄)
 衳子 モジタノタフサギ、一云、水子(観智院本名義抄)
左:関取(七十一番職人歌合、群書類従、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559254?tocOpened=1(68/164)をトリミング)、右:犢鼻姿(伴蒿蹊・閑田耕筆、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562883?tocOpened=1(15・12/43)をトリミング接合)
 図書寮本名義抄にはキ音に清点、観智院本名義抄には濁点がついている。その語源説には、股塞ぎの約とする説がある(注18)。筆者は、頭音のマの脱落とする発想に馴染めない。いわゆる“語源”という発想を離れ、上代の人の頓智、洒落として、タフサギという語をいかに解釈していたかを探ることのほうが有益であろう。雄略紀十三年条に、采女に犢鼻をさせたのは、男の相撲にそうしていたからである。男性の股間には陰茎がある。それを塞いで隠すから、タフサギと言うと思ったのではないか。屹立する陰茎は、仏教に伝えられた「塔(たふ)」に見立てられる。教訓抄に「マラフリ舞」とあるように、陰茎のことをマラと呼ぶ。もと僧侶が用いた言葉と言われている。なぜマラと呼ぶかについては諸説ある。男性のことをマロ(麻呂)と呼ぶことも一因であるかという。また、マラヒト(賓客)のこととも関係があるのではないか。和名抄に、「賓客 玉篋に云はく、大なるを賓と曰ひ小なるを客と曰ふ〈濱各の二音、和名は末良比土(まらひと)〉といふ。左伝注に云はく、客は一座の尊ばれる也といふ。野王案ずるに、羇旅して他国に寄る、亦、之れを客と謂ふ〈旅客、和名は太比々土(たびびと)〉とす。」とある。お客さんとして来てくれた有り難い人とは、遠路はるばるやってきた外国の人があげられる。高句麗から招いた人や、鑑真和上など、かなりのマラヒトといえる。それでも、僧侶にとって圧倒的第一位のマラヒトは、お釈迦様に決まっている。残念ながら、お釈迦様はオシャカになって亡くなられている。荼毘に付されてお骨、舎利となっている。その舎利を供養して納めるのが仏塔である。だから、塔こそがマラである。塔の裳階風に外膚が襞となっている。
 言葉上このように観念されたとすると、タフ(塔)+フサギ(塞)→タフサギ(犢鼻)という語形成かと推測できる。出来上がっている言葉を当時の人が理解するのにとられた解釈である。この類推は、万3831番歌の理解に必要となる。「力士儛」をする「力士」の着衣は、スマヒビト(相撲人)として見てタフサギ(犢鼻)ひとつである。タフサギという語の音は、タ(田)+フサギ(塞)と感じられておかしくない。田を塞ぐ必要は、水田稲作農耕を行うにおいて不可欠である(注19)。タフサギと名に負う代物は、水門(みと)、楲(ひ、ヒは乙類)と関連する語であると解されて、言葉は深慮に至る。頓智が利いていて、納得づくで用いられる。万3831番歌に、「池神」とあるのは、水門を塞ぐ動物神らしい。そんな動物は、ミトサギと呼ばれていた。

ミトサギと水門

 サギ類についての和名抄の記事に、次のようなものがある。

 蒼鷺 崔禹食経に云はく、鷺に又一種有り、相似て小さし、色は蒼黒並び、水湖の間に在り〈漢語抄に蒼鷺は美止佐岐(みとさぎ)と云ふ〉といふ。
 鵁鶄 唐韻に云はく、鵁鶄〈交青の二音〉は鳥の名也といふ。弁色立成に云はく、鵁鶄〈伊微(いひ)〉は海辺に住み、其の鳴くこと極めて喧しき者也といふ。
 鸅鸆鳥 唐韻に云はく、鶄鸆〈沢虞の二音、漢語抄に護田鳥は於須売止利(おすめどり)と云ふ〉といふ。爾雅集注に云はく、鴋〈音は▲(立偏に方)〉は一名に澤虞、即ち護田鳥也、常に沢中に在りて見れば輙ち鳴く、主の官を守るに似たること有り、故、以て名づくといふ。
 鷺 唐韻に云はく、𪅖▼(鋤偏に鳥)〈舂鋤の二音〉は白鷺也といふ。崔禹食経に云はく、鷺〈音は路、佐岐(さぎ)〉は色、純白にして其の声人の呼ぶに似たる者也といふ。

 今日、シラサギと呼んでいるのも、ダイサギ、チュウサギ、コサギの、白いサギ類の総称としてである。本州に一年中最も卑近に見られるのはコサギである。万3831番歌の「白鷺」はコサギのことを言っていると思われる。一方、水門にいる鷺がミトサギである。存疑ではあるが、常陸風土記逸文にも、「青鷺(みとさぎ)」とある。名義抄には、「鶂 アヲサギ」とある。蒼鷺は、今日いうアオサギのことであろうが、動物分類上の同定に定まらないところがあり、江戸時代にはゴイサギ(五位鷺)やミゾゴイ(溝五位)との説もあった。上の和名抄に、鵁鶄、イヒ、鸅鸆、護田鳥、オスメドリ、鴋などとある。また、ウスメドリ、ヒノクチマモリと呼ばれるものもある。爾雅・釈鳥の鶭沢虞の注に、「今婟沢鳥、水鴞に似る。蒼黒色、常に沢中に在り、人を見て輒ち鳴き喚びて去らず。主守之官を象する有り。因りて名けて俗に護田鳥と呼び為すと云ふ。」とある。樋の口とは、樋の水門のことである。水路などで水量、水位を調節するために戸口がたてられ、必要に応じて開閉した。導管の樋が丸ければ、土手から覗く口の戸、窓には、円い弁をもって塞ぐことになる。開閉して動くベンの意の弁は瓣の略字である。辨の略字も弁であり、髪を被うかんむり、冕冠の意の◎(小冠に日に儿)の略字も弁でもある。獄訴の時に誓いをたてる辯も略字は弁である。

 天の安の河の河上の天の石屋(いはや)に坐(いま)す、名は伊都之尾羽張神(いつのをはばりのかみ)、是を遣はすべし。若し亦、此の神に非ずは、其の神の子、建御雷之男神、此を遣はすべし。且(また)、其の天尾羽張神(あめのをはばりのかみ)は、逆(さかし)まに天の安の河の水を塞(せ)き上げ、道を塞(ふさ)ぎ居るが故に、他(あた)し神は行くこと得じ。(記上)

「逆塞上天安河之水而、塞道居故、他神不行。」の前の「塞」にセク、後ろの「塞」にフサグと訓んでいる。川の水を堰によって塞いだら、水嵩が上がって上流へ遡上する。それを、殊更に「逆」と言い立てている。「十掬剣を抜き、逆まに浪の穂に刺し立て、」(記上)とあるのは、持ち手を逆にして刺し立てること、本来の剣を用法の、刃を上にして見せつけることと逆であるから、そのように記されている(注20)。「即ち其の船を蹈み傾けて、天の逆手を青柴垣(あをふしかき)に打ち成して隠りき。」(記上)とあるのは、拍手を打つように手のひらどうしを合せるのとは逆に、蹼のある水鳥の手のひらを片方ずつ、バタバタを船板を叩く仕草を指している(注21)
 フサグは、また、フタグとも言う。

 故、便ち千人所引(ちびき)の磐石(いは)を以て、其の坂路(さかぢ)を塞(ふさ)ひて、……(神代紀第五段一書第六)
 是の時に、両処(ふたところ)の築(つ)かば乃ち壊れて塞(ふた)ぎ難き有り。(仁徳紀十一年十月)
 ……二人を、以て河伯(かはのかみ)を祭らば、必ず塞(ふさ)ぐこと獲てむ。(仁徳紀十一年十月)
 故、此の吾が身の成り余れる処を以て、汝が身の成り合はぬ処を刺し塞(ふた)ぎて、国土(くに)を生み成さむと以為(おも)ふ。(記上)
 関 又閞に作る 化々反、不佐久(ふさぐ)(金光明最勝王経音義)
 擁 布左具(ふさぐ)(新訳華厳経音義私記)
 障墇〈ヘタツ平也フタク〉 塞也、壅也、防也、𤱏也、防坊字同之備也、当也、敞也、禁也、鄣也、利也(新撰字鏡)

 フサグは漢文訓読文に多く、フタグは和文に多く見られるという。フタグという語については、諸家ともに、フタ(蓋)を動詞化したものとする。時代別国語大辞典に、「【考】蓋(フタ)の動詞化としてのフタグが原形で、フサグはその転といわれている。しかし、蓋(フタ)という語の存在がフサグからフタグを生ぜしめたとも考えられ、二語の先後は明らかにしがたい。あるいは意味の上で多少の差があったものかもしれない。」(632頁)とある。フタ(蓋)とは、容器の蓋のことをいうが、容器に限らずフタという概念があったようである。新撰字鏡に、「瞼 居傔反、上、目の表皮也。万奈不太(まなぶた)」、和名抄に、「痂 広雅に云はく、痂〈古牙反、訓は加佐不太(かさぶた)〉は瘡の上の甲也といふ。」、「角盖 本草に云はく、甲蠃子は中に角盖〈都比乃布多(つびのふた)〉有り、盖の上の錯は鮫魚の皮に似る〈鮫魚は已に上文に見ゆ〉といふ。」、「玉盖 崔禹食経に云はく、小蠃子に白玉の盖〈之太々美乃布多(しただみのふた)〉有りといふ。」、医心方に、「甲香 和名は阿支乃布多(あきのふた)」とある。そして、円座のことをワラフダ、音便化してワラウダと言っている。藁で作った蓋状のもので、実際、壁を丸く穿った窓を覆い閉めるのに蓋として用いている。巻貝の蓋によく似たところもうまく突いている。巻貝のするように遮蔽に役立つ栓の仕組みを、フタ(蓋)としている。容れ物の場合、蓋は身よりもひと回り大きく作られていることが多い。巻貝の蓋と容器の蓋の構造上の違いについて、ヤマトコトバに区別せずに同語とした事実からみると、フタ(蓋)という名詞からフタグ(塞)という動詞が作られたのではなく、動詞のフタグ(塞)から名詞のフタ(蓋)が派生したと措定したほうが適当であろう。
窓のふさぎ(慕帰絵々詞模本、鈴木空如・松浦翠苑模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590851?tocOpened=1(12/26)をトリミング)
樋の構造概念図(市川秀之「狭山池出土の樋の復元と系譜」狭山池埋蔵文化財編『狭山池出土の樋の復元と系譜(復元)』の東樋下層遺構(奈良時代)取水部復元図(部分)図http://skao.web.fc2.com/rack/ike/hi-fkgn.pdf(2/10))
 水門は、水を流したり止めたりする装置である。川の水門を「塞」げば、「上」に上がっていくことは順当である。それを「逆」と表現している点に注目するなら、水門の閉ざし方がふつうとは「逆」の閉ざし方をしていたと考えるべきである。逆の閉ざし方とは、丸太を刳り抜いた樋管の穴を、ふつうとは反対側から塞ぐことである。樋(楲)の用例は、日本書紀にある(注22)

 人をして塘(いけ)の楲(ひ)に伏せ入らしむ。外(と)に流れ出づるを、三刃(みつは)の矛を持ちて、刺し殺すことを快(たのしび)とす。(武烈紀五年六月)

 弁を開けて水圧によって押し出されて出て来たところを、三つ叉の矛で突き殺した。単にヒ(乙類)で、樋の口の意もあり、水を堰き止める仕切りの栓も表した。和名抄に、「淮南子に云はく、塘を決して楲〈音は威、和名は以飛(いひ)〉を発すといふ。許慎曰く、楲は陂(つつみ)に竇(あな)を通す所以也といふ。」とある。止水栓は、樋の下方にさしこまれて使われる。流したくなった時、抜けば流れる。蓋の中身の水が流れ出てくる。反対に、樋の上方に塞ぐことをすると、水圧がかかることになる。抜く時には水に浸かりながら力を入れて抜くことになる。この状態だと、樋の内側は空洞になっている。蓋の中の身は空っぽで、蓋の上に容れるべき水が溢れている。記上の、「逆塞上天安河之水」の「逆」とは、この様子を指して言っている。ふつうの堰の止水方法とは違うから、ここはセキアゲテと訓むのではなく、「逆塞、上天安河之水」であり、「逆(さかし)まに塞(ふた)ぎ、天の安の河の水を上げ」と訓んで、続けて「塞道居」を「道を塞(ふた)ぎて居る」と訓むべきである。安易な止水法の、そこらへんにある蓋になりそうなものをもって樋の口を逆側からフタグことは、水が逆に溢れて道をフタグことにつながると警告している。洒落で話しているから、相手は面白がって聞き、覚えることになる。

頓智の塊としてのヤマトコトバ

 樋の導管が丸いから、水の栓に丸い円座・藁蓋(わらうだ、わらふた)が譬えられている。和名抄に、「円座 孫愐に曰く、䕆〈徒口反、上声之重、俗に円座と云ふ、一に和良布太(わらふた)と云ふ〉は円き草の褥也といふ。」とある。藁でできた縄をまるく巻くようにして結いつけ、座布団状にしたものである。大阪府大阪狭山市の狭山池からは、さまざまな時代の樋の口の遺構が出土している(注23)。取水部に一段だけの底樋型のものの場合、樋穴は上面にあけられそこに男柱がささる仕組みになっている。男柱という呼称の由来は不明である。もともとはただの栓であったかもしれない。それは古事記の国生み章の、「吾が身の成り余れる処」のことで、「汝が身の成り合はぬ処」を「刺し塞(ふた)」ぐことを容易に連想させる。外来語と絡まる語に、マラとあった。伎楽のマラフリ舞、マラヒト(賓客)、そして、力士と意訳されたマラ(末羅)族である。塔に舎利を納めて有り難がって拝み守った。お客さんが来たら座布団をすすめる。当時は、円座(藁蓋)であった(注24)。「伊都之尾羽張神」、別名、「天尾羽張神」は、読んで字の如くとするなら、尾の羽がぴんと張っている鳥のことを言い表している。神代紀第四段一書第五では、「交(とつぎ)の道(みち)」を「鶺鴒(にはくなぶり)」の「首尾(かしらを)」を揺れに見て学んでいる。「鶺鴒」はセキレイのことで、尾の羽の張った鳥である。樋の口を塞ぐことと陰茎を指すマラの関連が読み取れる。セックスすることは、「成り余れる処」で「成り合はぬ処」をフタグ(塞)ことである。
陶棺栓(岡山県勝央町平五反逧(ごたんざこ)所在古墳出土、古墳(飛鳥)時代、7世紀、国政小市氏寄贈、東博展示品)
 洋の東西を問わす、水をどの田畑にどの程度配分するかは、人々の間の利害争いになる。 rival という語が river をもととすることによく表れている。水の量を適切に捌くことが求められる。その守り神のような存在がミトサギで、田の水を管理していると譬えられ、護田鳥と呼ばれたのであろう。和名抄に、「楲」をイヒとある。イヒのイ音が脱落して今にヒ(樋)とするとされるが、鵁鶄の訓イヒとの関係も注目されよう。爾雅に「主守之官」とは倉庫番のことである。じっとして動かずに、泥棒が来ても逃げずに声をあげて助けを呼ぶ。ミトサギはウスメドリとも呼ばれる。目のところに丸メガネのような模様がある。眼つきが鋭い印象から、オスメドリと言われ、訛ったものとされている。しかし、他に、サギの仲間にみられる特徴の、臼を舂くような仕草によるともいえる。首が長く、その先の頭には前に嘴、後ろに勝(しょう)とも呼ばれる冠羽をつけている。サギたちが餌を捕る時、ちょうど臼を横杵で搗くように見える。ウスメドリと呼ぶに値する。また、じっとしていることはウズと表現する。名義抄に、「踞」字に、ウズクマル、ウズヰという訓を載せる。
 冠毛は、また、耳毛ともいう。サギと同様に、耳の形が長く特徴的な動物をウサギ(ギは甲類)という。また、シラサギの冠毛は細く長く、中国では鷥、糸禽とも記す。頭の後ろに糸を二本引いたように見える。これはすなわち、針に糸を通したさまにも譬えることができる。針の孔、めどのことは耳といい、「……、いと使ひよき手作りの針の耳いと明らかなるに、……」(宇津保物語・俊蔭)とある。耳の付いた縫い針は、弥生時代には見られ、舞錐によって開けられたとされている。当然、仕上げには、細かい砥石のマトを使って毛羽立ったバリを取ったことであろう。バリを取ってハリが出来上がる。マト(真砥)があってのマド(窓)孔である。
 糸は針に付いている。ハリがツクのは磔である。裁きによって磔刑が命じられた。ハリツケには、ほかに貼り付けがある。壁などに紙を貼り付けたものをいう。裁判所は「刑部」である。養老令・職員令に、刑部省は置かれている。ウタヘタダスツカサと訓じられ、貞観七年三月七日官符に、「訴訟之司(うたへのつかさ)」を「定訟之司(うたへさだむるつかさ)」と改めたとある。紀には、「刑官(うたへのつかさ)」(天武紀朱鳥元年九月)、「判事(ことわるつかさ)」(斉明紀四年十一月・持統紀三年二月)とあるほか、氏姓に、「神刑部(かむおさかべ)」(垂仁紀三十九年十月)、「刑部(おさかべ)」(允恭紀二年二月、允恭記)、「刑部靫部阿利斯登(をさかべのゆけひありしと)」(敏達紀十二年是歳)、「刑部造(おさかべのみやつこ)・刑部連(おさかべのむらじ)」(天武紀十二年九月)などとある(注25)。万葉集にも、刑部氏の歌がいくつか載る。刑部の訓みがオサカベであり、磔の裁きを下す人をオサカベと呼ぶらしい。すなわち、壁土がボロボロと落ちて来ないように、押さえの紙なり布なり樹皮なりを貼り付けたものが貼り付けである。磔は、裁判の判決によって申し渡され、体を柱、十字架、板、壁に張り付け、動けなくして殺して晒し者にした。雄略紀十三年条の野の刑場も、台に縛り付けて胴斬りするものであった。壁に磔にされた場合、雨曝しになっても、ちょうど受刑者の体の跡だけ壁土が残ったことをうまく言い表わす言葉になっている。
左:磔台(明治大学博物館展示品)、右:アオサギ(多摩動物公園)
 そして、ミトサギ(アヲサギ)も、頭は糸の付いた針のように見えるし、魚を捕るために彫像のようにじっとして動かず、磔にあっているようである。ハリツケなのだから、壁紙の類、刑部ということになり、磔の刑を下してあの世へ送る役割をしているとも見なされる。記上に、「鷺を掃持(ははきもち)と為」とある。殯の場面に登場している。仏教に、ブッダの棺安置に携わったのは、他ならぬマラ族、力士の人たちであった。殯が遺体を棺に入れて行う儀式とするなら、箱張付に相当するものといえる。力持ちの力士たちが棺を運んだ(注19)。死者の魂をあの世へ掃くように送るのは、ヒノクチマモリのミトサギが水門を開けて、あるいは箒を使って水を捌(吐)くようにしたという譬えであろうか。灰色がかったアオサギの頭部をみると、黒っぽい耳の毛が二筋に後ろに伸び、頭頂部は白くて禿げているように見える。さらに、水門を調節する弁について、樋の口を塞ぐ形が丸く、窓を塞ぐようなものと同じと捉えれば、それは藁蓋(円座)のような円いもの、つまり、的であると思われたであろう。「牖 説文に云はく、牖〈与久反、字は片戸甫に従ふ也〉は壁を穿ち木を以て交窓と為る也といふ。」(和名抄)、「窓 説文に云はく、屋に在るを窓〈楚江反、字は亦、牎に作る。末度(まど)〉と曰ひ、墻に在るを牖〈已に墻壁具に見ゆ〉と曰ふといふ。兼名苑に云はく、一名に櫳〈音は籠〉といふ。」、「窓越しに 月おし照りて ……」(万2679)、「的 説文に云はく、臬〈魚列反、万斗(まと)、俗に的の字を用う。音は都歴反〉は射る的也といふ。纂要に云はく、古は射る的を侯〈或に堠に作る、音は侯と同じ〉と為(す)。皮を以て的を為(つく)り、鵠〈今案ずるに、鴻鵠の射る処也とす。古沃反、唐韻に見ゆ〉と為ると謂ふといふ。」(和名抄)、「鉄の的」(仁徳紀十二年八月)とある。
 以上から、万3831番歌に「池神」とあるのは、ヒノクチマモリ(樋口守)、ミトサギ(水門鷺)と呼ばれるアオサギ(蒼鷺)のことを言っていると確かめられた。飛び立たずにギャーギャー騒いで人を呼んでいる。警備員の誉れである。相撲の立ち合いに、「はっけよい」というのは、四肢を土俵にきちんとつけて静止してから始めることによる。磔の別の言い方、ハッケが 、ready の姿勢である。そして土俵上に残ったのが「池神」であったとし、相撲に負けて飛んで逃げたのが「白鷺」ということになる。自然界に、アオサギとシラサギが語らうように見える光景は容易に見られる。まるで、相撲のにらみ合いのようにも見受けられる。その後、体の小さなシラサギ(コサギ)だけが飛んでいき、大きなアオサギだけが残るということもままあるようである。どちらも冠毛が後ろへ伸びている点から、対比の対象とされている。コサギの冠毛は4月から9月にかけての繁殖期に特有のものだから、そのために巣作り用の木を咥えていくとよく観察している。他方、アオサギは樋口守、水門鷺だから、水門を守るために残ったというのが由縁として語られている。
アオサギとシラサギ(Yahoo!知恵袋 cutting_first、https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12103481362)
 題詞に、「木」とあるのが、歌中では「桙」となっている。新撰字鏡に、「槿 堇同、居隠反、櫬、木槿は李花に似て朝生れ夕に殯す。可食の者也。保己(ほこ)、又、保己乃加良(ほこのから)、又、祢夫利(ねぶり)」、「門頬 保己(ほこ)立」、新訳華厳音義私記に、「幡干也 干、保己(ほこ)」とある。剣状の刃を柄の先につけた戟だけでなく、祭礼の山鉾にも見られるように、長く伸びた先に何かの印となる目的物をつけているのをホコと呼ぶ。歌中の「桙」とは、首長のシラサギの頭部を、丁字形の撞木杖と見立てたものではないか。枯れていて白髪になっているからホコノカラと言っている。竿のことを示す干字をホコと言っているのも、文字の象形に示唆的である。ネブリは、ネムノキのことかとされる。今に、木槿はムクゲである。新撰字鏡の解説は、一切経音義を引いたものかもしれないが、名称が残って他の植物に入れ替わることはよくあることである。新撰字鏡記事に、ネムノキをスモモに似ているとするのは、スモモの落花後、長い蕊の残るところがネムノキに似ることによるか。ムクゲは尨毛のことをいうから、毛むくじゃらのことを言っていると見るのである。すなわち、シラサギが「桙」という木を啄い持っていくというのは、尨毛(むくげ)の犬のような毛のついた木を取って行くという謂いであろう。サギ仲間にみれば、髪が生えているように見えるアオサギの黒い頭の毛のうち、頭頂のところを毟り取っててっぺん禿にしてしまったと面白がっているものと思われる。頭頂部のみ白く、その両側に黒い毛が伸びており、落武者のような風貌になっている。

ムクゲ≒ネムノキ≒竿灯―民俗への伝言―とまとめ
左:ネムノキ(2017.8.31戻り咲きと豆。灯がともっているように見える。)、右:ネブリ流し(竿燈)(那珂通博・淀川盛品・風俗問状答、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10303771(92/100)。ネブリ流しの服装は犢鼻スタイルであった。)
 巣作りに大きな枝をくわえ持っていくことは、鳥類にしきりに見られる。題詞に「木」とあった。それを「桙」と言い換えている。理由があってのことと考えられる。繁殖期に、白鷺の冠毛(耳毛)の離れ方がはっきりする。そして、新撰字鏡に、槿をホコと呼んでいることは刮目すべきである。ネムノキかとされるネブリについては、ねぶり流しが民俗風習に伝わっている。最も有名なものは、秋田の竿灯である(注26)。大きな灯籠を数十個つけて、力持ちが1人で持って手のひらや肩、額などに載せて技を競っている。太鼓を打ち鳴らすなどお囃子が入る。竿灯と呼ばれるようになったのは近代のことで、ねぶり流しと言っていた。ホコとして最もホコらしい槿といえる。ホコのようなネムノキの一斉に花咲くように、竿灯は飾られている。新撰字鏡に、ホコをネブリとするのはネムノキに違いない。マメ科植物で、若葉を食べることができる。言葉の洒落を先にして、祭礼が行われるようになったとすることに抵抗はない。そして、その傍証に、万3831番歌が絡んでいる。
 筆者は「力士儛」を伎楽の舞の伝承とのみ捉えるのではなく、相撲(すまひ)によって納得させられたカルチャーとして考えている。「桙啄ひ持ちて」のホコを、ネブリ、すなわち、ネムノキと思えば、白鷺は竿灯祭をしていることになる。ネムノキがマメ科であることも、まめまめしくなることを想起させている。そして、竿灯を担ぐのに、昔は褌(犢鼻)ひとつでやっていた。相撲取と同じ格好をして正しいと考えられていたのである。空中高く「飛び渡るらむ」こととなっている。民俗学の合理的解釈(注27)を越えて、サギの洒落として祭礼が行われている。
 語義の範疇解釈において、シラサギとアオサギの対比は、ムクゲ(ネムノキのこと、朝顔)とヒサゴ(夕顔)の対比に対応すると考える。聖徳太子が物部守屋との戦いの時の髪形に、「束髪於額(ひさごはな)」(崇峻前紀)が強調されている。年齢をしきりに髪形と絡めて説明している。

 是の時に、廐戸皇子、束髪於額(ひさごはな)して、〈古の俗(ひと)、年少児(わらは)の年十五六の間は、束髪於額す。十七八の間は、分けて角子(あげまき)にす。今亦然り。〉軍(いくさ)の後(うしろ)に随へり。(崇峻前紀)

 これはすなわち、アオサギを太子の綽名としてみたこと、すなわち、トヨミ(響)+ミト(水門)→「豊耳聡(とよみみと)聖徳」(用明紀元年正月)と作っていたこと(注28)、ならびに相撲の取組について暗に説明しているということであろう。平安時代の相撲節では、普通の相撲人が取組を行う前に、子どもが相撲を取る。占手(うらて)と呼ばれる四尺以下の小童、垂髪(うなゐ)・総角(あげまき)と呼ばれる白丁(はくてい)が続く。相撲節の相撲では、髪形をもって階級をあらわしている。日本書紀の筆録者の意図において、蘇我馬子と物部守屋との闘争を、相撲に準える気持ちをもって書き記そうとしていたものと受け取れる。
 万3831番歌の収められている巻十六は、「由縁有る、并せて雑歌」の巻である。動かずに鳴くばかりで、鳥なのに飛んだり跳ねたりせずに「儛」と表されていて面白い。マフ(舞)という言葉は、旋回運動を表すとされ、マハル(廻)と同根である。頭頂部にあって廻るものとは、旋毛(つむじ)である。ツムジには旋風(つむじかぜ)の意もあり、同様に旋回している。落武者の髪の毛が、風に舞っている姿を思い浮かべたということであろう。組み合って大相撲となって水入りとなるように、水田に水がたくさん入っている。自らの髪を犠牲にしながらも水門を塞ぐことを忘れない、すばらしいは樋口守、水門鷺である。「池神」と呼んでふさわしい。
 以上、雄略紀十三年条の女相撲の話と、万3831番歌をあわせて語義解釈を行ってきた。上代においてスマヒ(相撲)とは、タフサギ(犢鼻)という新種のサギが互いにがっぷり四つに組み、舞うように力比べをする格闘競技であるとおもしろがったのである。それによって反対にヤマトコトバのほうも確かなものになっていっている。田んぼの水門を守り抜いた方が勝ちと言うことを、言葉の“言内”に示しているといえる。
(つづく)

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