古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

ヤマトタケル論―ヤマトタケルは木霊してヤマトタケ…と聞こえる件― 其の一

2020年08月31日 | 古事記・日本書紀・万葉集
ヤマトタケルの命名譚

 記紀の説話に、ヤマトタケルという有名人が登場する。

 是に天皇、其の御子の建(たけ)く荒き情(こころ)を惶(おそ)りて詔(のりたま)はく、「西方(にしのかた)に熊曽建(くまそたける)二人有り。是れ伏(まつろ)はず礼(ゐや)無き人等(ひとども)ぞ。故、其の人等を取れ」とのりたまひて、遣はしき。此の時に当りて、其の御髪を額に結ひき。爾に、小碓命(をうすのみこと)、其の姨(をば)倭比売命(やまとひめのみこと)の御衣(みそ)御裳(みも)を給はり、剣を御懐(みふつくろ)に納(い)れて幸行(い)でましき。故、熊曽建が家に到りて見れば、其の家の辺(へ)に軍(いくさ)三重に団(まろが)り、室を作りて居りき。是に、御室楽(みむろのうたげ)を為(せ)むと言ひ動(とよ)みて、食物(をしもの)を設(まう)け備へき。故、其の傍(あたり)を遊行(あり)きて、其の楽(うたげ)の日を待ちき。爾に其の楽の日に臨(な)りて、童女(をとめ)の髪の如く、其の結へる御髪を梳(けづ)り垂れ、其の姨の御衣御裳を服(け)して、女人(をみな)の中に交り立ちて、其の室の内に入り坐しき。爾に熊曽建兄弟(えおと)二人、其の嬢子(をとめ)を見咸(め)でて、己が中に坐せて盛りに楽(うたげ)しき。故、其の酣(たけなは)なる時に臨みて、懐より剣を出し、熊曽が衣衿(ころものくび)を取りて、剣を以て其の胸より刺し通しし時に、其の弟建(おとたける)、見畏みて逃げ出でき。乃ち其の室の椅(はし)の本(もと)に追ひ至り、其の背皮(そびら)を取りて、剣を尻より刺し通しき。爾に、其の熊曽建が白して言さく、「其の刀を莫(な)動かしたまひそ。僕(やつかれ)白す言(こと)有り」とまをす。爾に暫(しま)らく許して押し伏せき。是に白して言さく、「汝(な)が命(みこと)は誰ぞ」とまをす。爾に詔はく、「吾は纒向の日代宮に坐して大八嶋国を知らす、大帯日子淤斯呂和気天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)の御子、名は倭男具那王(やまとをぐなのみこ)ぞ。おれ熊曽建二人、伏(まつろ)はず礼(ゐや)無しと聞し看(め)して、おれを取り△(飠偏に攵)(つけ)よと詔ひて遣せり」とのりたまふ。爾に其の熊曽建が白さく、「信(まこと)に然ならむ。西の方に吾二人を除(お)きて建(たけ)く強(こは)き人無し。然れども、大倭国に、吾二人に益して、建き男は坐しけり。是を以て、吾、御名を献らむ。今より以後(のち)は、倭建御子(やまとたけるのみこ)と称(い)ふべし」とまをす。是の事を白し訖るに、即ち熟瓜(ほそぢ)の如く振り析(さ)きて殺しき。故、其の時より御名を称(たた)へて倭建命(やまとたけるのみこと)と謂ふ。然して還り上る時に、山の神、河の神、及(また)穴戸(あなと)の神を、皆言向け和(やは)して参上(まゐのぼ)りき。(景行記)
 十二月に、熊襲国(くまそがくに)に到ろ。因りて、其の消息(あるかたち)と地形(くにかた)の嶮易(ありかた)を伺(み)たまふ。時に熊襲に魁帥(たける)といふ者有り。名は取石鹿文(とろしかや)、亦は川上梟帥(かはかみのたける)と曰ふ。悉(ふつく)に親族(うがらやから)を集へて宴(にひむろうたげ)せむとす。是(ここ)に、日本武尊(やまとたけるのみこと)、髪を解きて童女(をとめ)の姿と作(な)りて、密に川上梟帥の宴の時を伺ふ。仍りて剣を裀(みそ)の裏(うら)に佩きたまひて、川上梟帥が宴の室(や)に入りて、女人(をみなども)の中に居(まじ)ります。川上梟帥、其の童女の容姿(かほよき)を感(め)でて、則ち手を携へて席(しきゐ)を同(とも)にして、坏(さかづき)を挙げて飲(さけの)ましめつつ、戯(たはぶ)れ弄(まさぐ)る。時に、更深(よふ)け、人闌(うすら)ぎぬ。川上梟帥、且(また)被酒(さけにゑ)ひぬ。是に日本武尊、裀の中の剣を抽(ぬきいだ)し、川上梟帥の胸を刺したまふ。未だ及之死(し)なぬに、川上梟帥叩頭(の)みて曰(まを)さく、「且(しばし)待ちたまへ。吾(やつかれ)有所言(ものまを)さむ」とまをす。時に日本武尊、剣を留(おしとど)めて待ちたまふ。川上梟帥、啓(まを)して曰さく、「汝(いまし)尊(みこと)は誰人(たれ)ぞ」とまをす。対へて曰はく、「吾は是、大足彦天皇(おほたらしひこのすめらみこと)の子(みこ)なり。名は曰本童男(やまとをぐな)と曰ふ」とのたまふ。川上梟帥、亦啓して曰さく、「吾は是、国の中の強力者(ちからひと)なり。是を以て、当時(とき)の諸の人、我(やつかれ)が威力(ちから)に勝(た)へずして、従はずといふ者無し。吾、多(さは)に武力(ちからひと)に遇ひしかども、未だ皇子の若(ごと)き者(ひと)有らず。是を以て、賤しき賊(やつこ)が陋(いや)しき口を以て尊号(みな)を奉らむ。若(けだ)し聴(ゆる)したまひなむや」とまをす。曰はく、「聴さむ」とのたまふ。即ち啓して曰さく、「今より以後、皇子を号けたてまつりて日本武皇子(やまとたけるのみこ)と称(まを)すべし」とまをす。言(まをすこと)訖りて乃ち胸を通して殺したまふ。故、今に至るまでに、日本武尊(やまとたけるのみこと)と称(ほ)め曰す、是れ其の縁(ことのもと)なり。然(しかう)して後に、弟彦等を遣して、悉(ふつく)に其の党類(ともがら)を斬らしむ。余噍(のこるもの)無し。既にして海路(うみつぢ)より倭に還りて、吉備に到りて穴海(あなのうみ)を渡る。其の処に悪(あら)ぶる神有り。則ち殺しつ。亦、難波に至(かへりいた)る比(ころ)に、柏済(かしはのわたり)の悪ぶる神を殺しつ。済、此には和多利(わたり)と云ふ。(景行紀二十七年十二月)

 記に、「故、自其時御名倭建命。」、紀に、「故、至于今-曰日本武尊、是其縁也。」とあるように、称号譚として話が完結している。すなわち、話の眼目として、「倭建命(日本武尊)」という称号がある。命名譚なのだから、この名前の考究をなおざりにして先に進むことはできない(注1)

ヤマトタケルv.s.ヤマトタケ

 今日、ヤマトタケルと言って通用しているが、この呼び名はそれほど確定しているものではない。ヤマトタケではないかとも考えられていた。日本書紀の北野本や熱田本の古訓に、ヤマトタケとある(注2)。江戸時代にはすでに、ヤマトタケルと訓むのか、ヤマトタケと訓むのかという議論があった。
 伴信友・比古婆衣に、「此皇子の御名書紀に日本武また余古書どもに倭武とも書きてその武字は例にタケまたタケシなどこそは訓めタケルとはよむまじきがごと思ふ人もあるべけれど、書紀に梟帥と書るを既く古事記に建字を用ひられたるにも准へしるべくまた猛字も武字と同じ義としてつねにタケまたタケシなどよめど書紀に五十猛神と書るなどおもひ合すべし、さて又タケルてふ称の義は記伝に威勢ありて猛き者を云ふ称なりと説はれたるがごとし、なほ述はゞ猛勇きことをタケリタケルなど活して云ふ言の上もて称とせるなり、字鏡に誇挙言也伊比保己留(イヒホコル)、又云太介留(タケル)〈類聚名義抄に嘋哮等の字をタケル〉とよめるも元は猛勇き意にてこゝに云ふと同言なるを挙言して猛勇々々しく言ふ方より云ふ一方の訓にとりて注せるものなり〈今の俗にもタケリ起テ云々など云ふこれなり、かくて又此命の又名倭男具那と申せる倭も倭国におきて勝れ給へる由にてかく申す御名義は古事を伝に説はれたるがごとし〉さて景行紀四十三年此命の崩給へる処に日本武尊化白鳥云々、因欲録功名即定武部也と見えたる武部を古訓にタケルべとあり、……」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991315(33~34/335)、漢字の旧字体は改めた。)とある。
 一方、本居宣長・古事記伝には、「○倭建御子(ヤマトタケノミコ)、御名義(ミナノココロ)、上文に於大倭ノ国ニ云々とあるを承(ウケ)て見べし、西ノ方には、吾二人に並ぶ、建(タケ)き人は無きに、吾等(ワレラ)に猶(ナホ)勝(マサ)りて建き男(ヲ)は、倭ノ国に有リけりと云意以て、称(タタヘ)申せるなり、【又倭(ヤマト)と云は、本よりの御名倭男具那の倭に因(ヨ)れるかとも見ゆれどなほ然には非じ、】(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821(112/577)、漢字の旧字体は改めた。)とある。
 現代の議論としては、まず、西宮1993.に次のようにある。

 ……タケとタケルとの違ひは、人名の核の部分で、
  A 語頭の「建(武)」はタケ
  B 語尾の「建(健・武・猛)」はタケル
の如く、語の頭にくるか、尾(「建」単独も同じ)にくるかによって訓み分けができるといふわけである。例へば「稚武彦王」(景行紀五十一年初)はワカタケヒコノ王であり、「稚武王」(同上)はワカタケルノ王である。かくして、「倭命」「日本尊」はヤマトタケルノミコトと訓む。(424頁)

古訓や宣長に、ヤマトタケノミコトと訓んでいたのは、「タケルは四段動詞(猛威を振ふ)の終止形であるが、それが「梟帥(夷賊(えびす)の大将)の如き「人」をいふ意味にも用ゐられると、今度はそのやうな名を避けようとする心理が働いて、タケシの形容詞の語幹タケで訓むことになつたものと考へられる。」(同頁)、「五十猛命(いたけるのみこと)」(神代紀第八段一書第四・第五)、「建王(たけるのみこ)」(斉明紀四年五月)と訓んでいるのだから正しいとする。
 一方、中村2009.では「倭建御子」をヤマトタケノミコ、「倭建命」をヤマトタケノミコトとしている。脚注に、「近来「やまとたける」と訓むが「たける」の卑称でたたえるわけがない。平安時代以来の古訓に戻す。」(135頁)とある。詳論は、中村2000.に展開されている。ヤマトタケと訓むべきとし、意味的にヤマトタケルノミコと呼ぶのはおかしいと考えている(注3)

 いわば『日本書紀』が西の方の不従反乱の首領を「梟帥」・「魁帥」と表記した時、それは咆え、叫び、馬のように嘶き、獅子のように大怒する野蛮の表現であった。その日本語が「タケル」なのである。天皇を中心に据え、そのミヤコからヒナへの放射の論理の中での、ミヤコの対極ヒナの賤賊(いやしきやつこ)が「タケル」であった。大和の中にあっても、天皇(即位前であっても)の坐す所(ミヤコ)と、不従無礼者の関係は同様であり、出雲も同様である。この関係はそのまま……[川上梟帥による]「是以、賤賊陋口以奉尊号」とある賤しい賊の陋(いや)しい口で、尊い御名を奉る、という賤陋と至尊の関係である。その賤陋の代名詞「タケル」を、至尊の小碓命にそのまま献りうる筈がないではないか。(294頁)

 そして、「尊号」についての史記や漢書の例をあげている。しかし、記紀は、漢語を借りて書いているだけで、思想をまるごと引き継いでいるわけではない(注4)。それに続けて、「尊号は上(たてまつ)られるものであり、この形式が小碓尊に採り入れられたものとみとめられる。この場合、『古事記』では「倭建御子」で、『日本書紀』では「日本武皇子」であるが、「ヤマト タケル ノ ミコ」とか「ヤマト タケ ノ ミコ」の語構成ではなく、「ヤマトタケル ノ ミコ」または「ヤマトタケ ノ ミコ」ということになろう。中国でも尊号に卑称が用いられていないことと併わせみれば、「ヤマトタケル」の訓みは成り立ちようのないことがわかる、というものであろう。」(294~295頁、字間の誤りは正した。)とある。
 筆者は、ここに議論の盲点を見る。熊曽建や川上梟帥のような賤しい輩から賤しい名前を献上されてそのまま受けたかといえば、小碓命(日本武尊)は受けていないことが明記されている。「自今以後、応倭建御子。」(景行記)、「自今以後、号皇子日本武皇子。」(景行紀)と、ヤマトタケルノミコという名前にしたらいいではないかと提案されている。熊曽建や川上梟帥は自分の名前をあげようと言っているとしか考えられないから、タケルという名を名乗ってくださいと言っている。しかし、実際には、「故、自其時御名、謂倭建命。」(景行記)、「故至于今、称-曰日本武尊。」(景行紀)となっている。「建」や「武」の訓みがタケルであれタケであれ、ミコ(御子・皇子)とミコト(命・尊)とは言葉が違う。タケルという言葉が賤しい言葉であったのを、意味を取り換え、対象を変更することで可能にしている。中村2000.は、語構成において、「ヤマト タケル ノ ミコ」と捉えている。それを受ける側は、「ヤマ ト タケル ノ ミコト」と受け取った。下に詳述する。

名前の変遷

 名前の変遷をまとめると、倭男具那王(やまとをぐなのみこ)(曰本童男(やまとをぐな))→倭建御子(日本武皇子)(やまとたけるのみこ、ミ・コは甲類。実際にはこの段階は自称していない)→倭建命(日本武尊)(やまとたけるのみこと、ミは甲類、コ・トは乙類)という流れで進化していっている。名前が変わると人格の転換があるように思われるが、人というものはそう簡単に改心したり、自己変容を来たしたりできるものではない(注5)。彼の性格も特に変わらず、外敵の征伐に明け暮れている。出家、遁世やジェンダー転換の道へと進んだわけではない。その一貫性は、呼ばれるものとしての名前にもあったと考えられる。無文字文化においてのアイデンティティは、“意味のある”名前にあらわれている。名前とは呼ばれるもの、端的に言えば綽名だからである。守屋1988.に、次のようにある。

 一体、古代の人々の思惟では、人の名はその名で表わされた人そのものであった。単なる記号ではなかったのである。名は実体だったのである。すれば、名はその人にとっては、きわめて大切なものであったとみなければならないのである。時には秘すべきものでもあったのである。だから、神の名や天皇の名ということになれば、重要な意味を持つものになってくるのである。そこから、神や天皇の名の由来を説明する神話や物語が作られてくるのである。記紀が語るように、神話や物語があって、そこから名がでてきたのではなく、まず名があって、そこから神話や物語が引きだされてきたのである。記紀の記述とは順序が逆なのである。……このようにみてくると、この物語にしても、少くともあの会話の部分は、倭建命の名の由来を語るものとして、その名から作られたものとみられるのである。(80頁)

 筆者は、名前と説話は同時に作られて、それが言葉として確立しつつ説明されていると考えている。言葉の第一定義である。言葉を発したと同時にその言葉の正しいものであることを、その場で解き明かしてみせている。もともとのヲウスという名の由来については、彼が双生児として生れたことと関係づけられている。

 后(きさき)二(ふたはしら)の男(ひこみこ)を生れます。第一(あに)を大碓皇子(おほうすのみこ)と曰(まを)す。第二(つぎ)を小碓尊(をうすのみこと)と曰す。一書に云はく、皇后、三の男を生れます。其の第三(みはしらにあたりたまふみこ)を稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)と曰すといふ。其の大碓皇子・小碓尊は、一日に同じ胞(え)にして双(ふたご)に生れます。天皇異(あやし)びたまひて、則ち碓に誥(たけ)びたまひき。故、因(よ)りて、其の二の王を号(なづ)けて大碓・小碓と曰(のたま)ふ。是の小碓尊は、亦の名は日本童男(やまとをぐな)。童男、此には烏具奈(をぐな)と云ふ。亦は日本武尊(やまとたけるのみこと)と曰す。幼(わか)くして雄略(をを)しき気(いき)有(ま)します。壮(をとこざかり)に及(いた)りて容貌(みかほ)魁偉(すぐれたたは)し。身長(みたき)一丈(ひとつゑ)、力能く鼎を扛(あ)げたまふ。(景行紀二年三月)

 大系本日本書紀の注に、「飯田武郷は栗田寛の説として、伊豆三宅島では産婦が臼にとりつき産する風習があることを参考に挙げたが、中山太郎は、栃木県足利郡において、難産のとき姙婦の夫が臼を背負って家の囲りを廻る習俗や、日高アイヌでは、お産が重いと臼に産婦が腹を押しあてる習俗、愛知県南設楽郡千郷村地方では、他家に嫁して子供ができた娘が初めて生家に帰ったとき、まずその子を臼の中に入れる習俗をあげ、出産と臼が密接な関連をもっていることを論じた。金関丈夫は、難産のとき夫が臼を背負って家を廻る習俗を重要視し、景行天皇も臼を背負って家を廻ったが、一人生れたがまだ終らず、二人生れるまで、重い臼を背負っていなければならなかったので、天皇思わず臼にコン畜生と宣うたのだと解釈している。」((二)61頁)とある。孫引きばかりの解説で下駄を預けている。石上1983.に、「碓子 臼 神の在処(ありど)と思われるものは、神そのものと考えられる。臼は、食料調製具、また神を招(お)ぐ楽器として、重要であったので神聖視され、神体として祀られる。「万葉集」・巻十六、「乞食者詠(ほかひびとのうた)」(三八八六)に、「庭にたつ臼(碓子)」とあるのも、神座(かみくら)である臼なのであろう。」(136頁)とある。この考え方も追随するものが少なく、了解に至る説明ではない。臼が古く神座と思われていたのか確証がない。臼の形が蓮台に似ていることで関係が出てくるのかもしれないが、不明である。むしろ、俗に臼を女性、杵を男性に見立てていることと関係があろうか。臼相手に Wow とか Yeah などと叫んだということである(注6)
 桜井2000.に、次のようにある。

 ……出産の民俗では、双子は不祥として忌まれ、臼は女性そのものの象徴と見るのである。景行天皇が双子が生まれて「臼に誥ぶ」というのは、不祥として忌まれた双子を再び生まない呪法だったとみるべきであろう。双子は祝福されなかったのであり、ヤマトタケルは生まれながらにして悲劇的な一面を背負わされていたことになるのであろう。(138頁)
 厠は斎屋としても理解されていたのである。その厠で小碓命は兄大碓命を殺害することによって、ヤマトヲグナになることができたのであろう。ヲグナのヲグはヲキすなわち「招き」と同根の語であり、ナは人の意とみてよかろう。すなわちヤマトヲグナとはヤマトの神霊を招き寄せる童子、いわばヤマトの神の憑坐であり、ヤマトの神の子とみられたことであろう。ヤマトヲグナとヤマトの巫女であるヤマトヒメとのかかわり方が解けてくるではないか。(141頁)

 事はそう都合よく民俗的には読み解けない。双子が不祥であるかどうか、実のところよくわからないのである。双子を喜ぶ地域もある。おそらく栄養事情から考えて、双子は命のリスクが高くなるから、あえて望むことではなかったのではないか。けれども、生れてきてしまったら生れてきてしまったものである。ただ、ヒトは1度に1人が基本で、双子が生まれることは少なく、「畜生腹」、「畜生児」と呼ばれることがあった。そして、臼を女性そのものに譬えるなら、臼に向かって誥ぶとは、多産のイヌのような母胎だということになり、それにふさわしい声はイヌの声、それも遠吠えに当たる声を発することを言っているものと考えられる。群れの仲間がたくさんいることを確認し合うのが遠吠えだから、多産で大家族を確かめ合っているイヌ科動物の遠吠えほど誥ぶときの声にふさわしいものはない(注7)
 双子で生まれてきたとき、畜生腹かとあやしんで臼に向かって誥んだ。そこから、順序として、兄を大碓皇子、弟を小碓尊と決めた。注目すべきは、なぜかミコ(「皇子」)とミコト(「尊」)と、異なる呼び名が行われている点である。第三子も「稚倭根子皇子」とミコ称なのだから、小碓においてのみ意図的にミコトにしようとしているとしか考えられない。これは後にヤマトタケルノミコト(「日本武尊」)へと至る伏線、あるいは、なぞなぞのヒントであろう。

大きな臼と小さな臼
大きな臼(浜松市角江遺跡出土、弥生時代、静岡県埋蔵文化財センターサテライト展示http://www.smaibun.jp/Satellite_tenji.html)
小さな臼(火きり臼、zyugyotokodomonet様「火起こし実演」https://www.youtube.com/watch?v=_uwr4P7HEhg)
 大きな臼で米穀を舂くのは、大量の精米の必要から行われる。酒造のためである。しかし、お酒が求められるのは、宴の時だけである。だから、兄の大碓命は普段の朝夕の食膳に陪侍しない。そのためネグ事件として描かれている。

 天皇、小碓命に詔はく、「何とかも汝(な)が兄(え)の朝夕(あさよひ)の大御食(おほみけ)に参(ま)ゐ出で来ぬ。専(もは)ら汝、ねぎ教(をし)へ覚(さと)せ」と此如(かく)詔ひて以後(のち)、五日(いつか)に至るまでに、猶(なほ)参ゐ出でず。爾(ここ)に、天皇、小碓命に問ひ賜はく、「何とかも汝が兄の久しく参ゐ出でぬ。若(も)し未だ誨(をし)へず有りや」ととひたまふに、答へ白(まを)さく、「既にねぎ為(し)つ」とまをしき。又詔はく、「如何(いか)にかねぎしつる」とのたまふに、答へ白さく、「朝署(あさけ)に廁(かはや)に入りし時、待ちて捕へ、搤(と)りて批(ひだ)きて其の枝(え)を引き闕(か)きて薦(こも)に裹(つつ)みて投げ棄(う)てつ」とまをす。是に天皇、其の御子の建(たけ)く荒(あら)き情(こころ)を惶(おそ)りて詔はく、「西方(にしのかた)に熊曽建(くまそたける)二人有り。是、伏(したが)はず礼(ゐや)無き人等(ども)ぞ。故、其の人等を取れ」とのたまひて遣はしき。(景行記)

 他方、弟の小碓命は、小さな臼で、毎食、米を舂いて脱穀し、ご飯を炊いて食べている。その際、どの程度舂いたか、玄米の歩合がどうであったかや、煮て食べたか蒸して食べたかなど、難しい問題は措いておく(注8)。小さな臼として毎回脱穀したと想定されうるのは、臼と呼ばれるものの最も小さな形態が火きり臼だからである。火きり杵を回転させて摩擦熱を発生させ、着火させる。記に、「海布(め)の柄(から)を鎌(か)りて、燧臼(ひきりうす)を作り、海蓴(こも)の柄を以て燧杵(ひきりきね)に作りて、火を鑽(き)り出だして云いしく、」(記上)とある。すなわち、小さな臼は、炊事の始まりを意味している。レンジでチンすることのなかった時代である。食事をするためには必ず火を熾(おこ)さなければならなかった。だから、小さな臼は毎度の食事を表す。
 農耕によって得られるようになったご飯は、掛けがえのないエネルギー源であるものの、炭水化物ばかりでは栄養が偏る。肉、魚、野菜、乳製品などまんべんなく食べることは健康に良い。おかずが必要である。おかずのことは、ヤマトコトバにナ(菜・魚)である。小さな臼は、必然的にナを招くことになる。招くことはヤマトコトバにヲク(招)である。桜井2000.は、神霊を招くことと捉えられているが、ヲグナという語はナを目的語としていると思われたと考えられる。だから、ヲウス(小碓)のことは、別名、あるいは、同名として、ヲグナ(童男)ということとなる。ヤマトコトバの“会意語”であるという新定義をしてもいいのかもしれない(注9)
 紀では熊襲討伐の話の初めから「日本武尊」という名で登場している。記では命名譚らしく、話の最後に「倭建命」として書き表わされている。これをヤマトタケルノミコトと言ったか、ヤマトタケノミコトと言ったかが目下の課題である。語幹にタケ(ケは甲類)とする語は、形容詞のタケシ、動詞のタケブ、タケル、名詞のタケルがある。丈・竹・茸・岳・高などのタケはケが乙類なので別語である。

 勇みたる たけき軍卒(いくさ)と ……(万4331)
 武芸人(たけきわざひと)に過ぎたまふ。(綏靖前紀)
 ……素戔嗚尊の、武健(たけ)くして物を凌ぐ意(こころ)有ることを……(神代紀第六段一書第一)
 稜威(いつ)の雄誥(をたけび)雄誥、此には鳴多稽眉(をたけび)と云ふ。(神代紀第六段本文)
 盾を植(た)てて雄誥(をたけび)したまふ。雄誥、此には烏多鶏縻(をたけび)と云ふ。(神武前紀戊午年四月)
 大夫(ますらを)の 思多鶏備弖(おもひたけび(思猛)て) ……(万2354)
 是に浦島子、感(たけ)りて婦(め)にす。(雄略紀二十二年正月)
 仙霊毗草 陶隠居に曰く、滛羊藿〈宇无岐奈(うむきな)、一に夜末止利久佐(やまとりぐさ)〉は羊が此の藿を食ひ一日百遍す。故に以て之れを名づく。一に剛前と名づく。蘇敬に曰く、俗に、仙霊毗草を是〈漢語抄に仙霊毗草は万良多介利久佐(まらたけりくさ)と云ふ〉と名づくといふ。(和名抄)
 誇 苦爪反、平、又下更反、挙言也。伊比保己留(いひほこる)、又云太介留(いひたける)。(新撰字鏡)
 嘋哮 二正、タケル、サケフ、ホユ、下文音孝、又鳥教反。(名義抄)
 やつめさす 伊豆毛多祁流(いづもたける(出雲建))が ……(記23)
 八十梟帥(やそたける)梟帥、此には多稽屢(たける)と云ふ。(神武前紀戊午年九月)

 形容詞のタケシは、雄々しいこと、勇猛であることを示す。その動詞化したタケブは、勇み立って怒号する、憤怒して大声を出す、いきり立って荒々しく振る舞うの意である。動詞のタケルは興奮して気持ちがたかぶる、特に色情が昂進して精神が不安定になることをいう。虎や獅子が吼え鳴き叫ぶような大きな声をあげることもタケルこととされている。やはり形容詞タケシの動詞化したものである。「感」字はカマクとも訓む。深い感動や感じ入ることとされている。白川1995.に、「「かまく」は感(かん)の字音によるとする説もあるが、囂(かま)と同系の語で、それにまぎれ、さそいこまれる意であろう。」(455頁)とする。大音響のなかに陥ることでは、カマクもタケルも同じである(注10)。名詞のタケルは、「梟帥」、「魁帥」とも書かれ、威勢があって勢いのある者のこと、特に地方に威を揮っていた蛮族の長をいう。「魁帥」は、「魁帥、此には、比鄧誤廼伽瀰(ひとごのかみ)と云ふ。」(神武前紀戊午年八月)と訓注がある。人の兄(このかみ)の意であるとされる。
 中村2000.の指摘どおり、タケルという形容は、直接的には賤賊、「梟帥」、「魁帥」に似つかわしい。都人たるヤマトの小碓命にはふさわしくないように見える。だからこそ、ヤマトタケルノミコと称したらどうですかという提案を却下して、熊曽建、川上梟帥を殺している。ヤマトタケルノミコでは、ヤマト(トは乙類)地域におけるタケル的存在の皇族と理解されてしまう。ヤマトも皇族も賤しくない。だからあり得ないという主張であった。ところが、そのミコに一音ト(トは乙類)が加わり、コ甲類がコ乙類へ変化しながら、ヤマトタケルノミコトと言い換えてみたら、言葉としてうまく適合した。得心がいったということで、命名譚として話が成立している。おもしろいと思ったのである。ト(乙類)は処の意のト(乙類)に同音である。

吠え声のこと

 タケルの義のうち、咆哮する意として捉えたのである。イヌの遠吠えをどのように書記するかについては、擬声語として定まっているとは言い難い(注11)。それが蛮族由来のものとするなら、オオカミの遠吠えとして考えるのがふさわしい。タケルの欲情的興奮は、動物的な情動を指している。家畜化した草食男子のイヌとは対極の様相が、オオカミの雄誥びである。オオカミが遠吠えする声こそ、たけびたける声として最もふさわしい。相手は熊曽建(記)であり、川上梟帥(紀)である。クマのような、川の上流にいる兇猛な獣に対抗するには、オオカミがふさわしい。大声をあげて動物が叫ぶ語は、ホユ(吠・吼)である。獣がたけり鳴くこと全般に使われている。

 啼 度嵇反、乱㘁也。保由(ほゆ)。(新撰字鏡)
 吠 上字犬乃保由留(ほゆる)。(新撰字鏡)
 嘷 玉篇に云はく、嘷〈胡刀反、豪と同じ〉は虎・狼の声也といふ。唐韻に云はく、吼〈呼右反、字亦吽呴に作る〉は牛の鳴く也、吠〈符廢反、己上三字、訓並びに保由(ほゆ)〉は犬の鳴く声也といふ。(和名抄)
 ……山岳(やまをか)、為に鳴り呴(ほ)えき。此則ち、神性(かむさが)雄健(たけ)きが然らしむるなり。(神代紀第六段本文)
 爰(ここ)に万(よろづ)が養へる白犬(しらいぬ)有り。俯し仰(あふ)ぎて其の屍の側(ほとり)を廻(めぐ)り吠ゆ。(崇峻前紀)
 流れ星に非ず。是、天狗(あまつきつね)なり。其の吠ゆる声、雷(いかづち)に似たらくのみ。(舒明紀九年二月)
 …… 吹き響(な)せる 小角(くだ)の音も 仇(あた)見たる 虎か吼(ほ)ゆると 諸人の おびゆるまでに ……(万199)
 …… 吾が待つ君を 犬な吠えそね(万3278)

 ヤマトコトバにホユ(吠)、漢語にホウコウ(咆哮)、英語に howl 、みなオノマトペ的造語である。イヌの場合、代表的な声として、bark に Bow-wow、howl に Owooo、growl に Grr、Urr などがある(注12)。けれども、オオカミの場合、howl が中心となる。Owooo とつづく長い発音こそ、雄たけびの代表音であろう。
オオカミの遠吠え(AnimalsAndLaughter様「Wolf Sanctuary - Pack Howling」https://www.youtube.com/channel/UCWwJI5waVnTD8ldBeYe-RMQ)
 日本民俗大辞典の「おおかみ 狼」の項に、「日本人の民俗において、狼の意味は次の三点に集約されるだろう。第一に、農作物を荒らす猪・鹿などを駆除する益獣として期待された。第二に、「虎狼」という表現に示されているように、この動物にはたけだけしい野獣というイメージが付着している。実際家畜、ときには人をも襲う。第三に、山に住む犬的な動物とみなされた。以上の狼観は、日本における狼信仰の成立に際し、大きな役割を果たした。」(233頁、この項、中村禎里。)とある。食い足りないものがある。ここでは狼の民俗誌について大風呂敷を広げることはしないが、狼の狼たる言葉の所以が、民俗に反映されていないはずはなかろう。山にすむ動物の wolf をオホカミと認識したこと、それがヤマトの人にとっての狼民俗の始まりではないか。近世の三峯神社の「お犬様」のお札は、ついこの間の出来事にしか思われない。
 ヤマトコトバにオオカミが神の尊称として、オホ(大)+カミ(神)であったことは確かである。wolf に当たる動物をそのオホカミという語に措定した古代の人の観念にこそ、狼の意味、狼とは何かという根源的な問いと答えがある。日本書紀などに性質の兇猛である点を例えとして用いられている。すなわち、本稿で取りあげているその声である。声自体は書記されていないから、何と吠えたと聞いたか定められないが、人の雄誥びの声は記されている。そしてまた、オオカミの遠吠えが仲間と呼び合う声であることは知られていたであろう。応答の語の声の大なるものはそれと似ている可能性もある。さらに、オホクチノ(大口の)という枕詞があり、大きな口を持つ狼の意で、マカミにかかっている。

 今、陛下(きみ)、嗔猪(しし)の故を以て舎人を斬りたまふ。陛下、譬へば豺狼(おほかみ)に異(け)なること無し。(雄略紀五年二月)
 高倉(たかくらじ)、「唯々(をを)」と曰すとみて寤(さ)めぬ。(神武前紀戊午年六月)
 大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに(万1636)
 三諸の 神奈備山(かむなびやま)ゆ との曇り 雨は降り来ぬ 天霧らひ 風さへ吹きぬ 大口の 真神の原ゆ 思ひつつ 帰りにし人 家に至りきや(万3268)

 大系本日本書紀の補注に、「唯唯は承諾のことば。文選、西都賦六臣注に「唯、応敬之詞」とみえる。唯唯の和訓のヲは、間投助詞のヲと同じもので、それを二つ重ねてヲヲというものと思われる。延喜祝詞式、祈年祭条の最初の所に、「集侍神主、祝部等、諸聞食宣。神主・祝部等共称唯。余宣准此」とある所の「唯」も同じくヲヲと訓んでいる。」((一)396頁)とある。応答詞とされるヲヲは、いわば動物的反応であるから、同じく反射的な発語形態である間投助詞と組成を同じくすることは大いにあり得ることである。ただし、伴信友・応声考などの解釈書にあるような、きちんと決まりをもっていろは48文字なり50音に写されているわけではないであろう。表記と音とが別々に変化していくことがあって、言文一致運動のようなことが起きている。ここのヲヲという語についても、wowo としか言わなかったとは考えられず、au や ou や aa や wou や wau や um や wawa など、いろいろなバリエーションがあったと感じられる。また、同じ発声が行われていても、よく似た近接する音と感じられて、を、おお、おう、あう、あふ、おつ、お、などと写されなかったとは言えない。しかし、応答詞について、古い時代に用例が多く残されているわけではないのも事実である。佐藤1999.に次のようにある。

 [ロドリゲス・日本大文典では、]これ[At(「あ」)]に対してVŏは別の古形の名残を留めている。『日葡辞書』には、「うん、そうだ。同意したり、物事を証言したり、許容したりする意を示すのに用いられる語」と説明があるが、その通りの文脈で、『平家物語』(鵺)に「お(異文 を)う」、『宇治拾遺物語』・『八百屋お七』(浄瑠璃)に「おう」、虎寛本狂言に「をを」と種々の形で表記されている。調査が不十分ではっきりと指摘できないが、江戸時代の文献にはこのほかに「あう」「あふ」「おふ」「応」などの形のものもいずれ見いだされるのではないかと期待される。Vŏ は、「を」の交替形「*わ」の長呼とおぼしいが、もっと単純に考えれば、感動の声「を」を二つ重ねたものから出ていると見てもよいであろう。「を」の母音が脱落気味に発せられたのが「う」、「をを」の母音交替形が「ゐゐ」という考え方からすれば、最も古い時期のものに「を」「をを」が見られ、「う」などの形がこれに遅れて登場するのも納得が行くであろう。(237頁、誤りと思われるカギ括弧は省いた。)

 神武紀では、「*わ」の長呼を「唯唯(をを)」と記したのであろう。このヲヲなる音声は、オオカミのほこり吠える大声ととてもよく似ている。あるいはヲウと記しても間違えではないと思われたであろう。すなわち、もともとの名であるヲウスノミコト(小碓命)とは、ヲウ(雄誥びの声)+ス(動詞「為」)+ノ(助詞)+ミコト(命)と捉えることができる。雄誥びを為ることとは、雄誥びをあげることである。それと同じ意味が、名替えしたかに思われるヤマトタケルノミコトである。ヤマトに、タケルという語が下接するヤマトタケルという語は、語の本質的理解において、ヤマ(山)+ト(処、トは乙類)+タケル(咆哮)のことを意味していると感じられる。山中において咆哮することは、本邦においては、オオカミの遠吠えとして聞こえたであろう。山に虎や獅子はいない。生れたときに双子だったため、臼に向かって誥ばれていた。その声は、ヲウと記して誤りでない音声である。ヲウという擬声語を発声することこそ、山で誥ぶことなのである。
 近代登山に、山でヤッホーと声をあげることは、ときに山彦となって返ってくる。それはちょうど、オオカミが本能的に遠吠えをして仲間に呼びかけたとき、同じく仲間も声があげてハーモニーを醸し出すのに相当する。オオカミがサイレンに反応するのは、サイレンが鳴り響いて遠くまで聞こえる効果を狙っているのと同じことをしている。オオカミの場合は答えるものがいるが、人間が大声を出しても反響はするが、答えて叫びあう本能は持っていない。結果、山彦は、何かが山に棲息していて答えていると思われた。いずれにせよ、山でヲウなどと誥べば、それは山彦、木霊であると捉えられる。ヤマトタケルという名自体が、山彦ということになる(注13)

 …… 山の極(そき) 野の極(そき)見よと 伴の部を 班(あか)ち遣し 山彦の 応へむ極(きは)み ……(万971)
 筑波嶺(つくばね)に 吾が行けりせば 霍公鳥(ほととぎす) 山彦響(とよ)め 鳴かましやそれ(万1497)
 ▲(虫偏に免) 山比古(やまびこ)(新撰字鏡)
 樹神 内典に云はく、樹神〈和名古多万(こだま)〉といふ。文選蕪城賦に云はく、木魅は山鬼〈鬼は下文に見ゆ。今案ずるに木魅は即ち樹神也。〉なりといふ。(和名抄)

 「ヤマ+ト+タケル」という語句の塊は、今で言えばヤッホーという言い方が決まり文句となっている。その昔はヲウであったと推測される。一つの言説としてまとまりを持って存在している。この点は重要である。

ミコトの奥義

 下接するのはミコトである。名前にミコト(命)とする呼び方には、「国常立尊(くにのとこたちのみこと)至貴を尊と曰ひ、自余を命と曰ふ。並びに美挙等(みこと)と訓む。下皆此に倣へ。〉」(神代紀第一段本文)と断り書きがある。日本書紀では、大国主命、少彦名命といった名が記されている。万葉集や記紀歌謡では、以下のような言い方が行われている。

A群(尊称)
 天皇(皇神祖)(すめろき)の 神のミコトの(万29・322・4089・4094・4098)
 知らしめす 神のミコト(万167)
 我が大君 神のミコト(万1053)
 足日女(たらしひめ) 神のミコト(万813・869)
 海神(わたつみ)の 神のミコト(万4220)
 日並しの 皇子のミコト(万49)
 我が大君 皇子のミコト(万167・478)
 愛(は)しきかも 皇子のミコト(万479)
 我が思ふ 皇子のミコト(万3324)
 たらちねの 母のミコト(万443・1774・3811・3962)
 ははそ葉の 母のミコト(万4164・4214・4408)
 ちちの実の 父のミコト(万4164・4408)
 なびかひし 夫のミコト(万194)
 かぐはしき 親のミコト(万4169)
 箸向かふ 弟のミコト(万1804)
 愛(は)しきよし 汝弟(なおと)のミコト(万3957)
 愛(は)しきよし 妻のミコト(万3962)
 恨めしき 妹のミコト(万794)
 汝が恋ふる 妹のミコト(万2009)
 八千矛(やちほこ)の 神のミコト(記3・6)
 若草の 妻のミコト(記5)
 いとこやの 妹のミコト(記5)

B類(お言葉)
 大君の ミコト恐み(万79・297・368・441・443・948・1019・1020・1021・1453・1785・1787・3240・3291・3333・3480・3644・3973・3978・4008・4214・4328・4358・4394・4398・4403・4414・4408・4472)
 大君の ミコトの幸(万4094)
 大君の ミコトのまにま(万4331)
 大君召すと …… かもかくも ミコト受けむと …… 参り来て ミコト受くれば(万3886)
 天皇(すめろき)の 食(を)す国なれば ミコト持ち(万4006)
 恐きや ミコト被(かがふ)り(万4321)
 愛(は)しきかも 君がミコト(万113)
 朝言(あさごと)に ミコト問はすな(万167)
 さにつらふ 君がミコト(万3811)

 ミコトという語は、ミ(接頭語、御)+コト(言・事)という語形成で、お言葉のこと、ご命令のことであったが、神や天皇などを尊んで呼ぶ場合にも……ノミコトという形で尊称として用いられている。コト(言)として尊重される理由について、天皇の言葉をその発話者の位が高貴であるから「御言(みこと)」であると考えることは、言葉の本質においては誤りである。言葉が事柄となることが、言葉のコトたる所以だからである。絶対に事となる言葉を尊称して、ミコトと言っている。昨年、退位のご意向を述べられた天皇陛下は、ミコト(B類)を発せられたミコト(A類)であった。古代において、天皇や神のお言葉は、実現されて当然であるから、ミコトをノル(詔・勅)人のことはミコトという称号を与えた。とはいえ、いわゆる古代の言霊信仰の下にある人々はみな、口に出して言ったことは必ず実行すべきであった。実際の事柄を言葉にすることは良くても、虚偽の言葉に変えることは許されなかった。当然のことと思われるかもしれないが、昨今のフェイクニュースの頻発を見ても、古代とは明らかに通念が異なると言える。高齢者をねらった特殊詐欺が後を絶たないが、詐欺の手口の多くは、電話のやりとりによっている。契約によって関係が成り立つ点は古代もそれ以降も同じであるが、古代には契約書というものがない。無文字時代に契約書はない。音声言語だけが頼りである。だから逆に、相当するように、言葉の正確性が巧みに求められていた。嘘をつくために言葉巧みになっていたのではなかった。
 B群の、お言葉の意の使い方を見ると、「大君の」と冠する例が数多い。「ミコト恐み」も慣用例である。天皇の詔のことをミ(御)+コト(言)とするのに異論の余地はない。そんななか、A群に「たらちねの 母のミコト」といった例が見られる。何をもってきわめて個人的な関係にのみあるお母さんや彼女のことを、ミコトと称して憚らないのであろうか。今日でも、身内の父親が喋ったことをよその人に「お言葉」とは言わず、父親のことを「お父様」とは言わない。いかに一流企業であれ、所属する会社の社長の名前は、秘書をはじめ社員すべてお得意様の前で呼び捨てである。万葉集の修辞に不遜が許される理由は、枕詞を冠するところにある。枕詞を冠する語がミコトにかかっている。よって、ふつうの人なのに賞するに値する人へと変じている。共通認識へと一般化する力が、枕詞にはある。タラチネノハハと聞けば言葉として美しく、一般化、通例化して、誰にとっても愛称敬語を用いて正しいと理解される。それがヤマトコトバのこころであり、言葉としての正当性を担保したものとまで考えられた。恰好のいい言辞だから、ミコトのミコトたる所以へと結びついている。枕詞の尤もらしさが、ミコトと称することを許している。ミコトは「言葉」なのだから、尤もらしければ尊い(注14)
 この説明は、上代人の気持ちに適っているものと考える。だから、ヤマトタケルノミコ(「倭建御子」・「日本武皇子」)と「応称」として名前を献上されてもそのままは受けず、相手を殺してヤマトタケルノミコト(「倭建命」・「日本武尊」)へ名前をすり替えている。そこに何の不審も起こらない(注15)。ヤマトタケルとは、山なる処で咆哮すること、今にしてヤッホー、昔はヲウーという決まり文句にして山彦だからである。言葉に実体が備わっている。ヒコという名は、崇神~景行期において天皇家の名前によく現れるヒメヒコ制の名として自然である。倭比売命の衣裳を借りて女装していた。景行紀二十七年条にも、日本武尊の後に、「弟彦」による討伐が付記されている。決まり文句であってみれば、ミコト(命)と呼ぶにふさわしい。ヤマトタケルノミコではなく、ヤマトタケルノミコトと定まった理由である。
 そして、それを平安時代の人たちは、ヤマトタケと縮めて訓読した。それが誤りかと言えば、実はそれも正解である。なぜなら、ヤマトタケルノミコトという名は山彦のことだからである。山でヤマトタケルーと大声で叫べば、山彦となって声が返ってくる。オオカミと違って声が加わるわけではなく、発した声の何百分の一かが反響して帰って来るだけである。ヤッホーが、ヤッホーとなって返ってくる。すなわち、ヤマトタケルーは、ヤマトタケ……ぐらいで返ってくると言っているのである。冗談を言っているわけであるが、第一に語学的証拠がある。山彦のことをなぜかは知らないが、木霊ともいう。山の木の霊が答えてくれているという意と考えられている。コダマが木のタマであるとすると、木にできるタマとは、木の子のこととも考えられるのである。キノコとは、茸である。ヤマトタケルーと叫んで返ってくるのは、本当に小さな音で、まるで玉のようなもので、ヤマト茸ともなる(注16)。したがって、ヤマトタケルという呼び名を称したことは、山彦、木霊のことなのだから、ヤマトタケに転訛して正しいのである。そして第二に文脈的証拠がある。大きな臼と小さな臼を対比して、その小碓命のことをヤマトタケ(ル)と言っているからである。
木霊の原理(西尾宣明「木霊(こだま)はなぜ返る?」『工業加熱』第52巻第5号(通巻311号)、2015年9月、48頁。「ヤマトタケルー」と呼べば、返ってくるのは「ヤマトタケ……」と、最後の音の方が混じり合って不明瞭になってしまう。)
 事ここに明らかとなった。この解釈により、景行天皇時代とされる記紀のヤマトタケル(≒ヤマトタケ)の物語が、言葉の洒落を核として成立しているとわかる。神話的な題材があって、それを基にして形作られているのではない。何かちょっとしたトピックがあった時、それを小ネタとしてどんどん積み上げ重ねていったものが記紀の説話である。これまで近代の合理主義思想によって、記紀の説話を捻じ曲げて解こうとしてきた。例えば、古代天皇制の統治の正統性を述べ立てるための方便であるとか、世界に通じる神話的な説話が繰り広げられていると考えようとしていた。それらはほとんど無意味である。ヤマトコトバでしか通じない頓智話について、よその国の人へのメッセージにはなり得ない。また、記紀を一巻として全体の構造から解釈しようとする議論や、記紀の間の相違点から原話を想起しようとする試みも行われてきた(注17)。方法論的に誤っている。原型のようなものを想定した時点で、なぜ、原型ではなく今の形になって残されているのか、後講釈のこじつけによる天動説まがいの説明が繰り返されることになる。なにしろ無文字の時代である。初めに言葉ありき、その言葉の撚り合わせが記紀の話(咄・噺・譚)である。無文字文化において、ヤマトコトバという言葉を練り上げて皆で確認、再確認するための拠りどころとして、きわめて大きな役割を果たしている。記紀の説話は、ヤマトコトバによって内部から読み返されることを待ちわびながら、1300年の時を過ごしている。
(つづく)

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