古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

万葉集巻十七冒頭「傔従等」の歌について

2024年08月02日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻十七の冒頭に、「悲傷羇旅」の歌が載る。「羇旅」は旅の道行きのことであるが、畿外へ出ることを指すとする考えもある。だが、後代のようにこの語が部立として用いられているわけではなく、キリョという漢語が意識されていたとは考えられず、ヤマトコトバのタビを書き表すのに恰好をつけて記しているにすぎない。タビという言葉は、遠近にかかわらず他所へ寝泊りすることと考えられている。
 題詞に記されている状況説明が問題視されている。大宰帥として赴任していた大伴旅人が大納言に任ぜられて平城京へ戻った。その旅路に従者を伴っている。そして、「傔従等別取海路京」した時、「悲-傷羇旅各陳所心作歌」が十首あげられている。「傔従」ないし「傔従等」とはどういう人たちか、「羇旅」を「悲傷」するとはどういうことなのか、明解が得られていない(注1)。ここでは専論である関谷2021.が載せる現代語訳を併せて掲げる(注2)

  天平二年庚午の冬十一月に、大宰帥だざいのそち大伴卿おほとものまへつきみ大納言だいなごんけらえ〈帥を兼ぬることもとの如し〉、みやこに上りし時に、傔従けんじゅうこと海路うみつぢを取りて京に入る。是に羇旅たび悲傷かなしびておのもおのも所心おもひべて作る歌十首〔天平二年庚午冬十一月大宰帥大伴卿被任大納言〈兼帥如舊〉上京之時傔従等別取海路入京於是悲傷羇旅各陳所心作歌十首〕
 背子せこを 安我あが松原まつばらよ 見渡せば 海人あま娘子をとめども 玉藻たまも刈る見ゆ〔和我勢兒乎安我松原欲見度婆安麻乎等女登母多麻藻可流美由〕(万3890)
  私の愛しいあの人を、私が(再会を待つ)松原から見渡すと、海人娘子たちが玉藻を刈っているのが見える。
   右の一首は三野みののむらじ石守いそもりの作。〔右一首三野連石守作〕
 荒津あらつの海 潮干しほひ潮満しほみち 時はあれど いづれの時か が恋ひざらむ〔荒津乃海之保悲思保美知時波安礼登伊頭礼乃時加吾孤悲射良牟〕(万3891)
  荒津の海には干潮や満潮の時が決まっているが、私は今後いつでも、恋しく思わないことがあろうか。
 いそごとに 海人あま釣船つりぶね てにけり 我が船泊てむ 磯の知らなく〔伊蘇其登尓海夫乃釣船波氐尓家里我船波氐牟伊蘇乃之良奈久〕(万3892)
  海人の釣り船たちもそれぞれの磯に戻ってしまった。私たちの船を泊める磯はまだ決まっていないのに。
 昨日きのふこそ 船出ふなではせしか いさなとり 比治奇ひぢきなだを 今日けふ見つるかも〔昨日許曽敷奈〓(人偏に弖)婆勢之可伊佐魚取比治奇乃奈太乎今日見都流香母〕(万3893)
  つい昨日、船出をしたのに。(いさなとり)比治奇の灘を今日見ることだ(もうこんな所に来てしまった)。
 淡路島あはぢしま 渡る船の 楫間かぢまにも われは忘れず いへをしそ思ふ〔淡路嶋刀和多流船乃可治麻尓毛吾波和須礼受伊弊乎之曽於毛布〕(万3894)
  淡路島の瀬戸を渡る船の、一漕ぎの間にも、私は忘れず(後にして来た)「家」のことをひたすら思う。
 大船おほぶねの 上にしれば 天雲あまくもの たどきも知らず 歌乞我が背〔大船乃宇倍尓之居婆安麻久毛乃多度伎毛思良受歌乞和我世〕(万3898)
  大船の上に揺られているので、天雲のようにやるせない。歌をお願いします、私の愛しいあなた。
 海人あま娘子をとめ いざり焚く火の おぼほしく 都努つの松原まつばら 思ほゆるかも〔海未通女伊射里多久火能於煩保之久都努乃松原於母保由流可問〕(万3899)
  海人娘子が焚くいざり火のように、ぼんやりと角の松原のことが思われる。
 たまはやす 武庫むこわたりに 天伝あまづたふ 日の暮れけば 家をしそ思ふ〔多麻波夜須武庫能和多里尓天傳日能久礼由氣婆家乎之曽於毛布〕(万3895)
  (たまはやす)武庫の渡しにて、(天伝ふ)日が暮れて行くので、(後にして来た)「家」のことをひたすら思う。
 家にても たゆたふいのち 波のうへに 浮きてしれば 奥処おくか知らずも〔家尓底母多由多敷命浪乃宇倍尓宇伎氐之乎礼八於久香之良受母〕(万3896)
  「家」にいても不安定にただよう命であるが、波の上に浮かんで揺られていると、物思いが果てしない。
 大海おほうみの 奥処おくかも知らず 行くわれを 何時いつ来まさむと 問ひしらはも〔大海乃於久可母之良受由久和礼乎何時伎麻佐武等問之兒良波母〕(万3897)
  大海のように果てしなく遠く出て行く私を、「何時お帰りなのですか」と尋ねた、あああの子よ。
   右の九首は、作者の姓名をつばひらかにせず。〔右九首作者不審姓名〕

 「傔従等」とある「等」は、「傔従」とは呼ばれない人のことを指すと考えられ、それは一首目の作者として名のある三野石守が該当する。三野石守が傔従を統率して船を進めた。どうして主人である大伴卿、大伴旅人と「別」なのか。延喜式・民部省下に、「凡そ山陽・南海・西海道等の府国、新任の官人、任に赴く者は、皆海路を取れ。仍りて縁海の国をして例に依りて食を給はしめよ。〈但に西海道の国司、府に到らば、即ち伝馬に乗れ〉。其の大弐已上は乃ち陸路を取れ。」とある。この条に関連する記述としては、続紀・神亀三年八月三十日条がある(注3)。虎尾2007.は、当該万葉歌でも、傔従等は別に海路で、大伴旅人は陸路を取って上京していると読むのが自然であろうとしている。長官は交通上の安全や、各地の巡察を兼ねながら陸路で行き、家来は効率を重視し、荷物運搬の都合上、船を使ったと考えられるのではないか。
 両者が別行動をとり、到着した奈良の都に合流した時、旅すがらでの思いについて歌を詠むように促し、傔従等が作った十首を採っている。すなわち、旅自体はすでに終わっており、旅装は解いて寛ぎながら、その間のこと、また、旅を総括するような思いをそれぞれ歌にしている。「悲傷」、「所心」とあっても、「羇旅」はすでに完了しているから、旅の最中まっただ中のつらさを吐露したものではない。
 「悲傷」した理由について、大伴卿と別行動だからというので「悲傷」したという説があるが、道中ご主人様の尊顔を拝することができなくて寂しかったと、現在目の前にしながら歌を詠むとは思われない。主従の関係にあることと同性愛的な恋情は直結するものではなく、職務を執行しているところへ私情を差し挟んで公にするとも考えにくい。「傔従」は筑紫で現地任官された人たちで、都まで随従しなければならなかった点をもって「悲傷」の主因と考えるのが妥当であろう。故郷から離れて寂しいという気持ちは容易に想像できる。九州で採用された人をわざわざ都に向かわせる状況を想定しづらいとする考え方もある(注4)が、「傔従」という立場の人は、大宰府の役人、地方公務員ではなく、大伴旅人に仕える従者、資人や舎人に当たる人を雇ったということであろう(注5)。下働きに働く人たちは、主人の旅人が引っ越すならその引っ越しに携わらなければならず、海路に就いたなら当然ながら船を漕ぐ水夫の役割を担っていただろう。
 すなわち、最初の一首、三野石守の作のみが官吏、残り九首を作った作者不明の人が「傔従」である。それらは彼らが水夫として働いていた時の歌ということになる。

 背子せこを 安我あが松原まつばらよ 見渡せば 海人あま娘子をとめども 玉藻たまも刈る見ゆ(万3890)
   右の一首は三野みののむらじ石守いそもりの作。

 「我が背子」は、三野石守が大伴旅人に対して呼びかけたものである。アガマツバラという地名があったとする説と、「松原」を「待つ」と掛けるための序詞とする説がある。尤も、アガマツバラという地名であっても「待つ」と掛けていることに変わりはない。所在は不明であるが、「傔従等」の「等」に当たる三野石守は大伴旅人とは別行動で、海路をたどって先に畿内まで来ていて、主人の到着を待っていたものと思われる。今か今かと松原から望んでいると、海人の乙女たちが玉藻を刈っているのが見えた。この歌に趣意があるとするなら(注6)、有名な麻続王をみのおほきみの玉藻の歌になぞらえた、広義の典故となる歌ということになるだろう。麻続王をみのおほきみは島流しの刑にあっていた。大伴旅人は太宰帥という体のいい島流しから帰ってきている。

 荒津あらつの海 潮干しほひ潮満しほみち 時はあれど いづれの時か が恋ひざらむ(万3891)

 この歌は、アラツという地名のツ(津)、船の停泊場に適したところがあり、それに引っ掛けて歌を作っている。潮の干満の時間は月の運行に合わせて起こる。干潮の時、満潮の時がある。一般に、「いすれの時か」とあるのを、干潮の時、満潮の時といったこととは無関係にいつでも、と解されているが誤りである(注6)。津が津として船の停泊にかなうのは、当時の大型船である準構造船の停泊形態として、潮が引いた時に干潟に乗り上げる形で逗まるものだったからである。アラツ(荒津)というだけのことがあって潮の干満の水位差が大きかったのであろう。停泊するのに確かで、停泊させたつもりなのにどこからか水があふれてきて船が流されるというようなことはなかった。すなわち、大型船を停泊させたり出航させたりするのに一日のうちで「時」は限られているけれど、干潮の時、満潮の時のどちらかが恋しいと思わないことがあろうか、いやいやそのようなことはなく、両方とも恋しいのだ、と歌っている(注8)

 いそごとに 海人あま釣船つりぶね てにけり 我が船泊てむ 磯の知らなく(万3892)

 この歌は、大型船で出航してから途中でどこかへ停泊させて休もうと思っていた時、海岸沿いは岩場のあるところばかりで、漁船は磯に近づいて漁民がさっさと陸にあがっているのを見て詠んだものであろう。漁船は小型船で、丸木舟だったかもしれない。ボートを泊めるには磯に近づけてロープでくくりつけておけば済むのだが、大型船の場合、船体を岩場に当てると壊れる恐れがある。砂浜に乗り上げたく、なかでもラグーンのような波の静かなところが求められた。さて、どこに停泊させたらいいというのか、接岸させるのに適した場所があるのか知らない、と嘆いている。

 昨日きのふこそ 船出ふなではせしか いさなとり 比治奇ひぢきなだを 今日けふ見つるかも(万3893)

 ヒヂキの灘というところは未詳である。昨日、出帆し、今日目にするのはヒヂキの灘だと言っている。ヒヂキとして知られる言葉は建築用語の肘木である。建築の組物を構成してますけたを支える横木のことであり、腕木うでぎともいう。和名抄に、「枅 唐韻に云はく、枅〈音は鶏、漢語抄に比知岐ひぢきと云ひ、功程式に肱木と云ふ〉は衡を承くる木なりといふ。」とある。直線的にしか受けない肘木のことを特に船肘木と言っている。「傔従等」が「別取海路京」と題詞にあり、船を使ったことを言わんとしているから、出航した時に船として海に浮かべていたものが、都に入ってみると宮殿や寺院には建築部材に転換していることを歌っているのだろう。人が水上での乗物だと思っていたものが頭の上にあって安定して桁を受け、上層部を支えている。「陳所心作歌」として、「今日」、「みやこ」で詠まれている。
船肘木のある建物(相国寺庫裏)

 淡路島あはぢしま 渡る船の 楫間かぢまにも われは忘れず いへをしそ思ふ(万3894)

 アハヂという語については、諺の「虻蜂取らず」の訛った形の頓知と考えられていたと推測される。Abu+fati→afadi である。虻蜂取らずとは、どっちつかずや中途半端なことの譬えに用いられている。自ら張った巣の中央に蜘蛛がおり、巣の対角線上に虻と蜂とが同時にかかった。両者とも蜘蛛にとっては獲物として大物で魅力的だが力も強い。どちらを捕ろうかと迷っているうちに、どちらも捕れないまま逃げられてしまう。すなわち、畿内にある朝廷は、西方からの侵入者に対し、明石、鳴門の両海峡を防ごうとして、淡路島の真ん中に城を一つ構えて守ろうとしたが叶わなかった。それを虻蜂取らずの淡路島と洒落て呼んでいるのだと見立てていた(注9)
 淡路島の、すなわち海峡には、二つの海峡があるとの思いが強かった。オールを使って水を掻き漕ぎ、楫を返すときには空中にあげて戻す。その空中にある時間のことを、「楫間かぢま」と呼んでいると一般に考えられている。「」を時間的な意味で捉えているわけだが、空間的な意味に用いる例も見られる。その場合、「楫間かぢま」は楫と楫との間、ふなばた(船端)のことと捉えることもできる。すなわち、ここで使っている「楫間かぢま」という言葉は、その二つの意味を掛けて使っていると考えたほうが適当だろう。船のハタ(端)には右舷、左舷の二つがあり、淡路島の両側にがあることと対応している。淡路島の海峡を渡る船には明石海峡、鳴門海峡を通過するものがあるが、そこは流れが速くなることがあるから必ず舷側の両側に楫を備えた船でなければならない。
左:櫂で漕いだと思われる船(須恵質船形土器、陶邑窯群栂232号窯出土、古墳時代、4~5世紀、大阪府教育委員会蔵、堺市博物館展示品)、右:櫓で漕ぐ船(一遍聖絵模本、鈴木久治写、大正2~3年、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591584をトリミング)
 この様子を上代語で表現する場合、ハタ……ヤ、ハタ……ヤ、という形で表すことがあった。ハタは「将」字で表すことも多い。また、「はたや」、「はたやはた」といった展開形になることもある。

 いましはた我に先だちて行かむ、はた我や汝に先だちて行かむ。(神代紀第九段一書第一)
 ここ許勢臣こせのおみ王子せしむくゑいに問ひて曰はく、「為当はた此間ここに留まらむとや、為当本郷もとつくになむとやおもふ」といふ。(欽明紀十六年二月)
 かむさぶと いなとにはあらね はたやはた かくしてのちに さぶしけむかも(万762)
 す痩すも けらばあらむを はたやはた むなぎを捕ると 川に流るな(万3854)

 すなわち、「淡路島あはぢしま 渡る船の 楫間かぢま」では、ハタ……ヤ、ハタ……ヤと、いずれの場合であれヤと疑問を表す助詞を伴うことになっている。右舷であろうが左舷であろうが、明石海峡であろうが鳴門海峡であろうが、つまりは、船のはたであれ、島のはたであれ、ハタは必ずヤで承けることになっている。ヤという言葉(音)にはの意味があり、家の建物のことをいう。いへという言葉でも、家屋のことを指して使われている。

 いへに来て を見れば 玉床たまどこの よそに向きけり いも木枕こまくら(万216)
 ゆふづく日 さすや川辺かはへに つくる屋の かたよろしみ うべよさえけり(万3820)
 小林をばやしに われ引入ひきれて し人の おもても知らず いへも知らずも(紀111)
 玉敷ける 家も何せむ 八重葎やへむぐら おほへる小屋をやも 妹としらば(万2825)

 というわけだから、必ず家のことを思うに決まっているのである。この作者はヤマトコトバの言葉遊びに長けていて、巧妙なジョークを歌にして開陳し、大伴卿の耳にもその頓智がよく通じたということである(注10)

 大船おほぶねの 上にしれば 天雲あまくもの たどきも知らず 歌ふ我が背〔歌乞和我世〕(万3898)

 この歌の五句目は難訓とされていた。筆者は、この歌群が、上京の途中で別行動をとっていた傔従等に対して、都に着いてから道中の思いを歌にしてごらんと大伴旅人が促し、その時に作られて歌われたものと考えている。「歌乞和我世」の「我が背」は旅人のことを指していると考えて間違いないから、旅人が歌を作って披露するようにと傔従たちに求めたことを言っていると理解できる(注11)。唐突に指名されて歌を歌えと言われて困っている。そこで、どうしたらいいかわからないという気持ちを、船中にいた時の、ふだんとは勝手が違ってどうしたらいいかわからなかったことと重ねることで一首を成している。大船の上に揺られていて、天雲がどちらへ向かっているのかわかるすべがない状況でした。今、ご主人様が歌を作れと乞うてくるのと同じようなものでした、と言っている。

 海人あま娘子をとめ いざり焚く火の おぼほしく 都努つの松原まつばら 思ほゆるかも(万3899)

 ツノノマツバラは万279番歌(「角松原」)にもあり、現在、兵庫県西宮市の津門つとの海岸を指すとされている。その地の風光が問題ではなく、そのように呼ばれていることをどう理解したらいいかに関心が向いている。海岸線に松原が広がっていたのであろうが、船が寄港するツ(津)でありつつ水がかりが悪いノ(野、ノは甲類)であるという。この矛盾した地名に対し、奇妙で間抜けな命名であると直感が働いている。そして、その謎解きをしようとして歌にしている。
 「いざり焚く火」とは松明たいまつのことであろう。脂分の多い松の枝を伐ったものが重宝され、明り取りのために火をつけた。盆栽のように芽を摘んだものではなく、自然に徒長した枝を乾燥させて使う。松葉が茂り伸びて行っているのが燃え、枝分かれしているところが鹿の角のように思われる。鹿がいるのはノ(野)であり、ツノ(角)があるから、白砂青松の海岸の名にしてかまわないし、集魚灯がぼやぼやっと光っているぐらいにぼやぼやっと理解できることだと述べている。ツノノマツバラの地名譚の歌を作っている。
 この観点は、「おぼほし」という形容詞で表現している点から検証される(注12)。オボホシには、視覚的、聴覚的にぼんやりして明らかでないさま、心が晴れなく不安であるさま、間抜けでおろかであるさま、の語意があるが、それらの意をかねて使われている。

 ぬばたまの 夜霧よぎりの立ちて おぼほしく 照れる月夜つくよの 見れば悲しさ(万982)
 朝日照る 島の御門みかどに おぼほしく 人音ひとともせねば まうらがなしも(万189)
 しきやし おきなの歌に おぼほしき ここのらや かまけてらむ(万3794)

 松明の集魚灯は少し明るいだけで集まって来るからぼんやりしている。ツノという語義撞着はどうにも間が抜けている。鹿の角の形をした松明から命名された地名かといえば、すっかり明らかになったとは自信が持てるものではない。三つの意をかねて歌に表現している。

 たまはやす 武庫むこわたりに 天伝あまづたふ 日の暮れけば 家をしそ思ふ(万3895)

 ムコという言葉には婿(聟)がある。和名抄に、「婿 爾雅に云はく、子の夫を婿〈音は細、字は亦、聟に作る。和名は無古むこ〉とといふ。」とある。娘のところへ渡り通ってくる婿殿がいて、日が天を伝うように毎日、暮れになると通い婚にやって来ていた。そんなことを武庫というところへ来て思い出し、家のことを案じている。

 家にても たゆたふいのち 波のうへに 浮きてしれば 奥処おくか知らずも(万3896)

 タユタフ(猶預)という言葉とオクカ(奥処)という言葉に、それぞれ二つの意味を掛けて使っている。家にいても落ち着かずに不安で生きた心地もしなかったが、波の上に浮いているとまったくゆらゆら揺れ動いて生死をさまよっている気がする。すなわち、この男はやきもち焼きなのである。家にいても女房が近所の男とちょっと話していたりしたら気が気でなかったが、旅人の帰京に同行させられて船で荷物を運び、都へ単身赴任することになってしまった。家に置いてきた妻は浮気をしているのではないかと際限のない不安に駆られている。オクカ(奥処)は、海の果てのどこだか知れないところへ船出していることと、夫婦が将来どうなるかわからないこととを掛けている。オク(奥)はオキ(沖)と同根の語である。空間的に入口から深く入った所、人の行かない神秘的な所、心理的に大切にする心の底、また、時間に転用してこれからの行く先、将来のことも言った。

 大海おほうみの 奥処おくかも知らず 行くわれを 何時いつ来まさむと 問ひしらはも(万3897)

 大海の果てがどこなのか、そんなわからないところまで行く自分に対して、今度はいつ来られますかといとしいあの子は問うている。大宰府から沖ノ島へ行くなら明日にもまた逢えようが、海は海でもあなたの知らない海の果てなのだよ。なかなか帰ることは難しいし、ひょっとすると将来に渡りもう逢えないかもしれないよ、というのである。「奥処おくか」という言葉は効いている。空間的な場所ばかりでなく時間的な将来のことを言っている。この歌では題詞の「悲傷」が直截的な意味合いになっており、一連の歌を締めくくるのにふさわしい。

 以上、万葉集巻十七の巻頭にある傔従等の歌を解釈した。これまでの通説では、歌に対する評価としては取り立てて言うほどもないもの、構成としては大宰府から平城京まで、傔従等の上京絵巻であるかのように海路を辿るように詠まれていると考えられていた。本稿では、入京後に、傔従等が道中でこみ上げた思いについて大伴旅人が歌にするように求め、各々が作った歌を集めたものであると捉え直した。題詞にもそう記されている。そして、歌のなかに地名が登場していても、その地の実景を写したものでも、歌枕的な地誌があったわけでもなく、言葉(音)としていかに解されるか、頓智、駄洒落を肝要とした歌であることが明らかとなった。当時は基本的に無文字社会であり、非情報化社会であった。言葉を口伝てに伝える以外に伝達の手段を持たなかったのである。「安我あが松原まつばら」、「荒津あらつ」、「比治奇ひぢきなだ」、「淡路島あはぢしま」、「武庫むこわたり」、「都努つの松原まつばら」という地名を耳にしても、実際に訪れた者以外にはその地の様子を思い浮かべることはできない。行動を別にしていた主人、大伴旅人の知らない場所を歌の文句に取り入れて、風景を思い浮かべさせようとしたりはしないだろうし、その場には他の客人も招かれていたかもしれない。知られていないことを披露しても場が白けるばかりである。歌は一回性の芸術で一度きりしか口にせず、当然、相手に通じることしか歌わない。低評価と判断して憚らない近代的な思考の枠組みとはまったく異なる切り口、言葉(音)のみで伝え得る最大限の情報量を盛り込んだ駄洒落の歌がこの十首の歌である。書契の時代以降に暮らしている人とはものの考え方が根本的に違う、異文化の作品であった。この点を知ること以上に万葉集を学ぶ理由も価値も存するものではない。

(注)
(注1)平舘1998.は、題詞の「悲傷」は他の万葉歌の題詞では、挽歌の類に見られると指摘し、文選の「羇旅」という語に流浪、軍旅、望郷などの憂いを感じるところから「悲-傷羇旅」と題していると考えている。しかし、文選の賦を成すような博識にして筆の立つ文士が歌を作っているわけではなく、「傔従等」が「各陳所心作」した歌十首が一連の歌群として構成されている。身分が低く教養も乏しい従者たちの「所心」に憂いがあるかどうかよりも、そのような人たちが作った歌を採録するに足りていることが重要である。天平二年十一月の時点で大伴卿が聞いて歌として体を成していると認め、よって記し残され、後に万葉集に採られている。「作者不姓名」の歌九首は、おそらく九人の「傔従」がそれぞれ一首ずつ作ったものであろう。「傔従等」の憂いの気持ちなど、大伴卿にとってもその他の人にとってもどうでもかまわないことである。表現としてうまくできていることが注目され、褒めるに値すると認めたということである。言葉づかいの技巧を評価した歌と捉えるのが正しい接近法である。
(注2)158~159頁。寛文版本に従う校本万葉集の歌の配列で歌番号(国歌大観)は付されているが、現在信頼が置かれている西本願寺本や元暦校本とは違っている。
(注3)「太政官処分すらく、『新任の国司、任に向ふ日、伊賀・伊勢・近江・丹波・播磨・紀伊等六国にはじきを給せず。志摩・尾張・若狭・美濃・参川・越前・丹後・但馬・美作・備前・備中・淡路等十二国は並食を給はず、自外の諸国くにぐにには、皆伝符を給へ。但し、大宰府并せて部下の諸国の五位以上には伝符を給ふべし。自外は使に随ひて船にらば、縁路の諸国、ためしに依りて供給せよ。史生も亦此になずらへよ』といふ。」(原漢文)とある。新大系本続日本紀(一の417頁、二の520頁)では、和銅五年五月十六日格を参照しながら、万446~450番歌の「天平二年庚午の冬十二月に、大宰帥大伴卿のみやこに向ひて上道みちだちせし時に作る歌五首〔天平二年庚午冬十二月大宰帥大伴卿向京上道之時作謌五首〕」は、「鞆の浦」や「敏馬の崎」を詠んでいて、海路をとったことを表すとされているが、陸路の可能性もあると指摘している。筆者は、大伴旅人が進んだのが陸路か海路かはともかく、万3890~3899番歌では「傔従等別取海路京」と、傔従等とは別行動だったから、都で合流した時に道中の様子を歌にせよと乞われ作られたものと考えている。そして、自ずと「悲-傷羇旅」の「所心」を述べることになったのがこの歌群だったのだろう。
(注4)関谷2021.161頁。「傔従」が単なる身辺警備のSPではなく、身の回りの世話をする舎人的性格を有しているとすると、都へ戻って新規採用してまた一から教え込み慣れ親しませなければならないことを考えれば、付き従わせることに何の不思議もない。
(注5)神野かんの1988.は、続紀・和銅元年三月二十二日条、「みことのりして、大宰府の帥・大弐、并せて三関と尾張守等とに、始めて傔仗けんぢゃうを給ふ。其のかず、帥に八人、大弐と尾張守とに四人、三関の国守に二人。其の考選・事力と公廨田くげでんとは、並に史生に准へしむ。」(原漢文)を挙げ、「傔従」を「傔杖」、武器をとって高官を護衛する従者の意と関連づけて捉え、また、続紀・大宝二年三月三十日条、「大宰府にもはらに所部の国の掾已下と郡司等とを銓擬することをゆるす。」(原漢文)を挙げ、現地採用したものであると捉えている。そして、特に万3891・3896・3897番歌は、そのような従者が離郷の心情を歌っているものとするのが自然であるとしている。神野1993.では歌の解釈の面から同様の内容をも発表している。にもかかわらず、「傔従」が現地採用の官人で、旅人に従って都へ出てきたとする見方に疑問を投げかける向きが絶えないのは、歌の解釈が覚束なかったためである。本稿の歌の解釈、ヤマトコトバ言語ゲーム論は、神野氏の主張を支持する形となっている。
(注6)なかろうはずはない。もしないのなら多くの人に広めても誰も理解することはない。伝えるに値しなければ伝えることはなく、伝わることはない。伝わっていなければ、万葉集に載せられて今日その存在を知ることもない。
(注7)Aの時があり、Bの時がある、その「いづれの時か」と言うとき、AかBかの二者択一を示すと考えられる。「いずれの時」と反語のヤで承けるのであれば、Aか、いやいやAではない、Bか、いやいやそうではない、私がいとおしく思わないだろう時はAとかBとかいうことではない、すべての時において、いつもいとおしく思うだろう、という意味になる。この場所は「荒津」であり、潮の満ち干が激しい。大船は干潟に乗り上げる形で停泊させるから、満潮時に船は停泊や出航が可能で、干潮時に下船や乗船が可能になる。「潮干」の時も「潮満ち」の時も恋しく思わないことはないだろう。しかし、その間の中途半端な水位の時には、船員は何もすることがなく手持ち無沙汰となり、いわば船員でなくなる時であって全然恋しくない時ということになる。
 「荒津」というのだから、船を動かせる満潮の時間帯も、乗客を乗り降りさせる干潮の時間帯も十分に長く確保される場所であったのだろう。思うように仕事に勤しめたから歌にしている。ひょっとすると、難波津の停泊があまりうまくいかなかったことを暗に指しているのかもしれない。
(注8)これまでの解釈では、「恋ふ」という語について、異性の誰かに気持ちが引かれるという意に解し、残してきた人に対する恋心など、人を相手とする恋であるとする解釈が行われてきた。しかし、「恋ふ」には比喩的に、慕う、なつかしむ、の意がある。

 いにしへに 恋ふる鳥かも 霍公鳥ほととぎす 弓絃葉ゆずるはの 御井みゐの上より 鳴き渡り行く(万111)

 あくまでも「海路」のことを歌っているのだから、引き潮の時、満ち潮の時のいずれの時も「津」としての機能を発揮するからいとおしいのであり、だからこそ「荒津」を歌っているのである。
(注9)拙稿「蜻蛉・秋津島・ヤマトの説話について─国生み説話の多重比喩表現を中心に─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/11778e097320217e614b879e71fd97ba参照。当時の常識として通行していたと考える。
(注10)現代語訳に誤りとする点はないが、「淡路島」をとりたててモチーフにしている理由について省みられたことはなかった。
(注11)状況が定まらないながらも、ウタコヘワガセ、ウタコハムワガセ、ウタへコソワガセ、ウタヒコソワガセなどと訓まれてきている。
(注12)「おぼほし」という語については、清濁に移行があったかとも考えられており、オホホシ、オボボシという形も想定されている。挙例中の歌でも仮名書きからオホホシとするべきものがあるが、ここでは一律にオボホシとした。

(引用・参考文献)
阿蘇2013. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 九』笠間書院、2013年。
伊藤1998. 伊藤博『萬葉集釈注 九』集英社、1998年。
神野1988. 神野富一「大宰帥大伴旅人の傔従等」『水門─言葉と歴史─』第16号、1988年12月。
神野1993. 神野富一「大宰帥大伴旅人の傔従等の歌」『美夫君志』第47号、平成5年11月。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(四)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
関谷2021. 関谷由一『万葉集羇旅歌論』北海道大学出版会、2021年。
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虎尾2007. 虎尾俊哉『訳注日本史料 延喜式 中』集英社、2007年。
橋本1985. 橋本達雄『萬葉集全注 巻第十七』有斐閣、昭和60年。