古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

仲哀記、香坂王と忍熊王のうけひ狩とその後の戦闘について

2019年08月08日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 本稿では、古事記の仲哀天皇条に見える香坂王と忍熊王の反乱譚の前半、うけひ狩と戦いのはじまりの部分について検証する。最初に、今日一般に行われている訓読文と原文を示す。

 是(ここ)に息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)、倭(やまと)に還り上ります時、人の心を疑ひしに因り、喪船(もふね)を一つ具へ、御子を其の喪船に載せ、先づ「御子は既に崩(かむあが)りましぬ」と言ひ漏らさしめたまひき。如此(かく)上り幸(いでま)す時、香坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)聞きて待ち取らむと思ひ、斗賀野(とがの)に進み出で、宇気比(うけひ)獦(がり)を為(し)き。爾(ここ)に香坂王、歴木(くぬぎ)に騰(のぼ)り坐(ゐ)て見るに大きなる怒猪(いかりゐ)出で、其の歴木を堀り、即ち其の香坂王を咋(く)ひ食(は)みき。
 其の弟忍熊王、其の態(わざ)を畏(かしこ)まず、軍(いくさ)を興して待ち向へし時、喪船(もふね)に赴(おもぶ)き空船(からふね)を攻めむとす。爾に其の喪船より軍を下(おろ)して相戦ひき。此の時、忍熊王、難波の吉師部(きしべ)が祖(おや)伊佐比宿禰(いさひのすくね)を以て将軍(いくさのきみ)と為(し)、太子(ひつぎのみこ)の御方(みかた)は、丸邇臣(わにのおみ)が祖難波根子建振熊命(なにはねこたけふるくまのみこと)を以て将軍と為(す)。
 故(かれ)、追ひ退(そ)けて山代(やましろ)に到りし時、還り立ちて各(おのおの)退(しりぞ)かずて相戦ひき。爾に建振熊命、権(たばか)りて云はしむらく、「息長帯日売命は既に崩(かむあが)りましぬ。故、更に戦ふべきこと無し」といはしむ。即ち弓絃(ゆづる)を絶ちて、欺陽(いつは)りて帰服(まつろ)ひぬ。是に其の将軍既に詐(いつはり)を信(う)けて、弓を弭(はづ)し兵(つはもの)を蔵(をさ)めき。爾に頂髪(たきふさ)の中より設弦(うさゆづる)を採り出(いだ)し、更に張りて追ひ撃ちき。(仲哀記)
 於是息長帯日売命、於倭還上之時、因疑人心、一具喪船、御子載其喪船、先令言漏之御子既崩。如此上幸之時、香坂王・忍熊王聞而思将待取、進出於斗賀野、為宇気比獦也。爾香坂王、騰坐歴木而是大怒猪出、堀其歴木、即咋食其香坂王。其弟忍熊王、不畏其態、興軍待向之時、赴喪船将攻空船。爾自其喪船下軍相戦。此時忍熊王、以難波吉師部之祖・伊佐比宿禰為将軍、太子御方者、以丸邇臣之祖・難波根子建振熊命為将軍。故追退到山代之時、還立各不退相戦。爾建振熊命、権而令云、息長帯日売命者既崩。故、無可更戦。即絶弓絃、欺陽帰服。於是其将軍既信詐、弭弓蔵兵。爾自頂髪中採出設弦、更張追擊。……

 香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)が、神功皇后と後に応神天皇となるその御子が帰還してくるときにクーデターを図っている。まずうまくいくかどうかを占うために、斗賀野へ行ってうけひ狩りをしている。うけひ狩りとは、狩りの成果によって吉兆の判断をしようとする古代の占い法である。
 香坂王はクヌギの木に騰って座っていた。すると、大きくて興奮しているイノシシが出てきて、そのクヌギの木の根元を掘って倒し、香坂王のことを噛んで食べてしまった。これはとても不吉な予兆である。にもかかわらず、その弟の忍熊王は、そのしるしをおそれることなく、軍を興して戦に打って出ている。その結果は、忍熊王軍は敗れて川に戦死することになる。
 原文の「爾香坂王騰坐歴木而是大怒猪出堀其歴木即咋食其香坂王」の「是」とある個所について、諸解説に難点が多い。兼永筆本傍訓に従いココニと訓む説(注1)は劣勢で、多くは宣長説(注2)に従い「見」の誤写とし、さらには、「是」字のままにミルと訓んでいる。

 爾(ここ)に香坂王歴木(くぬぎ)に騰(のぼ)り坐(いま)すに、是に大きなる怒猪(いかりゐ)出でて、その歴木を堀(ほ)りて、即(すなは)ち其の香坂王を咋(く)ひ食(は)みき。(全集本古事記、240頁)
 ここに香坂王(かごさかのみこ)、歴木(くぬぎ)に騰(のぼ)り坐(いま)すに、ここに大きなる怒り猪(ゐ)出(い)でて、その歴木(くぬぎ)を堀りて、即ちその香坂王(かごさかのみこ)を咋(く)ひ食(は)みき。(次田1980.、190頁)
 爾(しか)くして、香坂王(かぐさかのみこ)、歴木(くぬぎ)に騰(のぼ)り坐(ま)して見(み)るに、大(おほ)きなる怒猪(いかりゐ)、出(い)でて、其(そ)の歴木(くぬぎ)を掘(ほ)りて、即(すなは)ち其の香坂王を咋(く)ひ食(は)みき。(新編全集本古事記、250頁)
 爾(しか)くして、香坂王(かごさかのおほきみ)、歴木(くぬぎ)に騰(のぼ)り坐(ま)して見(み)るに、大(おほ)き怒猪(いかりゐ)出(い)でて、其(そ)の歴木(くぬぎ)を堀(ほ)る。即(すなは)ち、其(そ)の香坂王(かごさかのおほきみ)を咋(く)ひ食(は)みつるに、(新校古事記、106~107頁)
 尓(しか)して、香坂王(かごさかノおほきみ)、歴木(くぬぎ)に騰(ノぼ)り坐(ゐ)而(て)見(み)るに、大(おほ)きなる怒猪(いかりゐ)出(い)で、其(ソ)ノ歴木(くぬぎ)を掘(ほ)りて、即(すなは)ち其(ソ)ノ香坂王(かごさかノおほきみ)を咋(く)ひ食(は)みき。(思想大系本古事記、201頁)
 しかして、香坂の王、歴木(くぬぎ)に騰(のぼ)り坐(ゐ)て見るに、大きなる怒(いか)り猪(ゐ)出でて、その歴木を掘りて、すなはちその香坂の王を咋(く)ひ食(は)みき。(古典集成本古事記、250頁)
 爾(ここ)に香坂の王、歴木(くぬぎ)に騰(のぼ)り坐(ゐ)て見(み)るに、大きなる怒猪(いかりゐ)出でて、其の歴木(くぬぎ)を堀(ほ)りて、即ち其の香坂の王を咋(く)ひ食(は)みき。(西郷2006.、228頁)
 爾(ここ)に香坂の王、歴木(くぬぎ)に騰(のぼ)り坐(ゐ)て是(み)るに、大きなる怒猪(いかりゐ)出でて、其の歴木を堀(ほ)りて、即ち其の香坂の王を咋(く)ひ食(は)みき。(倉野1979.、288頁)
 尓(しか)して香坂王、歴木(くぬぎ)に騰(のぼ)り坐(ゐ)而(て)是(み)るに、大(おほ)きなる怒(いか)り猪(ゐ)出(い)で、其の歴木を堀(ほ)り、其の香坂王を咋(く)ひ食(は)みつ。(中村2009.、154頁)

 いま、うけひ狩をしている。ウケヒについて詳しく考えなければならない。ウケヒは、前言を申し立てておいてそれにかなうかどうかで実際のことを予測する占い法である(注3)。試してみて結果がAであるならば実際にもA´になる、試してみて結果が~Aであるならば実際にも~A´になると予め言っておき、さてどうかと占いにかけるのである。ただし、記紀に載るウケヒでは、必ずしも前言が明白でないケースが散見される。ここでも一見そう見える。狩りをしているのだから、獲物が得られれば占っている内容、つまり、戦で勝利し、得られなければ戦でもうまくいかないことを言っていることは明らかと考えるのである。そして、ウケヒの狩で獲物が得られないどころか獣に襲われて命を失っているのだから、実際の戦でも敗死するというのがこのウケヒの占いの兆候と捉えられている。
 しかるに、斗賀野にうけひ狩に行ったのは、香坂王と忍熊王の2人である。ウケヒの条件設定について打ち合わせをしないと、互いの意思がこんがらがってしまう。この場面でもこんがらがって「其弟忍熊王不畏其態」となっている。何がAであり、何が~Aなのか、混乱している。ウケヒが占い法であるなら、信じているから占いをしているはずである。忍熊王は、占いを信じていなかったということを表しているのではない。そのようには書いてない。占いの結果について独自の解釈をしたから、神功皇后・応神天皇方との戦いに挑んだといえる。そして、ウケヒが前言を示す形の占いであることが本来なら、ウケヒ狩の文章で、「是」とあったら、占いの結果の是非、吉凶を示すものと考えられる。良しとするの意である。

 摩理勢は素(もと)より聖皇(みかど)に好(よみ)せらゆる。(舒明前紀)
 十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもへりのいかり)を棄てて、人の違(たが)ふことを怒(いか)らざれ。人皆心有り。心各(おのおの)執れること有り。彼(かれ)是(よみ)すれば我は非ず。我是すれば彼は非(あしみ)す。我必ず聖(ひじり)に非ず。彼必ず愚(おろか)に非ず。共に是(これ)凡夫(ただひと)ならくのみ。是(よ)く非(あし)き理(ことわり)、詎(たれ)か能く定むべけれ。相共に賢く愚なること、鐶(みみかね)の端无きが如し。是(ここ)を以て彼人瞋(いか)ると雖(いふと)も、還りて我が失(あやまち)を恐れよ。我独り得たりと雖も、衆(もろもろ)に従ひて同じく挙(おこな)へ。(十曰。絶忿棄瞋、不怒人違。人皆有心。心各有執、彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理、詎能可定。相共賢愚、如鐶无端。是以彼人雖瞋、還恐我失。我独雖得、従衆同挙。)(推古紀十二年四月)

 2例目が「是」字の例で、少し長く引き、「是」字を多様に用いていることを示した。「是」「非」を対にし、「是」はヨミス・ヨシ(嘉・善)、「非」はアシミス・アシ(悪)と訓んでいる。うけひ狩の占いにおいても、「是」をそのように解すればいいとわかる。

 如此上幸之時、香坂王・忍熊王聞而思将待取。進出於斗賀野為宇気比獦也。爾香坂王騰坐歴木而是。大怒猪出堀其歴木、即咋食其香坂王。其弟忍熊王不畏其態興軍待向之時、……
 如此(かく)[神功皇后・応神天皇側ガ]上り幸(いでま)す時、香坂王・忍熊王聞きて待ち取らむと思ふ。斗賀野(とがの)に進み出でてうけひ獦(がり)為(す)。爾(ここ)に香坂王、歴木(くぬぎ)に騰(のぼ)り坐(ゐ)て是(よみ)す。大きなる怒猪(いかりゐ)出で其の歴木を堀(ほ)り、即ち其の香坂王を咋(く)ひ食(は)む。其の弟忍熊王、其の態(わざ)を畏(かしこ)まらず軍(いくさ)を興して待ち向ふ時、……

 斗賀野へ行ってウケヒ狩をした時、香坂王は歴木(くぬぎ)の木に登って木の股になっているところにどっかりと座って、狩りに成功した良いしるしであると顕示した。ところが、興奮した大きな猪が出てきて、クヌギの根元から掘り返して倒し、香坂王を食いちぎって食べてしまった。忍熊王のほうは、「態(わざ)」を無視して挙兵している。
 「態(わざ)」と言っている。ワザは、ワザハヒ(災・禍)、ワザヲキ(俳優)、コトワザ(諺)、シワザ(仕業)など、深い意味をこめながら真意を顕在化する術のことをいう。どうして忍熊王は「不其態」といった不敵な行動に出られたのか。それは、その「態」の何たるかについて正しく理解できなかったからであろう。木の根元から転覆させ、大将を食いちぎってしまうことを、支えとなっている神功皇后を倒し、御子の応神天皇を食いちぎることとなぞらえたのかもしれない。彼自身は、何を以てウケヒの吉凶とするかについて前言していない。すなわち、ウケヒという古代独自の占い法を信じていなかったのではなく、結果の読み違えをしたということである。「爾香坂王騰-坐歴木而是。」とあれば、香坂王が勝手に「騰-坐歴木」を「是」としているだけで、忍熊王はそうは思っていなかったことを不言にして示している。
 紀には、ほとんど同じように描出されている。

 時に麛坂王(かごさかのみこ)・忍熊王、共に菟餓野(とがの)に出でて祈狩(うかひがり)して曰く、〈祈狩、此には于気比餓利(うけひがり)と云ふ。〉「若し事成すこと有らば、必ず良き獣(しし)獲(え)む」といふ。二(ふたり)王各(おのおの)仮庪(さずき)に居(ま)します。赤き猪(ゐ)忽(たちまち)に出でて仮庪に登りて、麛坂王を咋(く)ひて殺しつ。軍士(いくさひと)悉(ふつく)に慄(お)づ。忍熊王、倉見別(くらみわけ)に謂(かた)りて曰く、「是の事、大きなる怪(しるまし)なり。此(ここ)にしては敵(あた)を待つべからず」といふ。則ち軍を引きて更に返りて、住吉(すみのえ)に屯(いは)む。時に……(時麛坂王・忍熊王、共出菟餓野而祈狩之曰、〈祈狩、此云于気比餓利。〉若有成事、必獲良獣也。二王各居仮庪、赤猪忽出之登仮庪、咋麛坂王而殺焉。軍士悉慄也。忍熊王謂倉見別曰、是事大怪也。於此不可待敵。則引軍更返、屯於住吉。時……)(神功紀元年二月)

 「香坂王騰坐歴木」(記)と「二王各居仮庪」(紀)と多少異なっているが、高い所にいることがうけひ狩において良しとしていることがわかる。紀では、2人の王とも高いところにいて、しかる後、良い獣を得て万々歳という段取りであったらしいとわかる。どこに獣がいるかを高い所から見て、追い込みをかけさせていたという状況を語っていると思われる。狩りは獲物の獣の位置や動きを捉え、配下の者をうまく操ることが肝要である。そのため、高い所に陣取りさえすれば、99%狩りは成功する。それを前提とした設定と思われる。そういった常識から、2王とも桟敷席に高みの見物を決め込んでいる。まさかその高い所へ「赤猪」が登ってくるとは予想していなかった。このような表現では、麛坂王・忍熊王ともに同じことをしているから、占いの結果についてそれは良くない兆候であると忍熊王も認識している。
 記では、香坂王ばかりがクヌギの木に登っている。忍熊王は何をしていたか描かれていない。ウケヒで必要な前言、ないし、それに準じてしるしとなる行動をとっていないことになる。しかも、一方の香坂王にしても、何か前言をしていたわけではない。忍熊王は何も聞いていないのである。だから、香坂王が大きなイノシシに襲われても、「不其態軍待向」ことになっている。ウケヒの「態」の真意について「不畏」なのである。ウケヒ自体を信じていないのではなく、「大怒猪出堀其歴木、即咋-食其香坂王。」ことをウケヒのしるしとして、その真意に気づかなかったのである。そう考えることが、「爾香坂王騰坐歴木而是……」という文章を理解するのに最もふさわしい。香坂王は一人得手勝手にクヌギの木の上に登っていい気になっていただけだと思っていた。

 爾(ここ)に香坂王、歴木(くぬぎ)に騰(のぼ)り坐(ゐ)て是(よみ)す。

 この理解は、忍熊王の無知をさらけ出すことにもなる。狩りの場合は相手が獣の戦いであるが、神功皇后・応神天皇方とは人間どうしの戦いになる。知恵比べも必要になってくる。緒戦はすぐに訪れる。

 其弟忍熊王、不畏其態、興軍待向之時、赴喪船将攻空船。爾自其喪船下軍相戦。

 原文の「其弟忍熊王不畏其態興軍待向之時赴喪船将攻空船爾自其喪船下軍相戦」とある「攻」は、校訂本において、「政」は誤写で「攻」と直す説がとられている。しかし、真福寺本に「政」とある。兼永筆本に「攻」とあるも傍書に「政」とある。
 神功皇后・応神天皇方は、「喪船」作戦を行っていた。その「喪船」に忍熊王は向っている。新編全集本に、「兵を乗せていないから「空しき船」という。実は喪船の方に兵を乗せていたから、兵船と見えたのは空船になっていたのである。はかりごとであり、それにまんまとひっかかって、忍熊王らは空の船の方に攻めかかってしまった。なお「喪船を赴けて」は喪船をやりすごすことをいう。喪船=空船ととるのが通説だが、それでは話が合わない。……空船を攻めている間に喪船から軍勢を上陸させた。迎撃された時もっとも危険なのが上陸時であり、それに対して立てた作戦が喪船であった。」(250頁頭注)とある。よくわからない説明である。
 戦局は時間の経過に従って進められている。その途中に「宇気比獦」の記事が挿入されている。「宇気比獦」部分や将軍選定について省くと次のようになる。

 於是息長帯日売命、於倭還上之時、因疑人心、一具喪船、御子載其喪船、先令言漏之御子既崩。
 其弟忍熊王、不畏其態、興軍待向之時、赴喪船将攻[政]空船。
 爾自其喪船下軍相戦。
 故追退到山代之時、還立各不退相戦。
 爾建振熊命、権而令云、息長帯日売命者既崩。故、無可更戦。即絶弓絃、欺陽帰服。於是其将軍既信詐、弭弓蔵兵。爾自頂髪中採出設弦、更張追擊。

 戦いの現場が移ろっている。新編全集本のように「喪船をやりすごすこと」をしたとすると、奇妙なことになる。最初、「一具喪船、御子載其喪船」とあった。やり過ごされると、横たわらせている御子は喪船に乗ったままどこへ行ってしまったのだろうか。やはり、喪船=空船ととるべきであろう。
 真福寺本に「赴喪船将空船」とあるのをそのままに、忠実に訓めば、次のように訓むことができる。

 喪船に赴(おもぶ)き空船を政(ただ)さむとす。

 政 ◆(政の旁を攴とするもの) 之盛反、マツリコト、ノリ、ヲサム、アラシム、マサシ、ナリ、セム、サカシ、ウツ、カタシ、タタス、ノフ、ナル(名義抄)
 敢へて政(ただ)さずはあらじ。(不敢不政)(史記殷本紀第三)

 「政」字をタダスと訓んだ実例に乏しいものの、解釈として考えたとき最もふさわしい(注4)。「喪船」にはご遺体が載せてある。付き添いや船頭はともかく、それ以外に生きている人は乗っていないであろうと思われるから「空船」である。まずはその船を確かめなくてはならない。臨検である。兵士の乗っていない「空船」を「攻」撃するはずはないから、「政」とあって確かである。「赴(おもぶ)く」は、面(おも)+向(むく)の意である。顔が面と向かうことである。そこから、心が向く、そちらへ行く、同意する、従う、といった意味へと展開する。やり過ごすという意味にはならない。対峙するという義の反対の意味には用いられない。主語は忍熊王である。「赴喪船将政空船」という記述からは、忍熊王から先に攻撃したわけではないことが見て取れる。そうしていたら、「空船」と思っていた「喪船」から、隠れていた敵兵が現われ「下」りてきて戦いになっている。忍熊王側から「空船」を「攻」めていたら、応神天皇方は「下」りて来ることができず、船上で戦いになったであろう。ここは忍熊王軍は実戦において抜けていることを表わしている。最初の喪船=空船のある場所での戦は、応神天皇方の上陸作戦の巧妙さを示すものではなく、油断して喪船=空船と思って近づいたら、船底に隠れていた兵士が出てきて襲いかかられて戦になっている。
 この忍熊王方の油断のモチーフはさらに続く。退却して山代に到って戦っているとき、神功皇后・応神天皇方は、将軍の建振熊命が、同様に「権(たばか)り」の策を講じている。自軍の兵士に、神功皇后が崩御したからもう戦う理由がなくなったと言わせている。そして、弓絃を切って帰服する姿勢を示した。忍熊王方の将軍、伊佐比宿禰は真に受けて、自分たちも弓弦をはずして兵器をしまってしまった。すると、神功皇后・応神天皇方は、髪の房のなかに隠していた控えの弓弦を取り出して弓を張り、追撃している。戦において、再三にわたって相手を欺く戦術がとられており、いつだって先手必勝に撃ってくるのであった。そのことを一貫して述べているわけだから、「攻」ではなく「政」で、タダスと訓むのが最もふさわしいと知れる。
 以上、仲哀記の香坂王と忍熊王のうけひ狩とその後の戦闘場面において、本文校訂に「是」は「是」のまま、「政」は「政」のままにあるべきことを検証した。


(注)
(注1)三矢1924.も「是」をココニと訓むべきとしている。「「而」は承上之詞とて、我が「テ」に近似せるより、漢文にては大抵「テ」と訓じたり。其の意によりて、古事記は「而」を用ゐたる中に、唯一つの異例あり。
  爾香坂王騰坐歴木而(テ)是(ミヤマフニ)、大怒猪出掘其歴木即咋食其香坂王〈中六十四丁〉
 鈴屋翁は「而是」の「是」を見の誤写としてかく読まれたるが、田中頼庸氏は、諸本を校すれど、皆「是」なるより、戦国斉策に「而此者三」とある高註に「而如也」との訓あるに従ひ「而是」を「如是」と訓じ、「騰リマシヌ、カクテ」を読みたり。此の「而」「如」相通の例は、詩・書・易・左伝・管子・荀子・孟子等に、其例多きことなれど、こゝに適当すとは、考へにくきが如し。更に「而」の字の用法を見るに、「則」に通ずるものあり。易の繋辞伝に「君子見作、不日」左伝、僖十五年に「何為可」楚語に「若大川一焉、潰新犯必大矣」であるが如く、又「而」「則」を互用せるには、墨子明鬼篇に「非母、非姒也」史記欒布伝に「与漢破、与楚破」の如きあり。此の意を以て「騰リマセバコヽ二」を読まば、本文の儘にて亦通ずべし。
 抑「而」の「テ」の義なるは、連用的平接にして「則」の義なるは、前提的順接なるが、此の外に「而ルニ」と訓ずる前提的逆接もあり、更に其の副詞的平接なるもあるは、言語接続自然の現象なるべく、和漢殊に相類せる者あり。こゝの場合は、「則」の字ほどに順接すべきかといふに、余はむしろ副詞的に「ノボリマシヽニコヽニ」と読むを、最適当なりと信ず。逆接の「シカルニ」を同形にして、意は平接なるものなり。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870085(52/100)、漢字の旧字体は改めた。)。
(注2)「○而是は、此ノまゝにては、語つゞかず、【もし、而ノ字は、於と草書やゝ似たれば、於是かとも思へど、然には非じ、】又たゞ歴木に騰坐(ノボリイマス)とのみにては何(ナニ)の由とも無ければ而ノ字の下に文(コトバ)脱(オチ)たるか、【かならず騰リ坐シ而(テ)云々(シカシカ)と云こと、あるべければなり、】又思ふに、是ノ字は見の誤リか、そは樹ノ上に坐て御狩人(ミカリビト)の、獣(シシ)を狩るを、観(ミ)居(ヰ)賜ふなり、書紀に、二王各居(イマ)スニ仮庪(サズキ)ニ、赤猪云々とあると、合セ考ふべし。其ノさま似たり、故レ姑ク是ノ字を、美多麻布爾(ミタマフニ)と訓つ、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821(222/577)、漢字の旧字体は改めた。)。
(注3)土橋1988.に適切な定義がほどこされている。「……ウケヒは過去・現在・未来の知ることのできない「真実」(「神意」ではない)を知るための卜占の方法として、また誓約(約束すること)を「真実」なものにするための方法として、実修される言語呪術であり、「もしAならば、A´ならむ」という形式は、「こう言えば、こうなる」という言霊信仰に基づく呪文の形式にほかならない。従来ウケヒを「真実」でなく、神意を知るための方法と解してきたのは、第一に呪術としての卜占の結果を神意の現われとする偏った宗教観念に災されたためであり、第二に「祈」「禱」などの漢字表記に惑わされたためである。」(55~56頁)
(注4)「政」という字は、ほかに記には次の7例がある。すべてマツリゴトと訓んでいる。その場合、天皇の、ないし天皇側の、天皇の命に従った行為を表している。そのため、忍熊王方が「赴喪船将空船。」とあることに疑念が生じ、「攻」に改めたかと考えられている。

 ①「……次に思金神は、前(さき)の事を取り持ちて政(まつりごと)を為よ。」(思金神者、取持前事為。)」(記上)
 ②「何地(いづく)に坐(いま)さば、平らけく天下(あめのした)の政(まつりごと)を聞こし看(め)さむ。猶ほ東に行かむと思ふ。(坐何地者、平聞看天下之。猶思東行。)」(神武記)
 ③是を以て、各(おのおの)遣はさえし国の政(まつりごと)を和平(やはしたひら)げて覆奏(かへりことまを)しき。(是以各和平所遣之国而覆奏。)(崇神記)
 ④「御子は、遣はさえし政(まつりごと)を遂げ、覆奏(かへりことまを)すべし。(御子者、所遣之遂、応覆奏。)」(景行記)
 ⑤故、其の政(まつりごと)未だ竟らぬ間に、其の懐妊(はら)めるを産むに臨む。(故、其未竟之間、其懐妊臨産。)(仲哀記)
 ⑥「大山守命は、山海の政(まつりごと)を為よ。大雀命は、食国の政(まつりごと)を執りて以て白(まを)し賜へ。宇遅能和紀郎子は、天津日継(あまつひつぎ)を知らせ。(大山守命、爲山海之。大雀命、執食国之、以白賜。宇遅能和紀郎子、所知天津日継也。)」(応神記)
 ⑦「政(まつりごと)は既に平(たひら)げ訖りて参ゐ上りて侍り。(既平訖参上侍之。)」(履中記)

 ①は日子番能邇々芸命の言葉である。②は神武天皇自身の言である。③は崇神天皇の命によって大毘古命と建沼河別が北陸道と東海道とへ派遣されたことを指している。④は倭建命に与えられた景行天皇の命のことを弟橘比売が語っている。⑤は神功皇后の新羅親征のことである。⑥は応神天皇の言で、三王子の分治の意向である。⑦は履中天皇の墨江中王を殺して来いという命を果たした水歯別命の言である。
 それで一応納得は行くものの、③の「是以各和平所遣之国而覆奏。」に「国政」とある。その部分が「国之政」とない点で、他の例と少し異なっている。②「天下之」、④「所遣之」、⑥「山海之」、「食国之」とある。③の「政」を上の例のようにタダスと訓むと次のようになる。崇神紀関連部分を含めて示す。

 又、此の御世(みよ)に、大毘古命は、高志道(こしのみち)に遣はし、其の子建沼河別命は、東の方十二道(とをあまりふたみち)に遣はして、其のまつろはぬ人達(ひとども)を和(やは)し平(たひら)げしめき。……故(かれ)、大毘古命は、先の命(みこと)の随(まにま)に、高志国(こしのくに)に罷り行きき。爾に、東の方より遣はさえし建沼河別と其の父大毘古とは、共に相津(あひつ)に往き遇ひつ。故、其地(そこ)を相津と謂ふぞ。是を以て各(おのもおのも)遣はさえし国を和し平げ政(ただ)して覆奏(かへりことまを)しき。爾に天下(あめのした)太平(たひら)ぎ、人民(おほみたから)富み栄えき。

 大毘古命も建沼河別命も、高志道や東方十二道へ遠征しているだけで、国司や封建領主になっているわけではない。天皇の命は「令和-平其麻都漏波奴人等。」ことだけである。本居宣長・古事記伝に、「政(マツリゴト)とは、此(コヽ)は帰化(マツロ)ふ者を懐(ナヅ)け、不服(マツロハヌ)者をば討て其ノ国を平治(タヒラゲヲサ)むる事を云、其(ソレ)も皇朝に仕奉る事の一ツなればなり、【凡て麻都理碁登(マツリゴト)とは、臣下の天皇の詔を奉(ウケタマハ)りて、仕奉る事を云称なり、……】……さて政(マツリゴト)を和平(コトムケ)と云は、何(ナニ)とかや穏(オダヤカ)ならぬ如く聞ゆれども、……書紀舒明ノ巻にも、平(ムケ)水表ノ政ヲとあり、古語には如此(カク)さまにも云しなるべし。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821(35/577))とある。この解説はいただけない。舒明紀の「平水表政」は、「水表(をちかた)」は大和朝廷以外の蝦夷などのことを指している。「水表政」とは、外国の政権のことである。外国には外国の「政(まつりごと)」があるから、それを「平(ことむ)け」ることを言っている。
 崇神記の、「是以各和平所遣之国政而覆奏。」の「政」を「国政」と続ける熟語と捉えると、「まつろはぬ人達」がそれぞれに「国政」を担うほどの対抗勢力になっていて、それを「和平」したということになる。その場合、「所遣之国政」という修飾関係は持って回っている。

 是以、各和平[(所遣之国)政]而、覆奏。

 「各」は、大毘古命と建沼河別命のこと、「所遣之国」は、「高志道」、ならびに「東方十二道」のことであろう。大毘古命は、「随先命」、「高志」に罷り行っている。そして、「自東方所遣建沼河別命」と、「相津」に会っている。「所遣之」が具体的にどこの「国」なのか、「高志国」以外に見出せない。すなわち、諸「国」がそれぞれに「政」を行っていたとは想起しづらいのである。紀には次のように記されている。

 九月の丙戌の朔にして甲午に、大彦命を以て北陸(くぬがみち)に遣す。武渟川別を東海(うみつみち)に遣す。吉備津彦を西道(にしのみち)に遣す。丹波道主命を丹波(たには)に遣す。因りて詔して曰はく、「若し教(のり)を受けざる者有らば、乃ち兵(いくさ)を挙げて伐(う)て」とのたまふ。既にして共に印綬(しるし)を授(たま)ひて将軍(いくさのきみ)とす。(九月丙戌朔甲午、以大彦命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彦遣西道、丹波道主命遣丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃挙兵伐之。」既而共授印綬為将軍。)(崇神紀十年九月)
 冬十月の乙卯の朔に、群臣に詔して曰はく、「今し反(そむ)けりし者悉(ふつく)に誅(つみ)に伏す。畿内(うちつくに)には事無し。唯し海外(わたのほか)に荒(あら)ぶる俗(ひとども)のみ、騷動(とよ)くこと未だ止まず。其れ四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)等、今し急(たちまち)に発(まか)れ」とのたまふ。丙子に、将軍等、共に発路(みちたち)す。十一年の夏四月の壬子の朔にして己卯に、四道将軍、戎夷(ひな)を平(む)けたる状(かたち)を以て奏(まを)す。是歳、異俗(あたしくにのひと)多(さは)に帰(まゐき)て、国内(くぬち)安寧(やすらか)なり。(冬十月乙卯朔、詔群臣曰「今反者悉伏誅、畿内無事。唯海外荒俗、騷動未止。其四道将軍等、今急発之。」丙子、将軍等共発路。十一年夏四月壬子朔己卯、四道将軍、以平戎夷之状奏焉。是歳、異俗多帰。国内安寧。)(崇神紀十年十月~十一年是歳)

 征服する対象について、「海外(わたのほか)」、「四道(よつのみち)」、「戎夷(ひな)」、「異俗(あたしくにのひと)」などと漠然としか示しておらず、対するに自らの場所を「畿内(うちつくに)」、「国内(くぬち)」と呼んでいる。独立した国家がどこかほかにあるようには描かれていない。他国の政治に介入して征服したという概念ではない。よってここの「政(まつりごと)」説は棄却され、「政(ただ)す」説が肯定される。

(引用文献)
倉野1979. 倉野憲司『古事記全註釈 第六巻 中巻篇(下)』三省堂、昭和54年。
古典集成本 西宮一民『新潮古典集成 古事記』新潮社、昭和54年。
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第六巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
思想大系本 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『新校古事記』おうふう、2015年。
全集本古事記 荻原浅男・鴻巣隼雄校注・訳『日本古典文学全集1 古事記 上代歌謡』小学館、1973年。
次田1980. 次田真幸『古事記(中)』講談社(講談社学術文庫)、1980年。
土橋1988.土橋寛『日本古代の呪禱と説話―土橋寛論文集 下―』塙書房、平成元年。
中村2009. 中村啓信『新版古事記 現代語訳付き』角川学芸出版(角川文庫)、平成21年。
三矢1924. 三矢重松『古事記に於ける特殊なる訓法の研究』文学社、大正14年。国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870085

この記事についてブログを書く
« 雄略紀「少子部連蜾蠃」の物... | トップ | 令和の出典、万葉集巻五「梅... »