古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

雄略紀「少子部連蜾蠃」の物語について─「仍改賜名為雷」の解釈を中心に─

2019年07月01日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 雄略紀に、少子部連蜾蠃(ちひさこべのむらじすがる)の説話が2つ載っている。第1話は、天皇は養蚕を奨励するために蜾蠃に蚕(こ)を集めて来るように命じたが、彼は児(こ)を集めて来た。天皇は大笑いし、養育させて少子部連の姓を与えたとする頓智話である。第2話は、三諸岳の神の形を見たいから、力持ちの蜾蠃に捕まえて来いと命じたところ、三諸岳の大蛇を捕えて来たので困ってしまった。天皇はそれを見ないように事後処理し、また、「雷(いかづち)」という名に改めさせたとする頓智話である。

 三月の辛巳の朔丁亥に、天皇、后妃(きさきみめ)をして親(みづか)ら桑(くは)こかしめて、蚕(こかひ)の事を勧めむと欲(おもほ)す。爰(ここ)に蜾蠃(すがる)〈蜾蠃は、人の名なり。此には須我屢(すがる)と曰ふ。〉に命(ことおほ)せて、国内(くにのうち)の蚕(こ)を聚(あつ)めしめたまふ。是に、蜾蠃、誤りて嬰児(わかご)を聚めて、天皇に奉献(たてまつ)る。天皇、大きに咲(みゑら)ぎたまふ。嬰児を蜾蠃に賜ひて曰(のたま)はく、「汝(いまし)、自ら養へ」とのたまふ。蜾蠃、即ち嬰児を宮墻(みやのかき)の下(ほとり)に養(ひだ)す。仍りて姓(かばね)を賜ひて、少子部連(ちひさこべのむらじ)とす。(雄略紀六年三月)
 七年の秋七月の甲戌の朔丙子に、天皇、少子部連蜾蠃に詔(みことのり)して曰はく、「朕(われ)、三諸岳(みもろのをか)の神の形を見むと欲ふ。〈或いは云はく、此の山の神をば大物主神と為(い)ふといふ。或いは云はく、菟田(うだ)の墨坂神(すみさかのかみ)なりといふ。〉汝(いまし)、膂力(ちから)人に過ぎたり。自ら行きて捉(とらへゐ)て来(まうこ)」とのたまふ。蜾蠃、答へて曰(まを)さく、「試(こころみ)に往(まか)りて捉へむ」とまをす。乃ち三諸岳に登り、大蛇(をろち)を捉取(とら)へて、天皇に示(み)せ奉る。天皇、斎戒(ものいみ)したまはず。其の雷(かみ)虺虺(ひかりひろめ)きて、目精(まなこ)赫赫(かかや)く。天皇、畏(かしこ)みたまひて、目(みめ)を蔽(おほ)ひて見たまはずして、殿中(おほとの)に却入(かく)れたまひぬ。岳(をか)に放たしめたまふ。仍りて改めて名を賜ひて雷(いかづち)とす。(雄略紀七年七月)

 この一連の話がどうして蜾蠃(すがる)という人物に託されて語られているのか。大系本日本書紀には、「蜾蠃は万葉一七三八に「腰細の須軽娘子」とあり、腰の細いジガバチの類の称。捕えた虫を地中の巣にくわえこんで子を養う習性が目立つため、「巣借る」と呼んだものか。少子部(小子部)は明らかでないが、恐らく子部(児部)と同様に天皇の側近に奉仕する童子・女孺らの資養費を担当する品部で、その管理者たる連の祖としてスガルの名を思いついたのであろう。」(354頁補注)、新編全集本日本書紀には、「『爾雅』釈虫に「蜾蠃、郭注曰、即細腰、𧔧也、俗呼為蠮螉」。腰の細いジガバチという虫。捕えた虫をくわえて巣に運び、子を養う習性をもつ。少子部蜾蠃のスガルも、この虫の習性から考えついた説話上の名であろう。子部(児部)は、天皇側近の童子・女嬬らを資養する品部。その管理者が少子部(小子部)連。他に、『姓氏録』や『霊異記』上・一話などにもスガル伝承説話を載せる。」(167頁頭注)とある。佐佐木1995.では、「人名のスガルが土蜂の呼称の「蜾蠃」から離れて動詞のスガル・ツガルを想起させ……、その名を持つ人物が天皇の言った「蠶」を「兒」と混同したという筋立てを持つ[第1話]……の伝説が成立した可能性を想定することもできる」(238頁)し、また、「この伝説の成立を、動詞スガル・ツガルが持っていたと推定される「からむ」「まつわり付く」あるいは「いつわる」「ことばを誤る」などの意への連想が働いたということで説明せずに、これらの動詞が持っていた「つながる」「くっつく」あるいはそれと連続する「あつまる」意への連想が働いたということで説明することも、一方では可能である。」(240頁)など、動詞からのトートロジー的定義を含めた解釈の可能性を示唆している(注1)
 第1話について諸氏の解釈はほぼ同様である。話は単純で、「蚕(こ)」と「児(こ)」とを取り違えたことのために、少子部連という姓としたとするものである(注2)。管見にして指摘されているか不明な点として、後述のとおり蜾蠃(すがる)と呼ばれるのはジガバチのことで、それはジガジガ(似我似我)と鳴いていると観念されていたらしいこととの関連である。蜾蠃(すがる)という人物に対して天皇は、「蚕(こ)」を聚めてくるように命じている。命じられた蜾蠃(すがる)という人物にしてみれば、いくら何でも「蚕(こ)」にジガジガ(似我似我)と鳴いて我に似るように迫ったところで、蚕が人間に似るはずはなかろうと思っている。だから、天皇の意図は、「児(こ)」を聚めてくることを求めているに違いないと考えて行動したのであろうとわかる。ジガバチが似我蜂の意であると想定されていると認められるとすると、雄略朝と措定される記述に中国語の洒落が通底していることになる。ヤマトコトバの歴史において、漢音の漢語を採り入れた最初期のものが、なんと洒落であったと指摘できる。しかし実は洒落のような言い回しにこそ、外国語が流入して汎用される契機はあったのであろう。時は無文字時代である。無文字の人にとっての他言語との交わりとはどのようなものであるか、本質を鋭く突く事象として特筆されるべきであろう。
 第2話については、諸氏の解釈にばらつきがある。話が理解されるに至っていない(注3)。天皇が「仍りて改めて名を賜ひて雷とす。」とある個所について、「三諸岳」という名を「雷(岳)」と改めさせたということか、「蜾蠃」という名を「(少子部連)雷」と改めさせたということなのか、議論されている。大系本日本書紀に、「万葉考別記などは岳に雷と名を改め賜わったと解する。姓氏録、山城諸蕃には「小子部雷」とあり、蜾蠃に雷と名を改め賜わったとしている。すでに平安朝初期に、二つの解釈が行われていたものと思われる。」(45~47頁)と事情を説明している。佐佐木1995.は、後者であるとする。前段の嬰児の話で「少子部連」と姓を賜うており、それに続く話だから「蜾蠃」という名を「改めて」「雷(いかづち)」と賜うているのであるとする。そして、前者のような考え方は不自然であるとする。「三諸岳の神が示した霊威に圧倒され……た天皇が、その神の住む場所に付けられていた「三諸岳」という名を「雷岳」に改めさせたという話の展開が不自然なものであるということである。また、捕らえられた神の様子が雷のようであったからその神を「雷」と改めさせたというのも、かなり迂遠で不自然な命名のしかたである。」(145頁)としている。
 筆者は、「雷(いかづち)」という名を賜うて改めさせた対象となる元の名は、「三諸(岳)」でも「(少子部連)蜾蠃」でもなくて、第三の対象、「雷(なるかみ(かみなり))」を改めて「雷(いかづち)」とした、という意に解する。以下に論証する。
 第1話が「少子部連」という姓の話であり、第2話に「雷」という名の話があれば、両方とも人の名であると考えるのは、順当ではあるが面白味に欠ける。話の震源は、蜾蠃という名の人の破天荒ぶりにある。何が破天荒かといえば、言葉を取り違える点にある。蜾蠃が天皇の命令に従って行った結果に対して、「天皇大咲。」、「天皇不斎戒。……天皇畏、蔽目不見、却-入殿中。」という反応をしている。言葉はそのとおりなのであるが、天皇の意向と異なる意味で仕事をしているから、天皇としても笑うか、隠れるかするしかなくなる。なにしろ、時代は無文字時代である。言葉は音声言語としてしかない。その言葉が日々のコミュニケーションで用いられている。同じ音の言葉は同じ意味を表わさなければ意味世界は動揺する。言葉が同じならば、それを取り違えたとしても非難に値することではなく、むしろ、その行為を正当化していかなければ意味世界が成り立たなくなってカオス化する。だから、意味が取り違えられたという事実を示し残して、言葉を確かならしめるために天皇は「姓」や「名」を賜わっている。
 第1話で「大咲」した意味世界の動揺とは、蜾蠃という人物に「姓」を与えることにより安定を取り戻すことができた。第2話で「畏」したようなこととなると、人や岳の名前、つまり、固有名詞を改名するぐらいではなく、取り違えた対象の「雷」という普通名詞を改名しない限り、意味世界の安定を取り戻すことはできない。もちろん、この話が創られた当時において、「雷」という現象に対して、カミ、ナルカミ、イカヅチという言葉は併存していたと考えられる。その併存状況を基にして、話(咄・噺・譚)として、この第2話は作られていると考える。
 和名抄に、「雷公〈霹靂電附〉兼名苑に云はく、雷公、一名、雷師〈雷、音力回反、和名奈流加美(なるかみ)、一に以加豆知(いかづち)と云ふ〉といふ。釈名に云はく、霹靂〈霹、音辟、靂、音歴也、和名加美渡計(かみとけ)〉は霹は坼也、靂は歴也、歴(わか)れるは皆破坼也といふ。玉篇に云はく、電〈音甸、和名以奈比加利(いなびかり)、一に以奈豆流比(いなつるび)と云ふ、又以奈豆末(いなづま)と云ふ。〉は雷の光也といふ。」とある。
 では、第2話において、蜾蠃は天皇の言葉の何を取り違えたのか。詔をきちんと聞いてみる必要がある。

 朕(われ)、三諸岳(みもろのをか)の神の形を見むと欲ふ。(朕欲三諸岳神之形。)

 この「形」について、平安時代の写本である書陵部本、前田本に傍訓は見られない。一般にカタチと訓じているが、ナリと訓むのであろう。

 山野(やま)の体勢(なり)を観(みそなは)して、慨然(はげ)みて感(みおもひ)を興して歌(みうたよみ)して曰はく、……(雄略紀六年二月)

 したがって、この部分の訓読は以下のようになる。

 朕(われ)、三諸岳(みもろのをか)の神の形(なり)を見むと欲ふ。

 「三諸岳神之形」は「三諸岳の神の形(なり)」であり、それを蜾蠃は、三諸岳のカミノナリ、今いうカミナリのことと勘違いをしたのである(注4)。和名抄に、雷のことをナルカミと言っているのは、鳴る神の意である。

 味(うま)ごり あやに乏(とも)しく 鳴る神の 音のみ聞きし み吉野の 真木立つ山ゆ 見降せば ……(万913)
 天雲に 近く光りて 響(な)る神の 見れば恐(かしこ)し 見ねば悲しも(万1369)
 雷神(なるかみ)の 少し動(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ(万2513)

 そんな雷は天空の高いところで鳴る。山岳で言えば、高いところは峰(を)である。神と言っているのだから霊力のあるはずのものである。その力に負けない「膂力人(ちからひと)」である自分を天皇は選んでいる。となると、三諸岳の山中に分け入って、ヲ(峰)+ロ(助詞)+チ(霊)を捕まえてくればいいらしい。頑張ってみようということで、三諸岳に登って大蛇を捕らえて天皇に見せている。 
 天皇は、蜾蠃に「示」されて、大蛇の姿を一瞥するに及んだかもしれない。それが神の姿であるなら、神をも恐れぬ不敵な行いになる。だから、本当は神の姿を見なかったことにするか、あるいは、自らがその神の憑代となる準備をする必要があった。その準備こそ、「斎戒」である。しかし、天皇は斎戒しなかった。目の前に持ってこられて弱っている。事もあろうに三諸岳の神である。不吉極まりない。三諸岳の神とは、三輪山の神のことである。祟り神として知られていた(注5)。算段として、自分の方は「天皇畏、蔽目不見、却-入殿中。」し、大蛇の方は「使於岳。」した。距離をとろうとしている。さらに奥の手をくり出して、名前を改名することにした。「神之形(かみのなり)」について、少子部連蜾蠃のような誤解を与える「神の鳴り」、「鳴神(なるかみ)」=「雷(なるかみ)」という名前を改めることにし、「雷(いかづち)」とした。天皇自身の目の前にあったのは、三諸の神の形(なり)ではなくて、イカヅチにすぎないのだ、という言い分である。
 そうすれば、天皇が仮に目にしたとしても、それはカミではなくイカヅチであり、祟り神の被害に悩まされることはない。無文字時代において、言葉は事柄と同じこと、すなわち、言霊信仰によって安定を得ていた。今日のコピーライター的発想で安易に言葉を言い換えて、何がしか目新しさを醸し出すことはなかった。文字がなくメディアがないのだから、口コミでしか新しい言葉は広まらない。そして、その第一段階として、その言葉が当該事柄を表してふさわしいものなのか、その場でいちいち検証されたのである。聞き手が初めて聞いて、なるほど当を得ていると感じられた言葉が確かな言葉であった。隣村に口伝てに伝わらない言葉は、言葉として成り立たなかった。結果的にヤマトコトバには、言葉自体がその言葉を説明、定義するような自己言及的な性格を含むことになる。口頭語でしかないヤマトコトバは、相手に覚えてもらい、さらには他者に伝えて行ってもらう際に、相手を納得させるからくりを備えていた。そんななかで、イカヅチという言葉は普遍性を勝ち得ている。
 イカヅチという語に関しては、イカ(厳)+ヅ(助詞ツの連濁)+チ(霊)の意で、猛烈な威力のあるもののことから、かみなりのことを指すとされている(注6)。猛く力あるものには、自然現象としても大地震や台風、山火事のようにいろいろあるなか、イカヅチはもっぱらかみなり(雷)のことを指すように決まっている。イカ(厳)+ヅ(助詞)+チ(霊)という含意はあろうが、また、イカ(如何)+ヅチ(槌)やイカ(厳)+ヅチ(槌)の意も持って捉えられていたのであろう。イカヅチと聞いて、どのようなものかよくわからないほどの槌、猛烈な威力を持った槌という意に聞こえた人々が多数いたように考えられる。その結果、霹靂(かむとき、かむとけ)と同じことと認識されるに至ったと思われる。

 迹驚岡(とどろきのをか)に及(いた)るに、大磐(おほいは)塞(ふさが)りて、溝(うなで)を穿(とほ)すこと得ず。皇后(きさき)、武内宿禰を召して、剣鏡(たちかがみ)を捧げて神祗(あまつかみくにつかみ)を禱祈(いの)りまさしめて、溝を通さむことを求む。則ち当時(とき)に、雷電霹靂(かむとき)して、其の磐(いは)を蹴(ふ)み裂きて、水を通さしむ。故、時人(ときのひと)、其の溝を号けて裂田溝(さくたのうなで)と曰ふ。(神功前紀仲哀九年四月)
 是年(ことし)、河辺臣〈名を闕(もら)せり。〉を安芸国に遣して、舶(つむ)を造らしむ。山に至りて舶の材(き)を覓(ま)ぐ。便(たちまち)に好き材を得て伐らむとす。時に人有りて曰く、「霹靂(かむとき)の木なり。伐るべからず」といふ。河辺臣曰く、「其れ雷(いかづち)の神なりと雖も、豈(あに)皇(きみ)の命(みこと)に逆(さか)はむや」といひて、多く幣帛(みてぐら)を祭(いはひまつ)りて、人夫(おほみたから)を遣(や)りて伐らしむ。則ち大雨(ひさめ)ふりて雷電(いなつるび)す。(推古紀二十六年是年)

 神功紀の例では、「大磐」を「蹴裂」したのが「雷電霹靂(かむとき)」であり、推古紀の例では、「舶材」にしようとすれば「霹靂(かむとき)」によって使い物にならなくなるという人がいるという話である。磐や大木を裂くには、ハンマーを振るって鏨(たがね)を打ち込む。割る線上に何か所か鏨を入れて行って最終的に歪みに耐えられなくなって磐や大木は裂ける。そんななか一撃のもとに破坼することができるのは、よほど威力がある槌であるということができる。当該の巨岩や大木のみを打ち砕くことは、自然現象として霹靂ぐらいしか思い浮かばない。集中豪雨や地震による土砂災害などでは、その巨岩や大木に限らず広範囲に被害が及ぶ。イカ(厳)+ヅ(助詞)+チ(霊)の意でならそれらの場合も含まれそうだが、そういうことではなく、鉄鎚一撃で圧倒され、驚嘆する現象に限ってこそ、イカヅチと呼ぼうとしているとわかるのである。
 雄略紀において、「三諸岳(みもろのをか)」が話題とされている。「岳(をか)」と断っているのは、ヲ(峰)+カ(処)の意を示したいからで、同根のヲ(峰)、つまり、山の尾根のことに少子部連蜾蠃の関心は向っている。三諸岳とは三輪山のことである。大系本日本書紀に、「崇神十年条でも御諸山の大物主神は「願無吾形」といって蛇になる。蛇は三諸岳の神の憑代。」(45頁)とあるとおり、三諸岳の神の形(なり)は大物主神の形(なり)で、それは蛇である。それも、とぐろを巻いた形であろう。三輪山は独立峰になっていて、蛇がとぐろを巻いたような紡錘形を保っている。だから、少子部連蜾蠃はヲ(峰)+ロ(助詞)+チ(霊)=大蛇を捕らえてきた。三諸岳の神の形(なり)であるというのである。
 続く文章に、「其の雷(かみ)……」とある。佐佐木1995.に、「古い時代のカミkamïという語が、「神(かみ)を意味する一方で神格化された「雷」をも表す語であったために、三諸岳の「神」が同音の「雷」への連想を呼んだ結果であると考えられる。」(249~250頁)とする解釈は、「神の形(なり)」という語用の問題を理解せず、卑小化するものである。雷は、カミ(神)のナリ(鳴)だから、和名抄にナルカミ(鳴神)ともあった。少子部連蜾蠃は、大蛇を「奉天皇」っている。天皇は「朕欲見」といい、少子部連蜾蠃は「示」しているのだから、天皇はナルカミ(雷)の音を聞いているのではなく、形(なり)を見ている、ないし、見ないようにしている。視覚上の特徴が語られている。「其の雷(かみ)虺虺(ひかりひろめ)きて、目精(まなこ)赫赫(かかや)く。(其雷虺虺、目精赫赫。)」。そして、「天皇、畏(かしこ)みたまひて、目(みめ)を蔽(おほ)ひて見たまはずして、(天皇畏、蔽目不見、)」と続いている。
 「虺虺」については、大系本日本書紀に、「其は大蛇、雷は雷の如き音。毛詩、国風に「曀曀其陰、虺虺其靁」とある。蛇や竜は水神で雷となって雨をつかさどる。ヒロメクは、ヒラメク。広雅、釈訓に「虺虺、声也」とある。」(45頁)、新編全集本日本書紀に、「毛伝「暴若震靁之声虺虺然」とある。古訓ヒカリヒロメクは「雷光」の形容で、蛇がのたうちまわるさまをいう。光と響とは表裏一体として認識されていたという考えからすれば古訓でもよいが、ここではナリヒビク(トドロクとも)と訓んでおく(『広雅』釈訓に「虺虺、声也」)。」(168~169頁頭注)と解説されている。それに対して、佐佐木1995.は、「もともと聴覚的なことがらを描写するのに用いられる<虺虺>に対して、視覚的なそれを表すヒカリヒロメクという古訓が付されたのは、蛇・蛇神の様子を、「海を光(ひから)して」〔神代記〕、「海原を光して」〔垂仁記〕というように視覚的に把握する習慣によるものと思われる。これは、口承による表現が文字化によって変質した一例であろう。」(249頁)と反論している。概ねそのとおりであろうが、紀の執筆者はさらに上を行っているものと考えられる。
「虺」字使用例(……犇蛇走虺勢入座……、楷書懐素自叙帖語軸、紙本墨書、掛幅装、鄭燮筆、乾隆29年(1764)、18世紀、東博展示品)
 「虺」字は、詩経・小雅・斯干に、「維虺維蛇」とあり、箋に、「虺、蛇之蟲。」とあって、マムシのこととする。ほかのヘビのことを表すこともある字である。だから、「虺」字を用いて表そうとしている。三諸岳に相似形の、とぐろを巻いた形が欲しいわけである。それをヒカリヒロメクと訓んでいるのは、ヒカリヒロメクという言葉に「虺虺」という文字を当てがった結果であると考えられる。では、蛇の様子のどのようなところが「虺虺(ひかりひろめ)く」と表現されているのだろうか。多くの辞書に、蛇の体全体がぴかぴかと光るという意味かとされている。これは誤りであろう。続けて、「目精(まなこ)赫赫(かかや)く」とある。蛇の体の鱗がぴかぴかと光を発し、つまりは反射させ、そして目が輝いていたというのでは、その後のヒロメクの用例と合致しない(注7)

 法(のり)の幢(はたほこ)高く竪(タ)ちて、幡足(はたあし)八方(やも)に颷(ヒロメ)く。(日本霊異記・中・序)
 雪霏(ヒロメク)コト五采、光流四(ヨモ)に照ラす。(石山寺本大唐西域記・巻三)
 さやうの者は、人のもとに来て、ゐむとする所、扇(あふぎ)して塵(ちり)払ひ掃き捨てて、ゐも定まらずひろめきて、狩衣の前、した様(ざま)にまくり入れてもゐるかし。(枕草子・第25段)
 ……三尺ばかりなるくちなはいりきて、そのかまのまへなる鼠の穴へ入りにけり。……「……そのにえたる湯を穴のくちにくみ入れ給へ。さらばあつさにたへずしてはひ出でなん」といふ。……くちなはいでて、びりびりとひろめきて、やがて死ぬ。(古今著聞集・巻20・699)
 のちに尚侍(ないしのかみ)になりて、もとの大殿(おとど)にいだしたてられたる、ひろめき出でたるほどこそ、いと憎けれ。(無名草子)
 美人ヲ見テハ、飢人ノ食ヲ見テヒロメクカ如也(六物図抄)
 Biromeqi,qu,eita. ビロメキ,ク,イタ(びろめき,く,いた)……舌や尻尾など……が揺れ動く.(日葡辞書、57頁)

 新撰字鏡に、「憧々 昌恭反、又徒到反、意不定也、又往来也、比呂女久波太(ひろめくはた)」とある。岩波古語辞典に、「ヒロは擬態語。メキは接尾語。ものがひらひらゆらゆらと止まらずに動く意。」(1113頁)と解いている。蛇の仲間の様子でヒロメクものといえば、蛇の舌の動きである。多く先端が2つに分かれたピンク色っぽい舌を、ピラピラ、ピラピラっと口から出し入れしてひらひらさせている。それがヒロメクの原義であろう。だから舌のことをベロといい、ペロペロ舐めるというと知れる。
マムシの顔(noinoinoiz 頑張らない自由研究様「マムシ 毒蛇とは知らずに遊んで・・・模様の覚え方、見分け方 Mamushi Poisonous snake Viper Adder Japanese copperhead」https://www.youtube.com/watch?v=JSwD83nYWHw)
 つまり、天皇は、「三諸岳の神の形(なり)」である「大蛇(をろち)」を眼前に突き付けられたのである。少子部連蜾蠃は、「大蛇」をきちんと「示(み)」せている。顔かたち、そして顔の中でも動物の本質を語る「目精(まなこ)」を「示」せようとしている。天皇は祟り神である三諸岳の神と真向うことはできず、逃げ隠れて距離をとろうとし、「神の形(なり)」という概念を「雷(いかづち)」と改名することによって、見なかった、見えなかった、最初から見ようとさえしていなかった、と言い張ることにした。雷(なるかみ)=雷(かみなり)のことなど知らない、少子部連蜾蠃が持ってきたのはイカヅチ(雷)だから、恐いことは何もないという理屈である。
 平安初期から続いている2つの解釈、「三諸岳」という名を「雷(岳)」と改めさせたという説、ならびに「蜾蠃」という名を「(少子部連)雷」と改めさせたという説には、ともに無理がある。三諸岳は三輪山のことである。飛鳥(明日香村)には雷丘(いかづちのをか)というところはあっても、桜井市にイカヅチ(雷)と呼ばれたところはない。また、姓氏録には、山城諸蕃・秦忌寸の条に少子部雷の名は見えるが、それは姓氏録の解釈に過ぎない。蜾蠃という名を雷(いかづち)に改める理由が見当たらない。佐佐木1995.に、「雷のような霊威を示す神を捕らえて来た人物に対して、それが「膂力(ちから)人に過ぎた」る人物であり、雷と同等以上の猛威を発揮しうる人物であるという意味で天皇が蜾蠃に「雷」の名を与えたというのならば、話として不自然ではない。」(253頁)とするが、論理哲学的には不自然である。上述のとおり、無文字時代において言葉は、自己循環的に再定義を加えながら、口頭伝承の音声言語として命脈を保っていた。それは、言葉が論理哲学的にあり続けていた時代であった。
 蜾蠃とはジガバチのことである。ジガバチとは、蝶の幼虫の螟蛉をとってきて、我に似よ、我に似よ(似我似我)と言いつづけて、七日で自分の子にすると言われている。だから、少子部連蜾蠃の第1話において、別の種類の子をとってきて自分の子にしてしまうように養育させたという話になっていた。第2話では、三諸岳の神の形(なり)は、崇神紀にあったように蛇であったから、その這う虫である大蛇の尾を使った威嚇音が、ジーガージーガーと聞こえることから話が創作されていったものと考えられる。
ジガバチ(shino takeo様「ジガバチの巣作り」https://www.youtube.com/watch?time_continue=21&v=jYPf1B15QjY)
マムシの威嚇音(fusimiya様「怒るマムシ、威嚇音付 マムシ・アタック!」https://www.youtube.com/watch?v=tR1UlT9ehZo)
 「膂力過人」とされる少子部連蜾蠃に「膂力(ちから)」が必要であったのは、三諸岳の神の形をそのままに持って来なければならず、そのためには、するりと抜け出すこともなく、とぐろを巻いた大蛇のなりをそのまま固定して来なければならないからである。どんな力が必要か。パンチ力やキック力ではなく、羽交い絞めにする力である。蜾蠃(すがる)という言葉と同音の動詞、縋(すが)るの意は、頼みとしてとりつく、しっかりとつかまる、しがみつく、が原義である。類語に、柵(しがら)む、があり、名詞は柵(しがらみ)、ジガバチ(似我蜂)のジガ(似我)によく似た音である。また、スガルはなぜかシカ(鹿)の異名でもある。混同の極みであろう。

 春されば 蜾蠃(すがる)なす野の 霍公鳥(ほととぎす) ほとほと妹に 逢はず来(き)にけり(万1979)
 ◆(アミガシラに羸の下部) 流音、須加流(すがる)(新撰字鏡)
 手ヲ以テ斤(はかり)ノ緒ニ須加利(すがり)テ、力ヲ発(おこ)シテ強(しひ)テ登リ給ニ、其ノ心定リテ悔ル念ヒ無シ。(三宝絵・上)
 蜂ノ人ヲジガトサス ジガ如何 コレハサヽリ蜂カヨロツノ虫ヲ取テワカコニナレトサセハコニナルトイヘル事アリ 似我也 ワレニニヨトサストイヘル義アリ(名語記・巻第六)
 明日香川 しがらみ渡し 塞(せ)かませば 流るる水も 長閑(のど)にか有らまし(万197)
 すがる鳴く 秋の萩原 朝たちて 旅ゆく人を いつとか待たむ(古今集・離別歌・366)

 以上の言葉遣い(音遣い)をもって考えれば、少子部連蜾蠃は縋(すが)り、柵(しがら)む力が強く、ジガジガと声をあげながら大蛇を自分の子(幼虫)と思って最後には自分に似せようとしていたようだと知れる。蜂の触角が2つに広がっているさまは、蛇の舌の先が2つに分かれているさまに同じい。この第2話では、蜾蠃の言葉の取り違えについて、天皇は「大咲」などと悠長なことをしていることはできなかった。神のものは神のところへ、つまり、尾(を)を振るわせている大蛇(をろち)は岳(をか)へと返すことで、ようやく意味世界の安定を取り戻すことができたのであった(注8)

(注)
(注1)佐佐木1995.のほかの語義で、スガルという動詞と関連させた論考に、尾畑1968.がある。これらは魅力的であり、また、可能性として否定できるものではないが、人名、土蜂、また腰細の形容のため以外のスガルの用法は、上代文献に見られず、最大の難点になっている。第2の弱点は、言葉の連想をもって説話が創られているとする設定は、本説話に限られるものではなく、他の多くの説話においても同様で、登場人物の名や設定場所の地名にまさしく“スガル(縋)”話として語られている。第3の不都合事情は、言葉の展開として、蜾蠃(すがる)という語から動詞の縋(すが)るという語が形成された可能性の捨て去れない点である。
 蜾蠃(すがる)という人名があって、説話の内容が想起されているのか、事柄が先にあって蜾蠃(すがる)という名が付いているのか、その順序を問うことはナンセンスである。無文字の上代に、言葉は事柄を表した、ないし、それを限りなく志向した。いわゆる言霊信仰の内実である。つまり、言=事であり、両者は相即の関係にあるからである。 
(注2)話の意味合い、背景については、想像の域において諸説ある。新編全集本日本書紀に、「少子部蜾蠃の話、其の一。蜾蠃が蚕(こ)を集めて来るように命ぜられ、間違えて子(こ)を集めて来たので、「少子部連」の名を賜るという話。雄略天皇と少子部蜾蠃の話がなぜここにあるのかは不明であるが、『姓氏録』山城諸蕃・秦忌寸の条に、天皇が少子部雷(「蜾蠃」の改名。……)を遣わして、秦民九十二部一万八千六百七十人を集め得た話があることと関係があるか。」(167頁頭注)とある。話(story)として残されているものから、歴史(history)を構築することは、今となっては難しいが、雄略朝に養蚕が行われ、また、孤児がいたということは事実なのであろう。そんなことを伝えてどうなるのか? との疑問を呈されるかもしれないが、頓智話として面白く思われていたからそういう話が創られており、それは何よりも、上代の人の言葉に対する感覚を留めるもので、とても貴重な資料と言えよう。肝心の后妃による養蚕の方はどうなったか。おそらく、行われないままになっていたものと推測される。代わりに「養嬰児於宮墻下。」が行われた。中国のようにはならなかったことを示しているようである。
 丸山1978.に、「蜾蠃が嬰児を集めてきたのは、蚕虫の孵化繁殖を願っての豊饒の呪的行為であったと考えられる。……この蜾蠃は、桑樹の下における神妻という観念によって、多産と豊饒を呪的に演じる役をおっていたと考えられるから、女性でなくてはならないのである。……蜾蠃の名前の由来で……[万葉集の「蜾蠃娘女(すがるおとめ)」のように肉体的な女性美を表す言葉として用いられ、原始古代的な女性の素朴な美しさに用いられているから、]蜾蠃は呪的な役割をもたされた女性だということになる。」(11頁)とある。嬰児を聚めることが「豊饒の呪的行為」なら、天皇は「大咲」することはなく、蜾蠃が女性なら聚めてきた嬰児を「宮墻下」ではなく、家のなかで養ったであろう。
(注3)大系本日本書紀に、「大神(おほみわ)神社は今日でも神殿なく、鳥居と拝殿のみ。三輪山を神体とする。従ってそれを捉えるのが蜾蠃に課せられた難題となるのである。」(45頁)とする。新編全集本日本書紀に、「少子部蜾蠃の話、其の二。三諸岳の神の大蛇を捕えたので「雷」の名を賜る。雄略天皇を主にしてみると、三諸岳の神を捕えて、あまりの恐ろしさに元の山に放ったとある。これは、土着の神々を服従させていった雄略天皇でも、三輪の神はそうはいかなかったことを物語るものか。崇神紀七年二月条に、三輪山の大物主神は天皇の夢に現れ、国内に災害が多いのは自分の意(こころ)であると託宣する話があるように、天皇に対立する性格をもつ。神武東征伝説にみるように、天皇家は大和にとって外来の勢力で、土地の神を代表する三輪の神は容易に服従しなかったのであろう。」(168頁頭注)とある。きちんと読めていないテキストから歴史的な意味合いを析出しようとするのは、読めていてさえ危険なのにまことに危険である。
(注4)佐々木1995.に、話が口頭で語られるという状況においては支障なく展開して行く話でも、それが文字化された状況では「神」と「雷」は別の物となるから、その部分で文脈にずれが生じてしまって、話が唐突な形で展開したという印象を与える結果となる。……口承による説話から書承によるそれへの変が、話の内容の微妙な変を招いた例だと言えるのである。」(251頁)とするが、「神之形(かみのなり)」と「雷」との洒落を言っていることがアハ体験(Aha-Erlebnis)されれば、Metamorphose などどこにも起こっていないことが悟られよう。
(注5)拙稿「大物主神の御前を翳(さしば)で祭れ」参照。上代に大物主神を恒常的に祟り神と想念することは当然のことであったと考えるが、今日、宗教学、神道学、歴史学等にそのように解釈されているわけではない。
(注6)古典基礎語辞典に、「〔解説〕 イカはイカシ(厳し)・イカメシ(厳めし)・イカル(怒る)などのイカと同根で、「厳」すなわち「内部の力が充実していて、その力が外形に角張って見えている状態」をいう。ツは「の」の意 を表す格助詞。チはイノチ(命)、カグツチ(迦具土、火神)、ヲロチ(大蛇)のチと同じで「霊」の意。よってイカヅチは「猛烈な威力のあるもの」をいい、特に「かみなり」を指す。 語釈 ①猛々しく恐ろしいもの。魔物。▶「頭(かしら)には大雷(おほいかづち)居り、胸には火雷(ほのいかづち)居り、腹には黒雷(くろいかづち)居り」<記上>。……②かみなり。なるかみ。かむとけ。▶「斉(ととの)ふる鼓(つづみ)の音は 雷(いかづち)の 声(おと)と聞くまで」<万葉一一九>。「いかづちは名のみにもあらず、いみじうおそろし」<枕一五三>。「Icazzuchi イカヅチ(雷)。雷鳴、または、電光」<日葡>」(103頁、この項、我妻多賀子)、白川1995.に、「いかづち〔雷〕 なるかみ。恐るべき神。魔物の類と考えられたが、雷鳴をいう。」(101頁)、時代別国語大辞典上代編に、「いかづち[雷](名)①魔物。猛くおそろしいもの。……②かみなり。ナルカミ・カムトケとも。……【考】イカは、イカシホ・厳(イカ)シのイカ、ヅは、格助詞ツの連濁、チは霊(チ)でもともと厳しい物の意の普通名詞であろう。①にあるように記紀の黄泉説話では鬼のように具体化され、雷岳の説話では蛇と考えられている。雷 電現象は、そういう魔物によってひきおこされると考えたのである。」(66~67頁)とある。
(注7)時代別国語辞典上代語編に、「ひろめく[虺](動四)雷がとどろく、雷光(いなびかり)がぴかぴかときらめく。「登三諸岳、捉取大虵天皇、天皇不斎戒、其雷虺虺(ヒカリひろめき)、目精(マナコ)赫赫、天皇畏、蔽目不見、却入殿中、使於岳、仍改賜名為雷」(雄略紀七年)【考】「虺」は毒蛇のまむしを表わす字であるが、雷の鳴りひびく音にも用い(毛詩邶風に「虺々(キキ)其雷」)、またその雷光の姿が蛇ののたうつさまを想像させたので、雷光の形容としても用いられた。 後世ヒロメクは、「蛇出でてひりひりとひろめきてやがて死ぬ」(著聞集)のように、蛇ののたうちまわる場合や 「雪霏(ひろめく)コト五采、光流四(ヨモ)ニ照ス」(石山寺本大唐西域記長寛点)「居(ヰ)も定まらずひろめきて、狩衣の前まき入れてもゐるかし」(枕冊子)のように、ひらひらする意にも用いる。「憧々〈不定也、比呂女久波太(ひろめくハタ)」(新撰字鏡)「悠・裶・■(𩗢の工の中央左側に一)〈ヒロメク〉」(名義抄)などはのちの意か。これと語形の近いヒラメクは「玲瓏映(ヒラメク)日」(遊仙窟)「雷(カミ)は落ちかかるやうにひらめきかかるに」(竹取物語)「かみのなりひらめくさま更にいはんかたなくて」(源氏明石)などのように、日光や電光の表現に用いる。「映・燭・𨧿・烻・電〈ヒラメク〉」(名義抄)とあり、また「飄・𩗈〈ヒラメク、ヒロメク〉」(名義抄)ともあるから、ヒロメクもヒラメクも擬声語ヒラヒラからの派生で、同源と考えてよい。したがって、雷光の姿態や、雪や衣や旗の状態にも用いられる。」(628頁)とある。雄略紀の一例において、蛇ののたうつさまかと間違えたことに引きずられた誤解と考える。天皇の前に持ってこられた大蛇にのたうち回られては困る。とぐろを巻いて三諸岳の形に見えなくてはならない。
(注8)尾(を)、大蛇(をろち)、岳(をか)というように、ヲの話である。崇神記の三輪山伝説も、ヲ(麻)の話である。

 是を以て其の父母、其の人を知らむと欲ひて、其の女に誨(をし)へて曰ひしく、「赤土(はに)以て床の前(べ)に散らし、へその紡麻(を)を以て針に貫き、其の衣(きぬ)の襴(すそ)に刺せ」といひき。故、教の如くして旦時(あした)に見れば、針著けし麻(を)は、戸の鉤穴より控き通りて出で、唯遺れる麻(を)は三勾(みわ)のみなり。(崇神記)

 本説話がどのような過程を経て創話されたのか不明ではあるが、上代における言葉遣いのレベルにおいて論理的に矛盾がなく、由緒正しく感じられるものであったことが理解される。

(引用・参考文献)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
佐佐木1995. 佐佐木隆『伝承と言語─上代の説話から─』ひつじ書房、1995年。
時代別国語大辞典上代編 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、昭和42年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
丸山1978. 丸山顕徳「『日本霊異記』少子部説話、道場法師系説話とその意義」『説話文学研究』第13号、昭和53年10月。

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