古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

引っ掛けられた鞍覆(二条城行幸図屏風)

2017年06月22日 | 上古・中古・中世・近世
 馬に乗るときの鞍は、室町時代には実用しているけど工芸品になっていました。大切にしたいから、外出して馬を下りてしばらく乗らない時にはカバーをかけました。鞍覆(くらおおい)と言っています。その鞍覆について、毛氈が舶来していたのでそれを使い出し、赤い緋毛氈の鞍覆は足利将軍専用ものとして外出の際の権威の象徴にしていました。他の人の使用は原則、禁止です。きぬがさの袋の白いのも同じ扱いで、自分たちだけが使える特権であると定めました。もちろん、それは建前で、お金を積めば使わせてあげると免状を出してみたり、政治的な駆け引きの道具にされました。各地の大名から本願寺の派閥長まで、幅広く認めてしまっています。最終的に徳川の世になって、寛永三年(1626年)に後水尾天皇が二条城へ来て下さる運びになったから、みんなでお出迎えするに当たっては格好つけて見せびらかせてしまおうよ、ということで、馬に跨って行列を作って行く時、白い傘袋に緋毛氈の鞍覆をひっからげて行進することとなったようです。このことは絵には描いてあるけれど、記録に書いていないようです。絵に見る傘袋に引っ掛かった鞍覆の質感としては、どれも何とも言えないものです。あくまでも「絵」ですから、深く考えない方がいいと思います。二条城行幸図屛風の楽しい図録に、泉屋博古館編『二条城行幸図屏風の世界─天皇と将軍 華麗なパレード─』サビア発行、2014年があります。
二条城行幸図屏風、江戸時代、17世紀、泉屋博物館蔵、同館「屏風にあそぶ春のしつらえ」展チラシ
洛中洛外図屏風の一部としての二条城行幸図、「海の見える杜美術館(http://www.umam.jp/blog/?attachment_id=7325)」
二条城行幸図屏風、京都国立博物館「皇室ゆかりの名宝」展チラシ
『寛永行幸記 上巻』(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288403)
『御行幸次第 上』(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286856)
鞍覆姿の馬(上杉本洛中洛外図屏風、米沢市上杉博物館ミュージアムショップHPhttps://www.uesugi-museum.jp/?pid=66552993をトリミング)
洛中洛外図六曲一双のうち左隻(部分)(岐阜市歴史博物館蔵、二条城前パネル)
洛中洛外図屏風歴博F本(部分)(二条城近くパネル)
 群馬県立歴史博物館・米沢市上杉博物館・林原美術館・立正大学文学部編『三館共同企画展 洛中洛外図屏風に描かれた世界』(同プロジェクトチーム発行、平成23年)に、鞍覆とは、「鞍橋の上から鐙にかけて覆うもので茜染の絹糸で組み、総を長く垂らす。室町幕府体制における権威の象徴の一つである。馬上に付けられた華やかさが想像される。上杉本洛中洛外図屏風の画面にも複数確認できる。……謙信は天文十九(一五五〇)年にこの使用を室町幕府十三代将軍足利義輝に認められた。白傘袋使用の特権とあわせて、越後国主の地位を認められたのである。……」(106頁)、また、「足利義輝御内書」の「為白傘袋毛氈鞍覆/礼太刀一腰鵝眼三千疋/到来神妙猶晴光可申候也/二月廿八日(花押)/長尾平三とのへ」(38頁)という文書を載せています。白い傘袋と緋毛氈の鞍覆を使う代わりとして太刀一腰、青銅(銭)三千疋を献上してくれて有難うという意味です。これによって謙信は、事実上、越後国主としての地位を買ったことになります。
 江戸時代の有職故実書、伊勢貞丈『貞丈雑記』(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771949/65)をほとんどそのまま引きます。

一 赤き毛氈の鞍覆の事、又火毛の鞍覆とも云ふ。京都将軍の御物なる故、その時代禁制なり。赤からず外の色をも猥(みだり)に不用なり。この毛氈と云ふは、今世のもうせんにあらず。今世、羅紗と云ふ物なり。異国より渡る物ゆゑ、平人は用ふる事をゆるされず、御免あれば用之となり。御内書引付に云く(此ノ引付ハ伊勢守貞忠調進ノ引付ナリ)、
是れは赤もう     就白傘袋赤毛氈鞍覆御免之儀太刀一腰(家助)
せん御免の御     馬一疋(葦毛、印、雀目結)青銅五千疋到来目出候也
内書なり           八月十一日(大永二年ナリ)
                         三雲源内左衛門とのへ
是れ赤毛氈に     為白傘袋毛氈鞍覆赦免之礼太刀一腰(貞守)
て無之たゞの     馬一疋(河原毛、印、両目結)鵞眼五千疋到来目出候也
もうせん御免         六月十三日
の御内書なり                   浦上掃部助とのへ
一 松浦壹岐守先祖へ義教公より火氈の鞍覆御免にて、今に緋羅紗にて包みたるくらおほひを在所にて用ふると云ふ。宗五大双紙に云く、「赤きもうせんの鞍おほひは、公方様御物の外は、大名随分の衆ばかり古はかけられ候つる。色の替りたるをも誰もかもひげ被申候云々」。

 「赤い」とか「毛氈」とか「称する」ものにもいろいろあり、時代とともに変わって行っているようです。室町幕府は滅んで権威づけにならなくなり、赤くする必要性はもはやなくなっています。御行幸次第に見られるように、懐の事情なのか、赤いものに限られていないし、きぬがささえ持たなかった人もいたようです。
 大名が馬に乗るときは鞍覆は侍者が持って行くものです。ちょっと綺麗だったから白い傘袋にかけて行きました。馬から降りたらすぐに鞍を覆ってしまえるように準備しているのでしょうか。天気が悪くなって降りだしたら傘を開きたいし、良すぎても開きたいのに、こうなると単なるお飾りです。遠くからはまるで旗か梵天のように見えるから、朝廷に見せびらかすというよりも、京の民衆に見せつけるためだったようにも思われます。傘という人を覆うものを覆う白い傘袋を、人が座る馬の鞍を覆う赤い鞍覆で覆わせてしまうというのは、きつい洒落としか言えません。まことに恐れ多いことです。
 なお、馬の博物館編『ホースパレード─華やかなる日本の行列─』(財団法人馬事文化財団、2008年)に、後水尾天皇行幸図屏風(馬の博物館蔵)、二条城行幸図屏風(個人蔵)、洛中洛外図屏風(和泉市久保惣記念美術館蔵)、寛永行幸記 上巻(鶴見大学蔵)、御行幸次第(国立公文書館蔵)の図版が載り、引っ掛けられた鞍覆を確かめることができます。
 また、初期狩野派の手になる二尊院縁起絵巻下巻(二尊院蔵、室町時代、16世紀)の第五段の行列のシーンに、四頭の馬に乗る分の赤い鞍覆が白い傘袋にそれぞれ掛けられて進む姿が見られます。傘袋のてっぺんではなく低い位置に掛けられています。金糸で縁取られた感じは上杉本洛中洛外図屏風に近いものです。雑事覚悟事に、「次、傘袋ハ白きもあさぎも有之。是又くらおほい同前の趣なり。」と見えます。

※春日大社の御造替に携わった絵師の手になる絵馬(帥公尊眺筆、室町時代、天文22年(1553))には、緋毛氈と思しき鞍覆が掛けられた馬の絵を描いたものがあります(2022年12月追記)。
※一乗谷朝倉氏遺跡博物館には復元展示があります(2024年3月追記)。

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