古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

タカヒカル・タカテラスについて

2024年09月02日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集に「高光」と「高照」という語があり、ともに「日」にかかる枕詞とされている。
 両者の違いについて議論されている。検討するにあたっては、これらは言葉であることが基本である。タカヒカルでもタカテラスでも「日」にかかることは想像がつく(注1)。ヒカルとテラスの語義の違いが意味の違いになっていると考えるのが順当だろう。ヒカル(光)はぴかっと光線を発したり、反射したりすることをいい、テル(照)は光を放って周りが明るくなることをいう。上代音ではヒが今日のピに当たることはよく知られる。ピカル(✨)のがヒカルである。蛍や稲光はヒカルことはあってもテルことはない。このような二つの動詞のニュアンスの違いが、タカヒカル、タカテラスが単に「日」にかかるということにとどまらず、下に続く文意に影響を及ぼしている、ないしは、全体の文意からタカヒカル、タカテラスと使い分けている、というのが筆者の考えである(注2)。古事記歌謡にタカヒカルが仮名書きで5例(「多迦比迦流」(記28・72)、「多加比加流」(記100・101・102))見られ、それにより「高光」はタカヒカルと訓むものと考えられる。

「高光」
 たかひかる わが日の皇子みこの 万代よろづに 国らさまし 島の宮はも〔高光我日皇子乃萬代尓國所知麻之嶋宮波母〕(万171、舎人)
 高光る わが日の皇子の いましせば 島の御門みかどは 荒れずあらましを〔高光吾日皇子乃伊座世者嶋御門者不荒有益乎〕(万173、舎人)
 やすみしし わご大君 高光る 日の皇子 ひさかたの あまつ宮に かむながら かみといませば そこをしも あやにかしこみ ひるはも 日のことごと よるはも のことごと 嘆けど 飽きらぬかも〔安見知之吾王高光日之皇子久堅乃天宮尓神随神等座者其乎霜文尓恐美晝波毛日之盡夜羽毛夜之盡臥居雖嘆飽不足香裳〕(万204、置始おきその東人あづまひと
 やすみしし わご大君 高光る わが日の皇子の 馬めて 御猟みかり立たせる 弱薦わかこもを 猟路かりぢ小野をのに 猪鹿ししこそば いをろがめ うづらこそ い匍ひもとほれ 猪鹿ししじもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻り みと 仕へ奉りて ひさかたの あめ見るごとく まそ鏡 あふぎて見れど 春草の いやめづらしき わご大君かも〔八隅知之吾大王高光吾日乃皇子乃馬並而三獦立流弱薦乎獦路乃小野尓十六社者伊波比拜目鶉己曽伊波比廻礼四時自物伊波比拜鶉成伊波比毛等保理恐等仕奉而久堅乃天見如久真十鏡仰而雖見春草之益目頬四寸吾於富吉美可聞〕(万239、柿本人麻呂)
 神代かみよより 言ひらく そらみつ やまとの国は 皇神すめかみの いつくしき国 言霊ことだまの さきはふ国と 語りぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷みかど 神ながら での盛りに あめの下 まをしたまひし 家の子と えらひたまひて 勅旨おほみことかへして云ふ、大命おほみこと〉 いただき持ちて もろこしの 遠き境に つかはされ まかりいませ 海原うなはらの にも沖にも かむづまり うしはきいます もろもろの 大御神おほみかみたち 船舳ふなのへに〈反して云ふ、ふなのへに〉 導きまをし 天地あめつちの 大御神たち やまとの 大国御魂おほくにみたま ひさかたの あま御空みそらゆ 天翔あまかけり 見渡したまひ 事をはり 還らむ日には またさらに 大御神たち 船舳に 御手みてうち掛けて 墨縄すみなはを へたるごとく あぢかをし 値嘉ちかさきより 大伴おほともの 御津みつの浜びに ただてに 御船みふねは泊てむ つつみく さきくいまして はや帰りませ〔神代欲理云傳久良久虚見通倭國者皇神能伊都久志吉國言霊能佐吉播布國等加多利継伊比都賀比計理今世能人母許等期等目前尓見在知在人佐播尓満弖播阿礼等母高光日御朝庭神奈我良愛能盛尓天下奏多麻比志家子等撰多麻比天勅旨〈反云大命〉戴持弖唐能遠境尓都加播佐礼麻加利伊麻勢宇奈原能邊尓母奥尓母神豆麻利宇志播吉伊麻須諸能大御神等船舳尓〈反云布奈能閇尓〉道引麻遠志天地能大御神等倭大國霊久堅能阿麻能見虚喩阿麻賀氣利見渡多麻比事畢還日者又更大御神等船舳尓御手打掛弖墨縄遠播倍多留期等久阿遅可遠志智可能岫欲利大伴御津濱備尓多太泊尓美船播将泊都々美無久佐伎久伊麻志弖速歸坐勢〕(万894、山上憶良)

 万171・173番歌は「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」のうちの二首で日並皇子尊が亡くなった時の歌、万204番歌は「弓削皇子、薨時置始東人作歌一首〈并短歌〉」で弓削皇子が亡くなった時の歌である。殯の時に故人を偲んで歌われている。殯をしている今、この瞬間を歌にしている。万239番歌は「長皇子遊獦路池之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉」で長皇子が狩りへ行った時の歌である。反歌一首を伴うが、夜、月の出ているその時の光景を詠んでいる。万894番歌は「好去好来歌一首〈反歌二首〉」で遣唐大使丹比広成へ贈った歌である。第五回遣唐使を選んだのは時の天皇、聖武である。代々のことを言っているのではなく、その時のことに限って言っている。ピカッと光ったその瞬間のことしか言っていないことになる。

「高照」
 やすみしし わご大君 たからす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷ふとしかす 都を置きて 隠口こもりくの 泊瀬はつせの山は 真木まき立つ 荒き山道やまぢを いはが根 禁樹さへき押しなべ 坂鳥さかどりの 朝越えまして たまかぎる 夕去り来れば み雪降る 安騎あきの大野に 旗すすき 小竹しのを押しなべ 草枕 旅宿たびやどりせす いにしへ思ひて〔八隅知之吾大王高照日之皇子神長柄神佐備世須等太敷為京乎置而隠口乃泊瀬山者真木立荒山道乎石根禁樹押靡坂鳥乃朝越座而玉限夕去来者三雪落阿騎乃大野尓旗須為寸四能乎押靡草枕多日夜取世須古昔念而〕(万45、柿本人麻呂)
 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 荒栲あらたへの 藤原ふぢはらうへに す国を したまはむと 都宮みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も りてあれこそ いはばしる 淡海あふみの国の 衣手ころもでの 田上山たなかみやまの 真木さく 嬬手つまでを もののふの 八十氏川やそうぢかはに 玉藻たまなす 浮かべ流せれ を取ると さわ御民みたみも 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮きて わが作る 日の御門に 知らぬ国 巨勢道こせぢより わが国は 常世とこよにならむ ふみへる くすしき亀も 新代あらたよと 泉の河に 持ち越せる 真木の嬬手を 百足ももたらず いかだに作り のぼすらむ いそはく見れば かむからにあらし〔八隅知之吾大王高照日乃皇子荒妙乃藤原我宇倍尓食國乎賣之賜牟登都宮者高所知武等神長柄所念奈戸二天地毛縁而有許曽磐走淡海乃國之衣手能田上山之真木佐苦檜乃嬬手乎物乃布能八十氏河尓玉藻成浮倍流礼其乎取登散和久御民毛家忘身毛多奈不知鴨自物水尓浮居而吾作日之御門尓不知國依巨勢道従我國者常世尓成牟圖負留神龜毛新代登泉乃河尓持越流真木乃都麻手乎百不足五十日太尓作泝須良牟伊蘇波久見者神随尓有之〕(万50、藤原宮役民)
 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤井ふぢゐが原に 大御門おほみかど 始めたまひて 埴安はにやすの つつみの上に あり立たし したまへば 日本やまとの 青香具山あをかぐやまは 日のたての 大き御門に 春山と みさび立てり 畝傍うねびの この瑞山みつやまは 日のよこの 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳成みみなしの 青菅山あをすがやまは 背面そともの 大き御門に よろしなへ かむさび立てり 名くはし 吉野の山は 影面かげともの 大き御門ゆ 雲居くもゐにそ 遠くありける 高知るや あめ御蔭みかげ あめ知るや 日の御蔭の 水こそば とこしへにあらめ 御井みゐ清水ましみづ〔八隅知之和期大王高照日之皇子麁妙乃藤井我原尓大御門始賜而埴安乃堤上尓在立之見之賜者日本乃青香具山者日経乃大御門尓春山跡之美佐備立有畝火乃此美豆山者日緯能大御門尓弥豆山跡山佐備伊座耳為之青菅山者背友乃大御門尓宣名倍神佐備立有名細吉野乃山者影友乃大御門従雲居尓曽遠久有家留高知也天之御蔭天知也日之御影乃水許曽婆常尓有米御井之清水〕(万52)
 明日香あすかの 清御原きよみはらの宮に あめの下 知らしめしし やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 いかさまに おぼほしめせか 神風かむかぜの 伊勢の国は 沖つ藻も みたる波に 潮気しほけのみ かをれる国に 味凝うまごり あやにともしき 高照らす 日の皇子〔明日香能清御原乃宮尓天下所知食之八隅知之吾大王高照日之皇子何方尓所念食可神風乃伊勢能國者奥津藻毛靡足波尓塩氣能味香乎礼流國尓味凝文尓乏寸高照日之御子〕(万162、持統天皇)
 天地の 初めの時 ひさかたの あま河原かはらに 八百万やほよろづ 千万神ちよろづかみの 神集かむつどひ 集ひいまして 神分かむはかり はかりし時に 天照らす 日女ひるめみこと〈一に云ふ、さしのぼる 日女の命〉 あめをば 知らしめすと 葦原あしはらの 瑞穂みづほの国を 天地の 寄り合ひのきはみ 知らしめす 神のみことと 天雲あまくもの 八重やへかきけて〈一に云ふ、天雲の 八重雲やへくも別けて〉 神下かむくだし いませまつりし 高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の きよみの宮に 神ながら 太敷きまして 天皇すめろきの 敷きます国と あまの原 石門いはとを開き 神上かむあがり あがりいましぬ〈一に云ふ、神登かむのぼり いましにしかば〉 わご大君 皇子みこみことの 天の下 知らしめしせば 春花はるはなの たふとからむと 望月もちづきの たたはしけむと 天の下〈一に云ふ、食す国〉 四方よもの人の 大船おほふねの 思ひ頼みて あまつ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓まゆみの岡に 宮柱みやばしら 太敷きいまし 御殿みあらかを 高知りまして 朝言あさことに 御言みこと問はさぬ 日月ひつきの 数多まねくなりぬれ そこゆゑに 皇子の宮人みやひと 行方ゆくへ知らずも 〈一に云ふ、さす竹の 皇子の宮人 行方知らにす〉〔天地之初時久堅之天河原尓八百萬千萬神之神集々座而神分々之時尓天照日女之命〈一云指上日女之命〉天乎婆所知食登葦原乃水穂之國乎天地之依相之極所知行神之命等天雲之八重掻別而〈一云天雲之八重雲別而〉神下座奉之高照日之皇子波飛鳥之浄之宮尓神随太布座而天皇之敷座國等天原石門乎開神上々座奴〈一云神登座尓之可婆〉吾王皇子之命乃天下所知食世者春花之貴在等望月乃満波之計武跡天下〈一云食國〉四方之人乃大船之思憑而天水仰而待尓何方尓御念食可由縁母無真弓乃岡尓宮柱太布座御在香乎高知座而明言尓御言不御問日月之數多成塗其故皇子之宮人行方不知毛〈一云刺竹之皇子宮人歸邊不知尓為〉(万167、柿本人麻呂)
 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子の こしす 御食みけつ国 神風かむかぜの 伊勢の国は 国見ればしも 山見れば 高くたふとし 川見れば さやけくきよし 水門みなとなす 海も広し 見渡す 島もたかし ここをしも まぐはしみかも かけまくも あやにかしこき 山辺やまのへの 五十師いしの原に うち日さす 大宮つかへ 朝日なす まぐはしも 夕日なす うらぐはしも 春山の しなひ栄えて 秋山の 色なつかしき ももしきの 大宮人は 天地あめつち 日月と共に 万代よろづよにもが〔八隅知之和期大皇高照日之皇子之聞食御食都國神風之伊勢乃國者國見者之毛山見者高貴之河見者左夜氣久清之水門成海毛廣之見渡嶋名高之己許乎志毛間細美香母挂巻毛文尓恐山邊乃五十師乃原尓内日刺大宮都可倍朝日奈須目細毛暮日奈須浦細毛春山之四名比盛而秋山之色名付思吉百礒城之大宮人者天地与日月共万代尓母我〕(万3234)

 万45番歌は「軽皇子宿于安騎野時、柿本朝臣人麻呂作歌」で軽皇子が泊りがけで狩りへ行った時の歌である。長歌では朝から夕までの時間経過が歌われている。つづく短歌四首では夜から日が出てきてだんだん明るくなっていくところを詠んでいる。「日」によって周りが明るくなることを言いたいからテラスと表現していてふさわしい。万50番歌は「藤原宮之役民作歌」で藤原宮の建設作業員の歌である。かなりの日数を拘束されて作業している。当然、造営した藤原宮は一瞬だけあってすぐに捨てられお終いというものではなく、何年、何十年、何百年と栄えあるところであってほしい。万52番歌は「藤原宮御井歌」で最後にその井戸のことに触れた藤原宮賦とでも呼ぶべき歌である。二つの藤原宮の歌とも継続的な様子を表し、永続することを期待しているからテラスというのがふさわしい。万162番歌は「天皇崩之後八年九月九日、奉御斎会之夜、夢裏習賜御歌一首〈古歌集中出〉」で天武天皇が亡くなったために御斎会、すなわち僧侶が読経供養する行事の日の夜に、妻の持統天皇が夢に見たことを歌にしたものである。「夢裏習賜御歌」の「習」はくり返し唱えることを指す。御斎会だから読経が流れ、くり返しくり返し経文が唱えられていた記憶から、夢のなかでもくり返し念仏のように歌を唱えたということである。事跡として持統は天武と長年苦楽を共にしてきたわけだから、くり返し夢で唱えたことは事理一致の趣きを呈している。長い年月くり返すことといえば、日が出ては沈むをくり返すことが代表である。その「日」は一瞬またたくものではなく、周囲を明るくするものである。万167番歌は「日並皇子尊殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉」で万171・173番歌同様、日並皇子尊の殯の時に歌われたものだが、長々と天照大神以来、天孫降臨のことなどを使って説き起こして系譜上に日並皇子尊を据えている。長い長い時間の経過を歌に詠み込むには、「日」はテラスものとしてあるものである(注3)。万3234番歌では伊勢の地を褒め称える歌のために一般論を唱えている。「御食つ国」としてある伊勢の国とは、代々天皇に献上する国であるということである。そのことはこれまでもこれからも続く。「日」が出ては沈むをくり返しながら周りを明るくテラスことで食料は育つのである。
 このように、その時、その場のことではなく、時間的に永続するさまを表したい場合、「高照らす」という形になっていると帰納される。
 例外的に存する「高輝」については、歌意から推し測り、タカテラスと訓むのが正解であると演繹される。

  柿本朝臣人麻呂の新田部皇子に献れる歌一首〈并せて短歌〉〔柿本朝臣人麻呂獻新田部皇子歌一首〈并短歌〉〕
 やすみしし わご大王 高輝たかてらす 日の御子 しきいます 大殿おほとのうへに ひさかたの あま伝ひ来る 白雪ゆきじもの きかよひつつ いや常世とこよまで〔八隅知之吾大王高輝日之皇子茂座大殿於久方天傳来白雪仕物徃来乍益乃常世〕(万261)
  反歌一首〔反歌一首〕
 八釣山やつりやま 木立こだちも見えず 降りまがふ 雪のさわける あしたたのしも〔矢釣山木立不見落乱雪驟朝樂毛〕(万262)

 歌意のとり方が問題なのである(注4)。まだ子供である新田部皇子に対して、人麻呂はユキ(雪、靫)の歌を献じている。ゆきのなかゆきを背負いながら駿馬を駆って海幸・山幸の話のように時間的に一気に行くことを想定している。あなたの名前はニヒタベで、ニヒタ(新田)を作ることは、ひたひたとニ(荷)に迫られること、借りたものは定めに従って返すものである(定めに従わずに受け取らないのもいけない)という言葉の「定義」の歌であった(注5)。一瞬のこと、例えば殯の晩に限ったことではなく、死ぬまで背負い続けるのが名前である。

(注)
(注1)「日」、「月」が主語となって動詞ヒカルをいう例は見られないから、タカヒカルは「日」にかかっているのではなく「日の皇子」にかかっているとする説が宮本1986.にある。「赤玉は緒さへ光れど」(記7)、「夜光る玉といふとも」(万346)、「あしひきの山さへ光り」(万477)、「松浦川川の瀬光り」(万855)、「天雲に近く光りて鳴る神の」(万1369)、「あしひきの山下光る黄葉の」(万3700)、「内にも外にも光るまで降れる白雪」(万3926)、「わが妻離る光る神鳴はた少女」(万4236)と用例をあげていて本旨にも参考になる。ピカル(✨)時に用いられ、周りが明るい時には使われない。
(注2)タカヒカルからタカテラスへと推移したのには思想上の変化が背後にあったとする説が桜井1966.に見られ、稲岡1985.橋本2000.もタカテラスを君臨を表す語としている。タカテラスの「ス」を敬語と見て扱いに違いを見出すことは不可能ではないが、天皇の威光が大きく臣下を覆って君臨していることを強調する言葉がタカテラスであるとは考えられない。なぜなら、タカテラスは「日」を導く枕詞だからである。タカヒカルと聞けば、高く光っている、ああ、お日さまのことだ、タカテラスと聞けば、高く照らして周囲を明るくしている、ああ、お日さまのことだ、と思う。それを修辞句化して枕詞にしている。テラスは他動詞である。
 今日通説化しているように、「やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子」が常套句となっているのは、全体として天皇支配を翼賛する文句であって万葉の歌はおおむね政権側のアジテーションなのだと捉えようとしても、タカテラスが枕詞であることを忘れることはできない。声に出して歌われる時、聞き手は次は何と言ってくるかなと聞き耳を立てて待っている。全体を聞き流しているのではなく、発せられた言葉と次に来る言葉とに、その瞬間その瞬間に、その都度ごとに意識を集中させていると考えられる。
(注3)「高照らす日の皇子」という言い方が、天皇の直系継嗣と関係があるかのようにまことしやかに語られている。戦前の日本で「君が代」を歌う時のようなものと考えられているらしい。論評に値しない。
(注4)漢字「輝」の中国での字義から訓みが決定すると短絡してはならない。名義抄には、「輝 ヒカル」(僧下九九)、「煇 睴輝三正音渾又喗又暈又瑰 ヒカリ、フスフ、テル」(仏下末四四)と両用に訓まれている。日本語(ヤマトコトバ)を表すために漢字を使い、国字まで編み出している。
 歌は音声によって発せられ、その場で聞き取られるものである。その条件下に縛られずに議論のための議論に堕してはいけない。歌は祝詞ではない。大仰な文句をもって天皇やその継承者に対する讃辞、資格表現であると捉えると本質を見失う。タカヒカルやタカテラスは「日<rtひ>」にかかり、アマテラスは「日女ひるめみこと」にかかっている。一つ一つ別の言葉として個別具体的にあってそれぞれに使用されている。言語の意味とはその使用なのだから、そのことを無視して言葉を弄して勝手な思い込みを仮構しても、それは虚構にすぎない。
(注5)拙稿「「献新田部皇子歌」について」参照。

(引用・参考文献)
稲岡1973. 稲岡耕二「人麻呂「反歌」「短歌」の論─人麻呂長歌制作年次攷序説─」五味智英・小島憲之編『萬葉集研究 第二集』塙書房、昭和48年。
稲岡1985. 稲岡耕二『王朝の歌人1 柿本人麻呂』集英社、1985年。
門倉1989. 門倉浩「「獻新田部皇子歌」と表現主体」身﨑壽編『万葉集 人麻呂と人麻呂歌集』有精堂、1989年。(「「獻新田部皇子歌」と表現主体」『古代研究』第13号、昭和56年6月。)
門倉1999. 門倉浩「新田部皇子への献呈歌」『セミナー万葉の歌人と作品 第二巻 柿本人麻呂(一)』和泉書院、1999年。
姜1997. 姜容慈「新田部皇子への献歌」『古典と民俗学論集─櫻井満先生追悼─』おうふう、平成9年。
桜井1966. 桜井満『万葉びとの憧憬』桜楓社、昭和41年。
橋本2000. 橋本達雄「タカヒカル・タカテラス考」『万葉集の時空』笠間書院、2000年。(「タカヒカル・タカテラス考」『萬葉』第142号、平成4年4月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/1992)
宮本1986. 宮本陽子「万葉集に於けるタカヒカル・タカテラス」『駒沢大学大学院国文学会論輯』14、昭和61年2月。
吉田1986. 吉田義孝『柿本人麻呂とその時代』桜楓社、昭和61年。